峠の地蔵と金平糖

朝焼けの静けさと祈り

峠の朝は、いつも湯が沸く音から始まる。

鉄瓶の底がふつふつと小さく鳴り出すころ、東の杉山の向こうが、ほんのりと白んでくる。

私はその白さを合図に、表の縁台に、すり切れた毛氈を敷いていく。

母がやっていた通りに、毎朝、同じ手つきで、同じ順番で。

ここは、山をひとつ越えた先の村へと続く、古い峠道の途中にある、小さな茶屋だ。

昔は、炭を担いだ人や、荷を背負った馬が、ひっきりなしにこの坂を上り下りしたと聞いている。

けれど、麓に新しい車道が通ってからというもの、わざわざこの石段を上ってくる人は、めっきり減ってしまった。

それでも私は、母がのこしてくれた竈の火を、絶やさずにいる。

草餅を蒸す湯気の匂い、番茶の渋い香り、軒先に吊るした干し柿の甘いにおい。

このどれかひとつでも欠けてしまったら、この場所が、ただの古い小屋になってしまう気がするのだ。

母は、この峠でいちばんの働き者だった。

客が一人も来ない日でも、「いつ誰が上ってくるか分からんからね」と言って、朝から晩まで湯をたぎらせていた。

その母が、半年前の春の朝、床に就いたまま、眠るように、静かに向こうへ渡った。

最期まで、「店を頼んだよ」とは、ついぞ言わなかった。

ただ、私の手をきゅっと握って、安心したように、目を閉じただけだった。

茶屋なんぞ畳んでしまえばいい、若いんだから麓で働けばいい、と村の人は気遣って言ってくれた。

けれど、この火を落としてしまったら、私の中にまだ残っている母まで、一緒に消えてしまう気がした。

だから私は、誰も上ってこない朝でも、たったひとりで、湯を沸かし続けている。

湯気の向こうに、まだ母の背中があるような気がして。

母は、客のいない雨の日には、よく私に、峠を越えていった人たちの話をしてくれた。

「人はみんな、何かを背負って、この坂を上ってくるんだよ」と、母は言った。

「だからね、湯のひとつも、温こうしておいてあげるのさ」

その言葉の本当の意味を、私が知るのは、もう少し先のことだった。

——その朝も、客が来るには、まだずいぶんと早い時分だった。

霧の底のほうから、こつ、こつ、と、下駄の音が、ゆっくりと上ってきた。

白い靄を分けるようにして現れたのは、小さく丸い背中の、ひとりのおばあさんだった。

色の褪せた紺の手拭いを姉さん被りにして、片方の手に、これも色あせた巾着を、大事そうに提げている。

「すまんがのう。ひと休み、させてもらえんかのう」

しわがれて、それでいて、どこか歌うように柔らかな声だった。

私はあわてて竈に向き直り、いちばん熱い湯呑みに番茶を満たして、両手で差し出した。

おばあさんは縁台に腰を下ろすと、ふう、と、長い長い息をついた。

「峠の上のお地蔵さんに、ちょっとばかし、用があってのう」

毎朝この坂を上って、てっぺんに立っているお地蔵さんまで行くのだと、おばあさんは言った。

「この腰がこんなじゃで、ここまで来ると、いっぺん休まんと、もう足が言うことをきいてくれんのじゃ」

番茶をすするその両手の甲は、長く土を触ってきた人の手らしく、木の根のように節くれだっていた。

湯呑みを包むようにして持つと、おばあさんは、ほうっと肩の力を抜いて、嬉しそうに目を細めた。

その時、ふと、膝の上に置かれた巾着の口から、小さな色が覗いているのに気づいた。

赤、黄、それから、うっすらとした青。

角の立った、小さな小さな粒が、いくつも身を寄せ合っている。

「それ、金平糖、ですか」

「おや、よう分かったのう」

おばあさんは巾着の口をほんの少しだけ開いて、私のほうへ、そっと傾けて見せてくれた。

