
俺の仕事場は、港のはずれにある。
潮の匂いが染みついた古い納屋を借りて、朝から晩まで、ひとりガラスと向き合っている。
風鈴を作って、もう三十年になった。
この町は、小さな漁港だ。
夜明け前から、漁を終えた船が、エンジンの音を響かせて戻ってくる。
岸壁には魚の匂いが満ち、女たちの威勢のいい声が飛び交う。
岬の先には、白い灯台が一基、ぽつんと立っている。
海鳥が、その上をぐるぐると舞っては、また沖へ帰っていく。
その喧噪が一段落つく昼下がりが、俺の時間だった。
夏が来ると、納屋の軒先に、ずらりと吊るした風鈴が、海風を受けて一斉に鳴る。
チリン、チリンと、高い音と低い音が重なり合って、誰に聞かせるでもなく鳴っている。
昔は、その音を頼りに、人が集まったものだ。
縁日の前になると、近所の子供らが小銭を握りしめて、どれにしようと頭をつき合わせていた。
けれど、ここ数年は、めっきり客足が遠のいた。
ラジオだの、扇風機だのと、涼を取る道具はいくらでも増えた。
風鈴の音なんぞ、暑さしのぎにもならんと、若い者は笑う。
それでも俺は、毎朝、炉に火を入れる。
溶けたガラスを竿の先に巻き取り、息を吹き込んで、ふくらませる。
赤く透きとおった玉が、すこしずつ冷めて、色を持っていく。
その時間が、俺は好きだった。
女房とは、若い頃、この町の夏祭りで出会った。
屋台のあいだを通り抜ける風に、俺の作った風鈴が鳴っているのを、あれは立ち止まって聞いていた。
「こんな綺麗な音、はじめて聞いた」
そう言って笑った顔を、いまでもよく覚えている。
所帯を持ってからも、女房はよく、軒先を見上げていた。
洗い物の手を止めて、ふっと空を見るのが、あれの癖だった。
「ええ音やねえ」
口癖のように、そうつぶやいていた。
その女房も、三年前の冬、静かに眠るように、いなくなった。
長く患って、最後はずいぶん細くなった手で、俺の手を握っていた。
それからは、この風鈴の音だけが、納屋の相棒だった。
風が鳴るたび、いまでも隣に誰かが立っているような気がする。
振り返れば、誰もいないと、分かっているのに。
その日も、昼を過ぎて、風がだれてきた頃だった。
軒の風鈴が、思い出したように、ひとつ、ふたつと鳴った。
ふと、納屋の入り口に、小さな影が立っているのに気づいた。
逆光のなかで、その影は、じっと動かずに、こちらを見ていた。
その日が、忘れられない夏の、はじまりだった。
※
麦わら帽子をかぶった、小さな男の子だった。
歳の頃は、小学校に上がったばかりだろうか。
色の褪せた半ズボンから、痩せた膝小僧がのぞいている。
男の子は、吊るされた風鈴の列を、じっと見上げていた。
背伸びをして、ガラスの肌に指を近づけては、慌てて引っ込める。
鳴らしてみたいが、壊しては大変だと、思っているらしい。
真剣な、横顔だった。
母の日でもなければ、盆にもまだ間がある。
ひとりで来た子供が、何をこんなに悩んでいるのか。
俺はしばらく、手を止めて、様子を見ていた。
蝉の声が、納屋の屋根の上から、降ってくる。
男の子の額には、玉のような汗が浮いていた。
それでも、帽子のつばの下の目は、真剣そのものだった。
あんまり長いこと立っているので、俺は奥から、冷えた麦茶を持ってきてやった。
「ほら、暑いやろ。飲み」
男の子は、ぺこりと頭を下げて、両手で湯呑みを受け取った。
こくこくと、喉を鳴らして飲み干す。
その律儀な仕草が、なんだか可笑しくて、いとおしかった。
※
なかなか決まらない様子なので、声をかけてみた。
「坊主。誰かに、あげるんか」
男の子は、びくりと肩を震わせて、それから、小さくうなずいた。
「お母ちゃんに」
蚊の鳴くような、声だった。
「お母ちゃん、風鈴が好きなんか」
