保温ボタンはいつも点いている

湯気に包まれた夜の浴室

風呂の湯は、いつも四十一度だった。

浴室のドアを開けると、湯気が顔にかかる。

壁のリモコンでは、保温ボタンの小さな灯が、橙色にともっている。

豆粒みたいな灯だ。

私はそれを、七年のあいだ、夫が入れていってくれた予約の印だと思っていた。

夫の圭介は、パン工場の夜勤をしている。

コンビニの卵サンドの食パンは、夫のラインで焼かれたものかもしれない。

私は保険会社のコールセンターで、遅番に入っている。

夕方に家を出ていく夫と、日付が変わる少し前に帰ってくる私。

結婚して七年、私たちは、ずっと入れ違いに暮らしていた。

夫の寝顔を見るのは、休みの日の昼間だけだ。

日曜の午後、夫は布団の端で小さく丸くなって、パンの夢でも見ているみたいに口を動かす。

一度だけ、工場の見学会に行ったことがある。

ガラス越しの通路から、白い帽子とマスクの列を見下ろした。

どれが夫なのか、最初はわからなかった。

目だけで見つけた。

夫は、流れてくる食パンの型を、ひとつずつ、指先で確かめていた。

手を振ろうとして、やめた。

仕事をしている人に、手を振るのは失礼な気がした。

いま思えば、あれも私の、小さな遠慮だった。

終電のひとつ前の各駅停車は、いつも座れない。

窓に映る自分の顔は、受話器の跡みたいな疲れ方をしている。

コンビニの前でプリンを買うか迷って、迷っただけで通りすぎる。

私鉄の駅から歩いて十二分、築三十年の二階建てアパート。

外階段を上がって、鍵を回す。

玄関の灯りだけが点いた部屋に、私は「ただいま」を言わずに入る。

台所の流しはきれいに片づいていて、冷蔵庫には夫の字のメモが貼ってある。

〈米、炊けてる〉

〈ヨーグルト、あしたまで〉

〈風呂、保温してある〉

最後の行の「保」の字だけが、毎回つぶれて「呆」に見える。

ぼう温、と読んでしまうたびに、私はひとりで少し笑う。

廊下の突き当たりが洗面所だ。

冬でも、そこだけは暖かい。

洗濯機の前に立つと、焼きたてのパンの匂いが、うっすらと鼻に届いた。

前の日の作業着の残り香だろう、と思っていた。

バスタオルは、毎晩、ほんのり温かかった。

最近の給湯器は気がきくのだな、と思っていた。

服を脱いで、肩まで湯に沈む。

一日ぶんの電話の声が、耳の奥からゆっくりほどけていく。

湯船のふちに頭をのせて、天井の水滴を数える。

三つ数えるうちに、たいてい、まぶたが落ちる。

薄い壁の向こうから、隣の部屋のテレビが、ぼそぼそと聞こえる。

その音が、人の気配の代わりだった。

湯が冷めて目が覚めた夜は、一度もない。

そのことを、私は不思議にも思わなかった。

湯のなかだけが、私にとって、誰にも怒鳴られない場所だった。

湯上がりには、メモの裏に短く返事を書いた。

〈ありがとう。おやすみ〉

翌朝になると、その紙はきれいに剥がされている。

読まれているのかどうかも、私は知らなかった。

知らないまま、七年が過ぎた。

出迎えは、なし

七年前、同棲を始める前の夜のことだ。

私たちは駅前のファミレスで、七つの約束を決めた。

ペンは夫のボールペン、紙はナプキンだった。

一、靴下は、裏返しのまま洗濯機に入れない。

二、歯磨き粉は、下から絞る。

三、ケンカをしても、朝ごはんだけは一緒に食べる。

四、冷蔵庫のプリンには、名前を書く。

五、出迎えは、なし。

六、記念日に、高いほうの店には行かない。

七、足りない約束は、そのつど足す。

書き終えた夫が、五番のところで手を止めた。

「五番って、なに」

私はその日も、朝から苦情の電話を二十七本、受けていた。

耳の中に、まだ誰かの声が詰まっているようだった。

「帰ってきたときにね、誰もいない家が、一番ほっとするの」

言ってしまってから、ひどいことを言ったかな、と思った。

「ごめん。冷たい人間で」

ドリンクバーのメロンソーダの氷が、からん、と鳴った。

夫は、五番の横に、ボールペンで小さな丸をつけた。

