祖父は俺の右耳の横を見て話す

朝の光に包まれた静かな和室

祖父が俺の顔をまともに見なかった理由を、俺は三週間目の夜に知った。

それまでの二十日間、俺はずっと、見られたくない側の人間なのだと思っていた。

祖父の目は、食卓で向かい合うと、いつも俺の右耳の横にあった。

瞳が、そこで止まる。

俺の顔から、握りこぶし一つぶんだけ、右へ外れている。

話しかけても、そこは動かなかった。

去年の十月のことだ。

祖父は八十三で、浜名湖の西側の町で、ずっと左官をやってきた人だ。

母の父にあたる。

その祖父が、白内障の手術をするから三週間ほど東京に泊めてくれ、と言ってきた。

電話をかけてきたのは母だった。

「あんた在宅でしょ。昼間おるんだから、ちょうどいいじゃない」

「ばあちゃんは」

「腰。長いこと座っとれんの。新幹線は無理」

「じいちゃん、目、悪かったっけ」

「知らん。歳でしょ。東京の病院のほうがええって、自分で言うんだもん」

俺は電話を耳に当てたまま、返事に一拍かかった。

在宅勤務だと、家には言ってある。

本当は、六月に会社を辞めていた。

受託のシステム開発を四年やって、ある朝、社員証を机に置いて出た。

理由はいくつもあって、どれも人に言うには小さすぎた。

それから四か月、俺は誰にも言っていない。

昼間はカーテンを閉めて、求人サイトをひらいては、閉じる。

そんな部屋に、祖父が来る。

断る理由を探したが、在宅勤務の男が祖父ひとりを断る理由は、どこにもなかった。

「わかった」

「三週間よ。お願いね」

母の声は、少し急いでいた。

電話を切ったあと、俺はカーテンを少しだけ開けた。

向かいの家の壁に、午後の光が当たっていた。

四か月ぶりに見る、昼の壁だった。

階段の手すりと袖口

祖父は十月の第一週の昼、私鉄の各駅停車で着いた。

改札の向こうに、紺の作業ズボンをはいた小さい背中が見えた。

荷物はボストンバッグひとつ。

「よう来たな」と俺が言うと、祖父は「おう」とだけ言った。

そのときも、目は俺の右耳の横にあった。

久しぶりに会うと、じいさんというのはこんなに小さかったか、と思う。

階段を降りるとき、祖父は手すりを持たなかった。

かわりに、俺の左の袖口を、指二本でつまんだ。

軽い。

ほとんど、重さがない。

「手すり、あるに」

「ええ。おまえの袖のほうが、ちょうどええ」

駅から部屋までは、歩いて八分だ。

祖父は俺の半歩うしろを、袖をつまんだまま歩いた。

足は遅くない。

むしろ、俺のほうが合わせた。

途中、電柱の脇を通るたびに、祖父の口が小さく動いた。

何か言ったのかと振り向いたが、「なんも」と言われた。

三つ目の角で、祖父は一度、立ち止まった。

足元の、マンホールの蓋の上だった。

「どうした」

「なんも」

また、なんも、だった。

部屋に入ると、祖父は靴を脱ぐ前に、玄関の壁に手のひらを当てた。

そのまま、腰の高さで、壁を横に撫でた。

「安普請だの」

それが、俺の部屋に対する祖父の第一声だった。

「クロスの下で、ボードの継ぎ目が浮いとる。手で分かる」

「左官の目で見んでくれ」

「目じゃない。手だに」

祖父はそう言って、笑わなかった。

小学生のころ、夏休みは浜名湖の家に預けられていた。

祖父は朝から現場に出て、夕方、粉だらけで帰ってきた。

作業着からは、石灰の、少し甘い匂いがした。

一度だけ、仕事を見せてもらったことがある。

塗りたての壁の前で、祖父は俺の手首をつかんで、手のひらを壁に当てさせた。

まだ湿っていて、ひんやりと重かった。

「目ぇつぶれ」

言われた通りにすると、手のひらの下で、壁がわずかに波を打っているのが分かった。

「壁は、手で見るもんだに」

あのときの祖父の手は、大きくて、乾いていて、俺の手首を全部隠した。

鏝を持つと、その手は別の生き物みたいに動いた。

その手が今、俺の1Kの壁を撫でている。

六畳と、小さい台所しかない部屋だ。

布団を二組敷くと、床が見えなくなる。

祖父は窓側を選んだ。

「じいちゃんは朝が早い。窓のほうがええ」

その夜、俺たちは並んで寝た。

祖父の寝息は、思ったより静かだった。

朝五時の味噌汁

