彼が名を彫った二本の若木

静かな秋の夕暮れ

「おばちゃん、この木、なんて名前なん」

駅前の小さな広場で、赤い実を見上げていた男の子が、私の袖を引いた。

まだ六つか七つだろう。

口のまわりを実の汁で赤く染めて、もう片方の手には、地面から拾ったばかりの実を三つ、大事そうに握っている。

私はベンチから腰を上げ、その木の下に立った。

初夏には白い花をいっぱいにつけ、秋になると、こうして枝いっぱいに赤い実を垂らす木だ。

二本、並んで立っている。

片方は、もう片方より少しだけ背が高い。

「これはね」

そう言いかけて、私は言葉を呑んだ。

この木の名前を、私はもう三十年以上も、誰にも話していなかった。

あれは、平成のはじめの頃だった。

私は二十四になったばかりで、高原の町の小さな郵便局に勤めていた。

霧原という、朝になると谷から霧が這い上がってくる町だ。

窓口に座っていると、午前中はずっと、外が乳色に沈んでいる。

切手を売り、年金を払い、田畑の見える道を自転車で配達に回る。

それだけの、静かな暮らしだった。

二十四にもなって、私には、これといった夢もなかった。

ただ、朝の霧が晴れて、田畑が金色に光る、あのひとときだけが、好きだった。

その景色を、いつか誰かと並んで見たいと、心のどこかで、思っていた。

けれど、そんな願いを、口に出すような女では、私はなかった。

彼と知り合ったのも、その霧の中でだった。

町外れで苗畑をやっている家の、二十六になる跡取り息子。

局に小包を出しに来るたび、窓口の私に、意味もなく長話をしていく人だった。

手も爪も、いつも土の色をしていた。

私は、そういう飾らないところが、はじめは少し苦手だった。

思ったことを、そのまま口にする人だったから。

私はといえば、思ったことを、めったに口にしない女だった。

嬉しくても、平気なふりをする。

寂しくても、強がってみせる。

子どもの頃からの、抜けない癖だった。

親しくなったきっかけは、夕立だった。

配達の帰り、峠道で急な雨に降られて、私は自転車ごと立ち往生していた。

そこへ、彼の軽トラックが通りかかった。

「乗ってけ」

荷台に自転車を放り込んで、彼はそう言った。

助手席は、肥料の袋と苗のポットで、足の踏み場もなかった。

濡れた私を気遣ってか、彼はカーステレオのつまみをひねった。

聞いたことのない曲が、雨の音に混ざって流れた。

「自分で録ったテープや。畑仕事のあいだ、これ流しとると、なんや、はかどるんや」

照れくさそうに、彼は前を向いたまま言った。

フロントガラスを叩く雨と、その素朴な旋律。

硬く閉じていたはずの私の何かが、そのとき、ほんの少しだけ、ゆるんだ気がした。

それでも、彼と話していると、その硬い殻が、少しずつほどけていくのがわかった。

霧の匂いのする町で、私たちはいつのまにか、一緒にいるようになった。

彼の苗畑には、よく通った。

ビニールハウスの中は、外の霧が嘘のように暖かくて、湿った土と若葉の匂いで満ちていた。

彼は器用な指で、細い枝と枝をつなぎ合わせていた。

接ぎ木というのだと、そのとき初めて知った。

別々の木を、切って、合わせて、一本にする。

「うまくつながると、ちがう木が、ひとつの木になって実をつけるんや」

彼はそう言って、笑った。

「木ってな、気の長い話やで」

接いだばかりの細い苗を、彼は愛おしそうに指でなぞった。

「植えて、水やって、何年も待って、やっと花が咲く。実がなるのは、そのまた先や」

「そんなに待つの」

「待つんや。待つのが、いちばんの仕事や」

霧の向こうで鳴る鳥の声を聞きながら、彼は何でもないことのように、そう言った。

私には、その言葉の本当の意味が、まだわかっていなかった。

彼には、妙な癖があった。

湯呑みでも茶碗でも、必ず二つで一組にして選ぶ人だった。

