義父が黙って巻いた時計

時計修理工房の温かな午後の光

義父は、俺に一度も、時計の直し方を教えてくれなかった。

同じ作業台に向かい、同じ油の匂いを吸って、もう五年になるのに。

俺の手元を、ただの一度も、覗き込もうとはしなかった。

この家に入ったのは、二十五の年だった。

学校を出てからの俺は、これといった当てもなく、町をふらついていた人間だった。

職を転々として、どこにも、長く居つけなかった。

夢もなく、根気もなく、ただ毎日が、薄い膜の向こうを過ぎていくようだった。

そんな俺が、駅前の小さな喫茶店で働いていた娘と知り合い、所帯を持つことになった。

妻だけは、何の取り柄もない俺を、まっすぐに信じてくれた。

妻の父――義父は、その駅前の古い商店街で、小さな時計店を営んでいた。

「時森時計店」。

色の褪せた緑の天幕に、白い文字で、そう染め抜かれていた。

平成にかわって、まだ間もない頃のことだ。

アーケードのあちこちでシャッターが下りはじめ、人通りも、年々まばらになっていった。

八百屋が店を閉じ、布団屋が店を閉じ、隣の喫茶店も、いつしか暗いままになった。

そんな中で、時森時計店の灯りだけは、毎晩、遅くまで点いていた。

行き場のなかった俺を、義父は何も聞かず、黙って、その店に置いてくれた。

娘の連れ合いだから、というだけの理由で。

だから、恩はある。

恩はあるのに、俺はこの人のことが、ずっと、分からなかった。

店の戸を開けると、小さな鈴が鳴り、何十という時計の音が、いっせいに耳を満たす。

柱時計、置時計、掛時計。

客のものもあれば、義父が拾い集めた、買い手のつかない古物もあった。

それぞれが少しずつ時刻をずらして時を打つと、店の空気が、波のように揺れた。

その音の海の真ん中で、義父はいつも背を丸めて、ルーペを覗いていた。

義父の手は、油で黒く汚れ、指の節は、太く、ごつごつしていた。

その手が、米粒よりも小さな歯車を、信じられないほど繊細につまむのを、俺は横目で見ていた。

義父には、実の息子がひとりいた。

俺より三つ上の、隆さんという人だ。

隆さんも同じ店で、ぜんまいや歯車を相手にしていた。

義父は、その隆さんには、容赦がなかった。

油の差し方ひとつ、ピンセットの持ち方ひとつで、雷のような声が飛んだ。

「その指で、人様の時間を預かる気か」

そう怒鳴られて、隆さんがうつむく姿を、俺は何度も見た。

ところが、俺には何も言わない。

俺がどんなに不細工な仕事をしても、義父はちらりとも見ない。

叱りもしなければ、褒めもしない。

はじめのうちは、ありがたいと、さえ思っていた。

けれど、月日が経つほどに、それが胸に刺さるようになった。

――この人は、俺をはなから、職人とは認めていないのだ。

所詮はよそから来た婿で、教える値打ちもない。

そう思うと、義父の沈黙が、分厚い壁のように感じられた。

夕飯の時も、義父はほとんど口をきかない。

俺の顔を見ようともせず、背を向けたまま、黙って箸を動かす。

何かを話しかけても、返ってくるのは「ああ」か「そうか」だけだった。

考えてみれば、俺もまた、義父に、自分から何かを話しかけたことなど、ほとんど無かった。

妻は、そんな父のことを、こわい人ではないと言った。

「不器用なだけ」と、いつも笑っていた。

けれど、毎日となりで黙られていると、その「不器用」が、だんだん「拒絶」に見えてくるのだ。

義父には、口癖があった。

「時計は、生きとる」

低い、錆びた声で、よくそう言った。

止まった時計を持ち込まれると、義父はまず、それを耳元に当てて、じっと目を閉じる。

そうして、こう言うのだ。

「まだ、息はある。手をかければ、また歩きだす」

はじめは、ただの職人気質の言い回しだと思っていた。

だが義父の手にかかると、十年眠っていたぜんまいが、本当にコチコチと、時を刻みはじめる。