翌朝、目が覚めると、台所から味噌の匂いがした。

五時だった。

祖父は電気をつけずに、流しの前に立っていた。

窓からの光は、まだほとんどない。

それでも包丁の音は、迷いなく続いていた。

「電気、つけろよ」

「起こすと悪いと思ってな」

味噌汁は、大根と油揚げだった。

浜松の味噌だと言った。

ボストンバッグから出てきたのは、着替えより、味噌と鰹節のほうが多かった。

八時になると、祖父は上着を着て出ていく。

病院は、駅の反対側にある大きいところだと言った。

「付いてこんでええ。男がふたり並んで病院は、みっともねぇ」

「けど、目の手術だら」

「手術は来月だ。今は検査と目薬だけだに」

祖父は玄関で靴をはき、また壁に手をついた。

腰の高さ。

昨日と、同じ場所だった。

出ていく背中を、二階の窓から見送った。

祖父は最初の電柱で、手を伸ばして、コンクリートに触れた。

触れて、離して、歩いた。

年寄りの癖だと思った。

俺はカーテンを閉めた。

求人サイトをひらく。

閉じる。

イヤホンをして、誰とも話していない会議の顔を作る。

祖父が帰ってくるのは、十一時ごろだった。

三時間、何をしているのかは訊かなかった。

訊けば、俺の三時間も訊かれる気がした。

帰ってきた祖父は、決まって、まず壁を撫でた。

玄関、廊下、台所の角、窓の下。

六畳の壁を、一周する。

腰の高さを、手のひらで、ゆっくりなぞっていく。

「そんなに気になるか、この壁」

「気になる。おまえ、ここに何年おる」

「三年」

「三年この壁と暮らして、なんも思わんか」

「思わん」

「そうか」

祖父は、窓の下の壁で手を止めた。

「ここだけ、冷たい」

「外壁側だからだろ」

「ここに背中つけて寝るな。腰にくる」

それだけ言って、祖父は布団を敷き直した。

三日目、祖父は台所の隅の、クロスがめくれた角を見つけた。

見つけた、というより、手が止まった。

「糊、あるか」

「ない」

「米はあるだら」

祖父は炊いた米を三粒、指の腹でつぶして、めくれた角の裏に塗った。

そして、手のひらで、上から一度だけ押さえた。

「これで、あと十年もつ」

「たった三粒で」

「多いと、浮く。少ないと、はがれる。手が覚えとる」

俺はそのやり方を、たぶん一生忘れない。

五日目の朝は、俺のほうが先に目が覚めた。

祖父は布団の上に座って、窓のほうを向いていた。

まだ暗い。

目は、開いていた。

「起きてたのか」

「光が来るのを、待っとる」

「待って、どうする」

「朝はな、端から明るくなる」

祖父はそれだけ言って、立った。

一週間目の夜、母から電話があった。

祖父は座ったまま、片手を壁に置いて、話した。

「順調だ、順調。目薬さして、あとは寝とるだけだに」

「あいつは、ちゃんと働いとる。昼間、部屋で、ずっとパソコンの前におる」

俺は台所で、水を出しっぱなしにして、それを聞いた。

嘘ではなかった。

俺は昼間、ずっと、パソコンの前にいた。

電話を切ると、祖父は壁から手を離して、こう言った。

「母さんは、心配性だで」

右耳の横にある目

八日目の夕方、俺は言ってしまった。

「じいちゃん、俺の顔、なんか付いてるか」

祖父は箸を止めた。

「なんも」

「ずっと、そこ見てるだろ。俺の顔じゃなくて、そこ」

俺は自分の右耳の横を、指で示した。

祖父の目は、俺の指が動いても、ついてこなかった。

「そうか」

「そうか、って」

「じいちゃんは、おまえの顔を、見とる」

「見てねぇよ」

言ってから、声が大きかったと思った。

祖父は何も言わなかった。

味噌汁を飲んで、茶碗を置いて、壁を撫でに立った。

その夜、俺は布団の中で考えた。

祖父は、知っているのだと思った。

在宅勤務という嘘を、この部屋に来た日に見抜いて、まともに見る気をなくしたのだ。

母への電話は、庇ってくれたのではない。

孫の嘘を、外へ出さなかっただけだ。

昼間、俺が家にいる音を、祖父は聞いている。

求人サイトを閉じる音も、イヤホンをして誰とも話していない気配も、聞いている。

だから右耳の横なのだ。

俺の顔は、見るに値しないのだ。

そう思うと、腹が立った。

