親と一緒に居られる時間

輪ゴムが六本だった冬

大阪のワンルームの玄関に、段ボールが置いてありました。

宅配ボックスから出したまま、三日そこにありました。

高知の実家から、母が送ってきたものです。

開けると、いつもの匂いがしました。

川の匂いです。

海の磯とは違って、もっと薄くて、青い。

中身は青さのりでした。

四万十の下流で、冬のあいだだけ摘める、細くて柔らかいのりです。

透明の袋に入って、口を輪ゴムで留めてあります。

その輪ゴムが、六本、巻いてありました。

私は数を数える性格ではありません。

それでも数えてしまったのは、前の年が七本だったのを覚えていたからです。

母は几帳面な人です。

そういう人なのだ、と思っていました。

袋の口が緩んで、のりが湿ったら台無しになる。

だから念のために何本も巻く。

そのくらいの理解でした。

段ボールの隅に、いつものメモが入っていました。

「ごはんにかけて たべなさい」

それだけです。

元気か、とも、いつ帰るか、とも書いていません。

私はメモを冷蔵庫に貼って、その冬は三回くらい、のりを食べました。

あと何日、という計算

その年の暮れ、会社の忘年会で、後輩がこんな話をしました。

親に会える回数を計算したことがあるか、という話です。

実家に帰るのが年に何日か。

親があと何年生きるか。

掛け算をすると、残りの日数が出る。

私は箸を置いて、頭の中で計算しました。

私が実家に帰るのは、盆に三日、正月に三日。

年に六日です。

母はそのとき六十四でした。

あと二十年としても、百二十日にしかなりません。

四か月です。

残りの人生で、母と過ごせるのは四か月しかない。

その晩、私は駅のホームでその数字をずっと考えていました。

酔っていたせいもあると思います。

翌朝、電話をかけました。

平日の朝ですから、母は驚いていました。

「どうしたが、なんかあったが」

「いや、なんもない」

「なんもないのに、かけてきたが」

母は笑っていました。

その笑い方が、少し咳に近かったのを、いま思い出します。

そのとき私は、輪ゴムの本数と、自分の計算を結びつけました。

母も、同じことを数えているのだと思ったのです。

次に会えるまでの月の数を、輪ゴムで巻いている。

六本なら、六か月。

盆から正月までの、ちょうどそのぶんです。

我ながら、いい解釈だと思いました。

そしてその解釈のまま、私は五年ほど過ごしました。

川に入る仕事

実家は四万十の下流にあります。

河口から十キロほど上がった、沈下橋のある集落です。

父は川漁師でした。

鮎の火振り漁、うなぎの延縄、川えびの籠。

季節ごとに獲るものが変わります。

ただ、それだけでは食べていけません。

冬になると川漁は減るので、母が青さのりを摘みました。

すじ青のりというのが正式な名前です。

汽水域の、石にへばりついて育つ。

十二月から三月まで、水が冷たいあいだだけ伸びます。

胴長を穿いて、腰まで川に入って、手で摘む。

機械は使いません。

根元を残さないと、次に生えないからです。

私も高校生のとき、二回だけ手伝いました。

二回でやめました。

冬の川は、想像しているより冷たいのです。

入って十分で、足の指の感覚がなくなります。

三十分で、腿の内側が痛みだす。

痛いというより、締め付けられる感じです。

母は、それを毎日四時間やっていました。

上がってきた母の手は、白いのを通り越して、青くなっていました。

その手で、その日のうちにのりを洗って、簀に広げて干す。

乾くと、あの薄い緑の板になります。

一日じゅう立っていて、上がるのは何百グラムかです。

私はその仕事を、ずっと「母の内職」だと思っていました。

六日という数え方

年に六日、というのは、自分で決めた数ではありません。

会社の休みが、そうなっているだけです。

盆は三日、正月は三日。

大阪から高知までは、車で五時間かかります。

特急を乗り継いでも、家の玄関まで六時間近い。

三日のうち、片道に半日ずつ持っていかれます。

実際に家にいるのは、二日と少しです。

その二日で、何をしていたか。

正直に書けば、ほとんど寝ていました。

こたつで昼まで寝て、母の作った雑煮を食べて、また寝る。

父とは五分と話しません。

母は台所で立ちっぱなしで、私は座りっぱなしです。

帰る日の朝、母は必ず玄関の外まで出てきます。

車が見えなくなるまで、そこに立っている。

バックミラーで確認したことが、何度もあります。

いつも同じ場所に、同じ格好で立っていました。

それを見ながら、私は毎回、来年は少し長く帰ろうと思うのです。

そして毎年、六日のままでした。

忙しかったからではありません。

いつでも帰れると思っていたからです。

叔母の電話

五年目の秋、叔母から電話がありました。

母の妹で、隣の市に住んでいます。

よく喋る人で、用件に入るまで十分かかります。

その日は、開口一番でした。

「あんた、正月は帰ってくるがやろね」

帰ると答えました。

「帰りや。今年は帰りや」

念を押されたのが引っかかりました。

理由を訊いても、はぐらかされました。

「別に、なんちゃない。母さんが元気なうちにってだけ」

