
湊くんは、朝のバスで、ただいま、と言う。
夕方のバスでは、いってきます、と言う。
逆だ。
朝は「いってきます」で、帰りが「ただいま」のはずなのだ。
私は園バスの運転手をしている。
この仕事の前は、食品卸の四トン車に乗っていた。
夜の県道を、ひたすら走る仕事だった。
そのころの癖が、いまも右手に残っている。
対向のトラックと行き違うとき、ライトを短く二回、点ける。
お疲れさん、という挨拶だ。
夜の道を走る者同士の、言葉にならない言葉だった。
二回のパッシング。
園バスに乗り換えてからも、その癖だけは抜けなかった。
朝、柳町の交差点で、白い冷凍車がこちらへ向かって二回光る。
すると私の指は、考えるより先にレバーを引いて、二回返す。
そのたびに、バスの右の窓際で、小さな声がする。
ただいま。
それだけだ。
最初は、ただの言い間違いだと思った。
先生たちも、そう思っていた。
担任の高梨先生は、毎朝のように、笑いながら直した。
「湊くん、朝はね、おはようだよ。ただいまは、おうちに帰ってから」
湊くんは窓の外を見たまま、首を横に振る。
「ちがうよ。ここで言うの」
それで、話は終わる。
年中の男の子というのは、一度決めたことを、大人の都合では変えない。
高梨先生は、きまって両手を上げて降参した。
その手の上げ方が毎回まったく同じなので、私はミラーの中で、毎回すこし笑った。
一度、帰りの便で、先生が作戦を変えたことがある。
「じゃあ先生が先に、いってきます、って言うね」
湊くんは、真顔で答えた。
「せんせいのは、ちがう」
車内が、いっせいに笑った。
笑われても、湊くんは、少しも動じなかった。
笑いながら、ほんの少し、羨ましくもあった。
私にも、ここで言うの、と言い切れる場所が、かつてはあったのだろうか。
運送の仕事をしていたころは、帰る場所の話など、誰ともしなかった。
夜のあいだに走った距離だけが、私の会話のすべてだった。
言い間違いにしては、あまりにも堂々としていたからだ。
自分の言葉に、これほど迷いのない人間を、私は大人になってから見たことがない。
右の窓際の席
湊くんの席は、決まっていた。
乗り込むと、運転席の後ろには目もくれず、通路をまっすぐ歩いていく。
湊くんは、乗るといつも進行方向の右の窓際に座った。
そこが空いていないと、座らない。
先に誰かが座っていると、その子の前に立って、じっと待つ。
座っている子が根負けして席をゆずるまで、動かない。
ゆずってもらうと、小さな声で「ありがと」と言う。
それから窓にひたいをつけて、外を見る。
冷えこむ朝は、窓が白く曇る。
湊くんは、セーターの袖で、手のひらほどの丸を拭いた。
その丸の向こうに、県道がのぞく。
のぞき穴は、いつも、右の窓にだけ作られた。
ヒーターの風が、足もとで、ごうごうと鳴っていた。
四月の最初の週に、私は園長室に呼ばれた。
「あの席の取り合いは、先生たちで何とかします。運転手さんは運転に集中してください」
桜井園長は、湯呑みを両手で包んだまま言った。
「ただ、理由だけは、一応うかがっておきたいですね」
理由なら、私が一番知りたかった。
湊くんのお母さんは、毎朝、柳町のバス停まで湊くんを連れてくる。
白衣に着替える前の看護師さんだ。
髪をうしろでひとつに結び、腕時計を見ながら走ってくる。
「すみません、よろしくお願いします」
その声のうしろで、バスのドアが閉まる。
お母さんは頭を下げたまま、少しのあいだ動かない。
バスが走り出す寸前まで、湊くんの顔を見ない人だった。
見ない、というより、見られない、と言ったほうが近いのかもしれない。
雨の朝、傘で両手がふさがっていたお母さんは、湊くんのフードだけを、ぎゅっと引き上げたことがある。
それが、私の見たかぎり、お母さんが湊くんに触れた唯一の場面だった。
ドアが閉まる直前、お母さんの唇が、ほんの少し動いた。
声は聞こえなかったが、いってらっしゃい、だったのだと思う。
