
水曜の朝だけ、うちの冷蔵庫からものが減る。
牛乳は半分になっている。
卵のパックには、いつもふたつぶんの窪みが空いている。
開けたばかりの味噌には、匙で掬った跡が斜めについている。
犯人はわかっている。
わかっていて、私はその犯人に、毎週、鍵の開いた部屋で朝ごはんを作らせている。
私が働いているのは、駅前の、24時間開いているスーパーだ。
青果を担当している。
夜の10時に店へ入って、朝の7時に出る。
キャベツの外葉を剥いて、レタスの切り口が赤黒くならないうちに巻き直して、値引きのシールを貼って、明け方に着くトラックの箱を開ける。
深夜の客は、みんな似たような顔をしている。
仮眠から起きたばかりのタクシーの運転手。
白い上着のまま来る人。
参考書を小脇に挟んだ子。
誰も私に話しかけないし、私も誰にも話しかけない。
ひとつだけ、昼勤のころの癖が抜けない。
キャベツの外葉を、捨てる前に一度だけ広げてしまうのだ。
傷んでいない葉が混じっていることがあって、見つけると、私はそれだけを別の袋に取り分ける。
教えたのはハルだ。
外葉、いいのが混じっとるよ、と言って、惣菜の鍋に平気で放り込んでいた人だ。
その人はもういないのに、私はいまだに、外葉を一度広げてから捨てる。
取り分けた葉の行き先は、もうどこにもない。
それがよくてこの時間帯に移ったのだから、文句を言う筋合いはない。
夜勤明けの朝は、世界じゅうがおはようを言い合う時間で、私だけが、その言葉を渡す相手を持っていない。
それでいいと思っていた。
思っていたのに、水曜だけは、そうさせてもらえない。
アパートの外階段に、あの子が座っているからだ。
膝の上に、うちの店のではないレジ袋を抱えている。
わざわざ隣の駅のスーパーで買ってくるのだ。
うちで買えば従業員割引が効くのに、そうしない。
「おはようございます」
あの子は立ち上がって、そう言う。
私は言わない。
顎で階段の上を指して、先に上がる。
それが、ハルがいなくなった春からずっと続いている。
あの子の名前は、若狭美奈という。
うちの店にいたころは高校を出たばかりで、レジも青果も惣菜も、頼まれたぶんだけ黙ってやるような子だった。
今は、駅の向こうの保育園で栄養士をしている。
朝の八時には給食室に立たなければならないはずだ。
それなのに、水曜だけ、その前にうちへ来る。
来て、私の台所で飯を作る。
作って、向かい合って食べて、洗い物をして、帰っていく。
帰るとき、必ず、うちの冷蔵庫から何かをひとつ持って帰る。
ポン酢だったり、開けかけの海苔だったり、私が食べもしないヨーグルトだったりする。
図々しい子だと思う。
思うが、言ったことはない。
言えば、来なくなるかもしれないからだ。
そのことを、私は自分でも認めたくない。
※
最初の水曜のことは、よく覚えている。
ハルがいなくなって、ひと月と少し経ったころだった。
木島春。
私と同い年で、惣菜の担当で、私が青果のバックヤードで黙々とキャベツを剥いているところへ、味見用の芋の煮ころがしを爪楊枝に刺して持ってくるような人だった。
「味、見て」
「私、味覚ないよ」
「あるわ。あんた、しょっぱいと眉間に皺が寄るもん」
そういう見方をする人だった。
二年ほど病院にいて、桜がすっかり葉になったころ、先に逝った。
ハルが入院したのは、私が青果に移った年の秋だった。
最初のうちは、私も月に二度は病院へ行った。
果物を持っていくと、ハルは決まって、あんた青果のくせに選ぶの下手ね、と笑った。
「安かったから買ったの」
「正直でよろしい」
そういう会話が、最後の冬から、だんだんできなくなった。
言葉が減っていくのが怖くて、私は理由をつけて行かなくなった。
棚卸しがあるとか、シフトが動かせないとか、その程度の理由だ。
最後のひと月、私は一度も病院へ行っていない。
そのことを、私はまだ誰にも言っていない。