腹が立つのは、たぶん、その通りだからだった。

翌週も、祖父は八時に出て、十一時に帰った。

帰ると壁を撫でて、昼飯を作った。

祖父の昼飯は、いつも同じ焼きうどんだった。

「うまいだら」

「うまい」

「ばあさんの真似だ。あれよりは、落ちる」

祖父がばあちゃんの話をするとき、目は少し下がった。

「帰ったら、腰、揉んでやらんとな」

「揉めるのか」

「左官の手だぞ。壁も腰も、同じだに」

そういうとき、祖父は少しだけ、笑った。

その笑いも、俺の右耳の横に向いていた。

十一日目は、朝から雨だった。

祖父はそれでも八時に出た。

傘を持たせようとしたら、「両手はあけとく」と言って、合羽を着た。

十一時、祖父は靴の中まで濡れて帰ってきた。

俺は新聞紙を丸めて、靴に詰めた。

「病院、そんなに遠かったか」

「雨の日は、蓋が滑る」

「蓋?」

「道の」

それだけだった。

昼過ぎ、母からLINEが来た。

「おじいちゃん、ちゃんと病院行ってる?」

俺は「行ってる」と打った。

俺の嘘を外へ出さなかった人の嘘を、俺も外へ出さなかった。

それで、貸し借りはなしだと思った。

十三日目の昼、俺は何週間ぶりかで、昼の外に出た。

牛乳が切れていた。

コンビニの手前の小さな公園に、祖父がいた。

ベンチに座って、顔を少し右へ傾けて、空のほうを向いていた。

砂場の子どもたちのほうは、見ていなかった。

俺は声をかけずに通り過ぎようとした。

「おまえ、右足が重い」

背中に、声が来た。

「歩き方で分かる。右足だけ、引きずっとる」

「そんなことない」

「三年、座りっぱなしの足だ」

祖父は俺のほうを向かずに、そう言った。

牛乳を買って戻ると、祖父はもういなかった。

十四日目の夜、コンビニに行くと言ったら、祖父がついてきた。

夜道で、祖父はまた袖をつまんだ。

街灯の下を過ぎるたび、口が動く。

今度は、聞こえた。

「……じゅうに、じゅうさん」

「なに数えてる」

「なんも」

「歩数か。年寄りの趣味みたいだな」

「そうだに」

コンビニで、祖父は棚に顔を近づけて、豆大福を選んだ。

値札に鼻がつくほど、寄せていた。

老眼だ、と俺は思った。

それだけだと、思っていた。

帰り道、祖父は豆大福の袋を、俺に持たせた。

「両手、あけとけ」

「なんで」

「転ぶで」

転ぶのはどっちだ、と言いかけて、やめた。

祖父の袖をつまむ指は、行きと同じ軽さだった。

電球の切れた夜

十九日目の夜、天井の電球が切れた。

風呂から出た瞬間、六畳が真っ暗になった。

「うわ」

俺は座卓の角に脛をぶつけた。

手さぐりで、壁のスイッチを探す。

押しても、つかない。

「じいちゃん、電球、切れた」

返事のかわりに、畳を歩く足音がした。

迷いがなかった。

祖父は窓側の布団から立って、台所まで行き、戻ってきた。

俺の手に、懐中電灯が握らされた。

「流しの下の、右の奥。おまえ、知らんだら」

「なんで知ってる」

「二日目に見た」

懐中電灯をつけると、祖父の顔が浮かんだ。

目は、暗い部屋の中でも、やっぱり俺の右耳の横にあった。

「じいちゃんは、暗いのは、変わらんで」

「変わらん、って」

「明るくても暗くても、同じだに」

その言い方に、俺は何か引っかかった。

けれど、脛が痛くて、それどころではなかった。

祖父は懐中電灯を座卓の上に立てて、天井に向けた。

六畳が、ぼんやり明るくなった。

そして、俺の向かいに座った。

「おまえ、昼間、ずっとおるな」

来た、と思った。

「在宅だから」

「イヤホンつけて、誰とも話しとらん」

「……」

「じいちゃんは、目より耳のほうが、まだ働く」

俺は、懐中電灯の光の輪を見ていた。

天井の、ひび割れた輪。

「六月に辞めた」

「そうか」

「誰にも言ってない。母さんにも」

「そうか」

祖父は、それ以上訊かなかった。

理由も、これからも、訊かなかった。

訊かれないほうが、痛かった。

遠くで、終電の音がした。

「じいちゃんも、三十のとき、鏝を三月、置いた」

祖父が、光の輪の外で言った。

「壁が、怖うなってな。塗っても塗っても、浮く気がした」

「戻ったのか」

「手が、勝手に戻った。頭は、最後まで嫌がっとった」