今度は、こくりと、深くうなずく。
こんないかつい男に話しかけられて、声も出んのだろう。
俺はできるだけ、目尻を下げて、笑ってみせた。
ところが、次に男の子の口から出た言葉に、俺は手にしていた紐を、取り落としそうになった。
「お父ちゃんが、海から、戻らんようになって」
男の子は、ガラスの列を見上げたまま、言った。
「お母ちゃん、夜になると、ようないてるんや」
漁師の町だ。
その一言が、何を指しているのかは、嫌でも分かった。
春先の、ひどい時化だった。
低気圧が居座って、海は何日も荒れ狂った。
沖へ出たまま、戻らぬ人となった男たちが、何人もいた。
岸壁で、いつまでも海を見つめている女たちの姿を、俺も見ていた。
その中に、この子の父親も、いたのだろう。
胸の奥が、ぎゅっと、締めつけられた。
「そうか…。お母ちゃん、寂しいんやな」
笑顔を作るのが、だんだん、難しくなってきた。
※
ぽつぽつと話を聞くうちに、すこしずつ、事情が分かってきた。
父親は、大きな手をした、よく笑う人だったという。
船から帰ると、いつも潮の匂いをさせて、男の子を高い高いしてくれたそうだ。
風呂に入りながら、調子っぱずれの歌を、よく歌っていたという。
その人が、長いこと、帰らないこと。
母親が、人のいないところで、肩を震わせていること。
昼間は気丈に笑っているのに、夜になると、布団のなかで声を殺していること。
男の子は、それを、襖の隙間から、見ていたのだという。
「ぼく、お母ちゃんを、笑わせたいんや」
そう言って、唇を、きゅっと結んだ。
その小さな肩には、ずいぶんと大きなものが、のっていた。
父のいなくなった家で、この子は、母を支えようとしている。
まだ、甘えたい盛りだろうに。
自分のさみしさは、奥のほうへ、押し込めて。
俺は、かける言葉を、探した。
けれど、どんな言葉も、薄っぺらく思えて、出てこなかった。
どうしたら母を元気にできるか、祖母にたずねたこと。
すると祖母は、こう言ったのだそうだ。
「お父ちゃんはな、海の風になって、いつもそばにおる」
「その風の鳴る音を、聞かせてあげなさい」
だから男の子は、なけなしの小遣いを握って、風鈴を買いに来たのだ。
ひと夏ぶんの小遣いだろう。
湿った手のひらの上で、十円玉が何枚か、鈍く光っていた。
俺はたまらなくなって、奥の作業台に、駆け込んだ。
しゃがみ込んで、手の甲で、目元を乱暴にこすった。
頬を両手で、ぱんと叩いて、気合いを入れ直す。
こんな小さな背中に、世界の重さを背負わせては、いけない。
せめて、いちばんいい音のする風鈴を、選んでやろうと思った。
※
「どれが、ええかな。お母ちゃん、どんな音が好きやろなあ」
男の子は、列の端にある、ひとつを指さした。
淡い水色のガラスに、白い波の模様が入った風鈴だった。
「これがええ」
「ええ目えしとるなあ。これは、よう通る音がするんや」
指で、軽く弾いてやる。
チリーンと、澄んだ音が、納屋の天井まで伸びていった。
男の子の顔が、ぱっと、明るくなった。
短冊をつけてやろうと、引き出しを開けた。
そのとき、奥のほうで、小さな風鈴がひとつ、転がっているのに目がとまった。
親指の先ほどしかない、豆粒みたいな風鈴だ。
何年か前、女房に頼まれて作った、たったひとつきりの試作だった。
あの年の春、軒下に、雀の巣があった。
巣から落ちかけた小さな雛を、女房が両手で、そっと戻してやったことがあった。
「あんな小さな体で、一生懸命生きとるんやねえ」
そう言って、しばらく巣を見上げていた。
「ねえ、あの雛みたいに、ちっちゃい風鈴、作れる?」
無茶を言う、と笑いながら、俺は一晩かけて、豆粒ほどの風鈴を吹いた。
「こんな可愛らしいの、きっと喜ぶ人がおるよ」
女房は、それを手のひらに乗せて、子供みたいに笑っていた。
