祖母は大根を四つに切った

雨夜、ラジオと湯気のある和室

祖母が最後にラジオのダイヤルを回した日のことを、僕はきっと一生忘れません。

あの日、僕は祖母の隣に座って、録音機のレベルメーターばかりを見つめていました。

針が小さく揺れるたびに、指の先から順に冷たくなっていくのが分かりました。

祖母の指は、いつも何かを少しだけ戻すように動いていました。

ダイヤルを右のいっぱいまで回して、それから、ほんの少しだけ左へ戻す。

子どもの頃から、何度も見てきた手つきです。

意味を尋ねたことは、一度もありませんでした。

僕は二十七歳で、映像を編集する仕事をしています。

どこの会社にも属していません。

家賃六万円の部屋の壁際にモニターを二台並べて、他人が撮ってきた素材を切って、繋いで、音を整える。

それが僕の一日のほとんどです。

仕上げた映像は、たいてい別の誰かの名前で世に出ていきます。

そういう仕事です。

不満はありません。

ただ、三年前の秋に祖母から言われた一言だけが、今も喉の奥に引っかかったままでした。

「あんたのやってることは、形に残らんね」

大学を辞めてこの仕事で食べていくと告げた日の、祖母の声です。

台所の椅子に浅く腰かけて、湯呑みの縁を親指でなぞりながら、祖母はそう言いました。

怒鳴られたわけでも、責められたわけでもありません。

ただ、天気の話でもするような、平らな言い方でした。

だから、余計にこたえたのだと思います。

僕は棚の上の古いラジオを指さして、言い返しました。

「そっちこそ、ただのガラクタじゃないか」

言い終わる前から、後悔していました。

祖母は何も言わず、湯呑みを流しに運びました。

水を流す音だけが、ずいぶん長く続きました。

その背中を見たのが、三年前です。

それきり、僕は実家に帰っていませんでした。

電話も、正月の一度だけ。

祖母が出ると、母に代わってもらっていました。

形に残らない、という言葉は、そのあいだじゅう僕の机の上に座っていました。

納品するたび、クレジットに他人の名前が並ぶのを見るたび、その言葉が小さく足を組み直すのです。

母から電話があったのは、六月のよく晴れた午後でした。

「おばあちゃん、だいぶ忘れっぽくなってね」

母の声は、洗い物をしながらのそれでした。

水音の向こうで、言いにくそうに間があきました。

「あんたの仕事でさ、おばあちゃんの話、残しておいてくれないかな」

僕は返事をする前に、天井の隅を見ていました。

三年ぶりの帰省は、思っていたよりずっとあっけないものでした。

駅から乗ったバスは昔のままの色で、揺れ方まで覚えている通りでした。

玄関を開けると、線香と、少し焦げた油の匂いがしました。

この匂いを、僕は三年間、一度も思い出さずにいられたのだと気づきました。

祖母は居間にいて、僕を見上げました。

「どちらさま」

心臓が、変な形に縮んだ気がしました。

けれど祖母はすぐに眉をほどいて、僕の名前を呼びました。

「祐介。ずいぶん背が伸びたねえ」

もう十年、伸びていません。

僕は笑おうとして、うまく笑えませんでした。

夕方、祖母は台所に立ちました。

まな板の音は、記憶よりも少しゆっくりでした。

大根の皮を厚めに剥いて、輪切りにして、面を取って。

祖母は大根を四つに切りました。

その晩、食卓についたのは僕と祖母の二人だけです。

母は職場の当番で、遅くなると言っていました。

皿の上には、煮えた大根が四つ、きれいに並んでいました。

「多いよ、これ」

僕が言うと、祖母は味噌汁の椀を持ったまま、首を少し傾げました。

「そうかい」

それだけでした。

大根は、出汁がよく染みて、箸を入れると音もなく割れました。

舌の上でほどけていく甘さに、僕は何も言えなくなりました。

翌日から、僕は仕事道具を居間に広げました。

小さな録音機と、細いマイク。

祖母に昔の話を聞かせてほしい、と頼みました。

祖母はマイクを見て、口を閉じました。

「機械に喋るのは、好かん」

「別に、これは誰かに見せるものじゃないよ」

「じゃあ、何のために残すの」

返す言葉がありませんでした。

その日は、湯呑みが二回鳴っただけで終わりました。

祖母には、決まった時間がありました。

夕方の五時半になると、必ず棚の上のラジオに手を伸ばすのです。

木の箱の、正面に布を張った古い型。

電源を入れると、内側がじわりと温まって、埃の焼ける匂いが少し立ちます。

祖母のラジオは、番組を流したためしがありませんでした。

いつも、ざあざあという砂のような音だけを鳴らしています。

「今は、その周波数、何もやってないよ」

僕が言うと、祖母はダイヤルに指を置いたまま答えました。

「知ってる」

その横顔に、逆らえない何かがありました。

僕は録音ボタンを押しませんでした。

思い出したことがあります。

小学校に上がる前、僕はこの居間で祖母の膝の上に座らされていました。

