硝子職人と海色の浮き玉

静かな港の朝焼け

炉の火は、いつも夜明け前にいちばん青くなる。

その青を頼りに、私は竿の先で硝子を巻き取る。

とろりと飴のように垂れる硝子を、息で膨らませていく。

頬を炙る熱を測りながら、ひと息、ふた息。

焦れば歪み、急けば割れる。

瀬戸内のこの港町で、私は浮き玉を吹く硝子職人だった。

漁師たちが網に結ぶ、海色の浮き玉。

沈まないための、たったひとつの重し。

いや、重しではない。網を海の底へ引きずり込ませない、浮かぶための玉だ。

重さではなく、浮く力。

私はそれを、十八の年から吹き続けてきた。

凛子に振られたのは、そんな浮き玉が誰よりもうまく吹けるようになった、二十五の春だった。

「ほかに好きな人ができたん。だけん、もう会わんとって」

防波堤の上で、凛子はそれだけ言って、背を向けた。

潮風に、結んだ髪のほつれだけが揺れていた。

三年だった。

幼馴染で、いつか所帯を持とうと、当たり前のように思っていた三年だった。

潮の匂いが、その日だけはやけに塩辛く感じた。

私は浮気ひとつしたことがない。

格別いい男でもなかったが、凛子のことだけは、この手で守るものだと信じていた。

なのに、あっけなかった。

砂で作った堤防が、ひと波でさらわれるみたいに、あっけなかった。

その夜、私は工房で、硝子になりそこねた屑をひとつ、握りつぶしそうになって、やめた。

凛子の家は、港の角で小さな写真館をやっていた。

私たちは、煮干しのにおいのする路地を挟んだ、隣同士だった。

幼い頃、凛子はよく私の工房をのぞきに来た。

炉の前は子供には危ないから、と父に追い払われても、戸の隙間からじっと火を見ていた。

「あの玉、海の色しとるね」

はじめて私がひとりで吹いた浮き玉を見て、凛子はそう言った。

少し歪んで、底に小さな気泡がひとつ閉じ込められた、不格好な玉だった。

親方だった父は、売り物にならん、と笑って屑箱に放ろうとした。

私はそれを横からさらって、凛子に渡した。

「気泡が、星みたいやろ」

凛子は両手で包んで、ずっと光にかざしていた。

「海の中に、星が落っこちとる」

そう言って、その玉に、はじめて自分のカメラを向けた。

凛子の写真の、いちばん最初の一枚が、その不格好な玉だった。

硝子の浮き玉は、まず鉄の竿の先に、溶けた玉を巻き取ることから始まる。

息を吹き込み、ふくらませ、頃合いを見て、竿から切り離す。

切り離す一瞬、息を止めるんだ、と私は凛子に教えた。

「人と同じやね」と凛子は言った。

「離れる時がいちばん、こわいんやね」

その言葉の意味を、私が本当に知るのは、ずっと後のことになる。

あるとき、凛子が工房に来て、火を吹く私を撮らせてくれと言った。

炉の前で竿を回す私を、凛子は息を詰めて、何枚も撮った。

後日、写真館のショーウィンドウに、その一枚が飾られた。

炉の火に照らされた、汗だくの、ひどい顔をした男の写真だった。

「なんでこんな格好悪いのを飾るんや」と私はぼやいた。

「いちばん、ええ顔しとるもん」と凛子は澄まして言った。

通りすがりの漁師たちが、その写真を見て、あれは広瀬んとこの倅やな、と笑った。

私は照れくさくて、けれど、悪い気はしなかった。

凛子のレンズの向こうでだけ、私はいい男になれる気がした。

中学に上がる頃、凛子の母親が長く床に伏すようになった。

写真館の暗室に、凛子はひとりでこもることが増えた。

現像液の酸っぱいにおいの中で、凛子は赤いランプの下、黙って印画紙を揺らしていた。

「お母ちゃんが起きられんけん、わたしが撮らんと」

そう言って、凛子は祭りも、運動会も、誰かの結婚式も、町じゅうの笑顔を撮って回った。

自分は写真の表に出ず、いつもレンズのこちら側にいた。

母親が静かに眠るように向こうへ行ったのは、凛子が高校を出てすぐの秋だった。

葬式のあいだも、凛子は泣かなかった。

