
木を削ると、潮の匂いがした。
昭和四十年代の、半島の先の造船の町。
俺は十九で、船大工の見習いだった。
親方の仕事場は入り江に面していて、鉋をかけるたび、削りかすと一緒に海風が舞い込んできた。
その削りかすの匂いを、俺は今でもはっきりと思い出せる。
手のひらに残る木の脂と、少し塩辛い風。
あの頃の俺の世界は、それだけで満ちていた。
いや、正しく言えば、もう一つあった。
千代のことだ。
千代は、俺と同じ年に同じ浜で生まれた幼馴染だった。
網元の家の娘で、俺は網を繕う漁師の倅。
物心つく前から、俺たちはいつも一緒にいた。
潮の引いた浜で貝を掘り、防波堤の先まで競争して、日が暮れるまで駆け回った。
大人になっても、その距離は変わらなかった。
ただ、呼び方だけが少し変わった。
ある晩、防波堤の上で、俺は初めて千代に想いを口にした。
不器用な言葉だった。
「おまえのこと、ずっと好きやった」
それだけ言うのに、俺は半年かかった。
千代は笑って、俺の手の甲を指でつついた。
「知っとったよ。ずっと前から」
その夜、月が海の上でずっと揺れていた。
俺は仕事場の端材で、小さな木の舟を彫るのが癖だった。
手のひらに乗るくらいの、掌に収まる本物みたいな舟。
それを見て、千代が言った。
「いつか、あんたの造った本物の舟に乗せてな」
俺は頷いた。
その約束を、俺は世界のどんな契約よりも重いものだと思っていた。
※
それからの千代は、よく仕事場に顔を出すようになった。
網元の手伝いの帰りに、竹の皮に包んだ握り飯を持ってきては、木箱に腰かけて、俺が鉋をかけるのを飽きもせず眺めていた。
「あんたの手つき、見とったら飽きんわ」
そう言って、削れて薄くなった鉋くずを一枚、指先でつまみ上げる。
光にかざすと、それは飴色に透けた。
「うすうすやね。まるで飴細工みたい」
千代はその一枚を、大事そうに手帳の間に挟んだ。
親方は無口な人だったが、千代が来ると、少しだけ機嫌が良くなった。
「おまえ、いい嫁さん見つけたなあ」
そんなことを、鑿を研ぎながらぼそりと言う。
俺は照れて、返事の代わりに手を速めた。
千代は、俺が造る舟の話を聞くのが好きだった。
いつか二人でその舟に乗って、湾の外の、あの青い島まで行こう。
島の岬には灯台があって、夜になると光が回る。
その光の届くところまで、俺の舟で漕ぎ出そう。
そんな他愛のない夢を、俺たちは何度も繰り返し話した。
仕事場の窓から見える湾は、夕方になると鏡のように凪いだ。
その水面に、二人ぶんの影が、細く長く伸びていた。
俺は、その影がずっと並んでいるものだと、疑いもしなかった。
※
けれど、俺たちの間には一つだけ、越えられない壁があった。
千代の父親だ。
網元の親父さんは、頑固で知られた人だった。
俺のような一介の見習いに、大事な一人娘をやれるものかと、はっきり口にしていた。
ある日、俺が網元の家の前を通りかかると、親父さんが庭先で網を繕っていた。
俺は勇気を出して、頭を下げた。
「千代さんと、真面目に付き合わせてください」
親父さんは手を止めなかった。
繕う指だけが、ずっと動いていた。
「一人前になってから言え」
返ってきたのは、それだけだった。
俺はその背中に、これ以上何も言えなかった。
ただ、繕われていく網の目が、やけにまっすぐで、隙がなかったのを覚えている。
この人は、いい加減なものを何一つ許さない人なのだと、そのとき知った。
それでも千代は、明るかった。
「うちの父ちゃん、口は悪いけど、あんたの造る舟のこと、褒めとったよ」
そんな話を、千代は港の石段に腰かけて、笑いながらしてくれた。
俺はその笑顔があれば、壁なんていつか越えられると思っていた。
若かったのだと思う。