けれど、結局それは、誰の手にも渡らなかった。
売り物にするには小さすぎて、ずっと引き出しの隅で、眠っていた。
女房がいなくなってからは、なおさら、手に取る気にも、なれなかった。
俺はそれを、そっと、手のひらに乗せた。
小さなガラスは、薄い水色をしていた。
海の上を渡る、千鳥の羽の色に、似ていた。
「坊主。これも、一緒に持っていき」
男の子は、目を、まんまるにした。
「ええの…? お金、これしかないんや」
「金はええ。これはな、売りもんやないんや」
短冊の代わりに、小さな紙を、結びつけた。
筆をとって、ひらがなで、こう書いた。
「はやく、げんきに、なりますように」
墨が乾くのを待つあいだ、ふと思いついて、男の子に名前をたずねた。
「みのる」と、はにかみながら答えた。
「みのるくんより、って書いとこな」
男の子は、嬉しそうに、何度もうなずいた。
「この小さいのはな、豆千鳥っていう名前やねん」
「海の上をな、ちっちゃい体で、何百里も渡る、強い鳥や」
「どんな時化の日でも、ちゃあんと、巣に帰ってくるんやで」
「迷子になっても、風の匂いを頼りに、大事な人のとこへ、戻ってくるんや」
男の子は、じっと、俺の話に聞き入っていた。
その目が、きらきらと、光っていた。
男の子は、豆千鳥を、そっと両手で包んだ。
まるで、生きた小鳥でも、預かるみたいに。
「ありがとう、おっちゃん」
さっきよりずっと、ええ顔で、笑った。
その笑顔は、軒先のどの風鈴よりも、明るく光って見えた。
「気いつけて帰りや。バイバイ」
男の子は、駆け出しかけて、くるりと振り返った。
そして、深々と、頭を下げた。
小さな体が、きちんと腰を折って、お辞儀をする。
その姿を見たとき、俺はもう、こらえきれなかった。
どしゃ降りの雨のように、涙が溢れて、止まらなくなった。
もっと、ほかに言ってやれることは、なかったか。
してやれることは、なかったか。
そんな時に限って、何も、出てこない。
遠ざかっていく小さな背中を、俺はただ、見送ることしか、できなかった。
※
その夜、俺は珍しく、仕事が手につかなかった。
炉の火を落として、奥の部屋に、あがる。
小さな仏壇の前に座って、線香を一本、立てた。
位牌のとなりには、女房の写真がある。
祭りの日に撮った、笑った顔だ。
「今日な、面白い客が来たんや」
俺は、写真に向かって、ぽつりと話しかけた。
「ちっこい坊主が、ひとりで、風鈴を買いに来てな」
返事は、ない。
線香の煙が、ゆらゆらと、天井へのぼっていくだけだ。
「あの豆千鳥な。とうとう、もらい手が、見つかったわ」
そう言ったとき、なぜだか、目の奥が熱くなった。
女房がいなくなってから、俺はずっと、何かを誰かに渡すことを、やめていた。
風鈴を作っても、それは惰性で、炉の火を絶やさないためだけのものだった。
音は鳴っても、その先に、渡す相手がいなかった。
けれど、あの小さな手のひらに、豆千鳥を乗せたとき。
久しぶりに、この仕事をしていてよかったと、心の底から、思ったのだ。
「あんたの言うたとおりやったな」
喜ぶ人が、ちゃんと、おった。
窓の外で、軒の風鈴が、ひとつ、鳴った。
まるで、相づちでも打つように。
※
それから、半月ほどが過ぎた。
蝉の声が、いちだんと、やかましくなった昼下がりのことだ。
納屋の入り口に、三つの影が立った。
みのる君と、若い母親と、腰の曲がった祖母だった。
母親は、深く、頭を下げた。
「先日は、この子が…。ほんとうに、ありがとうございました」
目のふちが、まだ、すこし赤い。
けれど、その顔には、やわらかな張りが、戻っていた。
みのる君は、母の手をしっかり握って、にこにこしている。
「あのね、おっちゃん。豆千鳥、お母ちゃんの枕元で、鳴っとるよ」