泣くかわりに、参列した人の顔を、一人ずつ撮っていた。

「お母ちゃんに、見せるんよ。みんな来てくれたよって」

その背中が、私には、誰よりも泣いているように見えた。

十九の夏、私たちは港の花火を、防波堤の先で二人きりで見た。

凛子は浴衣の袂から、あの不格好な海色の浮き玉を取り出した。

「これ、まだ持っとるんよ」

七年も前の玉が、凛子の手のひらで火薬の光を吸って、にぶく輝いた。

「気泡の星、ひとつも増えとらんね」

私は笑った。

硝子は、閉じ込めたものを、何十年でもそのままにしておく。

そういうところが、私は好きだった。

「うちもね、この星みたいに、ずっと変わらんかったらええのにと思う」

凛子は、海のほうを見たまま、そう呟いた。

花火が一発、大きく開いて、凛子の横顔を照らした。

私はその時、この娘と所帯を持つのだと、なぜか静かに確信した。

二十二で、私は工房を継いだ。

父の竿を握ると、まだ父の手の脂が、握りのところに沁みていた。

凛子は写真館の二階から、毎朝、私の工房の煙突を見ていたという。

「煙が上がっとったら、ああ、今日も生きとるなあって思うんよ」

そんなことを、照れもせずに言う娘だった。

祝言の話も、ぽつぽつと出ていた。

古い空き家を借りて、二人で畳を入れ替えようかと、そんな相談もした。

だから、あの防波堤での別れの言葉は、なおさら信じられなかった。

凛子は徹底して私を避けた。

写真館の戸は閉ざされ、ガラスには『しばらく休みます』の貼り紙が下がった。

路地を訪ねても、二階の窓は雨戸が立てられたままだった。

電話をかけても、呼び出し音が虚しく鳴るだけだった。

凛子の父親に尋ねても、ただ困った顔で目を伏せるばかりだった。

「すまんな。あれが、そう決めたことやけん」

その目が、何かを必死にこらえているのが分かった。

だが、当時の私には、それがなんなのか読めなかった。

私はわけが分からないまま、炉の火だけを見て過ごした。

酒も飲んだ。仕事に当たり散らしもした。

ショーウィンドウの、炉の前の私の写真も、いつのまにか外されていた。

あの写真があった場所には、何も飾られないまま、四角い日焼けの跡だけが残った。

硝子を吹いても、その夏はどれも歪んだ。

息が、まっすぐ通らなかった。

半年が過ぎた。

私はがむしゃらに玉を吹いた。

気がつけば、私の浮き玉は近隣の漁協がこぞって買い付けるほどになっていた。

忙しさのなかで、凛子の顔を思い出さない日も、少しずつ増えていた。

そんなある晩、工房の黒電話が鳴った。

何度切っても、また鳴る。

根負けして受話器を取ると、知らない女の声だった。

「広瀬さん……凛子の、妹です」

凛子に、妹がいたことは知っていた。

海を渡った先の町に嫁いだと聞いていた、あの娘だ。

「お願いです。一度だけ、姉に会うてやってくれませんか」

受話器の向こうで、声が震えていた。

凛子は、長く血の巡りをわずらう病で、町を出て、海を渡った先の大きな病院にいるのだという。

町を出たのは、私に別れを告げた、その翌日だった。

入院したのも、ちょうど同じ頃だった。

「姉は……広瀬さんを巻き込みとうなかったんです」

「自分の病で、あなたの先まで縛ってしまうのが、どうしても嫌やったと」

「だから、わざと、ひどい別れ方をしたんです」

私は受話器を握ったまま、声が出なかった。

あの防波堤の『好きな人ができた』が、まるごと嘘だったと、ようやく分かった。

凛子は、私を振ったのではなかった。

私を、自分の沈みかけた舟から、突き落として逃がしたのだ。

「姉は、あなたに知られとうないと言うとります。でも、わたしは……このままにしておけんかった」

電話を切ったあと、私は工房の床に座り込んだまま、夜明けまで動けなかった。

私は始発の連絡船に飛び乗った。

鞄に、あの海色の浮き玉だけを入れて。

