
「撮らないでください」
それが、あの人が写真館の敷居をまたいで、最初に口にした言葉だった。
客が暖簾をくぐって、まず言うような台詞ではない。
俺は黒い布を頭からかぶったまま、すりガラスの向こうにぼんやり立つその人の影を、しばらく見ていた。
昭和四十年代のはじめ、雪の深い北国の城下町でのことだ。
父から継いだ小さな写真館は、お濠端の、武家屋敷の石垣が崩れかけた通りの角にあった。
冬になると、軒からさがった氷柱が、午後の光を吸って飴色に光った。
父は腕のいい写真師だったが、無口で、撮ることのほかは何も俺に教えなかった。
遺してくれたのは、古い蛇腹のカメラと、現像液の匂いの染みついた暗室と、それから、客の減っていく一軒の店だけだった。
テレビが各家に入りはじめた頃で、町の者はもう、わざわざ晴れ着で写真館へ来たりはしなくなっていた。
七五三の季節でさえ、撮影の予約は数えるほどしか入らなかった。
俺は二十四で、自分の腕にも、この先にも、たいした自信を持てずにいた。
暗室の赤い灯りの下で、現れてくる像をじっと待つあいだだけ、俺はかろうじて、父の息子でいられる気がした。
朝はまず、ガラス戸を磨くことから一日が始まった。
父がそうしていたように、息で曇らせては、古い手ぬぐいで拭き上げる。
硝子が澄むと、お濠の水面の照り返しが、店の奥まで光を運んできた。
店の壁には、父が撮った町の人々の写真が、額の中で静かに色褪せていた。
祝言の花嫁、初孫を抱いた老人、出征する若者——みな、どこか誇らしげな顔をしていた。
その顔ぶれの半分は、もうこの町にはいない人たちだった。
その人——雪江さんは、隣町の呉服屋で針を持つ、仕立ての女だった。
俺より三つ年上で、年季の入った指先には、いつも小さな絆創膏が巻かれていた。
店の若旦那の見合い写真の付き添いで来たのが、はじまりだったと思う。
付き添いのはずの雪江さんのほうが、俺にはよほど絵になって見えた。
雪あかりの差すガラス戸のそばで、ほつれた糸を指で巻きとっているその横顔。
その静けさを、俺は思わずレンズの中に収めたくなった。
だがファインダーを向けたとたん、彼女はすっと顔を伏せて、「撮らないでください」と、もう一度言ったのだ。
「私は、写真には向かない女ですから」
そう言って、彼女は笑った。
困ったような、それでいて、こちらが何か悪いことをしたような、不思議な笑い方だった。
その笑顔の奥に、薄い硝子のような壁があることに、俺はまだ気づいていなかった。
※
それから雪江さんは、ときどき写真館に顔を出すようになった。
客としてではない。
ほつれた暗室の暗幕を縫い直してくれたり、色の褪せた看板の布を仕立て替えてくれたり、そういう用事をこしらえては、ふらりと現れた。
針を持たせれば、町じゅうにその人ありと言われた腕だった。
俺の擦り切れた仕事着の肘に、いつのまにか同じ色の布が、わからないほど丁寧に当ててあったこともある。
「写真は撮らせてくれないのに、俺の繕いものはしてくれるんですね」
そう言うと、雪江さんは少しだけ目を伏せた。
「繕うのは、得意なんです。隠すのも、ね」
その言葉の後ろにあるものに、俺はその頃まだ気づいていなかった。
雪のやんだ日には、二人で暗室に並んで立った。
俺が撮った城下の景色が、薬液の中でゆっくりと浮かび上がってくるのを、彼女は息をひそめて見つめていた。
「なんだか、過ぎた時間が、もう一度生まれてくるみたいですね」
そう呟いた横顔を、俺は今でもよく覚えている。
現像液の酸っぱい匂いと、彼女の髪からふわりと立つ、椿油のかすかな香り。
その二つが混じり合った空気を、俺は一生分、あの暗室で吸い込んだ気がする。
二人で居る時間が増えても、彼女は決して、自分の写真を撮らせようとはしなかった。
祭りの日も、雪の晴れた朝も、俺がカメラを持ち出すと、そのたびに背を向けて、袂で顔を隠した。
「いつか、ちゃんと撮ってください。私が、私でいられるときに」
