義母が誰にも踏ませなかった畳

祖母と畳

座敷の畳は六枚ある。

そのうちの一枚だけ、目が揃っていない。

床の間に近い、上座の一枚だ。

刺し目の間隔がわずかに広くて、縁の縫い目が終いのほうで、髪の毛一本ぶんだけ内へ寄っている。

畳屋なら誰でも見つける。

客はまず気づかない。

畳屋というのは、床の裏に日付を書く。

藁床をひっくり返して、隅のほうへ墨で年月日と、刺した者の名を入れる。

敷いてしまえば、次の上げ替えまで誰の目にも触れない。

四十年先、五十年先に、それを剥がした職人だけが読む。

誰にも見えん所に書くのが、この商売の癖だった。

今年の秋で、うちは店を畳む。

私は六十八になった。

膝が、もう畳の上で二時間ともたない。

私がこの家へ来たのは、昭和四十四年の五月だった。

十九だった。

沖江という町で、その頃はどこを歩いても藺草の匂いがした。

干拓地の水路のむこうまで、一面が藺草田だった。

海を埋めて作った土地だから水にわずかに塩が残っていて、その塩が藺草の芯を締めるのだと、あとになって義母から教わった。

堤防に上がると、藺草田の濃い緑と、その先の瀬戸内の鈍い光とが、地面すれすれのところで一本の線になって繋がって見えた。

六月の刈り取りが近づくと、町じゅうの軒下に泥染めをした草が吊られて、青とも灰ともつかん色に町が沈む。

風の向きによっては、その匂いが二里先の駅まで届いた。

嫁入りの荷を下ろした日も、その匂いだった。

土間に立った義母は、私の顔を見なかった。

「よう来た」も言わなんだ。

畳包丁の柄で、台所のほうを一度、指しただけだった。

それが、この家での最初の挨拶だった。

店は間口が四間あって、通りに面したところが土間、その奥が仕事場、さらに奥に六畳の座敷と台所が並んでいた。

土間は藁の粉で年じゅう白く、朝に掃いても、昼までには履物の跡がつくほど積もった。

名はサトという。

その頃で四十二。

背は私より低いのに、藁床を抱えると男衆より速く動く人だった。

夫の正一は跡取りだったが、若い時分に配達の車を横転させて腰をやってしまい、長く座れん体になっていた。

帳面と、車と、客の相手。

畳を刺すのは、義母ひとりだった。

女がひとりで包丁を握っている畳屋は、あの頃、町に一軒しかなかった。

私はそれを、誇りには思わなんだ。

あの人は、誰にも渡す気がないのだと思っていた。

血の繋がっとらん嫁になど、包丁は持たせん。

そう思って、十年、洗い物をしていた。

仕事場は土間の続きにあって、朝から晩まで、包丁が藁を切る音がしていた。

しゅっ、しゅっ、と乾いた音がして、たまに、藺草を送る左手の指が鳴る。

私が用があって入っていくと、義母は手を止めた。

止めて、何も言わずに、私が出ていくのを待った。

二度、三度とそれが続いて、入らんようになった。

腑に落ちんことが、ひとつだけあった。

毎朝、土間の隅に、藁床の端切れが一枚、置いてあった。

畳一枚ぶんの床を裁つと、必ず余りが出る。

それを義母は掃き出さずに、いつも同じ場所へ置いた。

私はゴミだと思って、竈の焚きつけにしていた。

翌朝には、また一枚置いてある。

「これ、捨てんでええんですか」と、一度だけ聞いたことがある。

義母は藺草の束を担いだまま、こちらを見もせずに言うた。

「そこに置いとる」

それが答えのつもりらしかった。

私はまた、竈にくべた。

藺草の年は、六月に一度きりの山が来る。

夜の明ける前に田へ入って、露のあるうちに刈る。

陽が高くなると、草が折れる。

刈った草はその日のうちに泥に浸けて、乾燥小屋へ吊るす。

町じゅうが一週間ばかり寝ん。

私も割烹着のまま、束を運んだ。

指の股が青く染まって、風呂で擦っても十日は落ちなんだ。

義母はその時期だけ、私に「早う」と言うた。

一日に何度も言うた。

褒め言葉のほうは、四十九年で一度も聞いとらん。

いちばん出来のええときで「まあまあじゃ」だった。

義母の刺し方は、見ていて気持ちのええものだった。

畳床を膝で押さえる。

右手に包丁、左手で藺草の表を送る。

畳針を通すときに、左の親指の腹で針の尻を押す。

