窯場の町の、石膏の匂いがする家
長崎の波佐見で育ちました。
谷にそって窯元が並んでいて、朝になると、どの家からも同じ音がします。
石膏の型を割る音です。
父は生地屋でした。
絵付けもしなければ、窯も持っていません。
泥漿を型に流し込んで、白い素地だけを作って窯元に納める仕事です。
裏方の、そのまた裏方でした。
父の手はいつも白く粉を吹いていて、握手をすると、こちらの手まで乾きました。
風呂に入っても、爪の際の白は落ちませんでした。
母は絵付けの内職をしていました。
茶碗の縁に、藍の線を一本入れる。
それだけで一枚いくら、という仕事です。
台所の隅に板を渡して、そこが母の仕事場でした。
家は、貧乏でした。
そのことを、私は同級生の家に上がるまで知りませんでした。
よその家の廊下には、物が置いてありませんでした。
うちの廊下には、乾燥中の素地が並んでいて、通るときは横になって歩くのが当たり前だったのです。
※
藍の線と、鉛筆の芯
母の仕事を、少しだけ書いておきます。
茶碗の縁に、藍の線を一本入れる。
それだけの仕事ですが、線が太ければ返され、細すぎても返されました。
母は、右の小指の先を茶碗の内側に添えて、轆轤を左手で回します。
筆はほとんど動きません。
器のほうが回って、線が生まれるのです。
私はその横で宿題をしていました。
鉛筆を削るのは、いつも母でした。
小刀で、芯の出方を揃えて削ります。
「そんなに長う出さんでよかとに」
「長かほうが、書きやすかろうもん」
母は、そう言って笑いました。
あとで知ったのですが、芯を長く出すのは、鉛筆を長持ちさせるための削り方でした。
木の部分を多く落として、芯を使い切る。
そういう削り方を、その家では誰も説明しませんでした。
説明されないまま、当たり前として渡されるものが、あの家にはいくつもあったのです。
※
徳さんの店と、押してはいけない紙袋
町にはマルトクという店がありました。
駄菓子と文具とおもちゃを、同じ棚に置いている店です。
店主の徳さんは、いつも帳場で耳掻きをしていました。
子どもが入ってきても顔を上げません。
ただ、棚の位置は全部覚えていて、「それは奥から二番目」と背中で言うのです。
その店の、いちばん高い棚に、ブリキの消防車がありました。
手で押すと、はしごが伸びます。
塗りの赤が、蛍光灯の下で少しだけ橙色に見えました。
値札は、私の一年分の小遣いより上でした。
毎日、学校の帰りに寄って、それを見ていました。
買わない客のことを、徳さんは追い出しませんでした。
「見るのは、ただやけん」
それだけ言って、また耳掻きに戻りました。
家のことも書いておきます。
押入れの奥、母の嫁入り道具の行李の上に、いつも一つだけ、触ってはいけない紙袋がありました。
畳んだ口が、輪ゴムで二重に留めてありました。
中身を訊くと、母は「大人のもん」とだけ答えました。
父は何も言いませんでした。
触ってはいけないものが家に一つあるというのは、子どもにとって、そう悪いことではありません。
世界に一つだけ、まだ開けていない扉があるという感じがするからです。
※
徳さんの店には、私のほかにも、買わない子どもが何人も来ていました。
みんな同じで、棚の前に立って、しばらくして帰るのです。
ある日、私より二つ下の女の子が、レジ横のくじを引きたいと泣いていました。
母親が、値段を見て首を振ったのです。
徳さんは、耳掻きを止めずに言いました。
「そこのは、外れの箱ばい。引いても、もう何も出らん」
女の子は、鼻をすすって帰りました。
くじの箱は、あとで見たら、ちゃんと当たりが入っていました。
そういう嘘のつき方をする人でした。
子どもに恥をかかせない嘘です。
だから、私が箱を返しに行った朝、中を確かめずに棚へ戻したのも、あの人らしいやり方だったのだと、いまなら分かります。
※
盗った日のこと
小学四年の、六月でした。
梅雨の晴れ間で、道の土が乾きかけていたのを覚えています。
私は、その消防車を上着の中に入れて、店を出ました。
計画したわけではありません。
そういうことをする子どもでもなかったと、自分では思っています。
ただ、その日は棚の位置が変わっていました。
いちばん高い棚から、手の届く段へ下ろされていたのです。
手が届く、というだけのことで、人はおかしくなります。
三十メートルも行かないうちに、後ろから肩をつかまれました。
徳さんではありませんでした。
店の裏で自転車を直していた、近所の高校生でした。
その日の夕方のことは、断片しか覚えていません。
父の掌が、耳の下に当たった音。
台所の板の上で、母の筆が転がって、藍の線が茶碗の外へ流れたこと。
父は、怒鳴りませんでした。
一度だけ打って、それから土間に立ったまま、長いこと動きませんでした。
怒鳴られたほうが、どれだけ楽だったか分かりません。
「明日、返しに行く」
父はそれだけ言いました。
「一緒に行かんでよか。おまえが、ひとりで行け」
※
返しに行った朝
翌朝、私はマルトクの引き戸を開けました。