その「いつか」が、いつのことなのか、俺には尋ねられなかった。
季節がめぐって、俺たちは、誰の目にも恋仲とわかる仲になっていた。
夕暮れのお濠端を、肩を並べて歩いた。
水面に映る城の影が、ゆらゆらと崩れては、また形を取り戻すのを、二人で飽きずに眺めた。
ある雪の夜、彼女は風呂敷包みを抱えて、店へやってきた。
中から出てきたのは、私の母の形見の、古い銘仙の着物だった。
父が簞笥の奥にしまい込んだまま、虫に食われかけていたものだ。
俺がいつか暗室の隅で広げていたのを、彼女は見ていたらしい。
「直しておきました。いつか、奥さまになる人に、譲ってあげてください」
色の褪せた布地が、見違えるように甦っていた。
継ぎ目はどこにも見当たらず、まるで、ほどけてしまった時間そのものを、縫い直したかのようだった。
俺は、礼を言うのも忘れて、その着物を抱えたまま立ち尽くした。
「あなたは、過ぎたものを、もう一度よみがえらせる人ですね」
そう言うと、雪江さんは、めずらしく頬を染めた。
「写真師さんだって、同じでしょう」
近所の赤ん坊の宮参りを撮った日のことも、よく覚えている。
火がついたように泣く赤ん坊を、雪江さんがあやすと、嘘のように泣きやんだ。
その手つきの優しさに、俺は、ふと尋ねた。
「子どもが、好きなんだな」
彼女は、一瞬だけ、ひどく遠い目をした。
「ええ。……縁のないものほど、愛おしいものでしょう」
その横顔に差した影の意味を、その頃の俺は、深く考えようとしなかった。
雪の降りやまない晩、彼女が店に遅くまで残ったことがあった。
火鉢の炭が、ときおり、ぱちりと小さくはぜた。
俺は思いきって、所帯を持たないか、と切り出した。
雪江さんは、針を動かす手を止めて、長いあいだ、赤い火を見つめていた。
「私は、あなたの隣に並ぶには、欠けたところのある女なんです」
「欠けてなんか、いない」
「いいえ。あなたには、まだ、見えていないだけ」
その声があまりに静かで、俺は、それ以上、何も言えなかった。
今思えば、あれが、彼女が真実に、いちばん近づいた夜だった。
だが俺は、その手前で、また自分から、扉を閉めてしまった。
けれど雪江さんは、ある一線から先へは、どうしても俺を入らせてくれなかった。
そっと肩を抱こうとすると、やわらかく、けれど決して譲らない力で、俺の手をほどいた。
「ごめんなさい。それだけは、堪忍してください」
いつも、同じ言葉だった。
俺は若く、その理由を考えるより先に、拒まれたという事実のほうに、ただ腹を立てた。
愛されていないのではないか——そんな浅い疑いを、勝手に膨らませていた。
本当は、その逆だったというのに。
※
その冬、町の写真館に、思いがけず仕事が舞い込んだ。
県の観光案内の冊子に載せる、城下の風物を撮ってくれという依頼だった。
潰れかけた店にとっては、喉から手が出るほどありがたい話だった。
案内役についたのは、料理屋の若い娘で、はきはきとよく笑う、写真映りのいい人だった。
俺はその娘を、雪の城を背にして、何枚も撮った。
レンズを向ければ、惜しげもなく正面から笑ってみせる。
撮らせてくれる人を撮るのは、いっそ、気が楽だった。
だが、暗室でその娘の写真を現像しながら、俺は妙な物足りなさを覚えていた。
よく写っているのに、像が薬液から浮かび上がっても、胸の奥には何も残らない。
撮らせてもくれない雪江さんの、あの伏せた横顔のほうが、よほど深く、俺の中に焼き付いていた。
その理由を、俺はわざと、考えないようにしていた。
あの娘との写真が冊子に載ると、店には、少しだけ客が戻ってきた。
皮肉な話だ。
俺がいちばん撮りたかった人を遠ざけた写真が、潰れかけの店を、救ったのだから。
その娘と並んで城下を歩く姿を、町の誰かが雪江さんに告げ口したらしい。
俺は、半ば腹いせのような気持ちで、その噂を否定しなかった。
撮らせてもくれない人より、笑ってレンズを向かせてくれる人のほうがいい——そんな、子供じみた当てつけだった。
雪江さんは、何も言わなかった。