港でも病院でも、私のことを誰も知らない、海の向こうの大きな町だった。

受付で名を告げると、待合の隅から、私によく似た目をした若い女が立ち上がった。

妹だった。

妹は深く頭を下げ、それから、一通の古びた封筒を私に差し出した。

「これ……姉が、町を出る前に、わたしに預けていったものです」

「あなたには、渡すなと言われとりました。でも」

封筒の中には、写真が、何枚も入っていた。

どれも、私の工房の煙突を撮ったものだった。

朝の光、夕暮れ、雨の日、雪の日。

何年も、何百日も、凛子は二階の窓から、私の煙突を撮り続けていたのだ。

一枚一枚の裏に、小さな字が書いてあった。

日付と、ほんの一行ずつの言葉。

「今日も煙、上がっとった。生きとる」

「玉、たくさん売れたみたいやね。えらいね」

「風邪、ひいとらんかね。襟、ちゃんと立てなさい」

「祝言の話、ほんまはうれしかった。ごめんね」

日付を追うごとに、字は少しずつ、細く、頼りなくなっていった。

そして、最後の一枚の裏には、こう書いてあった。

「もう、この煙を見られんようになるけど。あんたは、ちゃんと毎朝、火をつけてね」

私は、待合の長椅子で、人目もはばからずに泣いた。

避けられていたのではなかった。

見ないふりをして、凛子はずっと、私だけを見ていた。

無菌の部屋は、ガラス一枚で仕切られていた。

そのガラスの向こうに、凛子はいた。

半年で、別人のように細くなっていた。

頬の影が、青白い光のなかで、今にも溶けて消えてしまいそうだった。

私は、まわりの目も忘れて、ガラスを叩いて怒鳴った。

「お前、ひとりで沈むつもりだったのか」

凛子は、私を見て、しばらく呆然としていた。

なぜここに私がいるのか、分からない、という顔だった。

それから、はっと我に返ると、険しい顔で、そっぽを向いた。

その横顔が、子供の頃、炉の火を盗み見ていたあの横顔と、同じだった。

私はガラスの前にしゃがみ込んで、こらえきれずに泣いた。

この期に及んで、まだ意地を張る、その心が。

愛しくて、情けなくて、涙が止まらなかった。

その日から、手術の日まで、私は毎日その病院へ通った。

連絡船の最終に飛び乗り、工房に戻って炉を焚き、また朝いちばんの船に乗った。

冬の海は荒れて、連絡船はよく揺れた。

甲板で潮を被りながら、私は鞄の中の浮き玉を、上着の上から何度も確かめた。

煙突の煙だけは、一日も絶やさなかった。

凛子の写真の裏の、あの言いつけを守るために。

ある日、病院の廊下で、凛子の父親と鉢合わせた。

父親は私を見ると、深く、深く頭を下げた。

「あれは、あんたの足を引っ張りとうなかったんや。堪忍してやってくれ」

私は首を振った。

「足を引っ張るやなんて。俺は、あいつと一緒に沈むんでも、よかったんです」

父親は、廊下の壁に手をついて、声を殺して泣いた。

凛子は、頑として私のほうを見なかった。

ガラス越しに、私はただ、海の話をした。

今年の鰆が豊漁だったこと。

私の吹いた浮き玉を結んだ網が、銀の魚でいっぱいになったこと。

「お前にやった玉、まだ星はひとつきりやぞ」

そう言った時だけ、凛子の肩が、かすかに動いた。

背を向けたまま、それでも、聞いているのが分かった。

手術の朝が来た。

私は鞄から海色の浮き玉を出して、ガラスに押し当てた。

「お前を、この海から落とさせやせん」

凛子の背中が、ほんの少し、震えた。

そして、はじめて、消え入りそうな声で、こう言った。

「……煙、毎朝、見えとったよ」

それが、半年ぶりに聞いた、凛子の本当の声だった。

手術は、長かった。

廊下の硬い椅子で、私は浮き玉を両手で包んで、ひたすら光にかざしていた。

気泡の星は、十数年経っても、ひとつも増えず、ひとつも消えていなかった。

硝子は、閉じ込めたものを、何があっても手放さない。

私は、そういう硝子に、自分の祈りを預けていた。