その瞬間の、義父の横顔だけは、子どものように、ほどけた。

あんな顔を、俺たちには決して見せないのに。

ある日、ひとりの老婦人が、古い銀の懐中時計を抱えて、店に来た。

蓋の内側が、丁寧に磨かれた、ずいぶん年代物だった。

「もう、四十年も止まったままなんです」

老婦人は、小さな声で、そう言った。

「主人の形見でして……いろんなお店で、もう無理だと言われて」

義父は、その時計を手に取り、いつものように、そっと耳に当てた。

「奥さん」

「はい」

「これは、まだ、生きとります」

老婦人の肩が、かすかに震えた。

義父は三日かけて、その時計を直した。

折れた部品を、真鍮の地金から、一枚ずつ削り出して。

受け取りに来た老婦人は、動きだした針を見て、しばらく言葉が出なかった。

そうして、皺だらけの手を口元に当て、声もなく、涙をこぼした。

「主人の時間が……戻ってきたみたいです」

店を出ていく老婦人を見送る義父の背中を、俺はただ、見ていることしかできなかった。

そのとき、義父の丸めた背中が、いつもより、ずっと小さく見えた。

――俺には、ああいう仕事は、一生できないのかもしれない。

その夜、店じまいのあとで、隆さんが、ぽつりと言った。

「親父はな、不器用なんだよ」

「人に優しくするやり方ってのを、教わらずに育った人だから」

「俺だって、親父に抱きしめられた覚えなんか、一度もないよ」

隆さんは、苦笑いして、冷めた茶をすすった。

「でもな。俺が子どもの頃、高い熱を出した晩、親父は朝まで枕元に座ってたって、おふくろが言ってた」

「そういう人なんだ。手は動かすくせに、口じゃ、何ひとつ言えない」

俺は、その時はただ、ふうん、と聞き流していた。

その言葉の本当の重みを、知るのは、ずっと後のことだ。

俺の作業台には、小さな目覚まし時計が、ひとつ置いてあった。

いつの間にか、義父がどこからか持ってきて、置いたものだ。

文字盤の塗りが、ところどころ剥げた、古い品だった。

けれど、その秒針だけは、いつも狂いなく、正確に時を刻んでいた。

不思議なことに、その時計は、俺が朝に店へ入ると、いつもきちんと動いていた。

前の晩、帰り際には、止めて帰ったはずなのに。

俺は深く考えもせず、よほど出来のいい時計なのだろう、と思っていた。

一度だけ、義父に強く叱られたことがある。

入って二年目の、冬だった。

客から預かった、戦前の舶来の懐中時計。

俺は気負って、頼まれもしないのに、その心臓部に、油を差した。

差しすぎた油が埃を呼び、繊細なぜんまいを、台無しにしてしまった。

義父は、その時計を手に取った瞬間、顔色を変えた。

「誰が、触れと言うた」

店じゅうの時計が、しんと黙ったように、感じた。

「お前は……人の時間を、なんだと思うとる」

俺は、ひとことも、返せなかった。

その日から、俺は萎縮した。

義父の前で手を動かすのが、こわくなった。

なるべく義父と目を合わせず、隅のほうで、黙々と、安物の電池交換ばかりをした。

義父も、それ以上は、何も言わなかった。

その沈黙を、俺は「見限られた」のだと、受け取っていた。

店の奥の柱に、ひとつだけ、決して動かない時計が掛かっていた。

古い、木枠の振り子時計だ。

振り子は垂れたまま、針は、四時十二分を指して、止まっていた。

俺は何度か、巻いてみましょうか、と言いかけた。

そのたび義父は、「それはいい」と、短く遮った。

妻に聞くと、義父の父――俺にとっては、顔も知らない祖父の形見だという。

その祖父は、義父がまだ五つの年に、戦地へ行ったきり、戻ってこなかった。

残されたのは、この振り子時計、ひとつ。

義父は何十年も、その心臓部の、折れた一枚の歯車を、直そうとしてきたらしい。

だが、戦前の舶来品で、同じ規格の歯車は、もう、どこにも無かった。