元気なうち、という言葉が耳に残りました。

病気なのかと訊くと、それは違うと言われました。

「病気やない。病気やないけんど」

そこで叔母は珍しく黙りました。

それから、話題を漬物の話に変えました。

私はその冬、有給を足して、五日帰ることにしました。

年に六日が、その年だけ八日になりました。

たった二日ですが、決めるのに一週間かかりました。

簀の前に立った母

正月に帰ると、母は台所ではなく、裏の作業場にいました。

簀を洗っているところでした。

竹の簀を、たわしで一枚ずつ擦る。

水は井戸から引いているので、真冬でも凍りません。

そのかわり、手はすぐ真っ赤になります。

「おかえり」

それだけ言って、母は手を止めませんでした。

私は横に立って、しばらく見ていました。

簀は、思っていたよりずっと少なかった。

記憶では、二十枚くらい並んでいたはずです。

その年は、六枚しかありませんでした。

「簀、減ったな」

母は、たわしを動かしたまま答えました。

「のりが、減ったき」

川が変わったのだそうです。

上流の堰と、砂の入り方と、水温。

原因はいくつも言われているけれど、はっきりしたことは誰にも分からない。

ただ、石に付く量が年々減っている。

漁協が入漁の日数を決めていて、それも短くなっている。

摘める人も、母を入れて集落に四人しかいない。

いちばん若い人が六十を越えています。

私はそこまで聞いて、何も言えませんでした。

台所からは、父が薪ストーブに薪をくべる音がしていました。

台所の引き出し

その晩、母が風呂に入っているあいだに、私は台所の引き出しを開けました。

輪ゴムを探したのです。

何本くらい常備しているのか、見てみたかった。

引き出しの中に、菓子の缶が入っていました。

蓋を開けると、輪ゴムがぎっしり詰まっていました。

五百本はあったと思います。

何本使おうが、この人には関係ない量です。

私の解釈が崩れたのは、その瞬間でした。

節約でも、几帳面でもない。

何かの数を、あの本数で表していたのは確かです。

けれど、それが月数だという証拠は、どこにもありませんでした。

缶の底に、二つ折りの紙が入っていました。

開くと、漁協の名前の入った用紙でした。

入漁承認の書類です。

承認年数の欄に、手書きで数字が入っていました。

その隣の余白に、母の字で、こう書いてありました。

「のこり六」

その下に、線を引いて消した数字がいくつも並んでいました。

十二、十一、十、九、八、七。

一年に一つずつ、消してありました。

母が数えていたもの

翌朝、私は簀を洗う母の隣に立って、訊きました。

「のこり六って、なんの数」

母は驚きませんでした。

見られると思っていたのかもしれません。

たわしを置いて、井戸の水で手をすすいでから、こう言いました。

「あと六回、川に入れるかどうか、いうことよ」

膝と腰の具合で、医者にそう言われたのだそうです。

胴長を穿いて冬の川に立つのは、あと数年が限度だと。

母はそれを聞いた年から、数え始めていました。

十二から、一年ずつ。

そして、その数だけ輪ゴムを巻いて、私に送っていた。

母が数えていたのは、私に会える日ではありませんでした。

自分が、あと何回このりを送れるか、でした。

私は言葉が出ませんでした。

何年も、輪ゴムを解いては捨てていました。

そのたびに、母の残りの回数を、私は手で数えていたことになります。

知らずに。

「なんで、言うてくれんかったが」

母は、簀を立てかけながら答えました。

「言うたら、あんた、帰ってくるやろ」

「帰ってくるやろ」

それは、帰ってきてほしくないという意味ではありませんでした。

仕事を持っている息子に、そんな理由で帰らせたくなかった。

そういうことでした。

井戸の水が、簀の目からぽたぽた落ちていました。

私はその音を、ずいぶん長いあいだ聞いていました。

胴長を借りた朝

三日目の朝、私は父の胴長を借りました。

母について、川に入ってみようと思ったのです。

十八のとき以来ですから、二十年以上ぶりです。

水に足を入れた瞬間、記憶がそのまま戻ってきました。

冷たいというより、痛い。

水が胴長の外側を締めてきます。

母は先に入って、腰まで浸かって、もう手を動かしていました。

石の表面を、指の腹でなでるように撫でる。

そうすると、細い糸のようなのりが手のひらに集まってきます。

引っ張ってはいけません。

根元が切れると、その石は翌年、生えなくなる。

私が三回撫でるあいだに、母は十回撫でていました。

速いのではなく、手が止まらないのです。

三十分で、私は上がりました。

腿の内側が、痛みを通り越して熱くなっていました。

岸で振り返ると、母はまだ同じ場所にいました。

川面に、腰から上だけが出ています。

背中が丸くて、遠目には石のようでした。

その姿を、私はそれまで一度も見たことがありませんでした。

三十年、送られてくるほうしか見ていなかったからです。

母が上がってきたのは、それから二時間後でした。

手を火にかざしても、しばらく赤くなりませんでした。

父が言った一言

その日の午後、父と沈下橋まで歩きました。