美奈にも。
私は昼勤から夜勤に移った。
店長には、体がそのほうが楽なので、と言った。
本当は、惣菜のケースの前を通るのが嫌だっただけだ。
揚げ物の匂いのする、あの明るいケースの前を。
誰にも会わなくていい時間帯に潜り込んで、そのまま何年でもいるつもりだった。
その計画は、ひと月で壊れた。
夜勤明けの水曜の朝、アパートの外階段に、辞めたはずのアルバイトの子が座っていたからだ。
「朝ごはん、作りに来ました」
意味がわからなかった。
「帰って」
「はい」
あの子はあっさり帰った。
翌週も座っていた。
「帰って」
「はい」
また帰った。
三週目、私は階段の下で足を止めた。
あの子はレジ袋を膝に抱えたまま、少し眠そうな顔で私を見上げた。
手すりの錆が、朝の光でぼんやり白く光っていた。
「あんた、何がしたいの」
「お腹、空いてないですか」
答えになっていなかった。
答えになっていないのに、私はそのとき、自分の腹が鳴らないように息を止めていた。
結局、上がらせた。
それが始まりだった。
※
あの子は、うちの台所の道具をほとんど使わない。
柄の先が黒く焦げた木べらを、毎週、自分の鞄から出す。
持ち手のところが、指の形に浅くへこんでいる。
それが誰の木べらだったか、私は最初の日から知っていた。
知っていて、聞かなかった。
聞けば、この時間の意味が確定してしまう気がしたからだ。
あの子の作るものは、正直に言えば、驚くほどうまくはない。
味噌汁はいつも少し薄いし、鮭は端が焦げる。
だし巻きだけは、年々きれいになった。
最初のころは卵の縁が破れて、皿の上でだらしなく崩れていた。
それが今は、菜箸の先ひとつで、すっと折り返される。
うまくなったね、と言ったことは一度もない。
去年の冬、私は水曜の朝に熱を出した。
店から自転車を押して帰る途中で、視界の端が白く滲んだ。
外階段の下まで来ると、あの子はいつものように三段目にいた。
私の顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
それだけだった。
三年のあいだ、あの子は一度も、大丈夫ですか、と私に聞かなかった。
その朝も、黙って鍋を出して、粥を炊いた。
米が開くまでのあいだに窓を細く開け、換気扇を回し、私を布団のほうへ押しやった。
粥には、梅干しの種が入ったままだった。
「種、取ってよ」
「取ると、香りが逃げます」
「誰が言ってたの、そんなこと」
あの子は答えなかった。
答えないで、帰り際に冷蔵庫からポン酢を持って帰った。
使いもしないポン酢が減っていく理由を、私はその朝、本気で腹立たしく思った。
腹立たしく思いながら、粥は全部食べた。
去年の夏には、台風で朝から電車が止まった水曜があった。
さすがに来ないだろうと思って、私は自転車を押して帰った。
外階段の三段目に、あの子はいた。
髪も鞄も濡れて、レジ袋の中で葱が折れていた。
「歩いてきました」
「馬鹿じゃないの」
「四十分くらいです」
「馬鹿じゃないの」
二度言った。
その朝は素麺だった。
茹でて、冷やして、氷を浮かべて、薬味は折れた葱だけだった。
窓の外で、隣の家のトタンがずっと鳴っていた。
「こんな日に来なくていいのに」
「水曜なので」
それで答えになっていると思っている顔だった。
あの子は、保育園の話をほとんどしない。
一度だけ、給食を食べない子がいる、と言ったことがある。
「なんで食べないの」
「わかりません」
「聞けばいいじゃない」
「聞くと、食べるふりをするので」
あの子は箸を置いた。
「だから、その子の隣に座って、私が自分のを食べるだけにしてます」
「それだけ」
「それだけです」
ずいぶん気の長い子だと、私はそのとき思った。
三か月かかりました、とあの子は言った。
「何が」
「その子が、いちごを一粒だけ食べたんです」
報告としては地味すぎて、私は思わず笑った。
