娘の朝のおまじない

朝の光とランドセル

父親として失格に近いと、ずっと思っていた。

仕事から帰ればもう八時を過ぎていて、電気工事の現場で一日中外を歩き回ってきた体は、夕飯をかき込む間もなく重くなった。

「なつき、宿題したか」

それが俺の口癖だった。

「うん、もうした」

娘はいつも、そう答えた。

答えてから、また自分の部屋に戻っていった。

俺はそれを、普通のことだと思っていた。

俺は大石修平、三十九歳。

岩手・盛岡の電気工事の会社で、もう十五年働いている。

高圧線の点検から一般住宅の配線まで、とにかく外を歩き回る仕事だ。

夏は暑く、冬は手がかじかんで、ときどき足場の上から盛岡の町が丸ごと見える。

そういう仕事だ。

妻のゆかりとは三十の手前で結婚して、なつきが生まれたのはその二年後だった。

俺は子育てというものが、正直なところどうすれば正解なのかわからなかった。

抱っこは得意ではなかったし、絵本を読むのも口が回らなかった。

「なつき、宿題したか」「ご飯残すな」「早く寝ろ」

気がつくと、そういう言葉しか出てこなかった。

娘が七歳になった春のことだ。

新しいランドセルを買いに、妻と三人で駅前のデパートに行った。

なつきは迷わず赤を選んだ。

黄色いリフレクターが付いた、ぴかぴかの赤いランドセルだ。

レジに向かうとき、店員の女性が「かわいいですね、よく似合ってます」と言った。

なつきは少し照れくさそうに笑っていた。

俺は荷物を持ちながら、そのやり取りを横で眺めていた。

レジに向かうとき、なつきが振り返ってこっちを見た。

俺は「それでいいか」と言った。

なつきは「うん」と言って、また歩き出した。

もっと違う言葉をかけてやればよかった、と気づいたのはずいぶん後のことだ。

なつきが小学校に入ってからも、俺たちの会話はほとんど増えなかった。

なつきは何かというと「ねえお父さん」と話しかけてきた。

俺はいつも、コーヒーカップを持ったまま「うん」とだけ言った。

ちゃんと聞いているのかと妻には言われたが、聞いていた。

ただ、返す言葉が見つからなかった。

なつきはそれでも毎日話しかけてきた。

俺はそれが、うれしいのか申し訳ないのか、よくわからなかった。

小学二年生の夏。

担任の小川先生が家庭訪問に来た。

玄関で靴を脱ぎながら、先生はにこにこしていた。

「修平さん、なつきちゃんのこと、一つ聞いてもいいですか」

俺は内心どきりとした。

何かやらかしたか、と思った。

「毎朝、登校前に玄関で何かしていませんか」

妻が「何かしてるんですか?」と首を傾げた。

先生が言った。

「先日、クラスで好きなことを発表する時間があって、なつきちゃんが話してくれたんです」

俺は黙っていた。

「お父さんが毎日高いところで仕事をしているから、転ばないようにおまじないをしているって」

俺は「おまじない?」と聞き返した。

「玄関に吊してある安全帯に、毎朝そっと息を吹きかけるんだそうです。ふうって。それをやると、お父さんが怪我をしないって」

俺は言葉が出なかった。

電気工事で高所に上るとき、体に巻く安全帯がある。

俺のは紺色で、使い込んでくたびれた年代物だ。

仕事から帰ると、俺はいつも玄関の金具の棚にそれを吊していた。

娘がそこに気づいていたとは、知らなかった。

息を吹きかけているなんて、まったく知らなかった。

先生が帰ったあと、妻が「知らなかった?」と言った。

俺は頷いた。

「なつきって、お父さんのこと心配してるんだよね。いつも朝早いから」

妻の声は、何でもないようなトーンだった。

俺はその夜、なつきが眠ってから玄関に出た。

いつもの棚に、安全帯が吊してあった。

俺はしゃがんで、それをじっと見た。

紺色の厚い布が、蛍光灯の下で少し光っていた。

七歳の子供の、小さな息がここに吹きかけられているのかと思ったら、胸のどこかが重くなった。

泣くほどではなかった。

ただ、重かった。

俺は毎朝五時半に起きて、六時には家を出る。

なつきが起きてくるのは七時過ぎで、俺はいつもその前に出かけていた。

つまり俺は、娘が毎朝何をしているのか、何一つ見ていなかった。

それが今日まで七歳の娘が続けていたことだと、俺は昨日まで知らなかった。

