
毎朝、運転席に上がると、小物入れの中に飴玉が一粒、置いてある。
誰が置いているのか、長いこと気にもしていなかった。
のど飴だ。いつも決まって、緑色のパッケージ。
ハッカのにおいがする、薄荷味のやつ。
拓也がむかし「のど飴がないと仕事できん」と口にした、あの飴だ。
でも誰も、聞いていないはずだった──と、拓也はずっとそう思っていた。
※
松村拓也は、四十三歳のバスの運転手だ。
熊本県・菊池市の中心部から山のほうへ向かう、片道五十分ほどの路線を走っている。
朝四時半に起きて、車庫に着くのが五時二十分。
始発は五時五十分発。
同じ道を、十五年走り続けてきた。
地味だとは思わない。
バスの運転手というのは、乗る人の時間を預かる仕事だと、拓也はずっとそう思ってきた。
定刻に来る。定刻に着く。
それだけのことが、誰かの一日を守っている。
朝一番のバスに乗って病院に行く老婆がいる。
終電ひとつ前のバスで帰る工場の夜勤明けの男がいる。
雨の日でも霧の朝でも、拓也はその人たちの時間を乗せて走ってきた。
そう思えるから、十五年続けてこられた。
同僚から「もっと楽な路線に異動できるで」と言われたことがある。
拓也は首を横に振った。
この道を知っているのは自分だ、と思っていた。
カーブの手前の砂利の広がり方も、橋を渡るときの風の向きも、雨が降ると滑りやすくなる坂の場所も、全部わかっている。
それは十五年かけて覚えたものだ。
誇りと呼べるほどのことじゃないかもしれないが、拓也にとってはそういうものだった。
※
家には妻の美咲と、小学四年生の息子・蓮がいる。
拓也が始発に乗り込むころ、蓮はまだ眠っている。
帰りが夜の八時を回ることも多いから、蓮が起きている時間に顔を合わせるのは週に二、三度もあればいいほうだった。
休日に同じ食卓についても、蓮はテレビを見ているか、本を読んでいるか、どちらかだ。
父親のほうから話しかけても、短い返事が返ってくるだけ。
嫌われているとは思わない。
ただ、距離がある。
拓也が子供の頃に父親とそうだったように、蓮との間にも、どこかうまく埋めきれない間が残っていた。
「蓮もああ見えてお父さんのこと好いとうよ」と美咲はたまに言う。
「そうか」と拓也は答える。
信じていないわけじゃない。
ただ、実感がない。
毎朝すれ違って、毎晩すれ違って、気がつけば十年が経っていた。
蓮が生まれた頃のことは今でも覚えている。
産院の廊下で、生まれたばかりの蓮を抱いた。
あんなに小さかったのに、もう自分の腰くらいまで背が伸びた。
どこかで置いてきてしまったものがあるような気がして、拓也はそれが何なのかをずっと考えないようにしていた。
※
佐々木ハナは、毎週木曜の午前中に乗ってくる常連の客だ。
七十八歳だという。
小柄で、いつも同じ紺色のカーディガンを着て、小さなトートバッグを大事そうに抱えている。
最初に話しかけてきたのは、去年の秋のことだった。
「運転手さん、私が毎週乗っとるのわかる?」
バックミラー越しに声をかけられて、拓也は少し驚いた。
「ありがとうございます。いつもご利用いただいております」
「娘の家に行くとよ。木曜は私がご飯作る日ばい」
ハナは嬉しそうに話す。
娘の家の近くの八百屋で買い物をしてから家に上がるのだと、説明しながら。
「今日はほうれん草とじゃがいもでビーフシチューばい。孫が好きでね」
「それは美味しそうですね」と言いながら、拓也はハンドルを握った。
それからというもの、木曜日のたびにハナはバスの中で話しかけてくるようになった。
孫の話。娘の話。昔、菊池で暮らしていた頃の話。
拓也はその話を聞きながら、ハンドルを握ったまま、いつもの道を走った。
木曜日の朝がいつの間にか楽しみになっていた。
※
六月に入って最初の木曜日だった。
梅雨入り直前の、少し蒸し暑い朝だ。
ハナがいつものバス停から乗ってきた。
前のほうの席に座って、バッグを膝に置く。
バスが走り出して三分ほどして、ハナが前置きなく言った。
「運転手さん、ちょっといい話があると」
バックミラーの中で、ハナが目を細めて笑っていた。
「先週ね、このバス停のところで転んでしもうてね。段差に足が引っかかって」
「大丈夫でしたか」と拓也はすぐに言った。
「大丈夫、大丈夫。すぐに男の子が来て助けてくれたから」
「男の子が」
「そう。小学生くらいの、ランドセルを背負った男の子ばい」
拓也はミラーに目をやりながら、前を向いたまま聞いた。
「その子がね、私が立ち上がるのを手伝ってくれて、バッグも拾ってくれて」
ハナは話すほど表情がほころんでいく。
「それで、どこに行くとねって聞いたら、笑って言うとよ」
少し声を落として、ハナが続けた。
「『バスを見に来た』って」
拓也の手が、少し止まった気がした。
「お父さんが運転してるバスを、いつも朝ここで見るんだって言うとよ」
信号が赤になった。
拓也はブレーキをゆっくり踏んだ。
「それで、大きくなったら自分もバスの運転手になりたいって言いよったよ。かわいかねえ」