「そっか。わかった」

それだけだった。

私は、ほっとして、残りのポテトを食べた。

六番にも丸がついた。

「これは、俺の希望」

「せこい」

「現実的って言って」

ふたりで笑った。

七番は、結局、一度も使わなかった。

ナプキンは、今も台所の引き出しの一番下に、半分に折ったまま入っている。

夫は、書いたとおりに守る人だった。

靴下は、七年間、一度も裏返しのまま洗濯機に入っていたことがない。

歯磨き粉は、いつも下から絞られている。

私のほうは、三番も四番も、わりとよく破った。

夫のプリンを間違えて食べた翌朝には、冷蔵庫に〈弁償〉の付箋が貼られた。

付箋の裏には、プリンの絵が描いてあった。

絵は、ぜんぜん似ていなかった。

それでも私は、その付箋を、手帳に挟んだ。

結婚した年の六月のことだ。

その夜、私が帰ると、夫は玄関に立っていた。

有給を取って、早く帰ってきていたのだ。

「おかえり」

夫は、うれしそうだった。

私は、疲れていた。

靴を脱ぎながら、思わず言った。

「五番」

「あ」と夫は言った。

「ごめん。出迎え、しちゃった」

頭をかいた夫の顔を、私はよく見ていなかった。

翌日から、玄関には、誰も立っていなかった。

夜勤の話が来たのは、結婚して三年目だった。

夫は営業所の事務から、工場のラインへ移ることになった。

夜勤手当がつく。頭金が、二年早く貯まる。

夫は通帳の数字を見せながら言った。

「入れ違いになるけど、いい?」

「いいよ。うちは、五番があるから」

冗談のつもりだった。

夫は少しだけ眉を上げて、それから笑った。

その笑い方を、私はずっと「照れ」だと思っていた。

規格外の食パン

朝七時四十分、玄関の鍵が回る。

夫が帰ってくる。

作業着のまま、白い帽子を片手に持って、廊下をすり足で歩く。

「ただいま」の代わりに、紙袋を掲げる。

「規格外、もらってきた」

中身は、端のつぶれた食パンだ。

形が悪くて店に出せない食パンは、従業員が安く買える。

夫はそれを、食べきれないほど抱えて帰ってくる。

トースターに二枚、入れる。

私は卵を焼く。

夫は、コーヒーを二杯ぶん淹れる。

この三十分だけは、七年前のファミレスのテーブルと同じ場所に戻れた。

「今日のは、角が立ってる」

夫は、食パンを持ち上げて、光に透かした。

「焼き色もいい。これで規格外は、もったいない」

「じゃあ、なんで外れたの」

「端っこが、ほんの二ミリ、欠けてる」

「二ミリ」

「二ミリで、売り場には並べられない」

夫はそう言って、欠けた端を、先にかじった。

「昨日の人、どうだった」と夫が訊く。

「保険金が下りないのは私のせいだって、四十分」

「四十分」

「でも最後に、ありがとうって言われた」

「へえ」

夫は笑う。笑うと、目尻に、洗っても落ちない小麦粉の細かい白が溜まっている。

目の下の隈が、年々、濃くなっていた。

夜勤だから、と私は思った。

それ以外の理由を、探したことがなかった。

「そっちは」

「今日、生地がずっと機嫌悪かった」

「生地に機嫌があるの」

「ある。湿度で顔が変わる」

パンの話をするとき、夫の声は、少しだけ高くなる。

私はその声が好きだった。

好きだと、口に出したことはなかった。

「お風呂」と、私は言った。「いつも、ありがとう」

トーストを噛んでいた夫が、一拍おいて、目を皿の端に落とした。

「保温って、優秀だよな」

「うん。予約もだけど」

「ああ、予約な。うん」

夫は、コーヒーを飲んだ。ふだんより、ひと口が長かった。

私はその「うん」の短さを、眠さのせいだと思った。

話は、七年目の記念日のことに移った。

「今年は、どうする」

「回転寿司でいいよ」

「六番だからな」

「六番だから」

ふたりで、また笑った。

笑いが引いたあとで、気がつくと、口が動いていた。

「ねえ。たまには、夜に一緒にご飯がしたいな」

言ったあとで、自分でも驚いた。