夕方の五時半、祖母はいつものようにラジオをつけます。

幼い僕は、砂のような音がこわくて、祖母の袖を握っていました。

「なんにも聞こえないよ」

そう訴えると、祖母は僕の耳を両手でふさいで、こう言ったのです。

「聞こえないときはね、聞こえるまで待つの」

手のひらは、味噌と大根の匂いがしました。

てのひらの中で、自分の心臓の音だけが大きく鳴っていたのを覚えています。

あのとき僕は、祖母が何を待っているのかを、一度も考えませんでした。

子どもというのは、そういうものです。

三日目の夜、僕は台所で母に聞きました。

「あのラジオ、まだ壊れてないの」

母は布巾を絞る手を止めて、少し笑いました。

「もう十年前から、雑音しか出ないよ」

「じゃあ、なんで」

母は答えず、蛇口の水を細くしました。

「私も、聞いたことないの」

その夜のことでした。

喉が渇いて起きた僕は、居間に明かりがついているのに気づきました。

襖の隙間から覗くと、祖母がラジオの前に正座していました。

寝間着のまま、背筋をまっすぐ伸ばして。

砂のような音の中に、祖母の声が落ちました。

「まさお」

僕の名前ではありません。

父の名でも、祖父の名でもありませんでした。

祖母はもう一度、同じ名を呼びました。

「まさお。ここにいるよ」

僕は襖に手をかけたまま、動けませんでした。

朝になって、僕は母にその名を伝えました。

母は湯を沸かす手を止めて、しばらく黙っていました。

それから押し入れの奥に頭を突っ込んで、菓子の空き箱を引っぱり出しました。

蓋を開けると、紙の束が入っていました。

葉書ほどの大きさに切った、わら半紙です。

茶色く焼けて、端が波打っていました。

一番上の一枚には、鉛筆でこう書いてありました。

「東京都本所区。昭和二十年三月十日の朝、両国橋のたもとで手が離れました。名前は正夫、七歳。左の眉の上に、三日月のかたちの傷があります」

その下に、同じ文章が何度も何度も書かれていました。

字が少しずつ大人びていくのが分かりました。

十二歳の字から、二十歳の字へ。

そして、三十を過ぎた頃の字へ。

「これね」

母は一枚を指でつまんで、光に透かしました。

「尋ね人の時間っていう放送があったんだって。戦争のあと、ずっと」

「ラジオの」

「そう。行方の分からなくなった人の名前を、毎日読み上げてくれるの」

僕は束の厚みを見ました。

指で挟むと、二センチ近くありました。

これは、下書きです。

本番の葉書は、全部この家を出ていったのです。

僕は一枚ずつ、めくっていきました。

紙は指の腹に少しざらつき、めくるたびに乾いた音を立てました。

途中の一枚だけ、文面が違っていました。

「もう大人になっているはずです。左の眉の上を見てください」

その一行の下に、消しゴムで消した跡がありました。

光にかざすと、鉛筆の窪みだけが残っています。

「わたしのことは、忘れていてもかまいません」

消して、書き直して、また消して。

祖母はきっと、この一行を出すか出さないかで、何日も迷ったのだと思います。

僕は箱の蓋を閉めて、押し入れの元の場所へ戻しました。

戻すとき、手が少し震えていました。

その日から、僕はマイクを片づけました。

五時半になると、ただ祖母の隣に座るようにしました。

砂のような音を、一緒に聞くだけです。

四日目の夕方、祖母がぽつりと言いました。

「あんた、退屈でしょう」

「退屈だよ」

祖母は、はじめて声を出して笑いました。

「正直な子だ」

笑い皺の畳まれ方が、子どもの頃に見たままでした。

祖母が話しはじめたのは、それから二日後の、雨の夕方でした。

窓を打つ音のせいで、ラジオの雑音が少し遠くなっていました。

「あの朝はね、空が赤いんじゃなくて、茶色かったの」

僕は膝の上で手を組んだまま、うなずきました。

「母さんが正夫の手を引いて、私が母さんの帯を掴んで、橋のほうへ走ったのよ」

「うん」

「人がね、川みたいに流れるの。押されて、足が地面から離れるくらい」

祖母は自分の右手を持ち上げて、しばらく見つめました。

「気がついたら、この手に、誰も繋がってなかった」

雨の音が一段強くなりました。

「母さんとは、次の日に会えたの。橋の東の、焼けてない材木屋の前で」

「正夫さんは」

祖母は首を横に振りました。

それから、ゆっくりと続けました。

「毎週ね、決まった時間に、ラジオの前に座るのよ。母さんと二人で、正座して」

「名前が読まれるのを待って」

「そう。ラジオの人が、知らない人の名前を、一日に何十も読むの。私たちはそれを、息を止めて聞くの」

僕は、砂のような音の向こうに、その声を探すような気持ちになりました。

「読まれた?」

祖母は、少し笑いました。

「一度もね」

そこで言葉が切れました。

時計の秒針だけが、部屋の中を歩いていました。

「でも、葉書は出し続けたんだね」

「出したよ。母さんが動けなくなってからは、私ひとりで」