責めもしなければ、泣きもしなかった。
ただ、いつもより少し長く俺の顔を見て、それから、いつもの困ったような笑みを浮かべただけだった。
「あなたが笑っていられるなら、それでいいんです」
その声が、ひどく静かだったことを、俺はずっとあとになって思い知ることになる。
静けさには、二種類ある。
何も思っていない静けさと、すべてを呑み込んだ末の静けさと。
あの日の彼女のそれが、後者だったのだと、当時の俺には見抜けなかった。
※
年が明けて、雪江さんから一通の手紙が届いた。
几帳面な、針目のようにそろった字だった。
『好きな人ができました。だから、もう会わないでください』
たった、それだけが書いてあった。
こんなものか、と俺は思った。
撮らせてもくれない女に、いつまでも振り回される筋合いはない——そう自分に言い聞かせて、俺は手紙を引き出しの奥に放り込んだ。
その晩、なぜだか妙に寒くて、布団の中で何度も寝返りを打った。
こうして俺たちは、呆気なく終わった。
少なくとも、その時の俺は、そう思い込もうとしていた。
※
梅の咲く頃、雪江さんの妹に、通りで呼び止められた。
妹の光子さんは、俺の小学校からの同級生で、姉とは似ても似つかぬ、気の強い人だった。
その光子さんが、俺の顔を見るなり、唇を噛んで、しばらく何も言えずにいた。
「姉には、口止めされてるんだけど……」
そう前置きして、彼女が話したことは、俺の足元を、音もなく崩していった。
雪江さんは、もう何年も前から、胸を患っていたのだという。
一度は治ったように見えたが、その時に、体の一部を手術で失っていた。
それが、彼女が決して自分の姿を見せようとしなかった、本当の理由だった。
写真を撮らせなかったのも、肩を抱かせなかったのも、ぜんぶ、そのためだった。
繕うのも、隠すのも得意だと、あの人は笑っていた。
自分の体の傷さえ、誰にも気づかせまいと、ずっと繕い続けていたのだ。
そして昨年の暮れ、その病はまた、彼女の中で目を覚ましていた。
今は、町外れの療養所で、静かに横になっているのだという。
「好きな人ができた、なんて、真っ赤な嘘よ」
光子さんは、声を震わせた。
「姉さんは、最後まであんたのことが好きで、あんたに、自分の弱っていく姿を見られたくなかっただけ」
「あんたと一緒にいた頃が、いちばん幸せそうだった。私、ずっと見てたもの」
「だから、笑って身を引いたの。あんたが、笑っていられるように」
光子さんは、袂から、折りたたんだ古い紙切れを取り出した。
姉が嫁入り前に、夢を書き留めておいたものだという。
そこには、少女のようなたどたどしい字で、こう書かれていた。
『いつか、好きな人に、いちばんいい顔を撮ってもらう』
その、たったひとつのささやかな願いを、彼女は、自分から手放していたのだ。
俺という写真師に出会ったがために。
梅の匂いが、やけに濃く感じられた。
俺は、その場で動けなくなった。
自分のしてきたことの一つ一つが、刃になって、胸の内側を裏返しにしていった。
撮らせてくれない、と腹を立てていた俺は、その裏で、あの人がどれだけ俺を守っていたかを、何ひとつ知らなかった。
※
療養所の場所を聞いて、俺は雪の残る道を、息が切れるまで駆けた。
病室の戸を引くと、雪江さんは、窓辺の寝台で、驚いたように目を見開いた。
半年見ないうちに、まるで別の人のように痩せていた。
頬の影が、冬の薄日に透けて見えた。
それでも、その人は、やはり雪江さんだった。
「……来ちゃ、だめでしょう」
かすれた声で、彼女は俺を叱ろうとした。
俺は、何も言えずに、その細い手を両手で包んだ。
指先の絆創膏は、もう巻かれていなかった。
針を持たなくなった手は、ひどく、軽かった。
「ごめん。俺が、ぜんぶ悪かった」
「言ってくれれば、よかったのに。そんなこと、気にするわけ、ないじゃないか」
雪江さんの目から、すうっと、涙がこぼれた。
「気にするんです。私が、気にするんです」
