
大阪の夜は、雨の匂いから始まる。
梅雨の入り口にさしかかった六月半ばの夕刻、私は阿倍野のタクシープールで、いつものように無線を切って待機していた。
空はじっとりと灰色に垂れ込めて、アスファルトには霧のような雨の膜が広がっている。
五十二歳、独り身。
息子は東京に出て、もう六年になる。
タクシーの仕事を始めたのは、夫と離れて息子を一人で育てると決めた三十三の春だった。
それから十九年、私の車のダッシュボードには、いつも小さな陶器の貯金箱が一つ置かれている。
素焼きの、握り拳ほどの大きさ。
薄桃色で、脇腹のあたりに、子供の字で「ひかり」とマジックペンで書かれている。
忘れ物だ。
十五年前の、雨の夜の忘れ物。
持ち主にはとうとう会えないまま、私はずっと、この子を乗せて走り続けてきた。
※
「すみません、大阪市立総合医療センターまで、お願いします」
助手席の後ろのドアが控えめに開いて、高校の制服を着た女の子が乗り込んできた。
バックミラーに映ったその顔は、高校二年生くらいだろうか。
目は少し赤く、手には白いマーガレットの、ごく小さな花束が握られていた。
お見舞いにしては、花が少なすぎる。
お仏壇の花か、あるいは、病室でもうこれ以上花を増やさなくてよくなった人のための花か。
長年この仕事をしていると、お客さんの持ち物から、大体の事情が読めてしまう。
「かしこまりました。新今宮の方を通りますが、よろしいですか」
「はい、お願いします」
張りのある若い声の奥に、疲れが静かに沈んでいた。
私は車をゆっくり発進させて、ワイパーを一段弱めた。
梅雨入り直前の雨は、まだ飴玉ほどの粒でぽつり、ぽつりとフロントガラスを叩いている。
信号待ちのたびに、その子の顔がミラーに浮かび上がった。
目元に、なんだか覚えのある面差しがあった。
誰だろう、と考えてみたけれど、思い当たらない。
※
天王寺の交差点を過ぎて、通天閣のネオンが雨のしずくに滲み始めた頃、その子が口を開いた。
「あの、運転手さん」
「はい」
「ダッシュボードに置いてあるその貯金箱、何て書いてあるんですか」
ミラーの中で、その子の視線がじっと私の前方の小さな塊に注がれていた。
私は少し迷ってから、答えた。
「ひかりちゃん、って書いてあるんですよ。子供の字でね」
「お孫さんのですか」
「いいえ、私の子じゃないんです。お客様の忘れ物で」
「忘れ物?」
「十五年前にね、一度だけ乗せた妊婦さんが、車内に置いていかれたの」
その子の肩が、ほんのわずかに動いた気がした。
「十五年前、ですか」
「ええ。大阪もよう雨の降る秋の夜やったわ」
私はハンドルを軽く握り直して、ゆっくりと話し始めた。
※
あの夜、私はまだ三十七だった。
息子は小学三年生で、夜勤に出る私を、団地の電気をつけたまま待ってくれている、そんな頃だった。
十一時を回った時、無線で配車の依頼が入った。
西成の古いアパートの前に、臨月の妊婦が陣痛で動けず立っていた。
タクシーに乗り込んできた時、彼女は額にびっしりと汗を浮かべて、震えていた。
「すみません、破水してしもて。救急車待ってたら間に合わへん気がして…」
声は小さいのに、一言ずつが絞り出されるようだった。
「ご主人は」
聞いてから、余計なことを聞いたかもしれないと悔いた。
「主人は、遠洋漁船の機関士で、今、太平洋です」
彼女は笑おうとして、失敗した。
「実家は徳島で、こっちには誰もおらへんのです」
誰も、という二文字が、雨音の中にぽつんと落ちた。
私はミラーの中の彼女に向かって、できるだけ穏やかに言った。
「奥さん、大丈夫や。おばちゃん、飛ばすから。気張ってな」