徳さんは、いつもどおり帳場で耳掻きをしていました。
顔を上げませんでした。
私は箱を差し出して、頭を下げました。
言葉は出ませんでした。
徳さんは、箱を受け取ると、中を確かめもせずに、棚のいちばん高いところへ戻しました。
手の届かない位置です。
「もう、下ろさん」
それだけでした。
叱られませんでした。
叱ってほしかったのだと思います。
叱られれば、それで終わりにできるからです。
帰り道、私は用水路の縁を歩きながら、この件は一生続くのだと悟りました。
子どもの、大げさな悟りです。
ただ、あながち間違ってもいませんでした。
※
誕生日の箱
八月に、私の誕生日が来ました。
その年は、何もないだろうと思っていました。
思っていたというより、期待しないことに決めていました。
夕飯のあと、父が押入れの前に立ちました。
あの紙袋を、下ろしました。
輪ゴムを外す音が、やけに大きく聞こえました。
中から出てきたのは、ブリキの消防車でした。
私が盗った、あれと同じものです。
「お前これ、欲しかったんやろ」
母が言いました。
その途端、私は泣きました。
嬉しかったからではありません。
盗ったものを、そのまま与えられたと感じたからです。
罰として渡されたのだと思いました。
父は、何も言いませんでした。
ただ、消防車を私の前に置いて、自分は先に風呂へ立ちました。
箱から出したそれの底には、小さな押し傷が、二つ並んでついていました。
爪でつけたような、浅い凹みです。
店の棚のものには、こんな傷はありませんでした。
私はそのことを、二十年以上、誰にも言いませんでした。
※
徳さんが教えてくれたこと
父が倒れたのは、私が三十を過ぎた年でした。
幸い一命はとりとめて、右手だけが少し不自由になりました。
生地屋は、そこで畳みました。
片づけに帰ったとき、マルトクがまだ開いていることに驚きました。
徳さんは八十を過ぎていて、帳場で、やはり耳掻きをしていました。
私が名乗ると、少しだけ顔を上げました。
「生地屋んとこの、次男坊か」
「はい」
「消防車の」
私は、その場で立ち尽くしました。
覚えているはずがないと思っていたのです。
徳さんは、耳掻きを置きました。
「あんた、あれ、返しに来たやろ」
「はい」
「あんとき、わし、中を見んかった」
「見なかった、とは」
「見んでも、分かっとったけん」
そして、こう続けました。
「あんたの親父さんが、あれと同じもんを、その年の正月に買うとる」
「正月、ですか」
「うん。取り置きばい。半年、うちの帳場の下に置いとった」
言葉が、うまく入ってきませんでした。
徳さんは、帳場の下から古い綴りを出して、私の前でめくりました。
鉛筆の字で、日付と品名と、金額が書いてありました。
正月の四日。
分割の、最後の入金は、六月の頭になっていました。
私が盗ったのは、その二週間あとです。
「親父さんな、あの日、店の床に一回落としとる」
「落とした」
「取り置きの箱、渡すときにな。手が、震えとった」
底の押し傷の意味が、そこで分かりました。
あの二つの凹みは、店の棚で付いたものではありません。
父が受け取るときに落とした傷でした。
父は、私が盗ったその品を、半年前から、押入れの奥に持っていました。
私は、すでに家にあるものを、盗っていたのです。
※
徳さんは、綴りを閉じてから、もう一つ教えてくれました。
「あんたが盗った日な」
「はい」
「棚の位置ば、下げたのは、わしやなか」
「え」
「あんたの親父さんが、前の日に来てな。あの子が背伸びしよるけん、下ろしてやってくれんね、て」
私は、しばらく言葉が出ませんでした。
手の届く段に下りていたのは、偶然ではなかったのです。
父は、息子が毎日その棚の前に立っていることを知っていました。
そして、あと二か月で自分の手から渡せることも知っていました。
だから、せめて近くで見せてやりたかったのでしょう。
「わしが下ろさんかったら、あんたも盗らんかったかもしれん」
徳さんは、そう言って、それきり黙りました。
私は首を振りました。
下ろしたのが誰であれ、手を出したのは私です。
ただ、父がそのことを一生知らずにいてくれてよかったと、心から思いました。
いや、知っていたのかもしれません。
土間に立ったまま動かなかったあの時間は、息子を打った痛みだけではなかったはずです。
※
正月から六月までの、半年
綴りの日付を見ながら、私は父の半年を数えていました。
正月の四日に取り置きを頼み、六月の頭に払い終えている。
生地屋の仕事は、窯元からの注文で決まります。
冬は、注文が落ちる季節でした。
その冬に、父が何をしていたか、母に訊きました。
「型直し、しよったよ」
「型直し」
「よその窯の、傷んだ石膏型ば、夜に直しよった」
父は、自分の仕事が終わったあと、他所の型を引き受けていたのです。
石膏の型は、五十回も使えば角が丸くなります。
それを削り直して、寸法を戻す。
細かくて、割に合わない仕事だと、あとで同業の人から聞きました。
「一つ、なんぼだったんですか」
「さあ。安かったと思うよ」