湊くんは、振り返らなかった。
窓の外ばかり見る子だから、私は気にとめなかった。
私はそのとき、まだ何も知らなかった。
車内は、にぎやかだった。
後ろの席では、年長の子たちが、調子はずれの歌をうたっている。
みさきちゃんは、農協前から乗ってくる。
乗るなり、ぬいぐるみのウサギに「おはよう」と言って、頭をなでる。
そのあいだ、湊くんだけが、窓の外ばかり見ていた。
田んぼの水面、サギ、刈ったあとの切り株、電線に並んだスズメ。
何か見つけると、ミラー越しに、私へ指をさして教えにくる。
「あのとり、じてんしゃよりはやい」
「あのくも、にんじんの形」
そのたびに先生たちが笑い、私は少しだけ速度を落とした。
子どもは、景色のひとつひとつに、名前をつけたがる。
湊くんは、その名前を、いつもひとつだけつけた。
ところが、柳町の交差点にさしかかると、湊くんは外を指ささなくなる。
背筋をのばして、右の窓に、両方の手のひらをぴたりとつけた。
そして、遠くで何かが短く光ったあと、ただいま、と言う。
声は小さい。
言ってしまうと、湊くんは満足そうに、細く息を吐いた。
そのあとは何事もなかった顔で、また景色を指さしはじめる。
夕方は、逆だった。
帰りの便は、同じ交差点を、こんどは反対向きに通る。
そこでも、すれ違いざまに何かが光る。
「いってきます」
やはり、小さな声だった。
二回のパッシングの癖
私が知っていたのは、トラックのほうだけだった。
荷台に水色の帯を一本巻いた、白い冷凍車。
朝は七時四十二分、帰りは十五時五十八分ごろ、柳町の交差点の手前で必ず会う。
最初の日、向こうが先に二回光った。
私は反射で、二回返した。
それだけの出来事だった。
夜勤明けの同業者だろうと、私は勝手に決めた。
夜勤明けに食べるのは、コンビニのおにぎりか、サービスエリアのうどんか。
そんなことまで、勝手に想像して、勝手に親しみを覚えていた。
考えてみれば、失礼な話だ。
顔も知らない相手に、物語を割りふっていたのだから。
髭面で、缶コーヒーを片手に、眠そうな顔をしているに違いない。
そうやって私は、顔も知らないその運転手を、ひそかに「白さん」と呼んでいた。
同業の匂いというのは、不思議なものだ。
ただ二回光るだけで、その夜がどれだけ長かったかまで、伝わる気がした。
夜の県道は、静かだ。
荷台の氷が、カタカタと小さく鳴る。
ラジオは、深夜になると、ほとんど電波を拾わなくなる。
そんな夜、遠くに二つの光が見えると、それだけで肩の力が抜けた。
こちらが二回光ると、向こうも二回、返してくる。
顔も名前も知らない相手と、何百回も、そうして夜を越えた。
一度だけ、返事のなかった夜がある。
雪の峠で、私は二回光らせ、前の車はそのまま遠ざかっていった。
ただ返事がなかっただけのことだ。
それなのに、その夜の峠道は、いつもの倍、長かった。
夜明け前の国道で、向こうから来る二つの光に、ほっとした夜が何度もある。
二回のパッシングは、夜の道では、挨拶であり、ささやかな生存確認だった。
こちらは大丈夫です。そちらも大丈夫ですか。
それを、言葉なしで、すれ違う一瞬にやりとりする。
そんな習慣を、昼の園バスに持ち込んでいるなど、私は少しも気にしていなかった。
五月の終わりに、保護者会があった。
翌朝、私はまた園長室に呼ばれた。
桜井園長は、いつもより湯呑みを置く音が小さかった。
「運転手さんが、バスのライトを光らせているのを見た、という声がありまして」
「急に点滅するのは、安全上、怖いと」
湊くんの保護者ではない。
別の方の声だと、園長は念を押した。
言い分は、もっともだった。
園バスは、子どもたちを乗せて走る。
私の真似をして、よそのドライバーが光らせ返したら、事故のもとにもなりかねない。
私は頭を下げた。
「すみません。癖でした。やめます」
言ったとたん、右手の指先が、じんと痺れた気がした。