ハナが柔らかく笑った。
「運転手さんのお子さんね? もしかして」
「……うちの蓮かもしれません」
声が少し変になった。
自分でも気づいていたが、それ以上は何も言えなかった。
ハナは「そうと、そうと」と繰り返しながら、バッグの上で手を合わせた。
「よかね。よかね」
バスが動き出した。
前の窓の向こうに、朝の山の稜線が見えた。
いつもと同じ道だった。
でもその朝は、同じ道が少しだけ違う色に見えた──気のせいかもしれない。
※
その日の夜、美咲に聞いた。
「飴玉、毎朝小物入れに入っとるやろ。あれ、誰が置いとると」
美咲はごく当然のように言った。
「あれ、蓮やよ。毎朝こっそり入れとるよ」
拓也は台所の椅子に座ったまま、何も言えなかった。
「知らんかったと?」
「……知らんかった」
美咲が少し笑いながら、説明した。
拓也がむかし「のど飴がないと仕事できん」と言ったのを、蓮がずっと覚えていたのだと。
だから始めたのだと。
朝五時二十分に車庫を出る父のバスには、蓮の起床前に間に合わない。
だから前の晩に、ランドセルの内ポケットに飴を一粒入れておく。
朝、父が出た後で、車庫に走って、開いている扉から小物入れに置く。
「それを二年以上続けとるよ」と美咲は言った。
「雨の日も?」
「雨の日も。冬も」
拓也は台所のテーブルを見た。
木目の古いテーブルに、夕飯の残りを片付けた後の跡がある。
二年以上、誰かが毎朝走っていた。
それを知らずに、拓也は十五年の路線を走ってきた。
「あの子、あなたのこと見とるよ」と美咲が静かに言った。
「ずっとね」
拓也はそれ以上、何も聞けなかった。
胸の奥のどこかが、静かにほどけていくような気がした。
※
七月の初めだった。
梅雨の雨が夕方から降り始めて、最終便の出発ごろには本降りになっていた。
終点まで乗り通す客は少なかった。
二つ目のバス停で、一人の子供が乗ってきた。
ICカードを当てて、雨に濡れた靴のまま、後ろのほうの席に座る。
緑のリュックサック。
バックミラーに映ったその子の横顔を、拓也は一瞬で見た。
蓮だった。
拓也は前を向いたまま、何も言わずにハンドルを握った。
バスが走り出す。
蓮は窓の外の雨をじっと見ている。
父親が運転していることに気づいているのかどうか、わからない。
わざと見ていないふりをしているのか、本当に気づいていないのか。
どちらにしても、拓也は声をかけなかった。
この路線を走っている間、拓也は運転手だ。
父親ではなく、乗客を目的地まで届ける運転手だ。
それが仕事だから。
バスは雨の中をゆっくり走った。
三つ目のバス停で老婆が降りる。
四つ目で学生らしい男の子が降りる。
蓮はまだ乗っている。
バックミラーに映る緑のリュックが、カーブのたびに揺れた。
五つ目のバス停を過ぎたあたりで、拓也は気づいた。
蓮が窓ではなく、運転席のほうを見ている。
ほんの一瞬だったが、目が合ったかもしれない。
蓮はすぐに窓に顔を戻した。
拓也も前を向いた。
雨の音がフロントガラスを叩いている。
ワイパーが左右に揺れる。
六つ目のバス停。
七つ目のバス停に差し掛かったところで、蓮が席を立った。
降り口に向かって歩いてくる。
拓也はバックミラーで見ながら、バスを止めた。
扉が開いた。
蓮が降り口の段を降りながら、前を向いた。
拓也のほうを、一瞬だけ見た。
「ありがとうございました」
蓮の声だった。
変声期の入り口にある、少し固い、低くなりかけの声。
でもはっきりと、そう言った。
拓也はまっすぐ前を向いたまま、「ありがとうございます。またご乗車ください」と言った。
扉が閉まった。
バスが動き出す。
バックミラーに、雨の中のバス停に立つ蓮の姿が映った。
動かずに立っている。
バスが遠ざかっていくのを、ずっと見ていた。
拓也はハンドルを握ったまま、何も言わなかった。
言えなかった──という言葉も、正確ではないかもしれない。
ただ、言葉が要らなかった。
十五年間、同じ道を走り続けてきた。
何百人もの乗客の「ありがとうございました」を聞いてきた。
でも──あの「ありがとうございました」は、今まで聞いた中でいちばん短くて、いちばん重かった。
※
翌朝、車庫に着くと、バスの扉が少し開いていた。
小物入れを開けると、飴玉が一粒あった。
今日はいつもと少し違って、飴の隣に小さく折りたたんだ紙が添えてあった。
ノートを破いたような紙に、鉛筆で書いてある。
開いた。
「バス、好きだよ。」
たった七文字だった。
拓也はその紙を持ったまま、運転席に座って、しばらく前を見ていた。
窓の外、車庫の柱のそばに、まだ濡れた地面が残っている。
今朝もここを、誰かが走っていったのだ。
雨は上がっていた。
五時五十分。始発の時間だ。
紙を胸のポケットにそっと入れて、のど飴を口に入れた。
ハンドルを握って、拓也はバスを走らせた。
今日も、同じ道を走る。
それでいい──と、拓也は思った。
胸のポケットの中で、七文字の言葉が揺れていた。