
助手席のドアは、外からしか開かない。
姉がそのドアを直さなかった理由を、私は二十六歳の春に知った。
けれど、その話をする前に、まず毎朝の話をしなければならない。
朝六時五十分。
姉の軽トラは、うちの前の砂利道でエンジンをかけたまま待っている。
白い荷台に、農協の名前を消しかけた跡がある。
消しゴムで半分だけこすったように、「農」の字だけが薄く残っている。
私は車に近づく。
外のハンドルを引いて、助手席に乗り込む。
乗るときは、ちゃんと開く。
問題は降りるときだ。
内側のハンドルは、何度引いても、乾いた音を立てるだけで動かない。
だから駅前のロータリーに着くと、姉はまずエンジンを切る。
シートベルトを外し、運転席のドアを肩で押して、外へ出る。
車の前をぐるりと回る。
ボンネットの角に、いつも片手をついてから曲がる。
それから、私の側のドアの外に立つ。
がちゃり、と外のハンドルが引かれる。
冷たい朝の空気が、膝の上まで一気に入ってくる。
姉は、ドアを開けてから、二秒だけ止まる。
そのあいだ、私の顔をじっと見ている。
いち、に。
数えたことがある。きっちり、二秒だ。
それから、やっと言う。
「いってらっしゃい」
私は「うん」と答えて降りる。
三年間、毎朝、それだけだった。
姉は三十歳で、地元の農協で集荷の仕事をしている。
声が大きくて、朝が異様に早くて、笑うと肩が上下に揺れる。
運転は荒い。ブレーキは強めに踏む。
道中、姉はずっとしゃべっている。
「今日は苺のコンテナが三十二個やざ。ほやけど十個は、昨日の残りや」
「ふうん」
「ふうん、て。もうちょっと聞いてくれんかのぉ」
「聞いとるって」
「ほな、三十二から十引いたら、なんぼや」
「二十二」
「正解。ご褒美に、道の駅の肉まんを一個」
「いらん、朝から」
「ほな私が食べるわ」
姉は本当に、片手で肉まんを食べながら、片手でハンドルを回す。
車内には、蒸した小麦粉の匂いと、ビニールハウスの湿った土の匂いが混ざっている。
ダッシュボードの上では、荷受け用のバーコードリーダーが、カーブのたびに右へ滑る。
ドリンクホルダーには、缶コーヒーが一本だけ立っている。
銀色の、どこにでもある微糖の缶だ。
姉はそれを飲まない。
飲まないくせに、毎朝、同じものを立てている。
ふしぎだとは思っていた。
ただ、それ以上は考えなかった。
考えずにいられるほど、あの頃の私は、自分のことでいっぱいだった。
助手席のドアの二秒
その朝は、雨だった。
十一月の、冷たくて、横から吹きつけるような雨だ。
駅前に着くと、姉はいつもの手順でエンジンを切った。
フロントガラスを、雨粒が斜めに流れていく。
姉が運転席のドアを開けると、風が車内に吹きこんだ。
私は黙って、シートベルトを外した。
姉は傘を持っていなかった。
もともと持たない人だ。
作業着のフードを頭にかぶっただけで、ボンネットの角に手をついて、こちらへ回ってくる。
がちゃり。
ドアが開く。
雨の匂いと、濡れたアスファルトの冷たさが入ってくる。
姉は、ドアを開けてから、二秒だけ止まる。
フードの庇から落ちた雫が、鼻の先で光っていた。
その顔で、私を見る。
私は、その二秒に耐えきれなかった。
「ちょっと、早くしてって」
「してるやろ」
「雨やに。濡れるんは姉ちゃんやけど、私も寒いんやって」
「ほな、さっさと降りぃ」
「降りられんのは、このドアのせいやろ」
姉は、少し笑った。
それから「いってらっしゃい」と言った。
私は「うん」とだけ返して、改札へ走った。
走りながら振り返ると、姉の軽トラが見えた。
雨の中で、赤いテールランプがまだ点いている。
エンジンはかかっていない。
動かない。
私が改札を抜けるまで、姉は一度も車を出さない。
それも、三年間、同じだった。
改札の自動扉の向こうで、スマホを出した。
検索窓に、文字を打つ。
「軽トラ ドア 内側 ハンドル 部品」
打つのは、その日が初めてではなかった。
でも、その日は本気で探した。
車種を入れ、年式を入れる。
三つ目のページで、見つけた。
内側ドアハンドルのロッド。
千九百八十円。
送料込み。
翌々日に届く。
私はそのページを、帰りの電車でも開いていた。
夜、台所で味噌汁をよそっている姉に、画面を突きつけた。