癖というのは、やめると決めたところで、指のほうが覚えている。
その日の帰りの便で、湊くんが、画用紙を一枚、私に差し出した。
「うんてんしゅさんに、あげる」
バスと白いトラックが、向かい合って走っている絵だった。
画用紙のバスもトラックも、目玉が二つ、黄色く光っていた。
上手だな、と思った。
私は「ありがとう」と言って、運転席のサンバイザーに、その絵を挟んだ。
黄色く光る二つの目の意味を、そのときは、考えもしなかった。
ライトを返せない朝
翌朝、七時四十二分。
柳町の交差点の手前で、白い冷凍車が、遠くから二回光った。
私は、ハンドルを握ったまま動かなかった。
右手の指先だけが、レバーのほうへ動こうとする。
それを、左手でぎゅっと押さえた。
冷凍車は、返事のないまま、バスの横をすれ違っていった。
その瞬間、後ろで、がたん、と音がした。
湊くんが、座席から立ち上がっていた。
「湊くん、走ってるときは座って」
高梨先生が、あわてて腕をのばす。
湊くんは先生の手をすり抜けて、通路にぺたりと膝をついた。
そして、運転席のほうへ、まっすぐ私を見た。
「つけて」
声は小さいのに、車内の歌が、一度止まった。
「ふたつ。つけて」
私は、前を見たまま答えた。
「ごめんね。今日から、つけられないんだ」
「どうして」
「あぶないって、言われたから」
湊くんは、それ以上、何も聞かなかった。
席に戻り、両手のひらを、ぴたりとガラスにつけた。
遠ざかる白い背中を、見ていたのだと思う。
その日は、ただいま、が聞こえなかった。
夕方の便でも、いってきます、は聞こえなかった。
みさきちゃんが、ウサギのぬいぐるみを、湊くんの膝にそっと置いた。
湊くんは、抱かずに、窓の下のへりに座らせた。
ウサギも、窓の外を向いていた。
次の朝、冷凍車は、いつもより長く光った。
二回では終わらなかった。
三回、四回、五回。
どうして返さない、と問われているようだった。
私は唇を噛んで、二回のパッシングの代わりに、ただ前だけを見ていた。
ミラーの中で、湊くんは窓に両手をつけたまま、動かなかった。
その次の日、冷凍車は、光らなかった。
白い車体も、水色の帯も、どこにも見あたらなかった。
四日目の朝は、霧が出た。
田んぼの上に、牛乳を薄めたような霧がたまっていた。
湊くんは、背中を丸めて座っていた。
昼休みに、私は園長室のドアを叩いた。
「園長、ライトの件ですが」
「分かっています」と、園長は先に言った。
「分かっていますが、決まりは決まりです。園バスは、よその車の手本でもありますから」
私は、何も言い返せなかった。
園長のほうが、正しかったからだ。
それでも夕方、柳町の手前で、私の指は、無意識にレバーへ伸びた。
伸びて、途中で、引っ込んだ。
引っ込めた指が、ハンドルの上で、ひとりでに震えた。
ミラーの中の湊くんは、その震えを、じっと見ていた気がする。
園に着くと、高梨先生が運転席のドアの前で待っていた。
「湊くん、このところ、お弁当を残すんです」
「お絵描きも、トラックばかり描いて、色を塗らなくなって」
私は、手の中のキーを握り直した。
理由は、たぶん私だ、と言いかけて、飲みこんだ。
夜の県道で、返事のない二回を送るさびしさを、私は知っている。
返せない私より、返されないあちらのほうが、ずっと長く待っているのかもしれなかった。
農協前の待避所
五日目の朝、霧は上がり、空は洗いたての水色をしていた。
柳町の交差点の対向車線は、空だった。
湊くんは、右の窓際で、両手を膝に置いていた。
七時四十四分、農協前。
みさきちゃんが乗る、定刻の停留所だ。
農協の駐車場の脇に、トラックが一台、停まっていた。
白い冷凍車だった。
荷台に、水色の帯が一本。
ハザードランプが、ゆっくりと、二回ずつ点いたり消えたりしている。
私はバスを停めて、ドアを開けた。
みさきちゃんが乗りこむのと入れちがいに、冷凍車の運転席から、男が降りてきた。