何万回も押すうちに、その爪だけが平たくなって、少し内へ反る。

畳屋の親指という。

私は自分の左の親指を、いま、じっと見ることがある。

同じ形をしている。

いつからそうなったのかは、覚えとらん。

刈り取りの時期は、乾燥小屋の火を夜通し落とすわけにいかん。

炭の按配をひとつ間違えると、一年ぶんの草が一晩で焦げてしまう。

その番を、義母は必ず自分でやった。

私が代わると言うても、聞かなんだ。

一度だけ、雨で仲間の小屋の火が落ちて、義母が朝まで手伝いに出た晩がある。

その晩だけ、私が一人で番をした。

小屋の中は湯気と草の匂いでいっぱいで、しばらくは目を開けていられんほど熱い。

三時間おきに炭を足して、吊るした束の向きを端から順にひっくり返していく。

草が乾く匂いは、時刻によって変わる。

夜半は青臭くて、明け方に近づくと、干した藁のような甘さが混じってくる。

その甘さが出たら火を弱めるのだと、誰にも教わっていないのに、なぜか手が分かっていた。

明け方、義母が戻ってきて、束を一つ手に取り、鼻を近づけた。

それから、私のほうを見もせずに言うた。

「焦がさなんだな」

褒め言葉ではない。

その頃の私は、そう思っていた。

いま思えば、あれが、この家で最初にもろうた仕事だった。

実家からは、盆と正月に葉書が来た。

母の字は角ばっていて、いつも同じ二行だった。

〈からだに気をつけて 辛抱しなさい〉

返事も、私は二行しか書かなんだ。

〈元気です 心配いりません〉

便りがないのが元気な知らせ、というのは、ああいうことを言うのだと思う。

嫁いで四年目の秋に、実家の母が一度だけ、店の黒電話にかけてきたことがある。

用件は、何もなかった。

明日は雨らしいという話をして、それで切れた。

受話器を置いて振り向くと、帳場の柱のところに義母が立っていた。

聞かれていたのかと思うと、耳の後ろが熱くなった。

義母は何も言わずに土間へ戻り、その日は、いつもより一時間早く仕事を終いにした。

夕飯に、私の好きな穴子が出た。

そういう人だった。

そういう人だと、私は四十九年、気づかなんだ。

息子の徹が生まれたのは、昭和四十九年の冬だった。

産後の一月、義母は台所に立った。

十年、私が立っていた場所だ。

何をこしらえても、味は濃かった。

正一が「おふくろの飯は塩の味しかせん」と言うと、義母は真顔で答えた。

「塩は要る」

それだけで、その冬はよう笑った。

毎朝、枕元に藺草が一束、置いてあった。

乾かしたばかりの、青いやつだ。

「匂うと、眠れる」

そう言うて、置いていった。

赤ん坊が泣くたび、義母のほうが先に起きた。

私が身を起こすより先に、廊下を歩く音がした。

あの一月の義母は、なんぼ言うても台所を譲らなんだ。

一月が明けて、また土間へ戻ったときの背中を、いまでも覚えている。

嬉しそうとも、寂しそうとも、私にはよう分からなんだ。

その年の秋、藺草の仲買が値を叩きに来たことがある。

若い衆が三人、店の土間で腕を組んどった。

義母は上がり框に正座して、聞くだけ聞いてから、こう言うた。

「あんたら、この草が何日寝んで出来とるか、数えたことがあるか」

「一日ぶん、勉強してくれるか」

仲買は笑うて帰ったが、翌年から値は戻った。

正一が「おふくろは畳より口のほうが達者じゃ」と言うて、草履で背中を叩かれとった。

私はその晩、洗い物をしながら、少しだけこの家の者になった気がした。

少しだけだった。

私が包丁を持つようになったのは、昭和五十四年の暮れだった。

正一が配達先で腰を痛め直して、寝込んだ。

年末は仕事がいちばん立て込む。

納めの決まった座敷が、七軒あった。

義母は何も言わなんだ。

言わずに、朝、土間へ道具を並べた。

包丁と、畳針と、糸と、指ぬき。

私の草履の前に、まっすぐ並べてあった。

「やれ」とも「持て」とも言わん。

私は、それを持った。

最初の一枚は、目が揃わなんだ。

縁が波打って、客の家に納めるどころではなかった。

義母は横から覗いて、

「まあまあじゃ」

と言うた。

その日から、私は仕事場の人間になった。

十年ぶんの遅れを取り返すのに、また十年かかった。

