息子の「ありがとうございました」

雨の中の静かな待機

毎朝、運転席に上がると、小物入れの中に飴玉が一粒、置いてある。

誰が置いているのか、長いこと気にもしていなかった。

のど飴だ。いつも決まって、緑色のパッケージ。

ハッカのにおいがする、薄荷味のやつ。

拓也がむかし「のど飴がないと仕事できん」と口にした、あの飴だ。

でも誰も、聞いていないはずだった──と、拓也はずっとそう思っていた。

松村拓也は、四十三歳のバスの運転手だ。

熊本県・菊池市の中心部から山のほうへ向かう、片道五十分ほどの路線を走っている。

朝四時半に起きて、車庫に着くのが五時二十分。

始発は五時五十分発。

同じ道を、十五年走り続けてきた。

地味だとは思わない。

バスの運転手というのは、乗る人の時間を預かる仕事だと、拓也はずっとそう思ってきた。

定刻に来る。定刻に着く。

それだけのことが、誰かの一日を守っている。

朝一番のバスに乗って病院に行く老婆がいる。

終電ひとつ前のバスで帰る工場の夜勤明けの男がいる。

雨の日でも霧の朝でも、拓也はその人たちの時間を乗せて走ってきた。

そう思えるから、十五年続けてこられた。

同僚から「もっと楽な路線に異動できるで」と言われたことがある。

拓也は首を横に振った。

この道を知っているのは自分だ、と思っていた。

カーブの手前の砂利の広がり方も、橋を渡るときの風の向きも、雨が降ると滑りやすくなる坂の場所も、全部わかっている。

それは十五年かけて覚えたものだ。

誇りと呼べるほどのことじゃないかもしれないが、拓也にとってはそういうものだった。

家には妻の美咲と、小学四年生の息子・蓮がいる。

拓也が始発に乗り込むころ、蓮はまだ眠っている。

帰りが夜の八時を回ることも多いから、蓮が起きている時間に顔を合わせるのは週に二、三度もあればいいほうだった。

休日に同じ食卓についても、蓮はテレビを見ているか、本を読んでいるか、どちらかだ。

父親のほうから話しかけても、短い返事が返ってくるだけ。

嫌われているとは思わない。

ただ、距離がある。

拓也が子供の頃に父親とそうだったように、蓮との間にも、どこかうまく埋めきれない間が残っていた。

「蓮もああ見えてお父さんのこと好いとうよ」と美咲はたまに言う。

「そうか」と拓也は答える。

信じていないわけじゃない。

ただ、実感がない。

毎朝すれ違って、毎晩すれ違って、気がつけば十年が経っていた。

蓮が生まれた頃のことは今でも覚えている。

産院の廊下で、生まれたばかりの蓮を抱いた。

あんなに小さかったのに、もう自分の腰くらいまで背が伸びた。

どこかで置いてきてしまったものがあるような気がして、拓也はそれが何なのかをずっと考えないようにしていた。

佐々木ハナは、毎週木曜の午前中に乗ってくる常連の客だ。

七十八歳だという。

小柄で、いつも同じ紺色のカーディガンを着て、小さなトートバッグを大事そうに抱えている。

最初に話しかけてきたのは、去年の秋のことだった。

「運転手さん、私が毎週乗っとるのわかる?」

バックミラー越しに声をかけられて、拓也は少し驚いた。

「ありがとうございます。いつもご利用いただいております」

「娘の家に行くとよ。木曜は私がご飯作る日ばい」

ハナは嬉しそうに話す。

娘の家の近くの八百屋で買い物をしてから家に上がるのだと、説明しながら。

「今日はほうれん草とじゃがいもでビーフシチューばい。孫が好きでね」

「それは美味しそうですね」と言いながら、拓也はハンドルを握った。

それからというもの、木曜日のたびにハナはバスの中で話しかけてくるようになった。

孫の話。娘の話。昔、菊池で暮らしていた頃の話。

拓也はその話を聞きながら、ハンドルを握ったまま、いつもの道を走った。

木曜日の朝がいつの間にか楽しみになっていた。

六月に入って最初の木曜日だった。

梅雨入り直前の、少し蒸し暑い朝だ。

ハナがいつものバス停から乗ってきた。

前のほうの席に座って、バッグを膝に置く。

バスが走り出して三分ほどして、ハナが前置きなく言った。

「運転手さん、ちょっといい話があると」

バックミラーの中で、ハナが目を細めて笑っていた。

「先週ね、このバス停のところで転んでしもうてね。段差に足が引っかかって」

「大丈夫でしたか」と拓也はすぐに言った。

「大丈夫、大丈夫。すぐに男の子が来て助けてくれたから」

「男の子が」

「そう。小学生くらいの、ランドセルを背負った男の子ばい」

拓也はミラーに目をやりながら、前を向いたまま聞いた。

「その子がね、私が立ち上がるのを手伝ってくれて、バッグも拾ってくれて」

ハナは話すほど表情がほころんでいく。

「それで、どこに行くとねって聞いたら、笑って言うとよ」

少し声を落として、ハナが続けた。

「『バスを見に来た』って」

拓也の手が、少し止まった気がした。

「お父さんが運転してるバスを、いつも朝ここで見るんだって言うとよ」

信号が赤になった。

拓也はブレーキをゆっくり踏んだ。

「それで、大きくなったら自分もバスの運転手になりたいって言いよったよ。かわいかねえ」

ハナが柔らかく笑った。