翌朝、俺はいつもより三十分早く起きた。

なつきはまだ眠っていた。

俺は台所でコーヒーを淹れて、そのまま待った。

七時過ぎに、なつきが寝ぼけた顔でリビングに来た。

「お父さん、いた」

「いた」

俺は言った。

なつきは「珍しい」と笑った。

俺たちは、二人で朝ごはんを食べた。

妻がいつもより少し嬉しそうに、卵を焼いてくれた。

なつきはトーストを半分残した。

「全部食えよ」と俺は言った。

「食べる」となつきは言って、小さな口でもぐもぐと食べた。

いつもの朝だった。

いつもと少しだけ違う、いつもの朝だった。

なつきはランドセルを背負う前に、玄関に行った。

俺は追いかけずに、廊下の角からそっと見ていた。

なつきは棚の前でしゃがんで、安全帯に顔を近づけた。

ふうっと、小さく息を吹きかけた。

それから立ち上がって、ランドセルのバックルを留めた。

黄色いリフレクターが、廊下の蛍光灯を反射してきらっと光った。

「いってきます」

なつきが振り返って、俺を見た。

俺はそのとき、ちゃんと玄関に立っていた。

「気をつけて行けよ」

それだけしか言えなかった。

なつきは「うん」と言って、走って行った。

ドアが閉まった。

俺は玄関に残された安全帯を見た。

七歳の娘がずっと知っていたことを、俺は昨日まで知らなかった。

俺が高いところに上っていることを、娘はわかっていた。

怖いと思っていたんだろう。

でも、何も言わなかった。

言う代わりに、毎朝ここに来ていた。

俺は安全帯を手に取った。

ずっしりと重かった。

それはいつもの重さだった。

でも昨日とは、少し違う気がした。

その日、現場に出る前に先輩の田中さんに会った。

田中さんは六十二歳で、あと三年で定年だと言っていた。

「大石、珍しく顔色がいいな。何かあったか」

「別に」

俺はそう言ったが、田中さんはにやりとした。

「子供に何か言われたか」

「言われてない」

「言われてないのに顔色がいいのか。それはそれで難しいな」

田中さんは笑いながら安全帯のバックルを確認した。

俺も自分の安全帯のバックルを確認した。

紺色の布が、朝の光の中でまた少し光った。

夕方、現場から帰るとき、俺は一度だけ空を見上げた。

今日も高いところに上った。

足場の上から見た景色は、いつもと変わらなかった。

でも今日はなぜか、そこから見える住宅地の屋根の向こうに、娘の通う小学校が見えるような気がした。

盛岡の夏の空は高く、遠くまで青かった。

俺は足場のバーをしっかり握って、それでもちゃんと仕事をした。

帰り道、コンビニに寄った。

なつきが好きなプリンを一個買った。

家に帰ると、なつきはもう風呂から上がっていた。

「おかえり」

「ただいま」

俺はプリンをテーブルに置いた。

なつきは一瞬きょとんとして、それからぱっと顔が明るくなった。

「え、これ私の?」

「誰の」

「やった!」

なつきはプリンを持ってリビングに走って行った。

俺は玄関で靴を脱ぎながら、その背中を見ていた。

赤いランドセルは、玄関の壁に立てかけてあった。

黄色いリフレクターが夜の廊下で鈍く光っていた。

俺は靴を揃えてから、リビングに入った。

なつきはもうプリンを食べ始めていた。

「美味しい?」

「美味しい! お父さんも食べる?」

「俺のじゃない」

「半分あげる」

俺はなつきの隣に座った。

なつきはスプーンを差し出してきた。

俺は一口だけもらった。

甘かった。

なつきは満足そうな顔で、また自分のプリンに向き直った。

俺はそれを見ながら、何も言わなかった。

言わなくていいことがある。

言えないことがある。

でも今夜は、ここにいる。

それだけで十分な気がした、そんな夜だった。

明日の朝も、俺は五時半に起きるだろう。

なつきはまた玄関に来て、安全帯に息を吹きかけるだろう。

今度は、ちゃんと見送ってやろうと思った。

「気をつけて行けよ」だけじゃなくて、もう一言くらい言えるかもしれない。

不器用な俺には、それが精一杯だ。

それでも、少しだけ前に進んだ気がした。

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