「あなたに、きれいな私だけを、覚えていてほしかった」
俺は、首を横に振り続けることしか、できなかった。
「お前より、きれいな女なんか、どこにもいない」
「俺が撮りたかったのは、はじめから、ずっと、お前だけだ」
その言葉が口を衝いて出たとき、彼女は、子供のように声を上げて泣いた。
これまで一度も見せたことのない、繕うことを忘れた、むき出しの顔だった。
皮肉なことに、その泣き顔が、俺の見た中でいちばん、美しかった。
その夜、店に戻っても、俺は一枚の写真も撮れなかった。
ただ、彼女が縫い直してくれた暗室の暗幕の、まっすぐな針目を、暗がりの中で指でなぞっていた。
あの細い指が、自分の傷を、誰にも気づかれぬよう何年も繕い続けてきたのだと思うと、しばらく、息ができなかった。
※
それから俺は、毎日、療養所に通った。
暗室の仕事を朝のうちに片づけて、午後の薄日を選んで、彼女の窓辺に座った。
二人で、たわいもない話をした。
店を継いだ頃の失敗談を話すと、彼女は口を覆って、肩を揺らして笑った。
笑うと、すぐに咳になった。
それでも、笑ってくれることが、俺には何よりだった。
「写真師になって、よかったことは、ある?」
ある午後、彼女がふいに尋ねた。
「お前を、撮りたいと思えたことだ」
そう答えると、彼女は、布団の上で、小さく肩を揺らした。
「困った人。撮らせないって、何度も言ってるのに」
「だから、困らせてるんだ。ずっと、これからも」
窓辺に置いた小さな鉢の梅が、その日、ひとつだけ、ほころんでいた。
「ねえ。この梅が満開になったら――」
彼女は、ためらいがちに、けれど、はっきりとそう言った。
「縁側に出て、写真を、撮ってもらおうかしら」
はじめて、彼女のほうから「撮ってほしい」と口にした言葉だった。
俺は、嬉しさで胸が詰まって、何度もうなずいた。
その満開の日を、俺は、指折り数えて待つことになった。
帰り際にはいつも、窓辺の梅の鉢に水をやってから、病室を出た。
つぼみが日に日にふくらんでいくのを見るのが、二人の、ささやかな楽しみだった。
「あと、いくつ咲いたら、満開かしらね」
彼女は、細い指を折って数えるふりをして、また小さく笑った。
通ううちに、彼女の口数は、日に日に少なくなっていった。
それでも、俺が暗室の話をすると、決まって目を輝かせた。
「現像って、不思議ね。一度きりの時間が、紙の上で、何度でも帰ってくる」
「ああ。だから俺は、この仕事が、好きなんだ」
「……私のことも、いつでも帰ってこられるように、撮っておけばよかった」
その呟きを、俺は、聞こえないふりをした。
聞こえたと認めてしまったら、その先にある別れまで、認めることになる気がして。
ある日、俺は一枚の写真台紙を持っていった。
父の代から店に積んであった、黒い厚紙の、いちばん上等なやつだ。
写真をはめる窓だけが、ぽっかりと白く、空いていた。
「これに入れる一枚を、お前と撮る」
「だから、急いで元気になれ。きれいになろうなんて、思わなくていい。今のお前を、そのまま撮るんだ」
雪江さんは、台紙の白い窓を、長いあいだ見つめていた。
そして、これまで一度も見せたことのない、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「嬉しい……。でも、これは、撮れないわ」
「撮れよ。ここに置いていくから。お前が、撮ってほしくなった日に、必ず撮る」
彼女は、その台紙を、痩せた胸にそっと抱いた。
「こんなに幸せなの、生まれて初めてかもしれない」
窓の外で、溶けかけた雪が、軒からひとしずく、落ちた。
そのひとしずくの音まで、はっきりと聞こえるほど、病室は静かだった。
※
半月ののち、雪江さんは、眠るように、静かに旅立った。
知らせを聞いても、俺は療養所へも、その後の場へも、足を運べなかった。
あの人がもうこの世にいないという事実を、どうしても、受け取ることができなかった。
暗室にこもって、誰の写真も撮らず、ただ、赤い灯りの下に座っていた。