赤信号を、二つだけ、祈るように抜けた。
その晩、天王寺から総合医療センターまで、普段なら二十分かかる道を、十三分で走った。
彼女は後部座席で、小さな声で自分の腹に話しかけていた。
「ひかりちゃん、もうちょっとやからね。もうちょっとや」
ひかり、という名前は、もうその時に決まっていたのだ。
病院の夜間通用口に着いた時、看護師さんが飛んで出てきてくれた。
ストレッチャーに移された彼女は、最後に振り返って、私の手を強く握った。
「運転手さん、ほんまにありがとう。このご恩は、一生忘れません」
「ええから、早よ行って」
私は、そう返すので精一杯だった。
※
翌朝、車内清掃をしていて、助手席の下に小さな紙袋を見つけた。
中には、素焼きの貯金箱が一つ。
脇に、子供のような丸い字で「ひかり」と書いてあった。
買って帰って、生まれてくる娘のために用意したのだろう。
すぐに届けに行こうと、私はその足で病院に向かった。
けれど窓口では、個人情報保護を理由に、昨夜入院した妊婦の名前も部屋も教えてはもらえなかった。
「落し物として預からせていただくことはできます」
事務員さんは申し訳なさそうに言ってくれた。
だが、ここで手放したら、この子がお母さんの手元に戻る保証はないように、私には思えた。
結局私は、貯金箱を持ち帰った。
いつか、もう一度お母さんがこの子を迎えに来てくれたら、その時に手渡そうと決めたのだ。
それから十五年が経った。
シングルマザーとして息子を育てる日々は、思っていた以上に忙しかった。
夜勤の前、朝帰りの後、私はいつもダッシュボードの貯金箱に「また今日もよろしくな」と声をかけてから車を出した。
小さな素焼きの塊が、いつしか、お守りのようになっていた。
※
「…それで、ずっと、返せないままで」
私は小さく笑ってみせた。
「おばちゃん、ほんまに頑固やからねえ。一度、この子は私が預かる、って決めてしもたら、もうそれが仕事みたいになってしもてね」
後部座席は静かだった。
赤信号で停まった時、ミラーを見ると、少女が俯いて、膝の上のマーガレットを見つめていた。
雨は、いつの間にか霧雨に変わっている。
「運転手さん」
声が、少し震えていた。
「はい」
「そのタクシー、青い車体でしたか」
思わず、私は小さく息を呑んだ。
「ええ、そうよ。当時の会社は全部、青色やったの」
少女は、制服のポケットからスマートフォンを取り出して、静かに画面を私に差し出した。
「これ、見てもらえますか」
信号が青に変わりかけていたけれど、私はハザードを灯して路肩に寄せた。
画面には、SNSの投稿が、いくつも並んでいた。
「#私を産んだ夜のタクシー運転手を探しています」
そのタグが、十数枚の写真の下にずらりと並んでいた。
子供の字で「ひかり」と書かれた、素焼きの貯金箱のイラスト。
青いタクシー。
十五年前の秋、大阪、総合医療センター。
そして、細かい文字でこう書かれていた。
「母は三年前に亡くなりました。母が生きている間、ずっと語っていた恩人を、最後に私がどうしても探したいです」
私の指先が、ハンドルの上で小さく震えた。
「…あんた、もしかして」
「はい」
「内藤ひかりです」
少女はそう名乗って、短く息をついた。
「母は、内藤晴美と言いました」
※
言葉が、しばらく出なかった。
ハザードの音だけが、規則正しく車内に響いていた。
「お母さん、亡くならはったん」
「はい。三年前に、乳がんで」
ミラーの中で、ひかりちゃんが小さく唇を噛んだ。
「母は、ずっと言っていました。あなたが生まれた夜、雨の中を飛ばしてくれた、青いタクシーのおばちゃんがいたんよって」