明日がずっと続くと、疑いもしなかった。
※
あれは、蒸し暑い六月の夕方だった。
その日、俺は仕事場で、いつになく機嫌が悪かった。
鉋の刃を研ぎ損ねて、親方に叱られたばかりだったのだ。
帰り道、港の石段のところで、千代が待っていた。
手を振っていた。
「おかえり」
いつもなら、俺も手を振り返す。
けれどその日は、機嫌の悪さと、少しの照れくささが混じって、俺はぶっきらぼうに顎を引いただけだった。
手を、上げなかった。
千代は少し不満そうに口を尖らせて、それでもすぐにまた笑った。
「明日、うちで採れたびわ持ってくるけん」
「ああ」
それだけの、なんでもない別れだった。
千代の下駄の音が、石段を下りていく。
その音を、俺は背中で聞いていた。
振り返れば、まだ手の届くところに千代はいた。
けれど俺は振り返らなかった。
明日も、明後日も、当たり前にその音が続くと思っていたからだ。
あのとき、たった一度、手を振り返していれば。
その悔いを、俺はこの先ずっと抱えて生きることになる。
※
翌日の昼下がり、仕事場に一本の電話が鳴った。
親方が受話器を取り、俺の名を呼んだ。
声の調子が、いつもと違った。
受話器の向こうは、千代の家の近所の人だった。
千代が、台所で急に倒れたという。
朝、びわを籠に詰めている最中に、崩れるように床に伏したのだと。
頭の奥の血の管が、突然切れたらしかった。
「意識が、戻らんのよ」
その一言で、手のひらの木の脂が、すっと冷たくなった。
俺は鉋を放り出して、仕事場を飛び出した。
町の医院までの一本道を、ただ走った。
途中、頭のどこかで、たいしたことはないはずだと言い聞かせていた。
千代は丈夫だった。
浜で誰よりも足が速く、風邪一つひかない娘だった。
そんな千代が、こんなことで倒れるはずがない。
けれど、走れば走るほど、足元がぐらついた。
道の脇の紫陽花が、雨に濡れて重たく頭を垂れていた。
その色が、やけに遠くに見えた。
まるで自分だけが、世界から一歩ずれた場所に立たされているようだった。
俺は走りながら、昨日のことばかり考えていた。
石段で手を振っていた千代。
「明日、びわ持ってくるけん」と笑った、あの顔。
俺はなぜ、あのとき手を振り返さなかったのだろう。
鉋の刃を研ぎ損ねたことなんて、手を振らない理由になどならなかったのに。
あんな照れくささのために、俺はあの笑顔に何も返さなかった。
走る足の裏に、石ころの一つひとつが痛かった。
その痛みだけが、今が現実だと教えてくれた。
※
医院に着くと、千代はもっと大きな町の病院へ運ばれた後だった。
俺はバスに飛び乗り、峠を越えた。
病院の廊下で、千代の母親が壁に手をついて立っていた。
俺の顔を見るなり、母親は言葉にならない声を漏らした。
千代は、集中治療室というところに入っていた。
外に目立った傷はないのに、頭の奥がひどく傷んでいるのだと、医者は言った。
まだ、目を覚まさない。
俺は親方に電話をかけ、しばらく休ませてくださいとだけ伝えた。
そして、その夜から、病室の前の硬い長椅子で夜を明かすようになった。
廊下の隅のストーブが、ぼんやりと赤く灯っていた。
背中は冷えているのに、顔だけが火照っていた。
俺は膝の上で、両手を握りしめていた。
その手の中に、昨日握り返さなかった千代の手の感触を、必死で探していた。
※
翌朝、五分だけ、面会が許された。
白い上っ張りを着せられて、俺は消毒の匂いのする部屋に入った。
訳の分からない機械に囲まれて、千代は眠っていた。
本当に、眠っているだけのようだった。
名を呼べば、今にも起き上がって、あの口の尖った顔でこちらを見そうだった。
手を握ると、腕には細い管が何本も刺さっていた。
ただ、唇が乾いて、白くひび割れていたのが、俺の胸を締めつけた。