ひとつ気に入ると、もうひとつ、同じものを探してくる。

「ひとつだけやと、なんや、片っぽが寂しいやろ」

そう言って、揃いの湯呑みを二つ、私の家の棚に置いていった。

料理は、二人ともまるで駄目だった。

いちど、二人で肉じゃがを作ろうとしたことがある。

私が味見をして、醤油を足す。

彼が味見をして、水を足す。

それを何度も繰り返しているうちに、鍋はどんどん大きくなって、味は、どこか遠くへ行ってしまった。

できあがったものを一口食べて、二人で顔を見合わせた。

「……まずいな」

「うん、まずい」

それでも、鍋が空になるまで、二人で笑いながら食べた。

その夜、流しで洗い物をする彼の背中を見ながら、私は、しあわせだと思った。

でも、その言葉は、どうしても口に出せなかった。

好きだとも、そばにいたいとも、私は一度も、言えたことがなかった。

言わなくても伝わっていると、どこかで、甘えていたのだと思う。

その甘えを、私はのちに、深く悔いることになる。

足して二で割ったら、ちょうどええな、と彼は真顔で言った。

そういう夜が、いつまでも続くのだと思っていた。

疑うことなど、何ひとつなかった。

付き合って半年が過ぎた頃、私たちは、当たり前のように先の話をした。

「子どもは、女の子がええな」

「何年経っても、二人でこの霧を見よう」

朝の霧の中を、小さな手を引いて歩く自分の姿を、私はもう、はっきりと思い描いていた。

その頃だったと思う。

裏の畑の隅に、彼はいつのまにか二本の若木を植えていた。

売り物の苗は、きちんと畝に並べてあるのに、その二本だけは、畑のいちばん端に、寄り添うように植わっていた。

「あれ、売らんの」

そう訊いた私に、彼はただ、

「あれはええんや」

とだけ言って、話をそらした。

私は深く考えなかった。

売り物にならない、出来の悪い苗なのだろう。

そのくらいに思って、忘れてしまった。

異変に気づいたのは、それから間もなくのことだった。

ひと月経っても、ふた月経っても、体の巡りが戻らなかった。

おかしいとは思ったけれど、心当たりはなかった。

もしかしたら、と胸が高鳴った日もあった。

でも、その望みは、すぐに消えた。

不安のほうが、日ごとに大きくなっていった。

私は仕事を半日休んで、町から車で一時間離れた、大きな病院へ行った。

いくつも検査を受けさせられ、最後に、白い部屋で先生と向かい合った。

子どもは、望めない体なのだと言われた。

そういう体質なのだと、先生は静かに言った。

頭が、真っ白になった。

なぜ、私が。

その言葉ばかりが、ぐるぐると回っていた。

不思議と、涙は出なかった。

先生がどこかで間違えているのだと、本気で思った。

そんなはずはないのに。

意味もなく、目の前の先生に腹が立った。

次の検査の予約だけを無理に取りつけて、私は診察室を出た。

軽トラックの運転席に座り、エンジンをかけた。

すると、彼が録ってくれたテープが、途中から流れ出した。

あの夕立の日に、雨に混じって聞いた、あの曲だった。

いつも二人で、口ずさんでいた旋律だった。

その音を聞いた瞬間、堰が切れたように、涙があふれた。

指先が、氷のように冷たくなっていた。

ハンドルに突っ伏したまま、私は、まだ見ぬ子の顔を思った。

女の子がええな、と笑った彼の声が、耳の奥で、いつまでも響いていた。

思い描いていたはずの未来が、たった一枚の紙切れで、指のあいだから、こぼれ落ちていく気がした。

どうしよう。

どうしよう。

どうしよう。

泣きながら、局の番号を回した。

彼の家の番号を、そのあとで回した。

昼間だ。

畑に出ているに決まっている。

出るはずがないと、頭ではわかっていた。

それでも、何度も何度も、受話器を握りしめた。

ひとりきりだということが、ただ、怖かった。

