転校生の父が歌い出した日

暖かな光の中の学校行事

うちの路線には、運賃を二人分払う客がいる。

水曜の朝いちばん、六時十二分発。

榛沢駅の北口を出て、部品工場の並ぶ団地をぐるりとまわり、また駅へ戻る循環便だ。

その人は乗車口の機械から整理券を二枚引き抜く。

一枚をそのまま上着の胸に入れ、もう一枚を指で二つに折る。

それから、うしろから二番目、左側の席に座る。

うしろの席には、誰も座っていない。

終点で降りるとき、その人は折った券と折らない券を、両方まとめて料金箱に落とす。硬貨も、きっちり二人分。

多いですよ、と最初の年に一度だけ言った。

その人は少し笑って、いいんです、と言った。

それだけだった。

わたしは榛沢市営バスの運転士をしている。

四十を過ぎてから大型二種を取った、遅い運転士だ。

朝いちばんのハンドルは冷たい。冬は特に。手袋を外して握ると、指の付け根から冷えが腕の内側へ上がってくる。

バスの床は、走り出すとかすかに震える。

その震えを、わたしは足の裏で毎朝受け取っている。

工業団地の朝は、音でできている。

プレス機の低い連打。フォークリフトの警告音。六時五十分の始業チャイム。

三十年前、この町の音はもっと多かった。

乗ってくるのは、大半が交替勤務の人たちだ。

日本語の会話と、ポルトガル語の会話が、同じ車内をそれぞれの速さで流れていく。

三十年前より、この町の言葉は増えた。

増えたぶんだけ、わたしに聞き取れない声も増えた。

わたしはこの町で生まれて、いちど出て、また戻ってきた。

そして三十年、口に出せずにいる言葉がひとつある。

その言葉を届けるべき相手が、毎週水曜、わたしのバスのうしろから二番目に座っている。

ミラーの中で、その人が窓の外を見ている。

横顔の笑い方が、あの頃とまったく同じ角度なのだ。

平成八年の春だった。

わたしは十三歳で、榛沢中学校の一年生だった。

町にポルトガル語の看板が増えはじめた頃だ。

商店街の乾物屋がブラジル食材の店になり、公民館の掲示板には二か国語のごみ収集表が貼られた。

父は部品工場の検査係だった。

夕方になると作業着のまま帰ってきて、玄関で靴下を脱ぎ、そのまま台所に立って湯を沸かした。

油と鉄の匂いが、父の背中から台所に流れてくる。

その匂いを、わたしはこの町の匂いだと思って育った。

四月の終わりに、うちのクラスへ転校生が来た。

「ジウ・タカハシ・ペレイラです」

黒板に書かれた名前は長すぎて、白墨の粉が担任の指の跡になって残った。

誰かが小さく笑った。名前が長い、というだけの理由で。

ジウは笑い返した。困った顔ではなく、ほんとうに可笑しそうに。

帰りの会のあと、わたしは日直の当番表を彼に渡した。

「キムラ、ミナコ、さん」

名札を一字ずつ読む声が、指でなぞるみたいに遅かった。

「ミナでいいよ。そのほうが呼びやすいでしょう。」

ジウは、ミナ、と一度だけ小さく言って、うなずいた。

その日から彼はわたしをミナと呼んだ。

クラスでただひとり、そう呼ぶ人になった。

ジウの家は、工場の裏手にある古い社宅の二階だった。

夏休みの前、わたしは彼に呼ばれて、初めてその部屋に上がった。

玄関には、大人の靴が一足だけ、やけに大きく並んでいた。

「父さん、まだ寝てる。夜の番だから」

台所には炊飯器と、底の深い鍋がひとつ。

壁には家族の写真が押しピンで留めてあった。写っているのは三人。

母親のことを、ジウは一度だけ言った。

「べつの町で働いてる。手紙、来るよ」

それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がしたのだ。

夕方、父親が起きてきた。

ヴァウテルさん、というのが名前だった。

背は低くて、腕が太くて、首に白いタオルを巻いていた。

「コンニチハ」

その声が大きすぎて、わたしは思わず肩を上げた。

