右肩のふとんの隙間に

眠り

クロ、元気か。

私と、私のお布団のない、そっちで。

どうやって寝ているんだい。

ちゃんと、あったかくて気持ちのいい場所を見つけたか。

こっちは相変わらずだよ。

夜になると、私はいまだに、おまえを待ってしまう。

癖みたいなものだ。

消そうとしても、消えない。

電気を消して、布団を整えて、横になる。

すると、右肩のあたりが少しだけ空くように、体が勝手に動く。

そこが、ふとんの隙間。

おまえの入口だったから。

骨折した夜の同居

おまえが家に来たのは、十月のはじめの、雨の夜だった。

会社の帰り、自転車置き場の隅に、黒い毛玉が丸まっていた。

ずぶ濡れで、骨が浮いていて、目だけが妙に大きかった。

放っておけばいいと、一度は通り過ぎた。

けれど、三歩歩いたところで、足が止まった。

戻って、段ボールの切れ端に乗せて、アパートまで抱えて帰った。

その頃の私は、右腕を骨折していた。

階段で足を滑らせて、肘を折ったばかりだった。

ギプスで固めた右腕は、重くて、痛くて、うまく曲がらなかった。

タオルで体を拭いてやると、おまえは意外にも、じっとしていた。

爪は伸びきっていて、毛は束になって固まっていた。

温めたミルクを、皿の縁から鼻先を沈めて、勢いよく飲んだ。

その夜、私は右腕をかばって、仰向けでしか眠れなかった。

右肩の脇に、ギプスを置くための隙間を空けて。

夜中にふと目が覚めると、その隙間に、冷たくて細いものが入り込んでいた。

最初の一瞬だけひんやりして、すぐに私の体温で温まった。

おまえは、ギプスの端に顎を乗せて、規則正しい寝息を立てていた。

たまたまだった。

私の腕の怪我が、たまたま、おまえの居場所を作った。

理由はそれだけで、たぶん、それで全部だった。

ふとんの隙間と毛並み

毛並みはさ。

正直に言うと、「絹糸のよう」なんて、お世辞にも言えなかった。

少しごわっとしていて、季節によっては、抜け毛がすごかった。

掃除機をかけても、次の日には、またふわっと床に落ちていた。

黒い服を着ていった日は、駅のホームで、肩に毛がついていないか確かめたものだ。

同僚には、「猫、飼ってるでしょ」と、すぐにばれた。

でも、その毛並みが、私には現実だった。

おまえがそこにいるという、何よりの証拠だった。

撫でると、手のひらに、ほんの少しだけ脂が残った。

その匂いを嗅ぐと、一日の疲れが、すっと遠のいた。

ギプスが取れてからも、おまえは毎晩、右肩の隙間に入ってきた。

肩とふとんの隙間に、ひょいと鼻を突っ込んで。

しばらく、ふんふんと匂いを嗅いでから。

するすると、ひんやりした体を滑り込ませる。

私がいそいそと横向きになると、背中をぴたりとくっつけて。

私の脇に、お尻をきっちりとはめ込んで。

まっすぐな尻尾で、頬をさらりと撫でてくれた。

あれは、合図だった。

「寝るぞ」って。

「ここが、いつもの場所だ」って。

腕はとっくに治っていたのに、私は右肩を空けて寝るのをやめなかった。

やめられなかった。

友人に話すと、「もう怪我、治ってるのにね」と笑われた。

私も笑って、「そうなんだよ」と答えた。

おまえが来る場所を、閉じてしまいたくなかったから。

すかしっぺは、めったにしなかったよね。

だから、油断するんだ。

あれは強烈だった。

布団の中で、「何が起きた」と本気で起き上がったことがある。

おまえは涼しい顔で、しれっと尻尾を一回振るだけ。

悪意がないのが、逆に怖い。

もし、そっちでいい飼い主を見つけているなら。

……やらない方がいいと思うよ。

最初の印象って、大事だから。

なんて言っても、おまえは聞かないだろうな。

好奇心が強くて、開けちゃいけない引き出しほど、開けたがって。

触っちゃいけないものほど、前足を伸ばして。

怒られると分かっているのに、なぜか誇らしげな顔をしていた。

私は、あれに何度も救われた。

仕事で失敗した夜、腹いせのように床へ投げたカバンの音にも、おまえは驚かなかった。

黙って近づいてきて、靴下の上に座った。

笑ってしまうだけで、人は少し軽くなる。

たぶん私は、あの頃、ずっと懸命だった。

生活も気持ちも、いろんなことが不器用で。

うまく笑えない日もあった。

誰にも言えない疲れを抱えて、帰ってきて。

部屋に鍵をかけた途端、力が抜ける夜があった。

そんなときでも、おまえは、いつも同じ顔で迎えてくれた。

大げさな励ましはしない。

ただ、いる。

ただ、体温を渡してくる。

それだけで、人は生き延びるんだな。

おまえは、私が出会った最初の家族だから。

家族って、血のことじゃないんだって。

それを教えてくれたのも、おまえだ。

私の今までを、一番知ってくれているのもおまえだ。