朝のいちばん早い光の中で、その粒たちは、まるで誰かが空から零した、小さな星の欠片のように光っていた。

「きれいですね」

「じゃろう。わしも、この色が、昔っからいちばん好きでのう」

いったい、誰のための金平糖なのだろう、と思った。

聞いてみたい気もしたけれど、なんとなく、それは聞いてはいけないことのような気がして、私はそっと口をつぐんだ。

おばあさんは湯を飲み終えると、よっこらしょ、と、声に出して腰を上げた。

「ごちそうさん。茶代はここに置いとくでな。明日も、寄らせてもろうてええかのう」

「もちろんです。待ってますね」

石段をゆっくりと上っていく丸い背中を、私は、霧に溶けて見えなくなるまで、ずっと見送っていた。

次の日も、その次の日も、こつこつという下駄の音は、霧の中から律儀に上ってきた。

おばあさんの名は、ハルさんといった。

私たちは、湯がほどよく冷めるまでの、ほんの短いあいだに、いろんな話をするようになった。

ハルさんの若かった時分のこと、嫁いできた村の祭りのこと、畑の野菜のこと、そして、私の母のこと。

「あんたのおっ母さんの草餅は、そりゃあもう、峠じゅうで評判じゃったのう」

母を知る人の口から、ふいに母の話が零れるたび、私の胸の奥が、じんと、温かく濡れた。

「あんた、毎朝ひとりで、寂しゅうはないかね」

ある朝、ハルさんはそう言って、私の手の甲を、節くれだった指で、とん、とん、と軽く叩いた。

「……寂しい、です」と、私は、つい正直に答えてしまった。

母が向こうへ渡ってから、その言葉を、誰かに言えたのは、初めてだった。

「そうかい。そうじゃろうなあ」

ハルさんは、慰めるでも、励ますでもなく、ただ、うんうん、と深く頷いてくれた。

「でもなあ、こんな誰も来やせん峠で、火を絶やさんでおる娘は、ええ娘じゃ」

「おっ母さんも、きっと、どっかで見とってくれとるでな」

その言葉に、私はうつむいて、しばらく、顔を上げることができなかった。

別れぎわ、ハルさんは巾着から金平糖をふた粒つまんで、私の手のひらにのせてくれた。

「ひとりの朝に、甘いもんは効くんじゃよ」

うす青の一粒を口に含むと、舌の上で、ゆっくりと角がほどけて、優しい甘さが広がった。

気づけば私は、夜が明けきらないうちに目を覚まし、石段の下に、そっと耳を澄ますようになっていた。

こつ、こつ、という、あの下駄の音を、いつのまにか、心待ちにしている自分がいた。

夏が過ぎ、軒に吊るした干し柿が飴色に変わるころになっても、ハルさんは変わらず、この峠を上ってきた。

ある朝は、草餅にいれる蓬の、いちばん柔らかい芽の摘み方を、ハルさんが教えてくれた。

「あんたのおっ母さんはな、いつも、てっぺんの柔いとこだけを、丁寧に摘んどったよ」

母の手つきが、ハルさんの皺だらけの指の上に、ふと、重なって見えた気がした。

「あんたも、いつか、ええ人を見つけなされ」と、ハルさんは、湯呑みを置きながら言った。

「わしらの歳になるとなあ、大事な人と過ごした時間だけが、ほんとうの宝になるんよ」

私は、母と並んで竈の前に座った、あの何でもない朝々を思い出して、こくりと頷いた。

ハルさんは腰が痛むと言いながらも、ただの一日も欠かさずに、この峠を上り続けた。

ある朝などは、夜明け前から、雨が糸を引くように、しとしとと降っていた。

こんな日はさすがに来ないだろうと思っていたのに、霧雨の向こうから、いつもの下駄の音が、確かに聞こえてきた。

「ハルさん、こんな日くらい、休んだらええのに」

「休んだら、向こうが、寂しがるでのう」

向こう、というのが、峠の上のお地蔵さんのことだと、その時の私は、まだ、そう思い込んでいた。