テレビの音も大きかった。夕方のニュースの声が、部屋の隅で少し割れて響いていた。

おじさんは、人の話を聞くとき、必ずテーブルに手のひらを置いた。

わたしが何か言うと、ほんの少し遅れてから、ああ、という顔をする。

その晩、鍋から出てきたのは、黒い豆と、細かく切った肉と、白い米だった。

「オイシイ?」

おじさんはそれを、五回聞いた。

わたしが五回うなずくと、五回とも同じように嬉しそうな顔をした。

ジウが横で笑った。

「父さん、日本語、それしか言えないんだ」

わたしも笑った。

豆は甘くて、少しだけ塩辛かった。

食べ終わってから、ジウがポルトガル語をひとつ教えてくれた。

ジャネーラ。窓、という意味だった。

どうしてそれなの、と聞いたら、日本に来て最初に覚えた日本語が「まど」だったからだと言う。

越してきた日、この部屋にはまだ何もなくて、窓だけがあったのだそうだ。

帰り道、団地の階段を下りながら、わたしは自分の家の夕飯のことを考えていた。

うちの食卓には、いつも人数分の茶碗が並ぶ。

並べるのが当たり前すぎて、数えたことがなかった。

ジウは音をよく聞いた。

昼休み、校舎の裏に座って、彼はいつも工場のほうへ顔を向けていた。

「あれ、父さんの機械」

わたしには、どれも同じ唸りにしか聞こえない。

「ちがうよ。父さんのは、こう。トン、トトン、トン」

彼は指で膝を叩いた。

そう言われると、確かにその拍で鳴っている気がしてくるのだった。

一度、彼が音の名前を教えてくれたことがある。

土手に並んで座って、目を閉じて、聞こえたものを順番に言うのだ。

風。犬。トラック。プレス機。それから、ずっと下のほうで鳴っている低い音。

「あれが夜のぶんの機械」とジウは言った。

「夜のぶんの機械はね、朝より少しだけ、ゆっくり鳴るんだ」

わたしには一生かかっても聞き分けられない違いだった。

目を開けると、彼はまだ目を閉じていた。

病院の受付も、市役所の窓口も、電話の応対も、ぜんぶジウが出た。

「父さん、耳、工場でやられたんだ」

なんでもないことのように、彼は言った。

「だから、おれが聞くの」

一度だけ、二人について総合病院へ行ったことがある。

耳鼻科の待合で、ジウは父親の隣に座り、番号を呼ぶ声だけを聞いていた。

呼ばれると、彼は父親の腕を二回叩く。

一回では立たない。二回叩くと、立つ。

診察室から出てきた彼は、受付に紙を出しながら、大人みたいに低い声で何かを説明していた。

そのあいだ、おじさんはずっと、膝の上に手のひらを置いて座っていた。

手のひらの置き場所がないと落ち着かない人なのだと、わたしはそのとき思った。

十三歳の子どもが、家じゅうの耳をひとりで引き受けているということ。

そのときのわたしは、それをうまく飲み込めなかった。

九月、秋の合唱コンクールの練習が始まった。

課題曲の歌詞カードが配られた。漢字にルビはなかった。

ジウはそのカードを、机の上でずっと裏返しにしていた。

わたしは職員室から予備を一枚もらってきて、赤いペンで、全部の漢字にひらがなを振った。

「これ、使って」

ジウはそれを両手で受け取って、四つに折って、ズボンのポケットに入れた。

次の日も、そのまた次の日も、彼のポケットは同じ形に膨らんでいた。

音楽室の帰り、彼が小さな声で旋律をなぞっているのを、廊下で二度聞いた。

外れていたけれど、拍だけは正確だった。

秋が深くなって、からかいが始まった。

きっかけらしいきっかけはない。

発音のこと。給食の食べ方のこと。参観日に来た父親の作業着のこと。

誰かが真似をして、誰かが笑う。ただそれだけのことが、毎日続いた。

ジウは怒らなかった。

笑って、肩をすくめて、また窓の外の音を聞いていた。

十月の月曜、事件が起きた。