格好悪いところも、弱いところも。

誰かに見せる前に、先におまえが見ていた。

引っ越しの日のことも、覚えている。

段ボールだらけの部屋で、おまえは一番にふとんを見つけて、その隙間に入った。

荷物の山の真ん中で、おまえだけが、もう家に帰ってきた顔をしていた。

あの日、私は初めて、「ここが自分の家だ」と思えた。

冬の夜は、とくに仲がよかった。

暖房を切った部屋で、おまえの体温が、湯たんぽの代わりになった。

寝返りを打つたびに、おまえは文句も言わずに、ふとんの中でくるりと向きを変えた。

その動きを、私は眠りながら、ちゃんと感じていた。

病院の待合室

年が明けて、おまえは少しずつ、食べる量が減った。

かかりつけの動物病院の待合室は、消毒液と、おやつの匂いがした。

食欲がないと伝えると、先生は診察台の上のおまえを撫でながら、静かに言った。

「最近、ごはんの時間に、うろうろしますか」

私は首を振って、「いえ、近づいてこなくなりました」と答えた。

「年齢的なものもあります。無理はさせないであげてください」

キャリーバッグを抱えて帰る道は、いつもより少しだけ重かった。

夏の終わりに、おまえは立ち上がるのも、つらそうになった。

それでも夜になると、右肩の隙間を目指して、ゆっくりと近づいてきた。

前足を、そっと私の脇に乗せて。

ふんふん、と短く匂いを確かめてから。

もう一度、するすると入ってくる。

最後の何日かは、入るのに、とても時間がかかった。

私は、少し体をずらして、隙間を広げてやった。

おまえは、小さく「にゃ」と鳴いた。

それが、ありがとうだったのか、遅いぞ、だったのか。

今でも、ときどき考える。

その朝、おまえは、ふとんの隙間で、静かに冷たくなっていた。

私の脇に、お尻をきっちりとはめ込んだまま。

動けなくなった私の頬を、尻尾の先が、最後にさらりと撫でた気がした。

気のせいだと、分かっている。

それでもあの感触を、私は今も忘れられない。

同じ別れを経験した人の言葉は、はしゆよ、はむたよおのように、ときどき不意に胸へ届く。

愛猫との日々を綴った愛猫と過ごした日々を、ときどき開いては、同じ気持ちの人がいることに救われている。

空っぽの右肩

でも、クロ。

今の私は、笑いながら泣くことが増えたよ。

泣くつもりなんてないのに。

ふと、寝返りを打った瞬間に。

右肩のあたりが、空っぽだと気づいてしまうだけで。

胸の奥が、音もなく沈む。

「もう来ない」という事実を、毎晩、もう一度だけ確かめてしまう。

それでも私は、怒らない。

おまえがどこに行っていても、いつか会いに行くからね。

本当は、おまえに迎えに来てほしい。

私の最後の瞬間に、いつものように、右肩の隙間から。

するするっと入ってきてくれたら。

どれだけ幸せな気持ちで、逝けるだろう。

でも、おまえはきっと、今は夢中なんだろうな。

空腹もない。

病気も事故もない。

追いかける音も、怖い影も、痛みもない。

自由気ままに探検し放題で、気になる匂いを見つけたら、どこまでも追いかけて。

高い場所にも、軽々と登って。

眠くなったら、好きなところで丸くなる。

そんなふうにしているんだろう。

うっかり私のことを忘れたとしても、私は怒らないよ。

思う存分、遊びなさい。

もう苦しくもない。

痛くもない。

思うように動く、元気な体を楽しんでおくれ。

こっちはこっちで、やっていく。

おまえが教えてくれた、体温の記憶を抱えたまま。

誰かに優しくできなかった日は、せめて自分にだけは嘘をつかないで眠る。

寂しい日は、寂しいって認める。

それでも、ちゃんと生きる。

おまえに恥ずかしくないように。

いつか私もそっちへ行ったら、気の向いたときにでも、会ってくれればいい。

走って来なくていい。

派手に鳴かなくていい。

ただ、あの夜みたいに。

ふんふんと匂いを嗅いでから。

するすると、私のそばに入ってきてくれたら。

それだけでいい。

……とは言いつつ。

今すぐにでも会いたいのが、本音だ。

夢の中で、ちょっとだけ姿を見せて、名前を呼びそうになると、すっと消える。

じらすのが、上手すぎる。

意地悪すぎないかい。

クロ。

あの夜、右腕のギプスが空けていた隙間を、おまえが自分の居場所に決めたこと。

今夜も私は、右肩を少しだけ空けて眠るよ。

来ないと分かっていても、ふとんの隙間を閉じられないまま。

それでも、待ってしまうんだ。

おやすみ。

またね。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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