「そのいちご、私が切ったんです」
「切っただけでしょう」
「はい。でも、私が切ったんです」
あの子は、そこだけ少し得意そうだった。
開けた窓から、通学路の子どもの声が上がってきていた。
店の休憩室で、惣菜の戸倉さんに言われたことがある。
「あの子、まだあんたんとこ行ってるの」
「行ってます」
「義理堅いねえ」
義理。
その一語が、しばらく喉に引っかかっていた。
義理というのは、誰かに対して立てるものだ。
あの子が義理を立てている相手は、私ではない。
ハルだ。
ハルが、いなくなる前に、あの子に何か言ったのだ。
あの人のこと見ててあげて、とかなんとか。
そう思いついた日から、水曜の朝が少しずつ重くなった。
私は憐れまれている。
いなくなった友達の、最後の頼みごとの、対象になっている。
それが三年も続いている。
台所から味噌汁の匂いが立つたび、私はそのことを考えた。
考えて、何も言わなかった。
言ってしまえば、あの子は理由を失って、来なくなる。
美奈が両親のいない子だということは、店にいたころから知っていた。
伯母の家で育って、高校を出てすぐひとりで暮らし始めたことも。
だから余計に、この子は義理堅いのだと思っていた。
ときどき、あの子は台所の隅で何かを書いていた。
無地の大学ノートだった。
表紙に、油性ペンで「水曜」とだけ書いてある。
私が覗こうとすると、さりげなく閉じた。
献立でも書いているのだろうと思っていた。
栄養士だから、そういう癖があるのだろうと。
※
五月の水曜だった。
あの子は、だし巻きを焼きながら、こちらを見ずに言った。
「私、結婚します」
菜箸の先が、卵の縁をきれいに折り返した。
「相手、保育園の子のお父さん、じゃないですよ」
「聞いてない」
「たまに疑われるんです」
「で」
「来月、引っ越します」
「どこ」
「九州の、島です」
「島」
「船で一時間くらいのところです」
私は、まな板の上の胡瓜を、意味もなく端から薄く切っていた。
「あと、四回です」
あの子はそう言って、だし巻きを皿に移した。
「相手の人は、あんたが水曜の朝どこに行ってるか、知ってるの」
「知ってます」
「なんて言ったの」
「大事な人のところ、って言いました」
箸が止まった。
「大袈裟」
「そうですか」
あの子は、味噌汁の椀を私の前に置いた。
その日の味噌汁は、いつもよりほんの少しだけ濃かった。
せいせいする、と私は言った。
「毎週毎週、人の冷蔵庫を勝手に空にして、勝手に朝ごはん作って、勝手に帰って」
「はい」
「ようやく静かになる」
「はい」
「そんな義理、もう果たしたでしょう」
言ってから、しまった、と思った。
義理、という言葉を、私は初めて口に出してしまった。
あの子は少しだけ動きを止めて、それから、いつも通りに味噌汁をよそった。
椀の底で、若布がゆっくり開いた。
残りの四回は、あっという間だった。
一回目に、あの子は私の茶碗を新しいものに替えた。
二回目に、製氷皿を洗った。
三回目に、換気扇のフィルターを替えた。
引っ越していく人が、自分の部屋ではなく、私の部屋を片づけているようだった。
私は何も手伝わなかった。
手伝えば、終わりを認めることになる気がした。
※
最後の水曜、あの子は私より先に部屋にいた。
階段を上がる途中から、出汁の匂いがした。
台所に湯気が立って、窓の桟の埃まで金色に光っていた。
献立は、ひじきの煮物と、鮭の塩焼きと、豆腐と若布の味噌汁と、だし巻きだった。
ハルが惣菜のケースで一番よく作っていたものだ。
私は靴を脱ぎながら、それを見た。
見て、腹の底から熱いものが上がってきた。
座る前に、言ってしまった。
「ハルに、頼まれたんでしょう」
あの子の背中が止まった。
「あの人が、いなくなる前に、あんたに言ったんでしょう。あの人のこと見ててあげてって。だから三年も来たんでしょう」