昼を過ぎた頃、家の呼び出しに、ようやく彼が出た。

受話器の向こうは、ハウスの送風機の音で騒がしかった。

私は泣いてばかりで、ひと言も声にならなかった。

彼は、

「しゃべれるようになるまで、待っとるから」

そう言って、泣いているだけの私の電話を、切らずにいてくれた。

霧の匂いのする沈黙が、電話線の両端に、いつまでも続いた。

その日の夜、彼は土のついた作業着のまま、私の家に来た。

「すぐ行ってやれんで、ごめんな」

冷えきった私の手を、両手で包みながら、彼はそう言った。

私は、うつむいたまま、絞り出すように言った。

「あたし、子ども産めんて。そういう体なんやて」

彼は、しばらくぽかんとしていた。

何を言われているのか、わからない、という顔だった。

「……なんやそれ」

「先生が、そう言うたんよ。あたしも、まだ信じられん」

彼は、それきり黙ってしまった。

別れることは、覚悟していた。

子どもを産めない私が、この人の隣にいてはいけないと思った。

好きな人だからこそ、人並みの幸せを、掴んでほしかった。

それでも、離れたくはなかった。

ずっと、ずっと、隣にいてほしかった。

相反する二つの気持ちが、胸の中で、ちぎれそうになっていた。

「あんたが、おらんでも」

私は、無理に笑ってみせた。

「あたしは、大丈夫やから」

精一杯の、強がりだった。

今すぐ、抱きしめてほしかったのに。

くだらない意地が、どうしても、それを言わせなかった。

「別れよう」

そう口にした私の顔は、涙で、ぐしゃぐしゃに崩れていたと思う。

「ふざけんな」

彼が、初めて、大きな声を出した。

「勝手に、決めんなや」

その目が、赤く濡れていた。

いつも笑ってばかりで、弱音ひとつ吐かなかった人が、泣いていた。

「ずっと一緒やって、言うたやろが」

「でも、あたしと一緒におっても、あんたは、普通の家族を持てんのよ」

彼は、悲しそうに、首を横に振った。

それから、ふいに立ち上がると、

「ちょっと、来い」

と、私の手を引いて、外へ出た。

夜露に濡れた道を、彼は苗畑まで、私を連れて歩いた。

懐中電灯の丸い光が、あの畑の隅を照らした。

二本の若木が、寄り添うように立っていた。

「これな」

彼は、その細い幹に、そっと手を置いた。

「あの二本は、お前と子どもの話をした日に植えたんや」

息が、止まった。

売れ残りの、出来の悪い苗だと思っていた、あの二本。

「女の子がええなって、お前が言うたやろ。あの日、うれしゅうて、こっそり植えたんや。生まれてくる子の分やと思うて」

山法師いう木や、と彼は言った。

「初夏になると、白い花が、手ぇ合わせとるみたいに咲く。秋には、甘い実がなるんや」

「世話は焼けるけど、丈夫で、気の長い木でな。子が育つみたいに、ゆっくり大きなる」

「お前とやったら、こいつらを育てられる。そう思うて、選んだんや」

彼は、作業着の内ポケットから、小さな箱を取り出した。

震える指で蓋を開けると、中には、真鍮の名札が二枚、並んで入っていた。

金物の表面に、小刀で彫ったらしい、たどたどしい字があった。

それは、いつか二人で、女の子が生まれたらと言って選んだ、二つの名前だった。

「明日、渡すつもりやった」

彼は、その名札を、二本の若木の根元に、一枚ずつ、深く挿した。

「ほら、もう名前も付いとる。こいつらが、俺らの子や」

私は、その場に、崩れ落ちそうになった。

彼は、私の左手を取ると、その薬指に、細い指輪をはめた。

土で汚れた、ごつごつした指だった。

「これも、二つで一組や」

そう言って、彼は自分の指を、私の指の隣に並べた。

「結婚しよう」

ちょっと照れたように、彼は笑った。

その夜は、私たちが出会って、ちょうど一年になる、前の晩だった。

「子どもがおらんでも、幸せな家は、ちゃんと作れるんやで」