父は昔から口数が少なく、並んで歩いても何も喋りません。

橋の真ん中で、父が立ち止まりました。

川面に、日が細かく散っていました。

「母さんな、去年から一人で入りよる」

四人いた摘み手のうち、二人が入院と引っ越しで抜けたそうです。

残った一人は、朝しか入らない。

だから午後は、母が一人で川に立っている。

「危ないき、やめれ言うたら、怒られた」

父は少し笑いました。

それから、川のほうを向いたまま言いました。

「あれは、のりを摘みよるんやない」

「おまえに送るもんを、摘みよる」

私は返事ができませんでした。

父はそれ以上何も言わず、先に橋を渡っていきました。

背中が、記憶より小さくなっていました。

漁協の倉庫で聞いた話

大阪へ戻る前の日、漁協の倉庫に寄りました。

父の網を返しに行ったのです。

組合の事務をしている岡林さんという人が、帳面をつけていました。

母と同い年くらいの女の人です。

私が息子だと名乗ると、椅子を引いて座らせてくれました。

「あんたのお母さん、うちで一番きれいに摘みよる」

等級の話でした。

青さのりは、混ざりものと切れ端の量で値が変わります。

母のものは、ほとんど選り直しが要らないのだそうです。

「せやけどね」

岡林さんは帳面を閉じて、続けました。

「量は、いっちゃん少ないがよ」

摘む速さは誰より速いのに、量が少ない。

理由を訊きました。

岡林さんは、指で机の上に丸を描きました。

「同じ石を、二回さわらんが」

一度撫でた石には、その冬もう戻らない。

だから量は増えません。

かわりに、その石は翌年も生えます。

「来年のぶんを、毎年よけとるんよ」

私は、母が数えていたものの意味を、そこでもう一度考え直しました。

残り六回というのは、自分が入れる回数のことでした。

けれど母は同時に、自分が入れなくなったあとの川のことも数えていた。

誰も摘まなくなった石が、それでも生えるように。

そういう摘み方を、三十年続けていたのです。

倉庫を出るとき、岡林さんが言いました。

「あんた、来年も来る?」

私は、来ますと答えました。

答えてから、その返事を母にはしていないことに気づきました。

あと何日と数えていたのは

大阪に戻ってから、私は転勤の希望を出しました。

高知に支社はありませんが、岡山ならあります。

岡山からなら、日帰りで実家に行けます。

希望が通ったのは、その年の秋でした。

引っ越しの荷物をまとめていて、あの冷蔵庫のメモが出てきました。

「ごはんにかけて たべなさい」

五年前の紙です。

裏に、薄く鉛筆の跡がありました。

何か書いて、消したあとでした。

透かして読むと、こう読めました。

「あと なんかい おくれるかね」

消してから、送っていました。

私は、その紙を財布に入れました。

いまも入っています。

後輩がしていた計算を、私はいまも時々やります。

ただ、数える向きが変わりました。

あと何日、母に会えるか。

そう数えていたのは、私だけではありませんでした。

向こうも、ずっと数えていたのです。

しかも、こちらより先に、ずっと静かに。

いまは月に一度、岡山から車で帰ります。

年六日が、年に十五日ほどになりました。

それでも足りないことは、分かっています。

この冬、届いた袋の輪ゴムは、四本でした。

私は解いたゴムを、菓子の缶に入れて取ってあります。

いつか返しに行くつもりです。

先月、母と二人で沈下橋を歩きました。

父は膝が悪くなって、家で待っています。

橋の真ん中で、母が立ち止まりました。

父が立ち止まったのと、同じ場所でした。

「あんた、岡山、慣れたが」

慣れた、と答えました。

母はしばらく川を見て、それから、こう言いました。

「わたし、来年で終いにするき」

残り六と書いてから、四年経っています。

数字の上では、あと二回あるはずでした。

「二回残っとるやろ」

母は笑いました。

「二回は、あんたが摘みや」

冗談だと思って、私も笑いました。

けれど母は、笑い終わってから、もう一度同じことを言いました。

「摘んでみたら、分かるき」

同じ石を二度さわらない摘み方が、どういうことなのか。

たぶん、やってみないと分からないのだと思います。

この冬、私は胴長を買いました。

自分の足に合う、新しいものです。

玄関に置いてあるのを、たまに眺めます。

穿く日が来るのが、少し怖い。

川はまだ、私を待ってくれています。

母が立っていた石の場所も、たぶん覚えています。

水は毎年入れ替わるのに、石だけが同じ位置に残る。

そういう土地です。

書き終えて

親のしていた小さな習慣の意味が、何年も経ってから届く。

そういう話を、私は何度も聞いてきました。

食卓の何気ない切り方に理由があった話として祖母は大根を四つに切ったを、文字ではないメモに込められていたものの話として母の買い物メモは絵だったを、あわせて置いておきます。

どちらも、数えていたのは向こうだった、という話です。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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