「そうか。そら、よかった」
「あの晩、この子が、枕元に豆千鳥を吊るしてくれたんです」
母親が、静かに、口を開いた。
「夜中にふと目が覚めたら、ちりん、と、小さな音がして」
「それから、すこしずつ、夜が、こわくなくなりました」
「朝ごはんも、また三人で、食べられるようになって」
みのる君が、得意げに、胸を張る。
その顔を見て、母親も、ふっと笑った。
母親は、風呂敷包みから、何かを大事そうに、取り出した。
見覚えのある、古い風鈴だった。
淡い水色のガラスに、白い波の模様。
ずいぶん前に、俺がこの手で作ったものに、間違いなかった。
「これ…、主人のものなんです」
母親は、声を詰まらせながら、言った。
「船に乗る前に、ここで買うたんやと」
「お守り代わりに、いつも舳先に、吊るしてたて」
俺は、言葉を、失った。
あの男だったか、と思った。
何年か前の、よく晴れた朝のことだ。
日に焼けた若い漁師が、ふらりと納屋に入ってきた。
これから初めて、自分の船を持つのだと、誇らしげに言っていた。
「縁起もんに、ひとつ欲しいんや」
そう言って、波模様の風鈴を、丁寧に選んでいった。
「いちばん、ええ音のするやつを」と、白い歯を見せて笑っていた。
「大漁旗あげて、嬶あ驚かせたるんや」
そんなことを言って、照れ臭そうに、頭をかいていた。
風鈴を包んでやると、まるで宝物みたいに、両手で受け取った。
「これで、しけの日も、家のことを思い出せるわ」
そう言って、白い歯を見せて、笑っていた。
あの音が、この家の舳先で、何年も鳴っていたのか。
荒波の上でも、凪の朝でも、ずっと家族を見守っていたのか。
その同じガラスを、いま、残された家族が、抱えている。
「時化のあと、船は戻りましたけど」
母親は、風鈴を、そっと撫でた。
「この風鈴だけは、海の音に紛れて、もう鳴らんようになってしもて」
「あの音は、二度と戻ってこんと、思てました」
みのる君が、母を見上げて、言った。
「でも、豆千鳥が鳴ってるやろ」
「お父ちゃん、風になって、そばにおるんやて」
母親の目から、つうっと、一筋こぼれた。
けれど、それは、もう、夜にひとりで流す涙では、なかった。
「この子に、教えられました」
祖母が、みのる君の頭を、そっと撫でた。
風が、納屋を、吹き抜けた。
軒先の風鈴が、いっせいに、鳴った。
その中に、ひときわ高く、澄んだ音が、まじった気がした。
豆千鳥の音だ、と思った。
海の上を、小さな体で渡っていく、あの鳥の声のような。
舳先で黙ってしまったはずの音が、いま、この家に、たしかに戻っていた。
※
三人が帰ったあと、納屋には、また、俺ひとりが残された。
けれど、不思議と、寂しさはなかった。
引き出しの隅で、ずっと眠っていた、たったひとつの豆千鳥。
あれは、誰かのために鳴る日を、待っていたのかもしれない。
「喜ぶ人がおる」と女房が言ったのは、こういうことだったのか。
いまになって、ようやく、その意味が、分かった気がした。
俺は、炉に、新しい火を入れた。
竿の先に、ガラスを巻き取る。
息を吹き込むと、赤い玉が、ふっと、ふくらんだ。
豆粒みたいな風鈴を、もうひとつ、作ってみようと思った。
いや、ひとつと言わず、いくつも。
海のそばには、まだ、音を待っている人が、きっといる。
夜にひとりで肩を震わせている人が、この町には、まだ大勢いる。
そのひとりひとりの枕元に、小さな音を、届けられたら。
窓の外では、夕暮れの風が、また、軒先を撫でていった。
チリン、と、どこかで小さな音がした。
「ええ音やねえ」
隣で、女房がそう言ったような気が、たしかにした。
俺は、ガラスに、もう一度、ゆっくりと息を吹き込んだ。
それは、もう、ひとりぼっちの音では、なかった。