私は店の番傘をハルさんに持たせ、足元が滑ると危ないからと、てっぺんまで付き添って上がった。

雨に濡れたお地蔵さんは、緑の苔の衣をまとって、霧の中に、ぽつんと立っていた。

ハルさんはその前にしゃがみ込むと、巾着の中から、金平糖を、ほんのひと粒だけ、そっとつまみ出した。

そして、台石の上に、それを、この世でいちばんの宝物みたいに、指の先で、そうっと置いた。

たったの、ひと粒を。

それから、節くれだった両手を胸の前で合わせ、何かを、ごく小さな声で囁いた。

雨の音にまぎれて、その言葉までは、私には、どうしても聞き取れなかった。

帰り道、ひとつの傘の中で肩を寄せながら、ハルさんは、ぽつりと言った。

「あんたがおってくれると、この峠が、ちっとも遠うないわ」

そのひと言が、なぜだか、いつまでも、私の胸の底のほうに残った。

けれど、そんな穏やかな朝の繰り返しは、ある日、何の前ぶれもなく、ふいに途切れた。

こつこつと、霧の中から上ってくるはずの下駄の音が、ぱたりと、聞こえなくなったのだ。

私は毎朝、いつもより早く縁台を整え、湯を沸かし、石段の下に立ちこめる霧を、じっと見つめた。

霧が晴れても、雨が上がっても、ハルさんの丸い背中は、もう、上ってこなかった。

湯呑みをひとつ、余分に温めては、それが、誰の手にも触れられないまま、ゆっくりと冷めていくのを、ただ見ているだけの朝が、続いた。

母を見送ったあの春の朝と、よく似た匂いの空気が、峠の上を、静かに流れていた。

何かあったのではないか、と思っても、私はハルさんの家がどこにあるのかさえ、知らなかった。

毎朝、短い時間をともに過ごしながら、私は、いちばん大事なことを、何ひとつ尋ねていなかったのだ。

温めた湯呑みを片づけるたび、その軽さが、やけに手のひらに残った。

何日かが過ぎたある朝、こつこつ、ではなく、しっかりとした足音で石段を上ってきたのは、見知らぬ中年の女の人だった。

「もし。この茶屋の、娘さんというのは、あんたかね」

私が頷くと、その人は、しゃんと背を伸ばしてから、深々と頭を下げた。

「わたくし、ハルの、嫁でございます」

ハルさんが、ひと月ほど前から、床に就いているのだという。

「ここのお茶屋の娘さんに会いたい、会いたいと、義母が、もう、そればかり申すもんで」

私は、前掛けを外すのももどかしく、竈の火だけをそっと落として、その人の後について、霧の中の山を下りた。

ハルさんの家は、村のいちばん外れの、大きな柿の木のある、古い茅葺きの家だった。

通された奥の間に、ハルさんは、白い布団の中で、驚くほど小さく横たわっていた。

ひと月ほど会わないうちに、頬はすっかり落ち、布団のふくらみが、見ているのが辛いほど、薄くなっていた。

私は枕元に膝をつき、布団から覗いたその手を、両手で、そっと包んだ。

あの、木の根のようだった手は、今はもう、すっかり軽くて、指先から、冷たくなりかけていた。

「……ああ。茶屋の、娘さんかい」

ハルさんは、うっすらと目を開けて、ふ、と、いつものように笑った。

「会いとうて、なあ。ずっと、会いとうてなあ」

「私も、会いたかったです。毎朝、待ってたんですよ」

言葉にしたとたん、ずっとこらえていたものが、ぼろぼろと、頬を伝って落ちていった。

ハルさんは、痩せた指で、枕元に置かれた巾着を、ゆっくりと、私のほうへ押しやった。

あの、見慣れた、色あせた巾着だった。

「あんたに、ひとつだけ、聞いてほしい話が、あってのう」

——そうしてハルさんは、長いあいだ、誰にも語らずに胸の底にしまっていた話を、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。