現像液の匂いだけが、父のいた頃のまま、変わらずそこにあった。
その匂いの中に、椿油の香りを探したが、もう、どこにもなかった。
病室の窓辺の梅が満開になったのは、その人がいなくなった、ちょうど三日後のことだったと、あとで光子さんから聞いた。
約束した縁側の一枚は、とうとう、撮れずじまいになった。
※
気力の戻らないまま、ひと月が過ぎた頃、光子さんが店を訪ねてきた。
差し出されたのは、あの黒い写真台紙と、一通の手紙だった。
台紙は、俺が病室に置いてきた、あのままのはずだった。
けれど、白く空いていたはずのその窓には、一枚の、小さな写真がはめ込まれていた。
見覚えのある一枚だった。
いつかの祭りの日、彼女が袂で顔を隠すより一瞬だけ早く、俺がいたずらに切ったシャッターの、その一枚。
撮るな、と叱られて、現像もせずに棚の隅に忘れていた、はずのものだった。
光子さんが、姉に頼まれて、こっそり暗室から探し出し、焼き付けたのだという。
そこには、こちらを振り向いて、思わずというふうに笑っている、雪江さんがいた。
健やかだった頃の、いちばん彼女らしい顔が、その一枚の写真の中に、ちゃんと生きていた。
※
手紙は、彼女が旅立つ前に、書いておいたものだという。
あの、針目のようにそろった字で、こう綴られていた。
『この手紙を読んでいる頃、私はもう、あなたのそばにいないと思います』
『あなたと過ごした時間は、本当に、本当に幸せでした』
『私はあなたに、何もかもを見てほしかった。同じだけ、あなたの何もかもを知りたかった』
『でも結局、最後まで、お見せできませんでしたね。心残りは、それだけです』
『台紙にはめた一枚の写真は、あなたが知らないうちに撮ってくれた、あの祭りの日のものにしました』
『繕われていない、ありのままの私を、あなたは、もうとっくに撮ってくれていたんです』
『新しい一枚は、撮らなくていい。あの白い窓は、あなたのいちばん好きな人で、いつか埋めてください』
『お墓には、当分、来ないでください』
『本当に心から好きな人ができたら、その時だけ、会いに来て』
『それが、あなたが私を忘れてくれた証になるから。それが、最後の、わがままです』
『出会えたことが、私の一生で、いちばんの幸せでした』
『大好きです』
読み終えて、俺は、声を殺して、長いあいだ泣いた。
※
あれから、十年が経つ。
俺は今も、お濠端のあの写真館で、客の減った店の暖簾を、毎朝かけている。
妻はいない。
見合いの話も、いくつかは持ち込まれた。
けれど、どの人の顔も、レンズの前に座らせてみようという気には、どうしても、なれなかった。
いちばん好きな人で埋めろと言われた台紙は、あの祭りの一枚を入れたまま、暗室の棚の、いちばん目につく場所に置いてある。
何度、新しい誰かを、その窓に入れようとしたことか。
けれど、どうしても、できなかった。
台紙の窓は、今も空いたままだ。
墓参りには、まだ一度も、行けていない。
あの寺の山門の前まで、足を運んだことは、一度だけある。
けれど、敷石を踏む手前で、どうしても、足が動かなくなった。
行ってしまえば、本当に好きな人ができたと、自分で認めることになる気がして。
きっと、行ける日は来ないのだろうと、近頃は思う。
父が遺した壁の写真の列の、いちばん端に、今は雪江さんの祭りの一枚も、そっと加えてある。
いなくなった人を、いちばん長く覚えている。
それが、写真師という仕事なのだと、近頃ようやく、腑に落ちてきた。
雪が降るたび、俺はあの暗室の、椿油の匂いを思い出す。
そして、薬液の中に、もう一度だけあの横顔が浮かんでこないかと、ばかなことを、今でも考える。
それでも俺は、毎日レンズを覗くたびに、すりガラスの向こうにぼんやり立つ、あの日の影を探している。
撮らないでください——そう言って笑った、たった一人の、俺の写真嫌いを。
あの人が遺してくれた一枚の写真の中で、雪江さんは、今日も困ったように、けれど確かに、笑っている。