夏の暑い盛り、川向こうの中西旅館の広間を五十枚、二人で三日かけて納めたことがある。

女将が縁の色を三度変えさせて、義母は三度とも黙って刺し直した。

納めた日、女将が「今日は誰と来られたん」と聞いた。

義母は私のほうへ顎をしゃくって、こう言うた。

「うちの職人です」

家では「まあまあじゃ」しか言わん人が、外ではそう言うた。

帰りの軽トラの荷台で、私は前を向いていられなんだ。

平成七年の夏だった。

義母は六十八になっていた。

いま、私がその年だ。

ある朝、朝飯の途中で箸を置いて、こう言うた。

「盆までに、この座敷を上げ替えてくれ」

「あんたの手で、六枚とも」

私は箸を止めた。

うちの座敷は、義母が私を迎えて以来、一度も替えていなかった。

客間ではない。

家の者しか上がらん部屋だ。

畳の上げ替えは十年に一度が普通で、二十年、三十年放っておく家も珍しくはないが、畳屋の家の座敷が二十六年そのままというのは、外聞が悪い。

なにより、それを私にやれという。

腕を見るつもりだ、と思った。

十六年、包丁を持たせておいて、まだ見るのか。

返事はせなんだ。

黙って、盆までに納めることにした。

草は、いちばん上等な熊本の中継表を六枚ぶん取った。

縁は、うちの座敷にずっと入っていたのと同じ、藍と黄の細い縞にした。

藁床は古いのを使い回さず、新しく裁った。

六枚ぶんの床を裁つのに、まる二日かかる。

稲藁を向きを変えながら層に重ねて、麻糸で端から締めていく。

締めが甘いと、五年で真ん中が沈む。

畳表を張るときは、まず縦の目を部屋の柱に合わせて見当をつける。

部屋というのは、どこの家でも少しずつ歪んでいる。

うちの座敷も、北の隅が三分ばかり狭かった。

その三分を、六枚のどこで吸わせるか。

そこだけは、誰にも教わらずに、手が覚えていた。

刺しているあいだ、義母は一度も仕事場を覗きに来なかった。

覗きに来ないというのは、この人にしては珍しいことだった。

盆の一週間前、朝のうちに座敷を空けた。

簞笥を出し、仏壇を移し、畳の隅に道具の先を差し込んで、一枚目を起こす。

二十六年ぶんの埃が、一斉に立った。

床板の上に、白く四角い跡が六つ残っている。

起こした畳を裏返して、壁に立てかけた。

藁床の裏の、隅。

墨の字があった。

薄れてはいたが、読めた。

昭和四十四年五月十八日。

私は、その数字をしばらく見ていた。

私がこの家に荷を下ろした日だった。

日付の下に、名があった。

サト、と、太い字で書いてある。

墨が少し滲んでいて、書いたときの筆の勢いまで残っていた。

私は畳を壁に立てかけたまま、何もない座敷の真ん中に座り込んだ。

窓から差す光が、二十六年ぶんの埃の粒を、ひとつひとつ光らせていた。

六枚とも剥がした。

どれにも同じ日付が入っていた。

昭和四十四年五月十八日。

名は、サト。

六枚とも、義母が三日か四日で刺したものだ。

嫁が来る日に合わせて、座敷をそっくり新しくしていた。

私は何も聞いとらん。

畳屋の家で、嫁の来る日に畳を替えるのは、そう珍しいことでもない。

そう思って、最後の一枚を裏返した。

上座の、床の間に近い一枚。

刺し目の間隔が、広い。

縁の縫い目が、終いのほうで内へ寄っている。

義母の手ではなかった。

新米の手だった。

その日は、それきり仕事にならなんだ。

その晩、蚊帳の中で、思い出した。

嫁いで三日目のことだ。

朝の仕事場で、義母に手を取られたことがあった。

畳の上に座らされて、右手に包丁ではなく、畳針を握らされた。

「押してみ」

親指の腹を、針の尻に当てられた。

押した。

藁は硬くて、指が滑って、爪の際が赤くなった。

義母は何も言わずに、私の手から針を取り、続きを刺した。

それだけだ。

それだけのことで、私は二十六年、何も覚えていなかった。

覚えていないほど、どうでもいい朝だった。

あの朝の一枚が、上座に敷いてあった。

思い当たることが、もう一つあった。

座敷に上がるとき、義母はいつも上座に座った。

床の間を背にして、そこに座布団を置き、脇に針箱を置いた。