「私が病気になってからは、もっと何度も繰り返して話していて。いつか、あの貯金箱と一緒に、会いに行こうねって、約束してくれていたんです」
「でも、結局、その約束は果たせないまま…」
少女の声は、語尾で崩れた。
「だから私、お母さんの代わりに探してました。どれだけかかっても、いいって」
私は、ダッシュボードの貯金箱に、そっと手を伸ばした。
薄桃色の素焼きは、十五年分の埃を拭かれて、それでもまだ、あの夜の湿り気を覚えているようだった。
「ひかりちゃん」
「はい」
「あのな。おばちゃん、一つ、嘘をついとった」
「え」
「あんたのお母さんに、ご恩は一生忘れませんって言ってもろた時ね。ほんまは、なんも偉いことしてへんのよ。仕事やから、赤信号かて走るしかなかっただけで」
「それやのに、この貯金箱を返しそびれたことがずっと引っかかってて。私はお母さんに、ご恩を返されるような運転手と違うんよって、ずっと言いたかった」
「でもな、言う機会がないままやったから、代わりに、この子の面倒だけは見てきたの」
ひかりちゃんは、マーガレットの花束を、ゆっくり胸に引き寄せた。
「運転手さん」
「うん」
「それ、お母さんが知ってたら、怒ったと思います」
「え」
「怒って、それから、笑ったと思います。ほんまに頑固な人ですねって」
少女は、そう言って初めて、少しだけ笑った。
泣き笑いの、不器用な笑みだった。
※
私は車をゆっくり発進させて、再び医療センターに向かった。
総合医療センターの正面玄関は、十五年前とほとんど変わっていなかった。
雨に濡れた自動ドアのガラスに、病院の光が滲んでいた。
「今日、三回忌のお墓参りの帰りやったんです」
ひかりちゃんは、後部座席で静かに言った。
「お墓参りのあと、どうしても、生まれた場所を見てから帰りたくて」
「そっか」
「そしたら、ほんまに会えてしもた」
私は、路肩にタクシーを停めた。
助手席の下から、薄い桐の箱を取り出す。
十五年、毎晩、車を降りる前にこの箱に貯金箱を仕舞ってきた。
私はその箱を開けて、ダッシュボードの貯金箱をそっと中に戻した。
そして、後部座席に向けて差し出した。
「はい、これ。ようやく、お母さんからお嬢さんへの宅配便や」
ひかりちゃんは両手で箱を受け取って、長いこと、顔を伏せていた。
涙が、箱の蓋にぽとりと落ちた音を、私は聞かなかったことにした。
「運転手さん」
「うん」
「これからも、このタクシー、乗ってもいいですか」
私は少し考えて、ミラー越しに微笑んだ。
「もちろん。おばちゃんが現役のうちはな」
少女は、箱を胸に抱えて、深くお辞儀をして車を降りた。
自動ドアの向こうに、小さな制服の背中が消えていく。
一人でよく来たな、と、私は呟いた。
※
空車のランプを灯して、私は夜の阿倍野に戻った。
ダッシュボードの定位置には、もう貯金箱はなかった。
その空いた場所を、私は指先で、そっと撫でた。
「ちゃんと、お母さんのとこへ帰れたで」
雨はいつの間にか上がっていて、通天閣のネオンが、濡れた路面に虹のように映っていた。
十五年間、忘れていなかった。
忘れられていなかったのは、向こうも同じだった。
この仕事を続けてきて、よかった。
そう思えたのは、久しぶりのことだった。
信号待ちの間に、私は携帯を手に取った。
東京で一人暮らしをしている息子に、何年ぶりかに、こちらから電話をかけた。
「もしもし、母さんやけど。元気にしとる?」
返ってきたのは、忙しそうな、けれど、懐かしい声だった。
私は少しだけ、泣きそうになった。
雨上がりの大阪の夜を、空車のタクシーがまた一台、静かに走り出す。