「放送、途中で終わったんじゃないの」

「終わったよ。昭和三十七年に」

祖母はダイヤルに手を置きました。

「でも、この箱は終わらなかったから」

僕は、その言い方の意味を、しばらく掴めずにいました。

祖母は続けました。

「あんた、聞いてくれる?」

「うん」

「大根はね」

急に台所の話になったので、僕は少し身構えました。

「うちは四人家族だったの。父さんと、母さんと、私と、正夫」

皿の上に並んでいた、四つの大根が浮かびました。

「四つ目は、いつか帰ってくる子の分よ」

喉の奥が、いきなり熱くなりました。

七十年です。

祖母はこの七十年、毎晩、帰ってこない弟の席を用意し続けていたのです。

誰にも言わず、誰にも気づかせず、ただ大根を一つ余分に鍋へ入れて。

「おばあちゃん」

声が掠れました。

「見つからなかったんだね」

祖母は、僕のほうを向きました。

その目は、驚くほど静かでした。

「見つからなかったんじゃないの。まだ、探している途中なの」

僕は、うつむきました。

膝の上に落ちたものを、祖母に見られたくありませんでした。

祖母の手が、ダイヤルにかかりました。

右のいっぱいまで回して、それから、ほんの少しだけ左へ戻す。

あの手つきです。

雑音の粒が、わずかに細かくなりました。

「こうすると、いちばん遠くが入るのよ」

そう言って、祖母は笑いました。

「昔ね、遠い放送を拾うときの癖なの。右にいっぱい振って、少しだけ戻す。そこにね、いちばん遠い声が引っかかるの」

僕は、三年前に自分が言った言葉を思い出していました。

ただのガラクタじゃないか。

そう言って指さした木の箱は、祖母がまだ立っていられる場所だったのです。

「おばあちゃん、あのとき、ごめん」

祖母は、少しだけ首を傾げました。

覚えていないのかもしれません。

それでも僕は続けました。

「ガラクタなんて言って、ごめん」

祖母は、僕の膝を二回、軽く叩きました。

「祐介は、音の仕事だったね」

「映像だけど、音もいじるよ」

「じゃあ、形に残らないんじゃないね」

顔を上げました。

祖母は、雑音の鳴る箱のほうを見ていました。

「声が、残るんでしょう」

僕は、返事の代わりに立ち上がりました。

畳んで置いてあった鞄から、録音機とマイクを出しました。

指が震えて、ケーブルの端子がなかなか刺さりませんでした。

「録っていい?」

祖母はうなずいて、背筋を伸ばしました。

正座をして、両手を膝の上に揃えて。

ラジオの前に座るときと、まったく同じ姿勢でした。

「なんて言えばいい」

「名前と、住所。おばあちゃんが葉書に書いてたやつ」

「あれを、ここで」

「うん。今度は、こっちに残るから」

祖母は、しばらく黙っていました。

それから、ゆっくりと息を吸いました。

「東京都本所区。昭和二十年三月十日の朝、両国橋のたもとで手が離れました」

レベルメーターの針が、右へ振れました。

「名前は正夫、七歳。左の眉の上に、三日月のかたちの傷があります」

針が、少しだけ戻りました。

「もし、これを聞いた人がいたら」

そこで、祖母の声が一度だけ崩れました。

僕は録音を止めませんでした。

「姉が、待っています」

ヘッドホンの中で、雨の音と、祖母の呼吸と、砂のような雑音が、ひとつに混ざっていました。

秋になって、祖母は家を出ました。

坂の上の、窓の大きな施設です。

荷物はほとんど持っていきませんでした。

ラジオは、僕が引き取りました。

アパートのモニターの横に置くと、その一角だけ時代が違って見えました。

僕はあの録音を、三分の短い作品にまとめました。

雨の音と、祖母の声と、雑音だけの映像です。

画面には、わら半紙の束が映るだけ。

誰にも頼まれていない仕事でした。

公開するとき、僕ははじめて、自分の名前をクレジットに入れました。

再生数は、四桁にも届きませんでした。

それでも、知らない誰かから短い感想が届くたび、僕は少しだけ息が深くなるのを感じました。

面会に行くと、祖母は僕を「どちらさま」と呼ぶ日が増えました。

それでも、イヤホンを耳に入れて自分の声を聞かせると、祖母は決まって背筋を伸ばします。

正座はできなくなったので、車椅子の上で、両手を膝に揃えるのです。

「上手に録れてるね」

毎回、同じ感想を言います。

僕は毎回、同じ返事をします。

「うん。よく残ってるよ」

部屋に帰ると、僕は棚に置いた祖母のラジオに手を伸ばします。

右のいっぱいまで回して、それから、ほんの少しだけ左へ戻します。

砂のような音が、部屋いっぱいに広がります。

その中に、探している声は、まだ聞こえません。

台所に立って、鍋に湯を沸かします。

大根の皮を厚めに剥いて、輪切りにして、面を取って。

ひとり暮らしの部屋で、僕は今夜も、大根を四つに切ります。

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