夫は、箸を止めた。

「夜は」と言って、天井を見た。「夜は、ちょっとな」

「夜勤だもんね」

「ああ。夜勤だから」

夫は食パンの耳を、長いことかじっていた。

私は、それ以上、言わなかった。

言わなかった自分が、少しだけ、さびしかった。

八時、夫は洗面所で歯を磨く。

そのとき必ず、浴室の戸を少しだけ開けて、中をのぞく。

私はそれを、夫の癖だと思っていた。

夫は八時半には寝室に消えて、昼の二時に起きて、夕方にはもう、いない。

その背中を、私は「おやすみ」と「いってらっしゃい」の二言で見送る。

それで足りているのだと、思おうとしていた。

保温ボタンの小さな灯

その日の電話は、午前中から荒れていた。

「責任者を出せ」と、受話器の向こうの男が言った。

「少々お待ちください」と言って、保留ボタンを押す。

保留音の「エリーゼのために」が流れるあいだに、私は水を一口飲んだ。

三分後、男は「やっぱり、あんたでいい」と言った。

そのあと男は、請求書の数字を、ひとつずつ私に読み上げさせた。

読み上げながら、自分の声が、機械になっていくのを聞いていた。

受話器を置いたとき、手のひらに、汗がにじんでいた。

怒鳴る人は、怒鳴ったあとで急に弱くなる。

それを知っているぶん、私の仕事は、半分だけ楽だった。

昼休みの休憩室で、パートのミナミさんがおかきの袋を差し出した。

「志穂ちゃん、顔が灰色よ」

「ミナミさんこそ」

「旦那さんは、元気?」

「夜勤なんで、入れ違いです」

「寂しくない?」

「いえ。むしろ楽です。誰もいない家が、一番ほっとするので」

口に出した瞬間、どこかで同じ言葉を聞いたことがある気がした。

ミナミさんは、おかきを噛みながら感心した。

「夫婦って、顔を合わせなくても、成立するのねえ」

成立している、と私は思った。

お風呂は沸いているし、メモもある。

成立している、はずだった。

午後三時、センターの窓の外が暗くなった。

台風が、予報より早く近づいていた。

「十七時で全員、帰宅してください」

フロアに放送が流れ、キーボードの音が一斉にやんだ。

私は傘をさして、駅まで走った。

強風で傘が反り返り、駅前で買い直したコンビニの傘も、二本目で折れた。

電車は徐行して、各駅のホームで長く止まった。

ホームの屋根が、ばたばたと鳴った。

隣の会社員が、スマホの画面を三度見て、三度しまった。

私は、夫にLINEを一本打った。

〈台風で早めに帰る〉

送信は、しなかった。

夜勤の人の仕事の邪魔になると思ったからだ。

窓に叩きつける雨のなかで、スマホには、夫の名前もなかった。

家に着いたのは、二十時五十分だった。

いつもより、二時間半も早い。

外階段の下で、傘の残骸を捨てた。

髪も、スカートも、靴の中まで濡れていた。

鍵を回すと、玄関の灯りは点いていた。

けれど、廊下の空気が、冷えていた。

洗面所のドアを開けても、湯気はなかった。

温風ヒーターは止まっていて、洗濯かごの上のバスタオルは、湿ったままだった。

浴室のドアを開けた。

タイルは乾いていた。浴槽は、空だった。

壁のリモコンの画面は、真っ暗だった。

保温ボタンの小さな灯が、点いていなかった。

私は、ずぶ濡れのまま、しばらくそこに立っていた。

予約を入れ忘れたのだろう、と思った。

夫だって、忘れる日はある。

そう思おうとしたが、七年のあいだ、一度も忘れた日はなかった。

空っぽの浴槽

濡れた靴には新聞紙を詰めて、寝室の窓際に並べた。

濡れた服を脱いで、部屋着に着替える。

髪を拭いて、ベッドの縁に座った。

熱があるのかと思うほど、体がだるかった。

寝室の電気は、点けなかった。

外では、雨と風がサッシを鳴らしている。

横になって、目を閉じた、つもりだった。

どれくらい経ったのか、わからない。

遠くで、鍵の回る音がした。

体が、固まった。

玄関のドアが、静かに開く。

静かに閉まる。

足音は、すり足だった。

朝、廊下で聞くのと、同じ足音だった。