昔、まだ村が、うんと貧しかったころ。

ハルさんには、男の子が、ひとりだけ、いたのだという。

名を、たけし、といった。

「甘いもんが、そりゃあもう、好きで好きでたまらん子でのう」

村にひとつだけあった小さな店先で、たけしは、硝子の瓶に入った色とりどりの金平糖を、いつまでも、飽きずに眺めていたのだという。

「『かあちゃん、あの星みたいなやつ、ひとつでええから』ってなあ」

けれど、その子は、七つの夏、高い熱を出して、そのまま、ふっと、目を覚まさなかった。

戦のあとの、薬も、満足な医者も、村にはなかった時分のことだった。

「腹いっぱい、好きな甘いもんを、食べさせてやることが、どうしても、できんかった」

「それが、わしの、五十年の、いっとうの悔いでのう」

峠のてっぺんにあるお地蔵さんは、たけしが、この世でいちばん好きだった場所なのだという。

よく晴れた日には、手を引いてそこまで上り、二人で並んで、麓の村を飽きるほど見下ろしたのだと。

だからハルさんは、あの子が向こうへ渡ってからずっと、毎朝この坂を上り、お地蔵さんの台石に、金平糖をひと粒、供え続けてきた。

「あの子が、あっちで、ひもじい思いをせんように」

「『たけちゃん、おはよう。今日もええ天気じゃよ』と、ひと声だけ、かけてやりとうてのう」

私は、声も出せずに、ただただ、泣いた。

ハルさんが、毎朝あの坂を上っていたのは、ただの峠などでは、なかったのだ。

あれは、七つのままで止まってしまったたけしに、毎朝、会いに行くための、母の道だった。

「五十年、ただの一日も、欠かしたことはない」

「あの子の好きなあの色を、切らしたことだけは、一度も、ないんよ」

ハルさんの声は、糸のように細かったけれど、そのひと言ひと言は、不思議なほど、はっきりとしていた。

「子に先立たれた親の悔いだけはなあ、何年経っても、ちっとも古びんものでのう」

枕元の小さな窓から差し込む朝の光が、ハルさんの白い髪を、淡く、淡く照らしていた。

襖の陰で、お嫁さんが、そっと目頭を押さえているのが見えた。

ハルさんは、そう言い切ると、長い荷を下ろしたように、安心した顔で、また静かに、目を閉じた。

ハルさんは、それから二日して、眠るように、向こうへ渡った。

知らせを聞いて駆けつけた時には、もう、たけしのもとへ着いたあとのような、穏やかな顔で、目を閉じていた。

枕元には、あの色あせた巾着が、きちんと口を結ばれて、置かれていた。

お嫁さんが、「これは、あんたに、と」と言って、それを、私の手のひらに、そっと握らせてくれた。

私はいま、毎朝、あの峠を上っている。

湯を沸かし、縁台を整えたあとで、巾着を提げ、こつこつと、自分の下駄で石段を踏みしめる。

てっぺんのお地蔵さんの前にしゃがみ、金平糖を、ひと粒、台石の上に、そっと置く。

赤、黄、うす青——朝のいちばん早い光が、その小さな粒を、やっぱり、星みたいに光らせる。

「たけちゃん、おはよう」

「ハルさん、今日も、ええ天気じゃよ」

いつのまにか、峠の金平糖は、私の朝の、なくてはならない一部になっていた。

あの日、巾着の底に残っていたのは、角の欠けた金平糖が、たったひと粒だけだった。

あの子の、あの朝のぶんを、ハルさんは、まだ、渡せずにいたのだ。

だから、その最後のひと粒だけは、私が、ハルさんの代わりに、渡しにいくと決めた。

母の竈の火を、絶やさずにきたように。

ハルさんの、五十年の母の道を、ここで、絶やしてしまわないように。

下りの石段で、ふと振り返ると、お地蔵さんの足元の小さな粒が、朝陽を受けて、きらりと瞬いた。

まるで、誰かが、ありがとう、と返してくれたみたいに。

霧が晴れて、峠の向こうから陽が差してくると、お地蔵さんの丸い肩が、ほんのりと、温かい色に染まる。

その温もりの真ん中に、甘いもの好きの小さな男の子と、丸い背中のおばあさんが、ふたり並んで笑っている。

そんな気が、毎朝、するのだ。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。