俺は何か声をかけたかった。
けれど、周りの機械の音と、看護婦の視線が気になって、うまく言葉が出てこなかった。
ただ、心の中で決めたことが一つあった。
千代が目を覚ましたとき、あの約束の舟を、この手で完成させて渡そう。
頭の手術をすることになれば、髪を剃らなければならないと聞いた。
それなら、目を覚ました千代が寒くないように、柔らかい帽子も要る。
俺は、目を覚ました後の千代のことだけを考えていた。
そう考えていれば、この足元の崩れそうな不安から、目をそらしていられた。
※
その日から、俺は病院の片隅で、小刀を握った。
仕事場から持ち出した、いちばん良い樟の端材だった。
削るたびに、あの潮の匂いがした。
本物の舟のように、舳先を尖らせ、船底をなだらかに整えた。
千代が「乗せてな」と言った、あの舟だ。
手のひらの上で、少しずつ形になっていった。
削りかすが、病室の白い床に落ちるたび、俺はここが海のそばだと思い込もうとした。
町へ下りて、綿でできた柔らかい帽子も買った。
ついでに、と自分に言い訳をして、俺は小さな貝殻の根付も一つ買った。
千代が昔、浜で拾って喜んでいた、桜色の貝によく似ていた。
目を覚ましたら、舟と一緒に渡そうと思った。
その帰り道、商店街を歩く娘たちの姿を見て、俺はまた、あの奇妙な感覚に襲われた。
自分だけが、みんなとは違う時間の中に取り残されている。
その不安を振り払うように、俺は舟を握る手に力を込めた。
※
幾日目かの昼前、医者が千代の父親を呼んだ。
病状の話をするという。
俺は、部屋の外で待つつもりだった。
けれど、どうしても自分の耳で聞きたくて、無理を言って同席させてもらった。
あんなに緊張したことは、後にも先にもない。
医者の顔は、良いとも悪いとも取れない、平らな表情だった。
短い挨拶のあと、医者が静かに口を開いた。
その言葉は、俺の願っていたものとは、まるで逆だった。
千代がここへ運ばれてきたとき、既に、手の施しようがなかったのだという。
今、機械が動いているように見えるのは、家族が心の支度をするための、わずかな時間なのだと。
俺は、椅子から落ちないようにするので精一杯だった。
頭の中が、真っ白に鳴っていた。
部屋を出ると、千代の父親が、低い声で言った。
「母さんには、まだ言わんでくれ」
その頑固な人の声が、初めて、細く震えていた。
俺は返事もできず、廊下の突き当たりまで走った。
誰もいない非常階段の踊り場で、俺は声を抑えることも忘れて泣いた。
あんなに泣いたのは、生まれて初めてだった。
涙が涸れた頃、俺は顔を洗って病室に戻り、できるだけ普通に振る舞った。
※
その晩、千代の父親が、俺を町の銭湯に誘った。
二人とも、ほとんど口をきかなかった。
湯気の向こうで、親父さんの背中は、ずいぶん小さく見えた。
網を繕っていたときの、あの隙のない背中とは、別の人のようだった。
俺は湯船の中で、ずっと聞きたいことを胸に抱えていた。
千代と、所帯を持つことを許してもらえるかどうか。
今思えば、いちばん聞いてはいけないときに、俺はそれを聞いた。
脱衣場で、俺はやっと口を開いた。
ストレートには言えなかった。
ただ、彫っている舟と、貝殻の根付を、千代の手に握らせてやってもいいか、とだけ尋ねた。
親父さんは、しばらく黙っていた。
それから、濡れた手拭いで顔を拭いながら、ぼそりと言った。
「おまえの造る舟なら、あれも喜ぶ」
俺のことを、初めて認めてくれた言葉だった。
親父さんは、それきり何も言わなかった。
ただ、脱衣場の鏡の中で、その肩が一度だけ、大きく上下したのが見えた。
あんなに頑固だった人が、俺の前で、泣くまいと堪えていた。
俺は見て見ぬふりをして、湯上がりの手拭いを固く絞った。