灰色の作業着の、背の高い男だった。
髭面でも、缶コーヒーでもなかった。
怒ったときに湊くんが口を結ぶ形と、同じ結び方をしていた。
男はバスの前まで来て、帽子を取った。
その手は、ハンドルの形のまま、こわばっていた。
バスの窓のほうは、一度も見ない。
見ないようにしている、と分かる見かただった。
「毎朝、ライトを返してくださっていた運転手さん、ですよね」
「……はい」
「樋口です。湊の、父です」
後ろで、がたん、と音がした。
男は、バスの中を見ないようにして、続けた。
「母親と、約束をしていまして。月に一度の面会のほかは、園にも、あの子にも、近づかないと」
「送り出すたびに、あの子が泣いたので」
「道を走るだけなら、約束には、ふれません」
「夜勤のあとは、この待避所で、十分だけ仮眠を取るんです」
「バスのエンジンの音が聞こえると、目が覚める。それが、今日も無事だった、という合図みたいなものでね」
私は、何も言えなかった。
「ライトを二回光らせたら、ただいま、の合図だと、あの子に教えました」
「夕方は、いってきます。仕事に行くので」
「窓から見えたら、それだけで、帰ってこられたことになる、と」
男は、少し笑った。
「そしたら、四月に、返ってきたんです」
「二回、ちゃんと」
「あの子が、ライトを持っているはずがないのにね」
男の声が、そこで、かすれた。
「誰かは分からなかった。でも、返ってくるたびに、ああ、届いたな、と思えました」
「四日、返事がなくて。事故でもあったかと思って、つい、ここで待ってしまいました」
ダッシュボードの画用紙
私は、サンバイザーから画用紙を外して、男に見せた。
「これを、湊くんから、もらいました」
男は受け取って、しばらく黙っていた。
それから運転席へ戻り、ダッシュボードに貼ってあった画用紙を、剥がして持ってきた。
並べてみると、色の塗り方まで同じだった。
二枚とも、画用紙のすみに、へたな字で名前があった。
みなと、と、ひらがなで。
男は、親指で、その字をそっとなぞった。
月に一度の面会のたびに、受け取ってきた一枚なのだという。
黄色く光る二つの目は、ヘッドライトだった。
バスとトラックが、同じ画面の中で、同じ顔をしている。
湊くんは、私と父親の両方に、同じ絵を渡していたのだ。
言葉を持たないはずの二人のあいだに、いつのまにか、通路がひとつできていた。
その通路に、いちばん最初に光を流したのは、父親だった。
二回目の光を流したのは、私の癖だった。
それだけのことが、湊くんにとっては、朝と夕方のすべてだったのだ。
私は、その通路のまんなかに座って、何も知らずにハンドルを握っていた。
ライトの癖は、運送の仕事を辞めたときに、置いてきたつもりだった。
置いてきたはずの手が、勝手に二回、誰かの「ただいま」に答えていた。
恥ずかしがるほどの癖ではなかったのだと、はじめて思った。
右の窓際は、あの冷凍車とすれ違う側だった。
湊くんは、父親の光をひとつずつ言葉にして、窓の外から車内へ運んでいたのだ。
ただいまは、湊くんの言葉ではなく、父親の言葉だった。
その日の園長室で、私は、ことの次第をすべて話した。
桜井園長は、長いこと、湯呑みを置かなかった。
それから園の電話で、お母さんと話をした。
結果だけ書くと、こうなった。
農協前の待避所で、バスは、決まった数秒だけ停まる。
その数秒だけは、ハザードを二回、合図に使っていい。
お母さんの返事は、思ったよりも、あっさりしていた。
「あの子が一番、待っていたと思います」
そう言ったと、園長は教えてくれた。
翌週の月曜日、朝の霧は薄かった。
七時四十四分、農協前の待避所で、私はバスを停めた。
白い冷凍車のハザードが、二回、点いた。
私も、二回、返した。
右の窓際で、湊くんが、窓をいっぱいに開けた。
父親が、帽子を取って、手を上げた。
湊くんは、朝のバスで、おかえり、と言う。
窓の外で、父親が、ただいま、と言った。