
父親として失格に近いと、ずっと思っていた。
仕事から帰ればもう八時を過ぎていて、電気工事の現場で一日中外を歩き回ってきた体は、夕飯をかき込む間もなく重くなった。
「なつき、宿題したか」
それが俺の口癖だった。
「うん、もうした」
娘はいつも、そう答えた。
答えてから、また自分の部屋に戻っていった。
俺はそれを、普通のことだと思っていた。
俺は大石修平、三十九歳。
岩手・盛岡の電気工事の会社で、もう十五年働いている。
高圧線の点検から一般住宅の配線まで、とにかく外を歩き回る仕事だ。
夏は暑く、冬は手がかじかんで、ときどき足場の上から盛岡の町が丸ごと見える。
そういう仕事だ。
妻のゆかりとは三十の手前で結婚して、なつきが生まれたのはその二年後だった。
俺は子育てというものが、正直なところどうすれば正解なのかわからなかった。
抱っこは得意ではなかったし、絵本を読むのも口が回らなかった。
「なつき、宿題したか」「ご飯残すな」「早く寝ろ」
気がつくと、そういう言葉しか出てこなかった。
※
娘が七歳になった春のことだ。
新しいランドセルを買いに、妻と三人で駅前のデパートに行った。
なつきは迷わず赤を選んだ。
黄色いリフレクターが付いた、ぴかぴかの赤いランドセルだ。
レジに向かうとき、店員の女性が「かわいいですね、よく似合ってます」と言った。
なつきは少し照れくさそうに笑っていた。
俺は荷物を持ちながら、そのやり取りを横で眺めていた。
レジに向かうとき、なつきが振り返ってこっちを見た。
俺は「それでいいか」と言った。
なつきは「うん」と言って、また歩き出した。
もっと違う言葉をかけてやればよかった、と気づいたのはずいぶん後のことだ。
※
なつきが小学校に入ってからも、俺たちの会話はほとんど増えなかった。
なつきは何かというと「ねえお父さん」と話しかけてきた。
俺はいつも、コーヒーカップを持ったまま「うん」とだけ言った。
ちゃんと聞いているのかと妻には言われたが、聞いていた。
ただ、返す言葉が見つからなかった。
なつきはそれでも毎日話しかけてきた。
俺はそれが、うれしいのか申し訳ないのか、よくわからなかった。
※
小学二年生の夏。
担任の小川先生が家庭訪問に来た。
玄関で靴を脱ぎながら、先生はにこにこしていた。
「修平さん、なつきちゃんのこと、一つ聞いてもいいですか」
俺は内心どきりとした。
何かやらかしたか、と思った。
「毎朝、登校前に玄関で何かしていませんか」
妻が「何かしてるんですか?」と首を傾げた。
先生が言った。
「先日、クラスで好きなことを発表する時間があって、なつきちゃんが話してくれたんです」
俺は黙っていた。
「お父さんが毎日高いところで仕事をしているから、転ばないようにおまじないをしているって」
俺は「おまじない?」と聞き返した。
「玄関に吊してある安全帯に、毎朝そっと息を吹きかけるんだそうです。ふうって。それをやると、お父さんが怪我をしないって」
俺は言葉が出なかった。
※
電気工事で高所に上るとき、体に巻く安全帯がある。
俺のは紺色で、使い込んでくたびれた年代物だ。
仕事から帰ると、俺はいつも玄関の金具の棚にそれを吊していた。
娘がそこに気づいていたとは、知らなかった。
息を吹きかけているなんて、まったく知らなかった。
先生が帰ったあと、妻が「知らなかった?」と言った。
俺は頷いた。
「なつきって、お父さんのこと心配してるんだよね。いつも朝早いから」
妻の声は、何でもないようなトーンだった。
俺はその夜、なつきが眠ってから玄関に出た。
いつもの棚に、安全帯が吊してあった。
俺はしゃがんで、それをじっと見た。
紺色の厚い布が、蛍光灯の下で少し光っていた。
七歳の子供の、小さな息がここに吹きかけられているのかと思ったら、胸のどこかが重くなった。
泣くほどではなかった。
ただ、重かった。
俺は毎朝五時半に起きて、六時には家を出る。
なつきが起きてくるのは七時過ぎで、俺はいつもその前に出かけていた。
つまり俺は、娘が毎朝何をしているのか、何一つ見ていなかった。