だから時計は、四十年あまり、四時十二分のまま、息をひそめていた。

止まった針が指すのは、義父が、父と離ればなれになった、まさにその時刻なのだと、妻は言った。

父を待ちながら、義父は、時計だけを直して、生きてきたのかもしれない。

――その冬、俺は思いきって、ある試験を受ける決心をした。

一級時計修理技能士。

独学では、無謀に近い挑戦だった。

昼は店で電池交換をこなし、夜は、捨てられた時計を相手に、歯車を一から削る練習を重ねた。

図面を引き、旋盤の真似ごとのような道具で、真鍮を削っては、失敗した。

削り出した歯車は、十のうち九は、使い物にならなかった。

歯の一枚が、髪の毛ほどずれただけで、時計は、もう正しく時を刻まない。

指先は、油と細かな傷だらけになり、夜が白む頃まで、机に向かう日が続いた。

夜更けに机へ向かっていると、妻が、そっと茶を置いていくことがあった。

「無理しないでね」

「ああ」

俺も、いつのまにか、義父と同じ返事を、するようになっていた。

何度も投げ出しかけて、そのたびに、義父の「時計は生きとる」という声が、耳の奥で、よみがえった。

義父には、黙っていた。

落ちれば、笑われるだけだと、思っていたからだ。

いや――もう見限られているのなら、せめて自分の力だけで、何かを証明したかった。

試験の手応えは、自分でも、よく分からなかった。

ちょうど、その頃だった。

昼下がりの店先で、義父が、客の柱時計を抱えて、立ち上がろうとしていた。

次の瞬間、抱えていた時計ごと、ゆっくりと、床へ崩れ落ちた。

血の道の病だという。

血の管が細くなり、詰まりやすくなる病気だと、医者は言った。

俺と隆さんで運ぶあいだも、義父は、その柱時計だけは、胸から離さなかった。

そのまま入院になり、店は、隆さんと俺とで、なんとか開け続けた。

はじめて義父のいない作業台を見たとき、店じゅうの時計の音が、やけに大きく聞こえた。

その音は、まるで、空っぽになった椅子に向かって、語りかけているようだった。

店に来る客は、めっきり、減っていた。

それでも俺と隆さんは、毎日きちんと暖簾を上げ、灯りを点けた。

義父が、そうしてきたように。

隆さんは、前より、口数が多くなった。

「親父がいないと、この店、やけに広く感じるな」

そう言って、寂しそうに、笑った。

見舞いに行くと、義父はいつも、窓の外を、ぼんやりと眺めていた。

何を話していいか分からず、俺たちは、たいてい、黙って座っていた。

沈黙には、店で、さんざん慣れていた。

帰り際、義父はきまって、「店を、頼む」と、それだけ言った。

合格通知が届いたのは、義父が入院して、ふた月が過ぎた頃だった。

薄い封筒を開けて、「合格」の二文字を見たとき、手が震えた。

妻は、その日ちょうど、病院に詰めていた。

早く伝えたくて、けれど病室に電話はなく、俺はただ、店で待つしか、なかった。

日が暮れて、店の黒電話が、不意に鳴った。

出ると、義父だった。

かすれて、ひどく聞き取りにくい、声だった。

「お前……受かったんだってな」

妻が、もう伝えてしまったのだと、すぐに分かった。

「義父さん、何してるんですか。寝てなきゃ、駄目でしょう」

「馬鹿。わしのことなんぞ、どうでもええ」

少し、間があった。

「一級か……たいしたもんだ」

「独学で、よう、やった」

そこから先、自分が何を言ったのか、よく覚えていない。

頭の芯が、白く、なっていた。

無理を押して、わざわざ電話口まで来て、よくやった、と言ってくれた。

あの、寡黙な人が。

その不器用な声が、胸の奥のいちばん柔らかいところを、まっすぐに、突いた。

電話の向こうで、義父は、それ以上は、何も言わなかった。

ただ、切れる間際に、ひとこと、「体に、気をつけてな」と言った。