換気扇の音だけが、しばらく回っていた。
「憐れむのは、やめて」
言葉にすると、思っていたよりずっと、みっともない声になった。
「私はひとりで平気なの。ずっと平気だったの。あんたが来る前から」
あの子は火を止めた。
そして、こちらを向いた。
「土屋さん」
「なに」
「ハルさんに、あなたを助けなさいって言われたことは、一度もありません」
聞き違いだと思った。
あの子は鞄からノートを出して、テーブルの端に置いた。
表紙に「水曜」と書いてある、あの無地の大学ノートだ。
「一ページ目、ハルさんの字です」
開いた。
丸くて少し右上がりの、見慣れた字が四行、番号を振って並んでいた。
一、水曜の朝、あの人の部屋へ行くこと。
二、帰るとき、冷蔵庫から何かひとつ持って帰ること。
三、大丈夫ですか、と聞かないこと。あの人は、聞かれると嘘をつくから。
ここまでは、私の想像した通りだった。
想像した通りで、それでも、指が四行目で止まった。
四、これは、あなたが独りでご飯を食べなくていいようにする方法です。
あの人には、内緒で。
ページをめくった。
二ページ目からは、あの子の字だった。
日付と、その日に作ったものだけが、几帳面に並んでいた。
鮭。
だし巻き。
ひじき。
粥。
素麺。
ときどき、献立の横に短い言葉が添えてあった。
今日は眉間に皺、なし。
ポン酢、返した。
うまくなったね、とは言われなかった。
三年ぶんの水曜が、そこに全部あった。
顔を上げた。
あの子は、テーブルの角を見ていた。
「高校を出て、うちの店に入って、ひとりで暮らし始めて」
あの子はそこで一度、息を吸った。
「ご飯って、ひとりで食べると、どうしてこんなに早く終わるんだろうって、ずっと思ってました」
「それを、ハルさんに言ったこと、一度だけあるんです」
「一度だけ」
「はい。バックヤードで、廃棄のコロッケ食べながら」
その日のことを、私はまるで覚えていない。
廃棄のコロッケなんて、週に何度もあった。
何度もある日の、何気ない一言だった。
ハルは、それを聞き流さなかったのだ。
聞き流さないで、ひとりで、こんな面倒な仕組みを考えた。
私に頼まず、私に知らせず、私の冷蔵庫を勝手に使って。
私は、ハルの顔を思い出した。
あの人は、そういう一度きりの話を、絶対に忘れない人だった。
「卵、いつもふたつ使ってました」
「知ってる。減るから」
「ひとつは、私の分です」
あの子は、そこで初めて声を崩した。
「土屋さんの冷蔵庫から何か持って帰るの、最初はすごく嫌でした。泥棒みたいで」
「泥棒だよ」
「でも、持って帰ると、次の水曜に、返しに行く理由ができるんです」
私は木べらを見た。
柄の先が黒く焦げた、指の形にへこんだ木べら。
それをノートに書いた人はいない。
毎週それを鞄に入れてきたのは、この子が自分で決めたことだ。
私は立ち上がって、あの子の背中を力いっぱい叩いた。
「痛い」
「うるさい」
「痛いです」
「あのね」
自分の声が震えないように、腹に力を入れた。
「三年ありがとうございました、って私が言うと思ってた」
「思ってません」
「言わないよ」
「はい」
「言わないけど」
言葉が途中で引っかかった。
「向こうで独りでご飯食べたら、承知しないから」
あの子は両手で顔を覆った。
「島にも、水曜はあるでしょう」
「あります」
「じゃあ、あるじゃない」
「船で一時間なんて、うちの店から本社に行くより近い」
それは嘘だったが、あの子は洟をすすりながら頷いた。
玄関で、あの子は靴を履いた。
外階段の三段目まで降りて、振り返った。
「土屋さん」
「なに」
「一度も、言ってくれなかったですよね」
手すりの錆が、朝の光で白く光っていた。
世界じゅうが、その言葉を言い合っている時間だった。
おはよう、と私は言った。
あの子は泣きながら、おはようございます、と返した。
その朝も、私の冷蔵庫からは、卵がふたつ減っていた。