それが今日まで七歳の娘が続けていたことだと、俺は昨日まで知らなかった。
※
翌朝、俺はいつもより三十分早く起きた。
なつきはまだ眠っていた。
俺は台所でコーヒーを淹れて、そのまま待った。
七時過ぎに、なつきが寝ぼけた顔でリビングに来た。
「お父さん、いた」
「いた」
俺は言った。
なつきは「珍しい」と笑った。
俺たちは、二人で朝ごはんを食べた。
妻がいつもより少し嬉しそうに、卵を焼いてくれた。
なつきはトーストを半分残した。
「全部食えよ」と俺は言った。
「食べる」となつきは言って、小さな口でもぐもぐと食べた。
いつもの朝だった。
いつもと少しだけ違う、いつもの朝だった。
※
なつきはランドセルを背負う前に、玄関に行った。
俺は追いかけずに、廊下の角からそっと見ていた。
なつきは棚の前でしゃがんで、安全帯に顔を近づけた。
ふうっと、小さく息を吹きかけた。
それから立ち上がって、ランドセルのバックルを留めた。
黄色いリフレクターが、廊下の蛍光灯を反射してきらっと光った。
「いってきます」
なつきが振り返って、俺を見た。
俺はそのとき、ちゃんと玄関に立っていた。
「気をつけて行けよ」
それだけしか言えなかった。
なつきは「うん」と言って、走って行った。
ドアが閉まった。
※
俺は玄関に残された安全帯を見た。
七歳の娘がずっと知っていたことを、俺は昨日まで知らなかった。
俺が高いところに上っていることを、娘はわかっていた。
怖いと思っていたんだろう。
でも、何も言わなかった。
言う代わりに、毎朝ここに来ていた。
俺は安全帯を手に取った。
ずっしりと重かった。
それはいつもの重さだった。
でも昨日とは、少し違う気がした。
※
その日、現場に出る前に先輩の田中さんに会った。
田中さんは六十二歳で、あと三年で定年だと言っていた。
「大石、珍しく顔色がいいな。何かあったか」
「別に」
俺はそう言ったが、田中さんはにやりとした。
「子供に何か言われたか」
「言われてない」
「言われてないのに顔色がいいのか。それはそれで難しいな」
田中さんは笑いながら安全帯のバックルを確認した。
俺も自分の安全帯のバックルを確認した。
紺色の布が、朝の光の中でまた少し光った。
※
夕方、現場から帰るとき、俺は一度だけ空を見上げた。
今日も高いところに上った。
足場の上から見た景色は、いつもと変わらなかった。
でも今日はなぜか、そこから見える住宅地の屋根の向こうに、娘の通う小学校が見えるような気がした。
盛岡の夏の空は高く、遠くまで青かった。
俺は足場のバーをしっかり握って、それでもちゃんと仕事をした。
※
帰り道、コンビニに寄った。
なつきが好きなプリンを一個買った。
家に帰ると、なつきはもう風呂から上がっていた。
「おかえり」
「ただいま」
俺はプリンをテーブルに置いた。
なつきは一瞬きょとんとして、それからぱっと顔が明るくなった。
「え、これ私の?」
「誰の」
「やった!」
なつきはプリンを持ってリビングに走って行った。
俺は玄関で靴を脱ぎながら、その背中を見ていた。
赤いランドセルは、玄関の壁に立てかけてあった。
黄色いリフレクターが夜の廊下で鈍く光っていた。
俺は靴を揃えてから、リビングに入った。
なつきはもうプリンを食べ始めていた。
「美味しい?」
「美味しい! お父さんも食べる?」
「俺のじゃない」
「半分あげる」
俺はなつきの隣に座った。
なつきはスプーンを差し出してきた。
俺は一口だけもらった。
甘かった。
なつきは満足そうな顔で、また自分のプリンに向き直った。
※
俺はそれを見ながら、何も言わなかった。
言わなくていいことがある。
言えないことがある。
でも今夜は、ここにいる。
それだけで十分な気がした、そんな夜だった。
明日の朝も、俺は五時半に起きるだろう。
なつきはまた玄関に来て、安全帯に息を吹きかけるだろう。
今度は、ちゃんと見送ってやろうと思った。
「気をつけて行けよ」だけじゃなくて、もう一言くらい言えるかもしれない。
不器用な俺には、それが精一杯だ。
それでも、少しだけ前に進んだ気がした。