それ以上は、言わなかった。

祖父は袋から豆大福を出して、暗いまま、指で半分に割った。

半分が、俺の手に来た。

粉が、指についた。

「明日、病院、一緒に来てくれんか」

「……いいけど。みっともないんだろ」

「明日は、ええ」

懐中電灯の電池が、少し弱くなった。

祖父は立って、また壁を撫でた。

暗い部屋で、腰の高さを、一周。

その手つきは、明るいときと、まったく同じだった。

俺は電球を買いに行こうとして、やめた。

祖父の手が壁を離れるのを、最後まで見ていたかった。

六百十二歩の道

翌朝、祖父は俺を、窓際の座卓の前に座らせた。

「そこ。光の来るほうへ、顔を向けろ」

俺は言われた通り、窓に顔を向けて座った。

祖父は向かいに座った。

目は、俺の右耳の横。

「白内障は、嘘だ」

祖父は、そこから始めた。

「白内障なら、切れば見える。じいちゃんのは、切っても、戻らんほうだ」

祖父は右手を上げて、自分の顔の前に、こぶしを置いた。

「ここが、抜けとる。真ん中が、無い」

こぶしを動かさずに、祖父は言った。

「おまえの顔を真ん中で見ると、顔が、無い。耳と髪だけ、残る」

俺は、何も言えなかった。

「だで、端で見る。目をちょっと横へやると、端っこに、顔が来る」

祖父の目が、俺の右耳の横で、じっと止まっていた。

「そこに、おまえがおる」

俺は、自分の右耳の横に、手をやった。

何もない空間だ。

そこに、祖父はずっと、俺を置いていた。

「いつからだ」

「去年の春。ばあさんは知っとる。母さんには言うなと、言うた」

「なんで」

「言えば、東京へ来られんくなる」

祖父は、窓のほうへ顔を向けた。

光が、横顔の皺に入った。

「母さんは、東京にはええ病院があると思っとるだら。だで、白内障にした」

「じゃあ、毎朝の三時間は」

「病院は、二回だけだ。あとは、歩いとった」

「歩いてた」

「駅から、この部屋の戸まで」

祖父は、こぶしを膝に戻した。

「六百十二歩だ。電柱が、十四本。角が、三つ。角の手前に、足の裏で分かる蓋がある」

夜道で数えていた声が、耳の奥で戻ってきた。

じゅうに、じゅうさん。

雨の日に濡れて帰った靴も、戻ってきた。

「戸の取っ手は、右へ引く。階段の二段目が、少し高い。流しの下は、右の奥」

「二十日歩けば、足が覚える。壁は、手が覚えた。この部屋、じいちゃんは、目ぇつぶって歩ける」

祖父は立ち上がって、玄関まで、壁に手をつけずに歩いた。

そして戻ってきて、座った。

「見えんようになっても、ここまでは、ひとりで来られるで」

俺は、座卓の木目を見ていた。

見ていないと、顔が崩れると思った。

祖父は、目が見えなくなったあとの道を、俺の目の前で、先に歩いていたのだ。

俺がカーテンを閉めて求人サイトを閉じていた、二十日ぶんの朝に。

「じいちゃん」

「おう」

「俺、仕事、探す」

「探せ」

「探すから、来い。見えなくなっても、来い」

「そのために、数えただら」

祖父は、また笑った。

俺はそのとき初めて、自分の顔を、少し右へ動かした。

祖父の目の端に、入るように。

祖父の目が、わずかに揺れた。

「見えるか」

「見える。おまえ、鼻が、母さんに似とる」

祖父の手が伸びてきて、俺の頬骨の上で、一度止まった。

壁を撫でる手と、同じ速さだった。

三週間目の朝、祖父は帰った。

駅までの道を、祖父は俺の前を歩いた。

俺が半歩うしろで、祖父の左の袖口を、指二本でつまんだ。

軽かった。

三つ目の角で、俺の足の裏が、蓋を踏んだ。

改札で、祖父は振り向いた。

「六百十二」

「六百十二」

それだけ言って、祖父はホームへ降りていった。

手すりを、持たなかった。

翌月、俺は仕事を決めた。

月に一度、浜名湖へ帰る。

祖父の目は、あれから、さらに端へ寄った。

俺は今、祖父の正面に座らない。

右斜め前に座る。

祖父の目は、いまも、俺の右耳の横にある。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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