けれど、それを喜べる場所に、俺たちはもういなかった。
※
やがて千代は、一般の病棟の、静かな個室に移された。
もう長くはないから、少しでも家族と過ごせるようにという、医者の計らいだった。
俺は一日のほとんどを、その部屋で過ごした。
することは、何もなかった。
ただ、話しかければ声が届いている気がして、耳元で昔の浜の話をした。
貝を掘ったこと、防波堤で競争したこと、初めて想いを伝えた夜の、揺れる月のこと。
子供の頃、千代は俺より足が速かった。
防波堤の先まで駆けっこをすると、いつも俺は負けた。
振り返って、遅れてくる俺を待つ千代の顔が、逆光でよく見えなかったことまで、俺は話した。
返事はなかった。
それでも、枕元の窓から差す光が、千代の頬をやわらかく照らすと、少しだけ笑っているように見えた。
看護婦が来ない時間に、俺は小さな声で、昔よく二人で歌った浜の歌を口ずさんだ。
音を外すたび、千代なら「下手くそ」と笑うのに、と思った。
その「下手くそ」を、俺はもう一度だけ聞きたかった。
そして、手のひらの舟を、少しずつ仕上げていった。
樟の舟は、もう水に浮かべられそうなほど、綺麗な形になっていた。
俺は最後に、船底の裏に、小刀の先で小さく二人の名を彫った。
誰にも見えない、船の底に。
※
その日は、朝から雨だった。
昼を過ぎた頃、医者と看護婦が、静かに部屋へ入ってきた。
皆さんを呼んでください、という声。
家族が枕元に集まり、機械の刻む音が、少しずつ間延びしていった。
千代の母親が、俺の手を取った。
そして、千代の細くなった手のひらに、俺の手を重ねさせた。
「握ってあげて」
俺は、彫り上げたばかりの舟を千代の手に握らせ、その上から、両手で包んだ。
貝殻の根付が、二人の手の間で、かすかに鳴った。
機械の音が、長く尾を引いて、やがて一本の線になった。
医者が、時刻を告げた。
部屋の中に、みんなの泣き声だけが満ちた。
覚悟はしていたはずなのに、俺はその現実が、どうしても信じられなかった。
そのときだった。
俺が包んでいた千代の手が、もの凄い力で、俺の手を握り返してきたのだ。
舟をはさんだまま、その手は、俺の指をしっかりと握った。
握り返してきた手は、俺が二十年かけて覚えるはずだった鉋の握りより、ずっと強かった。
俺は驚いて、たぶん、みっともない声をあげたと思う。
しばらくして、その手から、すうっと力が抜けていった。
俺は震える声で、みんなにそのことを伝えた。
すると、千代の母親が、涙でぐしゃぐしゃの顔で、笑おうとしながら言った。
「一生懸命そばにおってくれたけん。ありがとうって、言うとるんよ」
頭の隅では、それがただの体の反応にすぎないと、分かっていた。
それでも、俺はその母親の一言を、信じることにした。
その一言があったから、俺はこの先、道を間違えずに来られたのだと思う。
※
あれから、二十年以上が過ぎた。
俺は今も、あの町で船を造っている。
親方の仕事場を継ぎ、自分の弟子も持つようになった。
本物の舟を、何艘も海に送り出してきた。
けれど、いちばん大事な一艘だけは、今も俺の手のひらの上にある。
樟で彫った、小さな舟。
船底の裏には、二人の名が、今も残っている。
仕事場で鉋をかけると、削りかすと一緒に、海風が舞い込んでくる。
その潮の匂いを吸い込むたび、俺は昔のように、背中で下駄の音を聞く。
石段を下りていく、あの軽い足音を。
湾の外の、あの青い島の灯台は、今も夜になると光を回している。
俺の造った舟は、まだあの光の下までは行けていない。
今度こそ、俺は振り返る。
そして、届かない相手に向かって、ゆっくりと手を上げる。
あの日、上げられなかった手を。
同い年だった千代は、今ではずいぶん、年下になった。