手術は、終わった。

けれど、安心はできなかった。

薬を飲み、長く経過を見なければならないと、医者は言った。

私は、その日からも、毎日通い続けた。

凛子は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、戻ってきた。

病室が無菌の部屋から、普通の病室に移った日のことだった。

私がいつものように海の話をしていると、ふいに、凛子がこちらを向いた。

半年と少し、ずっと背中しか見せなかった凛子が、まっすぐに私を見た。

「……なんで、まだ来とるん」

その声は、怒っているようで、泣いているようだった。

「お前が、まだ生きとるからや」

私がそう言うと、凛子は布団を頭から被って、それきり、しばらく動かなかった。

布団の盛り上がりが、小さく、ずっと震えていた。

私は、その震えが止まるまで、ただ椅子に座っていた。

言葉は、いらなかった。

退院の日が来た。

検査のために通い続けねばならず、薬も手放せない。

それでも、自分の足で歩いて、海を渡って帰れるまでに、凛子は戻った。

私は迎えに行った。

花束と、小さな箱を持って。

箱の中身は、給料の何ヶ月分か、というやつだ。

「退院、おめでとう」

そう言って花束を渡すと、凛子は無言で受け取った。

それから私は、箱を開けて、中身を見せた。

「これも、もろうてくれんか。俺、本気やけん」

凛子は、ひどく驚いた顔をして、それから、うつむいた。

「……馬鹿じゃないの」

凛子の肩が、震えていた。

「うん、俺は馬鹿や。お前がどんな思いで、ひとりで海を渡ったんか、何も知らんかった。すまん」

「わたし、これから先、どうなるか分からんのよ」

「知っとる。これでも、いろいろ調べた」

私は、鞄からあの海色の浮き玉も取り出して、凛子の手のひらに、そっと載せた。

「網は、玉ひとつあれば沈まん。お前の重しは、俺がやる」

凛子は、涙でいっぱいの目で、私を見上げた。

「ありがとう」

私は凛子を抱き寄せて、一緒に泣いた。

親には反対された。

体の弱い嫁をもらってどうする、と。

それでも、私は凛子と所帯を持った。

祝言は、港の小さな食堂を借りて、ささやかに挙げた。

凛子は、相変わらず自分が写るのを嫌がったが、その日だけは、私の隣で写真に収まった。

妹がシャッターを切った、たった一枚の夫婦の写真。

凛子の手には、あの海色の浮き玉が握られていた。

あれから、三年。

体はあまり丈夫でないが、気だけは人一倍強い嫁の、尻に敷かれている。

工房の棚には、海色の浮き玉がひとつ、売り物に交じらず、置いてある。

気泡の星は、今も、ひとつきり。

先日、凛子の腹に、新しい命が宿っているのが分かった。

まだ、豆粒のような重さだという。

けれど、その小さな重しが、私たちの舟を、もう沈ませはしないのだと思う。

凛子は、写真館の暗室に久しぶりにこもって、私の工房の煙突を、一枚だけ撮った。

煙が、まっすぐ、朝の空へ上がっていた。

「ああ、今日も生きとるなあ」

そう言って、凛子は笑った。

その写真の裏に、凛子は、新しい一行を書いた。

「三人で、見とるよ」

私はいま、夜明け前に炉の火を青くしながら、ひとつの玉を吹いている。

売り物ではない。生まれてくる子に渡す、二つ目の海色の浮き玉だ。

気泡の星を、どうかひとつ、きれいに閉じ込められますように。

そう祈りながら、息を吹き込む。

離れる時がいちばんこわい、と昔、凛子は言った。

だが、もう私は、誰も離さない。

私は、誰よりも強い父親になってやる。

だが、今日だけは、格好悪く泣かせてほしい。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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