気を遣われていたのは、いつも、俺のほうだったのかもしれない。

受話器を置いた瞬間、こらえていたものが、止まらなく、なった。

夜、病院から戻ってきた妻に、俺は声を詰まらせながら、そのことを話した。

妻は少し笑って、それから、ゆっくりと、話しはじめた。

父の、ほんとうのことを。

義父は、幼くして父親を失い、男手ひとつで、時計を覚えた人だった。

親に、優しくされた記憶が、ほとんど、ない。

だから、人にどう優しくすればいいのか、最後まで、分からなかったのだという。

実の息子の隆さんに厳しかったのは、跡を継ぐ者を、なんとか一人前にしたい一心だった。

そして、俺に何も言わなかったのは――。

あの冬、強く叱って、俺が萎縮してしまったのが、ずっと、引っかかっていたからだという。

「よその家から来てくれた、大事な娘の連れ合いだ」と、義父は妻に漏らしていたらしい。

「きつく言って、また心を閉ざされたら、と思うと、父はこわくて、何も言えなくなったの」

――俺が、義父を避けていたのでは、なかった。

義父のほうが、俺を恐れて、手を出せずに、いたのだ。

馬鹿だ、俺は。

何も分からないまま、勝手に壁を感じて、勝手に、背を向けていた。

あの人は、ずっと、ひとりで悩んでいたというのに。

強い人だとばかり思っていた義父が、急に、ひどく不器用な、ひとりの人間に見えた。

妻は、最後に、こう言った。

「毎朝ね、あなたの台の、あの目覚まし時計」

「父が、巻いてたのよ」

俺は、息が、止まった。

あの、いつも動いていた、小さな時計。

義父は店を開ける前、誰よりも早く来て、俺の台のそれを、毎朝、黙って巻いていたのだ。

言葉の、かわりに。

五年間、ただの一日も、欠かさず。

それが、あの人にできる、精いっぱいの「おはよう」だった。

翌朝、俺は店の奥の、止まった振り子時計を、そっと壁から下ろした。

裏蓋を開け、折れた歯車を、指先で、なぞる。

四十年、この一枚が、義父の時間を、止めていた。

俺は作業台に向かい、真鍮の地金から、その歯車を、一から、削りはじめた。

何日もかけて、歯を、一枚ずつ、合わせていった。

義父が、あの老婦人の時計に、そうしたように。

組み上げ、ぜんまいに、ゆっくりと、力を巻き入れる。

そっと、指を、離した。

――コチ。

小さな音が、した。

四十年、止まっていた時間が、また、歩きはじめた。

退院した義父は、店をたたみ、家で静かに過ごすようになった。

血圧の薬と、週に幾度かの通院は、今も続いている。

俺は、あの振り子時計を、義父の枕元に運んだ。

四十年ぶりに時を刻むそれを、義父は、長いあいだ、黙って、見つめていた。

垂れていた振り子が、左へ、右へと、静かに、揺れている。

枕元のその音が、ふたりのあいだの沈黙を、やわらかく、埋めていった。

その音は、もう、こわくなかった。

義父の顔に、あの、時計を直すときの、ほどけた表情が、ふっと浮かんだ。

やがて義父は、節くれだった手で、俺の手を取った。

時計の油が、何十年も染み込んだ、硬く、温かい手だった。

「お前の手は……わしより、ずっとええ時計を、直す」

はじめて、義父に、褒められた。

窓の外で、商店街のどこかの時計が、夕方の鐘を打っていた。

あの人の父が戻らなかった、四時十二分。

その止まった時間を、俺は、ようやく、動かすことが、できた。

義父さん、まだまだ、長生きしてください。

面と向かっては、照れくさくて言えないから、ここで、言わせてください。

こんな不器用な婿で、ごめんなさい。

いつか俺も、自分の弟子に、この不器用な言葉を、うまく言えない日が来るのだろう。

それでもいい。

手は、きっと、覚えている。

そして――ありがとう。

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