土曜の夜のあいだじゅう、プールの給水栓が開きっぱなしになっていて、月曜の朝には水が校庭まで流れ出していた。

誰かが夜に学校へ入って、栓をいじった——そういう話になった。

そして、土曜の夜に校庭にいるジウを見た、と言う生徒がいた。

生活指導の先生が、ジウを職員室に呼んだ。

ジウは「知らない」と言った。

それ以外の言い方を、彼は持っていなかった。

「知らない」を繰り返すたびに、先生の眉が下がっていくのが、廊下の窓越しに見えた。

二日目の昼、職員室の前を通ったとき、扉の磨りガラス越しに彼の背中が見えた。

背中はまっすぐで、少しも縮こまっていなかった。

わたしはノブに手をかけて、そのまま指を離した。

教室に戻って、何事もなかった顔で弁当を食べた。

三日目の放課後だった。

廊下の向こうでわたしを見つけて、ジウが手を上げた。

「ミナ!」

その声は、廊下のいちばん端まで届いた。

誰かが囃した。ミナだって。ミナだってさ。

わたしは、笑い声のするほうを見た。

それから、ジウを見て、こう言った。

「その呼び方、やめて」

言ったあとの数秒を、わたしは今でも正確に思い出せる。

上履きの底が床に貼りついたみたいに、足が動かなかった。

ジウは一度まばたきをして、それから笑った。

「わかった。キムラさん」

その日から彼は、二度とわたしをミナと呼ばなかった。

その晩、わたしは夕飯をほとんど残した。

母が心配して額に手を当てたが、熱はなかった。

玄関には父の作業着が掛かっていて、油と鉄の匂いがしていた。

わたしはその同じ匂いを、笑い声のほうへ差し出したのだった。

布団に入っても、足の裏だけがいつまでも冷たかった。

合唱の練習で、担任がジウに言った。

「ペレイラくんは、無理しなくていいから。口だけ動かしていて」

悪気はなかったのだと思う。本番までもう二週間しかなかった。

ジウはうなずいた。

その日から、彼のポケットは膨らまなくなった。

十一月の第二土曜、市民会館で合唱コンクールがあった。

舞台の照明は熱くて、埃が光の中をゆっくり落ちていくのが見えた。

わたしたちは三列に並んだ。ジウはいちばん端。

前奏が始まる。

わたしは横目で彼を見た。口は閉じていた。

一番が終わり、二番に入っても、閉じたままだった。

そのとき、客席のうしろで、椅子の軋む音がした。

舞台の照明は客席まで届かない。人影がひとつ、立ち上がったのが見えただけだった。

作業着だった。首に、白いタオルを巻いていた。

声が出た。

言葉ではなかった。

歌詞ではなく、旋律だけを、低い、調子の外れた声でなぞっていた。

会場がざわめいた。

笑い声が起きた。前のほうの列から、波のように後ろへ伝わっていった。

引率の先生が席を立ち、通路を早足で歩いていくのが見えた。

ホールの空気が、ふっと重くなった。

わたしの位置からは指揮者の背中しか見えなかったが、その背中が一度だけ止まったのがわかった。

それでも、指揮の腕は下りなかった。

伴奏も止まらなかった。

わたしの喉は渇いて、音が出なくなっていた。

恥ずかしい、と思った。

自分でも驚くほど、はっきりとそう思った。

そのとき、列の端で、ジウの口が開いた。

一音遅れて、それから、合った。

歌詞だった。わたしがひらがなを振った、あの歌詞だった。

彼はカードを一度も見ずに、最後まで歌いきった。

客席の笑いは、途中で止んだ。

誰も笑わなくなって、ただ、低い声と、三十七人の声が重なって、天井のほうへ上がっていった。

幕が下りて袖に引っ込んだとき、ジウは何も言わなかった。

汗をかいて、いつもの顔で笑っていた。

会館の外で、ヴァウテルさんが自転車の鍵を外していた。

昼休みを抜けて自転車で来たのだと、あとになって知った。

わたしと目が合うと、おじさんは白いタオルで額を拭いて、それから両手の親指を立てた。

言葉はひとつもなかった。

プールの件は、その週のうちに片がついた。

