柱の傷あとが上がるついたちの朝
ついたちの朝にだけ、私は疎開してきた四十二人の背を測り、庫裏の柱に小刀で線を入れた。食べるものは減る一方なのに、柱の傷あとはどの子も毎月きっかり三分ずつ上がって…
ついたちの朝にだけ、私は疎開してきた四十二人の背を測り、庫裏の柱に小刀で線を入れた。食べるものは減る一方なのに、柱の傷あとはどの子も毎月きっかり三分ずつ上がって…
断水した町の体育館で、給水の列のいちばん後ろに、その人は青いポリタンクを二つ提げて立っていた。一世帯20リットルまでのはずだ。私は勝手に腹を立てていた。やがて列…
トメはいつも階段の四段目にいた。三段目でも五段目でもなく、その段だけが家でいちばんくたびれている。12年ぶりに実家へ戻った俺は、母が直すなと言い張るその板を、入…
団地の商店棟で37年、鋏だけを握ってきた。妻は3年前から丘の施設にいて、俺を先生と呼ぶ。理容椅子は客が座る前に半回転させる。それがうちの店のやり方だった。壊れた…
海沿いの営業所に入って二年目、私はまだ誰からも名前で呼ばれなかった。誰も乗っていないのに、夕方の便で辻堂前のボタンが鳴る。配線の不良だと思った私に、定年間近の先…
母の鞄には、よく晴れた日にも折りたたみ傘が入っていた。第二日曜だけは用事があると言って、私の誘いはいつも断られた。母が入院した週、財布に残っていた交通系ICカー…
毎月第1火曜の夕方だけ、先生は9本だけ塗らせる客としてやって来た。右手の薬指はいつも「そこはいいから」と折り曲げて、私に触らせない。3年で36回。手の震えで筆を…
夜になると、フクは玄関で一度だけ短く鳴いて出かけていった。前脚の内側を灰色に汚して、朝には帰っている。夜だけ出かける犬の行き先を、私は薄々知っていて、確かめには…
雨の日、片方の肩ベルトが切れたランドセルを抱えた男の子が、父の小さな店に立っていた。ランドセルの修理の代金を、父は一度も受け取らない。ただ甘いだけの人だと思って…
夜勤明けの水曜の朝だけ、私の冷蔵庫から卵がふたつ減る。三年のあいだ、朝ごはんを作りに来る後輩を私は鬱陶しく思っていた。どうせ憐れまれているのだと。彼女が島へ発つ…
夜行バスの中でスマホが光った。『クウの散歩を記録しました 2.4キロ 38分』。もう歩けるはずのない犬の記録が、なぜ今日も届き続けるのか。確かめるためだけに引き…
泣ける話・長編。半島の集落で俺を育てた隣家のトキさんは、渡船に乗らず峠を歩き、いつも俺を右側に立たせた。十五の夏の約束を果たせないまま別れて三十年、廃止される渡…
婚約者の長い療養で結婚式をあきらめた私と、注文の止まったウェディングドレスを十一年間しつけ糸のまま守り続けた仕立て屋の物語。袖口の白い糸に隠されていた約束と、病…
七つで両親に置いていかれた私を、血のつながらない花火師が引き取った泣ける話。五十年ただの一度も名前を呼ばれず、玉名帳にも名簿にも私の名はなかった。その理由は、空…
三つだった姪を自分の娘として育てた紙漉きの女の泣ける話。毎年一枚だけ漉いた売らない透かし紙が、三十年後に娘の手から返ってくる。十月十九日にだけ名を呼ばれなかった…