彼は、めちゃくちゃな笑顔で言った。

「お前、料理下手やろ。俺もそんな得意やない。二人でやったら、足して二で割って、なんとかなる」

「この木らも、二人で育てるんや。お前は強がりで、素直やないけど、俺には、お前の考えとることが、ようわかる」

「だから、心配ないんや」

私は、泣きながら、笑ってしまった。

彼は、土だらけの汚い袖で、私の涙を、ごしごしと拭いた。

「やっと、笑った」

にこにこと笑う彼の顔を見て、私の中の、張りつめていた何かが、ようやくほどけた。

指先に、彼の手の温もりが、少しずつ戻ってきた。

それから、私たちは所帯を持った。

式は、挙げなかった。

その代わり、あの二本の若木の下に、近所の人を呼んで、ささやかな祝いの膳を並べた。

白い花びらが、風で、ひらひらと膳に落ちてきた。

苗畑を継いで、二人で、朝から晩まで土にまみれた。

喧嘩も、たくさんした。

味の濃い私の料理と、味の薄い彼の料理を、足して二で割るような暮らしが、何十年も続いた。

あの二本の若木は、年を追うごとに、背を伸ばしていった。

初夏になると、枝いっぱいに、白い花を咲かせた。

秋になると、赤い実を、こぼれるほどに垂らした。

いつしか、近所の子どもたちが、その実を目当てに、畑へ集まるようになった。

口のまわりを赤く染めて、笑いながら、木を見上げる子どもたち。

彼は、その光景を、いつもいちばん嬉しそうに眺めていた。

「なあ、俺らの子は、ぎょうさん実をつけるやろ」

そう言って、目を細めた。

正月には、二本の木に、小さな注連飾りを、一つずつ掛けた。

大きな台風の来た年には、二人で夜通し、添え木をあてて、幹を支えた。

子を授かった家の話を耳にして、胸の奥が、ちくりと痛む夜も、なかったわけではない。

そんなとき、彼は決まって、私を畑へ連れ出した。

月あかりの下で、ただ黙って、二本の木を見上げるのだった。

「ほら、こんなに大きなった」

その一言で、私の胸のうずきは、いつも、静かに溶けていった。

実をもらいに来ていた子のひとりは、やがて大人になり、この町を出て、また子を連れて戻ってきた。

その子の子どもが、いま、私の袖を引いた男の子だった。

木が待つ時間の長さを、私はようやく、あの人の言葉のとおりに、この目で見届けたのだと思う。

町の駅前が広場に整えられたとき、私たちは、あの二本を寄贈した。

大きくなりすぎて、畑には、もう収まりきらなくなっていたから。

広場に植え替えられた二本は、今も、並んで立っている。

彼は、十年前の霧の朝、私より先に、向こうへ逝ってしまった。

眠るように、静かだった。

それでも、寂しいとは、あまり思わない。

この木を見上げれば、いつでも、彼の笑った顔が、そこにある。

「おばちゃん、この木、なんて名前なん」

赤い実で口を染めた男の子が、もう一度、私に訊いた。

私は、木の根元にしゃがんだ。

三十年以上、土に埋もれていた二枚の名札は、今も、根元で静かに眠っている。

「この木にはな、名前が付いとるんよ」

私は、その二つの名前を、男の子に教えた。

いつか、女の子が生まれたらと、二人で選んだ、あの名前を。

口に出してみると、その二つの名前は、ふしぎと、少しも古びていなかった。

まるで、本当に、この二本の木として、生まれてきたかのようだった。

あの人が待ち続けた歳月の分だけ、木は、静かに、大きくなっていた。

男の子は、不思議そうな顔をして、それから、赤い実をひとつ、私の手のひらに載せてくれた。

谷から、朝の霧が、ゆっくりと這い上がってくる。

白い花の季節も、赤い実の季節も、この木は、これから先も、ずっと繰り返すのだろう。

二本、並んだまま。

片方が、もう片方より、少しだけ背を高くして。

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