客が来ても、動かなんだ。

盆に親戚が集まって、正一の兄が「そこは客の座るとこじゃろ」と言うたときも、動かなんだ。

私はそれを、そういう人だと思っていた。

いちばん良い場所を、自分で取る人だと。

上座の一枚には、いつも義母の座布団と針箱が置いてあった。

その下に何があったか、二十六年、考えたこともなかった。

盆の前の日に、六枚を納めた。

義母は座敷に上がって、四つん這いになって、縁の縫い目を端から端まで指でなぞった。

六枚ぶん、全部なぞった。

それから、上座に座って、

「まあまあじゃ」

と言うた。

私は、古い畳のことを聞いた。

上座の一枚だけ目が違うたが、あれは誰が刺したのかと。

義母は針箱の蓋を開けて、中を見たまま答えた。

「あんたのじゃ」

それだけだった。

なんでそんな下手なもんを、二十六年も上座に敷いとったのか。

私は、そう聞いた。

義母は蓋を閉めて、こう言うた。

「二十六年、あの一枚には、誰の足も乗せさせなんだ」

畳の上で、蝉の声だけがしていた。

義母は立って、簞笥を戻しにかかった。

その話は、それきりになった。

その夜、私は仕事場の隅を掃いた。

古い藁床の端切れが、まだ紐で括って積んであった。

義母が毎朝、土間に置いていたやつだ。

私が焚きつけにして、燃やし続けたやつだ。

十年ぶん、燃やした。

束を解いて、一枚を手に取った。

物差しを当てた。

十年分の端切れは、みな同じ寸法に切ってあった。

一尺と、五寸。

畳針の練習をするのに、ちょうどええ大きさだ。

裁ち落としの余りなら、寸法は毎日ちがうはずだった。

余りではなかったのだ。

毎朝、測って、切って、置いていた。

「そこに置いとる」

あの一言が、十年ぶんの言葉だった。

私は端切れを膝に載せたまま、しばらく動けなんだ。

義母は九十一になった。

去年から、川向こうの施設にいる。

先週も行った。

廊下の椅子に座って、窓のほうを見ていた。

私の顔を見て、

「よう来た」

と言うた。

五十年かかって、私はその言葉を聞いた。

私が誰かは、もう分かっとらんかもしれん。

それでもええ。

帰り際、左の手を握った。

親指の爪が、平たくなって、少し内へ反っている。

私の親指と、同じ形をしていた。

秋で店を畳む。

藺草田は、この町にもう一枚も残っとらん。

畳表は熊本と、海の向こうから来る。

息子の徹は市役所に勤めていて、継ぐ者はおらん。

先月、徹の嫁のみちるが、仕事場の入口に立って、こう言うた。

「お義母さん、一枚だけ、刺させてもらえませんか」

「下手でええから」

私は教えなんだ。

土間へ、道具を並べた。

包丁と、畳針と、糸と、指ぬき。

みちるの草履の前に、まっすぐ並べた。

みちるは半日かかって、一枚を刺した。

縦の目が柱と合わんと言うて、三度、張り直した。

糸を締める力が足らんので、縁のところが少し浮いてくる。

途中で二度、指を刺して、絆創膏を巻いて、また座った。

私は框に腰かけて、藺草の匂いのする土間で、それを見ていた。

教えとうなる口を、何度も閉じた。

閉じるたびに、義母がなぜ十年、私を仕事場に入れなんだのかが、少しずつ分かってくる気がした。

手を出せば、その一枚は私の畳になってしまう。

みちるの畳にはならん。

みちるの刺した一枚は、目が揃わなんだ。

縁が、終いのほうで内へ寄った。

畳屋なら誰でも見つける。

客はまず気づかない。

私はその一枚を、座敷の上座に敷いた。

床の間に近いところだ。

そこへ座布団を置いて、脇に針箱を置いた。

盆に徹が帰ってきて、「そこ、母さんの席なん」と言うた。

そうじゃ、と答えた。

敷く前に、床の裏へ墨を入れた。

年号と、月と、日。

それから、名を書いた。

みちる、と書いた。

誰にも見えん所に書くのが、この商売の癖だ。

次にこの畳を剥がす者が、いつか読む。

その頃、私はもうこの座敷にはおらんだろう。

それでかまわん。

座敷の畳は六枚ある。

そのうちの一枚だけ、目が揃っていない。

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