「ほら。部品、あるやん」
姉は、画面を見た。
一秒だけ、見た。
「ああ、これな」
「千九百八十円やに。買ってくれたらええのに」
「型が違うかもしれんしの」
「年式、合うとるって」
「古い車やけん、部品が出んのや」
「出とるって。今、見せたやん」
「次の休みにな」
姉は味噌汁の椀を、私の前に置いた。
話は、それで終わった。
次の休みが来ても、その次の休みが来ても、ロッドは届かなかった。
そのうちに、私は思うようになった。
姉は、直したくないのだ、と。
直さないでおいて、毎朝、車の前を回って、助手席のドアを開けて、いってらっしゃいと言いたいのだ。
つまりあれは、姉の趣味だ。
妹を見送る姉、という役が、好きなのだ。
そう思うと、二秒が、さらにうっとうしくなった。
私は二十六歳で、もう大人だ。
ドアくらい、自分で開けて降りる。
いってらっしゃいなんて、毎朝言われなくても、ちゃんと行く。
その苛立ちは、胸のどこかに、小さな釘のように刺さっていた。
湿布売り場の常連さん
私の職場は、隣の市の駅前にあるドラッグストアだ。
登録販売者という資格で、風邪薬や湿布を売っている。
電車で二十五分。
八時二十分に店に入って、開店前に、棚の前出しをする。
湿布売り場には、毎朝九時ちょうどに来るおばあさんがいる。
八十近くて、背中が丸くて、首にタオルを巻いている。
「湿布ください」
「どの湿布ですか」
「痛いとこ貼るやつ」
「膝ですか。腰ですか」
「全部」
全部は、困る。
私は箱を三つ持ってくる。
「こちらは温感で、こちらは冷感で」
「あんた、顔が疲れとるのぉ」
「え」
「目の下。貼ったげようか、湿布」
「私は、貼らなくて大丈夫です」
「ほな、これ貼っとき」
おばあさんは、首のタオルを外して、私に差し出した。
湿布じゃない。タオルだ。
私は思わず、吹き出してしまった。
その笑いが、その日いちばんの救いだった。
私は、この仕事が好きだった。
三年前の秋、前の会社を辞めたあと、しばらく何もできなかった。
半年ぶりに受けた面接が、この店だった。
人に薬を渡して「お大事に」と言うたび、自分が少しずつ元に戻っていく気がした。
けれど、もっと大きな薬局で、調剤の勉強をしたいと思うようになった。
金沢の薬局チェーンが、調剤併設の店で人を募集していた。
十二月の初めに、応募した。
一月の終わりに、面接に行った。
その帰りの特急で、内定の電話が鳴った。
通話ボタンを押した指が、少しだけ震えていた。
「ぜひ来てほしい」と、電話の向こうの人は言った。
四月一日から。
私は小さい声で、「お願いします」と言った。
電話を切って、窓の外を見た。
雪の残る田んぼが、夕方の光で薄い桃色に染まって、後ろへ流れていった。
家に着いて、いちばんに母に話した。
母は、縫製工場のパートから帰ったばかりで、ミシン糸のくずが袖についていた。
「金沢。ほぉ」
「うん。四月から」
「寮あるん」
「会社が、部屋を借りてくれる」
母は、台所のテーブルに座って、しばらく黙っていた。
それから、麦茶を二つ入れた。
「ちぃ姉には、あんたから言いな」
「言うよ」
「早めにやざ」
「分かっとるって」
「あの子は、あんたの朝を、いちばん知っとるでの」
母は、それ以上は言わなかった。
麦茶の氷が、からん、と鳴った。
私は、言わなければと思いながら、言い出せなかった。
言えば、あの二秒が、もっと長くなる気がしたからだ。
言い出せないまま、二月になり、三月になった。
姉は、何も訊かなかった。
朝は、いつもどおり六時五十分。
いつもどおり、肉まん。
いつもどおり、ドアが開いて、二秒止まって、いってらっしゃい。
三月の半ばの朝、私は助手席で、ほんの少し眠ってしまった。
前の晩、金沢の不動産屋のページを、夜中まで見ていたからだ。
スマホは膝の上で、画面をつけたままだった。
目を開けたら、駅前だった。
エンジンは切れていて、運転席に姉はいなかった。
慌ててスマホを裏返した。
そのとき、がちゃり、と外のハンドルが引かれた。
姉は、二秒止まった。
いつもと同じ顔で、何も言わなかった。
「いってらっしゃい」
「…うん」
私は、その朝も、それしか言えなかった。
缶コーヒーは一本だけ
最後の週の火曜日。
姉は仕事の帰りに、私の部屋の前まで来た。