用務員さんの点検簿に、九月の時点で給水栓のパッキンが傷んでいると書かれていた。

夜のあいだに、それが外れただけだった。

誰も、何もしていなかった。

疑いだけが、ひと月かけて、ひとりの子を削っていた。

生活指導の先生は、朝の会で一言だけ「ペレイラ、悪かったな」と言った。

ジウは「はい」と言って、笑った。

土曜の夜、彼が校庭にいたのは本当だった。

夜勤の父親に弁当を届けた帰りに、体育館の壁へ手をついて、中の合唱練習を聞いていたのだという。

「なんで中に入らなかったの」

「入ったら、うるさいって言われるから」

わたしはそのとき、やっと聞いた。

あの日、どうしてお父さんがあの旋律を歌えたのか。

ジウは、ああ、という顔をした。

「父さん、風呂場の壁で聞くんだよ。」

家が狭いから、彼は毎晩、風呂場でひとり歌の練習をしていた。

父親は風呂場の外側の壁に背中をつけて座り、そこへ手のひらを当てていたのだという。

音は聞こえない。震えだけが、壁を伝って手のひらに届く。

ひと月のあいだ、毎晩、その震えだけを覚えたのだ。

その歌を、あの人は一度も聞いたことがなかった。

わたしは何か言おうとして、言えなかった。

ごめん、の三文字が、喉の途中で引っかかったまま降りてこない。

その代わりに出てきたのは、「カレー、また食べたいな」という、まるで見当違いの一言だった。

ジウは笑って、「あれ、カレーじゃないよ」と言った。

三月、部品工場が生産を縮めた。

ジウと父親は、東の県の別の工場へ移ることになった。

最後の日、わたしは校門のところで彼に会った。

彼は「キムラさん、元気で」と言って、手を上げた。

わたしも手を上げた。

それだけだった。

それから三十年が過ぎた。

わたしは町を出て、結婚して、また戻ってきて、四十を過ぎてハンドルを握るようになった。

ジウは今、あの部品工場で班長をしているらしい。

作業着の胸には、ローマ字の名札が縫いつけてある。

水曜の朝、二人分の運賃を払う客が乗るようになったのは、五年前からだ。

顔を見たときから、わかっていた。

わかっていて、わたしはずっと、扉を開けて閉めるだけの人でいた。

先週の水曜、終点で、その人が料金箱に整理券を二枚落とした。

わたしは口を開けた。

声を出すのに、三十年かかった。

「ジウ」

彼が振り返った。

「ミナ」

ミナ、と呼ばれたのは、三十年ぶりだった。

「水曜は、父さんを病院に連れていく日なんだ」

彼はそう言った。

「もう、あんまり歩けなくてね。今日はデイサービスだから、乗ってない」

じゃあどうして毎回二枚取るのか、とは聞かなかった。

「隣、空けとくの、癖でさ」

彼は肩をすくめて、あの頃と同じ角度で笑った。

わたしは、三十年ぶんの言葉を、たった六文字にして渡した。

「あのとき、ごめん」

彼は少し考えて、それから首をかしげた。

「なんのこと?」

本当に忘れているのか、忘れたことにしているのか、わたしにはわからない。

たぶん、どちらでもいいのだと思う。

今朝の便には、ランドセルの子が三人乗っていた。

いちばんうしろの席で、日本語とポルトガル語を混ぜて笑っていた。

この町のバスの料金表には、数年前から、ひらがなとローマ字が併記されている。

誰が決めたのかは知らない。

それでもわたしは、その表を見るたびに、赤いペンのことを思い出す。

扉が閉まって、わたしはまた団地のほうへバスを走らせた。

アクセルを踏むと、床がまた震えた。

うしろの席には、今日も誰も座っていない。

けれどあの席には、きちんと一人分の運賃が払われている。

音の聞こえない人が、壁越しに息子の歌を覚えたこの町で、わたしは毎週、空いた席をひとつ乗せて走っている。

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