夫だ、と思った。

どうして、と思った。夜勤のはずだ。忘れ物か、具合でも悪いのか。

声をかけようとして、唇が動かなかった。

いま声を出したら、この足音が、止まってしまう気がした。

足音は、寝室の前を素通りして、洗面所へ入っていった。

廊下の突き当たりで、かちり、と温風ヒーターの入る音がした。

続いて、浴室の戸の開く音。

栓をはめる、ゴムの鳴る音。

水が、勢いよく浴槽に落ちはじめた。

寝室のドアは、細く開いていた。

その隙間から、廊下の常夜灯に照らされた、夫の背中が見えた。

白い作業着。白い帽子。肩に、粉。

夫は、洗面所の戸棚から、私のバスタオルを取り出した。

それをヒーターの前の手すりに、二つ折りにして掛けた。

ぽん、と端を叩いて、形を整えた。

壁のリモコンの前に立って、指で何度か押した。

ピッ、ピッ、という電子音。

「お湯はりをします」と、機械の声が言った。

それから夫は、洗面所の床に腰を下ろした。

ガサ、とコンビニの袋の鳴る音がした。

十五分ぶんの水音のあいだ、夫は、おにぎりを食べていたのだと思う。

ときどき、洗面所の床板が、ぎし、と鳴った。

一度だけ、夫が寝室のほうを向いた気がした。

私は、息を止めた。

夫は、壁の時計を見ただけだった。

二十二時五十五分。

「お風呂が沸きました」

機械の声。

夫は立ち上がって、リモコンを押した。ピッ。

保温ボタンの小さな灯が、橙色に点いた。

夫は、それを見て、満足そうにうなずいた。

鏡を、タオルで一度だけ拭いた。

洗面所の電気を消して、玄関のほうへ戻っていく。

寝室の前を、もう一度、素通りした。

ドアが、静かに閉まった。

鍵の回る音。

自転車のチェーンが、雨の中へ遠ざかっていく。

私は、暗い天井を見ていた。

洗面所の空気に、焼きたてのパンの匂いが残っていた。

焼きたてのパンの匂いは、夫の作業着の残り香ではなかった。

バスタオルが温かかったのは、夫がヒーターの前に掛けておいたからだった。

保温が優秀なのではなかった。

七年前の、ファミレスのナプキンを思い出した。

五番の横に、小さな丸をつけた、夫のボールペン。

「そっか。わかった」

夫は、あの「そっか」のあとに、何も足さなかった。

足さずに、七年ぶん、約束を守りぬいていた。

帰ってきた私が、誰にも会わずに湯へ入れるように。

夜勤の四十五分の休憩を、ぜんぶ使って、工場と家を往復していた。

自転車で八分の道を、雨の日も、雪の日も。

喉の奥が、熱い湯を飲んだように痛んだ。

誰もいない家が一番ほっとする、と言ったのは、七年前の私だった。

四十一度の湯気

翌日、私は、遅番を二十一時で上がらせてもらった。

残りの電話は、ミナミさんが「ほら、行きなさい」と引き受けてくれた。

家に着くと、台所の引き出しの一番下から、黄ばんだナプキンを出した。

五番の一行に、ボールペンで二重線を引いた。

その横に、小さく書き足した。

〈取り消し〉

洗面所の明かりは点けなかった。

洗濯機の上に腰かけて、暗がりで待った。

二十二時三十八分。

鍵が回った。

すり足の足音が、廊下を近づいてくる。

洗面所の戸に手をかけた夫が、そこで止まった。

「おかえり」

夫の手から、コンビニの袋が落ちた。

帽子を、両手で握りしめていた。

「……ただいま」

小さな声だった。

「……五番は」

「取り消し」

「見た?」

「音だけ。タオルを、ぽん、って叩くところ」

夫は、帽子で顔を隠した。

「優秀だろ、保温」

声が、少し震えていた。

「うん。優秀」と私は言った。

その夜は、湯を張った浴槽の縁に並んで座って、足だけを入れた。

夫のおにぎりを、半分もらった。

その夜の湯も、四十一度だった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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