「運転手さんのお子さんね? もしかして」

「……うちの蓮かもしれません」

声が少し変になった。

自分でも気づいていたが、それ以上は何も言えなかった。

ハナは「そうと、そうと」と繰り返しながら、バッグの上で手を合わせた。

「よかね。よかね」

バスが動き出した。

前の窓の向こうに、朝の山の稜線が見えた。

いつもと同じ道だった。

でもその朝は、同じ道が少しだけ違う色に見えた──気のせいかもしれない。

その日の夜、美咲に聞いた。

「飴玉、毎朝小物入れに入っとるやろ。あれ、誰が置いとると」

美咲はごく当然のように言った。

「あれ、蓮やよ。毎朝こっそり入れとるよ」

拓也は台所の椅子に座ったまま、何も言えなかった。

「知らんかったと?」

「……知らんかった」

美咲が少し笑いながら、説明した。

拓也がむかし「のど飴がないと仕事できん」と言ったのを、蓮がずっと覚えていたのだと。

だから始めたのだと。

朝五時二十分に車庫を出る父のバスには、蓮の起床前に間に合わない。

だから前の晩に、ランドセルの内ポケットに飴を一粒入れておく。

朝、父が出た後で、車庫に走って、開いている扉から小物入れに置く。

「それを二年以上続けとるよ」と美咲は言った。

「雨の日も?」

「雨の日も。冬も」

拓也は台所のテーブルを見た。

木目の古いテーブルに、夕飯の残りを片付けた後の跡がある。

二年以上、誰かが毎朝走っていた。

それを知らずに、拓也は十五年の路線を走ってきた。

「あの子、あなたのこと見とるよ」と美咲が静かに言った。

「ずっとね」

拓也はそれ以上、何も聞けなかった。

胸の奥のどこかが、静かにほどけていくような気がした。

七月の初めだった。

梅雨の雨が夕方から降り始めて、最終便の出発ごろには本降りになっていた。

終点まで乗り通す客は少なかった。

二つ目のバス停で、一人の子供が乗ってきた。

ICカードを当てて、雨に濡れた靴のまま、後ろのほうの席に座る。

緑のリュックサック。

バックミラーに映ったその子の横顔を、拓也は一瞬で見た。

蓮だった。

拓也は前を向いたまま、何も言わずにハンドルを握った。

バスが走り出す。

蓮は窓の外の雨をじっと見ている。

父親が運転していることに気づいているのかどうか、わからない。

わざと見ていないふりをしているのか、本当に気づいていないのか。

どちらにしても、拓也は声をかけなかった。

この路線を走っている間、拓也は運転手だ。

父親ではなく、乗客を目的地まで届ける運転手だ。

それが仕事だから。

バスは雨の中をゆっくり走った。

三つ目のバス停で老婆が降りる。

四つ目で学生らしい男の子が降りる。

蓮はまだ乗っている。

バックミラーに映る緑のリュックが、カーブのたびに揺れた。

五つ目のバス停を過ぎたあたりで、拓也は気づいた。

蓮が窓ではなく、運転席のほうを見ている。

ほんの一瞬だったが、目が合ったかもしれない。

蓮はすぐに窓に顔を戻した。

拓也も前を向いた。

雨の音がフロントガラスを叩いている。

ワイパーが左右に揺れる。

六つ目のバス停。

七つ目のバス停に差し掛かったところで、蓮が席を立った。

降り口に向かって歩いてくる。

拓也はバックミラーで見ながら、バスを止めた。

扉が開いた。

蓮が降り口の段を降りながら、前を向いた。

拓也のほうを、一瞬だけ見た。

「ありがとうございました」

蓮の声だった。

変声期の入り口にある、少し固い、低くなりかけの声。

でもはっきりと、そう言った。

拓也はまっすぐ前を向いたまま、「ありがとうございます。またご乗車ください」と言った。

扉が閉まった。

バスが動き出す。

バックミラーに、雨の中のバス停に立つ蓮の姿が映った。

動かずに立っている。

バスが遠ざかっていくのを、ずっと見ていた。

拓也はハンドルを握ったまま、何も言わなかった。

言えなかった──という言葉も、正確ではないかもしれない。

ただ、言葉が要らなかった。

十五年間、同じ道を走り続けてきた。

何百人もの乗客の「ありがとうございました」を聞いてきた。

でも──あの「ありがとうございました」は、今まで聞いた中でいちばん短くて、いちばん重かった。

翌朝、車庫に着くと、バスの扉が少し開いていた。

小物入れを開けると、飴玉が一粒あった。

今日はいつもと少し違って、飴の隣に小さく折りたたんだ紙が添えてあった。

ノートを破いたような紙に、鉛筆で書いてある。

開いた。

「バス、好きだよ。」

たった七文字だった。

拓也はその紙を持ったまま、運転席に座って、しばらく前を見ていた。

窓の外、車庫の柱のそばに、まだ濡れた地面が残っている。

今朝もここを、誰かが走っていったのだ。

雨は上がっていた。

五時五十分。始発の時間だ。

紙を胸のポケットにそっと入れて、のど飴を口に入れた。

ハンドルを握って、拓也はバスを走らせた。

今日も、同じ道を走る。

それでいい──と、拓也は思った。

胸のポケットの中で、七文字の言葉が揺れていた。

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