私の部屋は、二階の奥にある。
階段を上がる足音が、いつもよりゆっくりだった。
ドアの前で、立ち止まる気配がした。
私はベッドの上で、膝を抱えていた。
こんこん、と二回、ノックが鳴った。
「入るで」
「どうぞ」
姉は、ドアを細く開けて、顔だけ出した。
廊下の電球が、姉の頬を橙色に染めている。
「金沢、行くんやろ」
喉の奥が、きゅっと狭くなった。
「…知っとったん」
「知っとったよ」
「いつから」
「さあな。いつからやろな」
姉は笑った。
でも、肩は揺れなかった。
「言わんで、ごめん」
「謝らんでええ。あんたが言いたなかったんやろ」
「ごめん」
「ほな、ひとつだけ聞いて」
姉は、ドアの縁に指をかけたまま、言った。
「最後の朝は、あんたが自分で降りぃ」
「え」
「私は、ドアを開けん。あんたが自分で開けて、自分で降りる」
「でも、あのドア、内側からは」
姉は、そこで、ふっと目をそらした。
「ほやな」
それから、いつもの顔に戻って、
「まあ、当日に言うわ。おやすみ」
と言って、ドアを閉めた。
階段を降りていく足音は、やっぱりゆっくりだった。
私は暗い天井を見ていた。
そのとき、ふいに、三年前の十月の朝が、頭の端にのぼってきた。
前の会社を辞めた私は、半年、家から出られなかった。
やっと決まった今の店へ、電車で通うことになった。
最初の日、姉は軽トラで、駅まで送ってくれた。
私は助手席に座って、動けなくなった。
手がハンドルにかかっているのに、引けなかった。
ロータリーの時計が、七時二十分を指していた。
姉は、何も言わなかった。
エンジンを切って、窓を少し開けて、ただ黙っていた。
気がつくと、私は電車に乗っていた。
どうやってホームまで行ったのか、よく思い出せない。
ただ、手の中に、まだ温かい缶があった。
それだけは、はっきり覚えている。
あの朝のことを、私は、恥ずかしい記憶の引き出しにしまいこんで、鍵をかけた。
助手席のドアの話とは、別の引き出しだった。
最後の朝の駅前
三月三十一日。
最後の朝は、晴れていた。
霜が降りて、田んぼの水たまりが、薄く凍っていた。
スーツケースは、前の日に宅配便で金沢へ送ってあった。
手には、小さなトートバッグがひとつだけ。
中には、財布とスマホと、母が持たせてくれたおにぎりが二つ。
六時五十分。
姉の軽トラは、いつもどおり、砂利道で待っていた。
「おはよ」
「おはよ。荷台、きれいにしたん」
「ちょっとな」
荷台は、たしかに、いつもよりきれいだった。
私は外のハンドルを引いて、助手席に座った。
ドアを閉める音が、いつもより大きく響いた。
姉はギアを入れた。
軽トラは、霜の道を、ゆっくり走り出した。
いつもの道だった。
川沿いの堤防に、刈り残した枯れ草が、風になびいている。
橋の欄干が、朝日で白く光っている。
暖房のぬるい風が、足元を通っていく。
姉は、道の駅の前を、通り過ぎた。
「肉まん」
「今日はええわ」
「…そう」
姉は、珍しく、ほとんどしゃべらなかった。
苺のコンテナの話も、しなかった。
窓の外を見ていると、田んぼの向こうに、白い山の稜線が出てきた。
「あれ、まだ雪あるな」
「あるな」
「毎年、見とったのに」
「ほやな」
「金沢からは、見えんのかな」
「見えるやろ。見えんかったら、山のほうが悪いわ」
思わず、笑った。
姉も、鼻で笑った。
そのあと、また沈黙になった。
ドリンクホルダーの缶コーヒーが、振動で、小さく揺れていた。
十二分で、駅に着いた。
ロータリーの時計は、七時三分を指していた。
高校生が二、三人、風を避けるように立っている。
姉は、いつもの位置に車を停めて、エンジンを切った。
静かになった。
遠くで、踏切の警報が鳴り始めた。
姉は、シートベルトを外し、運転席のドアを押して、外へ出た。
車の前を回る。
ボンネットの角に、片手をつく。
そして、私の側の窓の外に立った。
でも、ドアは開けなかった。
姉は、窓越しに私を見て、人差し指で、ガラスをこつこつと叩いた。
窓を下ろす。
「自分で開けてみ」
「…ドア、開かんって」
「ええから。引いてみ」
私は、助手席のドアの内側のハンドルに、手をかけた。
指に、冷たい金属が触れた。
塗装が少しはげている。
三年間、何百回も引いた場所だ。
引いた。
カチ。
開かない。