母は、それ以上は言いませんでした。
ただ、その冬、父の咳が長引いていたことは覚えているそうです。
石膏の粉を、夜通し吸う仕事です。
私は、あの消防車の値段を、いまも正確には知りません。
知らないままにしています。
金額に換算した瞬間に、何かが取り返しのつかない形になる気がするからです。
※
言わなかった理由
なぜ言わなかったのか。
その答えは、母から聞きました。
父が回復したあと、実家の台所で、母が茶碗を拭きながら話してくれたことです。
「あんたを打った晩な」
「うん」
「お父さん、押入れ開けて、紙袋のとこに座っとった」
「座って、何を」
「なんも。ただ座っとった。一時間くらい」
母は、そのとき初めて、父が泣くところを見たそうです。
声は出さなかった、と言っていました。
父は、その場で紙袋を開けて、事情を話すこともできたはずです。
「おまえが欲しがっとったのは、もう買ってある」と言えば、その夜のうちに全部終わっていました。
そうしなかったのは、私が二重に自分を責めると分かっていたからです。
盗んだことと、待てなかったこと。
後者のほうが、子どもには重いのです。
八月まで待って、何食わぬ顔で渡す。
それが、父にできる唯一のやり方でした。
「お前これ、欲しかったんやろ」
あの一言には、責める調子がまるでありませんでした。
いま思えば、あれは、なかったことにするための言葉でした。
盗みも、殴った音も、土間に立っていた時間も、全部、誕生日の箱の中にしまってしまおうとしたのです。
※
父の葬儀の日に、マルトクの徳さんの娘さんが来てくれました。
徳さんは、その三年前に店を閉めて、施設に入っていました。
娘さんは、香典とは別に、古い封筒を一つ置いていきました。
中には、あの綴りのページが、丁寧に切り取って入っていました。
「父が、いつか渡せと言っていたので」
「いつか、というのは」
「生地屋さんが亡くなったら、と」
徳さんは、父が生きているうちは、私に見せるつもりがなかったのです。
見せれば、父の顔が立たなくなると思ったのでしょう。
あの町の大人は、みんなそうでした。
誰も説明しないまま、順番だけを守るのです。
私は、その紙を、父の紙袋に入っていた覚え書きと並べて、財布に入れました。
二枚とも、鉛筆の字です。
母の削り方で削った鉛筆の、芯の長い字でした。
※
底の傷を、指でなぞる
父は、その後さらに十二年生きて、去年、静かに逝きました。
右手が不自由になってからも、庭の隅で石膏をいじっていました。
もう納める先などないのに、型を一つ、作りかけたまま置いてありました。
遺品を片づけていたら、あの紙袋が出てきました。
輪ゴムは劣化して、触ると崩れました。
中には、マルトクの綴りから破いたらしい紙が一枚だけ入っていました。
正月四日、と日付があって、そのあとに、父の字でこう書いてありました。
「六月までに、そろえる」
それだけです。
誰に向けた言葉でもありません。
自分に向けた覚え書きです。
私は、その紙を財布に入れています。
消防車は、いまも手元にあります。
はしごは伸びなくなりました。
赤い塗りも、ところどころ剥げています。
それでも、底を返して、二つ並んだ押し傷を指でなぞると、あの晩の土間の父の背中が、はっきりと立ち上がってきます。
震える手で箱を受け取って、床に落として、それでも黙って持ち帰った人の背中です。
私にも、いま小学生の息子がいます。
この子が何かをやらかしたとき、私は父のようにできるだろうかと、たまに考えます。
たぶん、できません。
私は、たぶん全部言ってしまいます。
それでも、言わずに八月まで待った人がいたということを、私はもう知っています。
それだけで、じゅうぶんな相続だと思っています。
親が黙って背負っていたものに、ずっと後から気づく話としては、この一編もときどき読み返します。
そして、手元に残った古いものが記憶をまるごと連れてくる感覚については、こちらの話が近いように思います。
息子には、あの消防車を触らせています。
はしごが動かないので、すぐに飽きます。
先日、底の傷を見つけて訊いてきました。
「これ、なんでへこんどると」
「落としたっちゃんね」
「誰が」
「じいちゃんが」
息子は、ふうん、と言って、また放り出しました。
それでいいと思っています。
いつか、こちらが黙っていられなくなる日が来るでしょう。
そのときまでは、この傷は、ただのへこみのままでかまいません。
※
父の型は、いまも庭の隅にあります。
作りかけのまま、雨に打たれて角が丸くなりました。
直しに来る人は、もういません。
それでも、私は年に一度、その型を裏返して、たまった水を捨てにいきます。
捨てたところで、どうにもなりません。
どうにもならないことを続けるのが、この家のやり方だったのだと思います。
母は、いまも茶碗を拭くとき、縁を先に拭きます。
藍の線が入っていた場所です。
もう三十年、線など引いていないのに、指がその順番を忘れないのです。
あれからもう三十年以上が経ちました。
今でも、忘れられない思い出です。