「ほら」
「ほら、て」
「もっかい」
引いた。
カチ。
やっぱり、開かない。
ホームのほうから、発車を知らせるベルが聞こえた。
次の電車まで、あと七分。
「姉ちゃん、冗談やろ。遅れるって」
「ほな、そのカバーの下、見てみ」
姉は、ドアの内側の、下のほうを指した。
プラスチックのカバーが、ネジ二本で留まっている。
「ネジ回しは、足元の工具袋」
私は足元から、小さな工具袋を引き寄せた。
中には、ドライバーが一本だけ入っていた。
まるで、今朝のために、そこに入れてあったみたいに。
曲がったロッド
私は、ネジを回した。
一本。
もう一本。
カバーが、ぽろりと外れた。
裏には、銀色の細い棒が、一本通っていた。
内側のハンドルから、ドアの錠へ伸びる、ロッドだ。
その根元が、不自然な形に曲がっていた。
折れたのでも、さびたのでもない。
指で押し曲げたような、小さなくの字に、曲がっていた。
私は、その曲がりを見た瞬間、息を止めた。
知っている、と思った。
この曲がりを、私は知っている。
指の腹が、覚えている。
三年前の十月の朝。
私は助手席で、動けなくなっていた。
降りたくなかった。
でも、降りなければならなかった。
引いては、戻した。
引いては、戻した。
ある瞬間、頭の中が真っ白になって、私は思いきり、ハンドルを引いた。
ばきん、という音がした。
ハンドルの根元で、何かが、折れ曲がった。
そのあと、私は声を出さずに泣いた。
姉は、何も言わずに車を降りて、前を回って、外からドアを開けた。
冷たい空気と一緒に、姉の顔が入ってきた。
姉は、ドアを開けたまま止まって、私の顔を見ていた。
それから、
「古いけんな。ドアが、ばかになってもうたわ」
と言った。
私は、その言葉に、ほっとした。
ほっとして、降りた。
壊したのは、私だった。
それなのに私は、いつのまにか、あれを「古い車の不具合」として覚えていた。
姉が、そう言ってくれたからだ。
三年間、一度も、私に思い出させないまま。
私はロッドの曲がりを見つめたまま、窓の外の姉に言った。
「部品が出んのや、て言うたよな」
「言うたな」
「あれ、嘘やろ」
「嘘やな」
姉は、あっさり言った。
「壊れた日の昼に、買うた。千九百八十円。グローブボックスの奥に入れとる」
私はグローブボックスを開けた。
茶色い紙袋の中に、新品のロッドが、透明な袋に入ったまま、ひとつ。
袋は、日に焼けて、少し色あせていた。
「なんで、直さんかったん」
姉は、少し黙った。
遠くで、電車の入ってくる音がした。
「ドアが私の手でしか開かんようになったら、あんたは、降りるタイミングを、私に預けられるやろ」
「…」
「毎朝、私は二秒、あんたの顔を見る。今日は降りれる顔か、降りれん顔か」
姉は、窓の縁に手をかけた。
「降りれん顔の朝は、ドアを閉めて、缶コーヒーを渡して、一本あとの電車に乗せた。覚えとらんやろ。十一回あったんやで」
私はドリンクホルダーを見た。
缶コーヒーは、降りられない朝のための一本だった。
いつからか、その出番はなくなっていた。
最後に渡されたのは、二年前の夏だった。
それでも姉は、毎朝、缶コーヒーを立て続けていた。
念のために。
二秒は、私の顔色を見る二秒だった。
私はグローブボックスから、新しいロッドの袋を取り出した。
袋を破って、ハンドルの根元に差し込む。
カチ、と小さな音がした。
ハンドルを引くと、ドアが、内側から開いた。
冷たい風が入ってきた。
私は地面に足をつけた。
時計は、七時六分を指している。
次の電車まで、あと三分。
振り返った。
姉は、窓のあったところに立っていた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
私は、三年間で初めて、そう返した。
姉の肩が、笑うときのように、揺れた。
半年が過ぎた。
先週の日曜日、私は金沢から帰省した。
駅には、姉が軽トラで迎えに来ていた。
助手席のドアは、内からも開くようになった。
それでも私は、座ったまま、外から開けてもらうのを待った。
姉は、ドアを開けてから、二秒だけ止まって、私の顔を見た。
「降りれる顔か」
「降りれる顔や」
「ほな、おかえり」
「ちゃう。ただいま、やろ」
姉は笑った。
今度は、肩がずっと揺れていた。