親友の本棚の奥に

古書店の温かな午後のひととき

修二が死んだのは、五月の終わりだった。

急な心筋梗塞で、搬送先の病院で息を引き取ったと、奥さんの由美さんから連絡があったのは、俺が仕事を終えて帰宅した夜のことだ。

受話器を持ったまま、俺はしばらく動けなかった。

窓の外では雨が降っていた。

五月の終わりにしては冷たい雨で、どこからか金木犀に似た匂いが漂っていた──そんなはずはないのだが、記憶の中では確かにそういう匂いがする。

広瀬修二とは、高校の同じクラスで知り合った。

三十七年の付き合いになる。

修二は高校を卒業してすぐ、父親の古書店を継いだ。

俺は松山市内の公立中学校で美術を教えている。今年の三月に定年を迎え、今は再任用で同じ学校に勤めている。

会う機会は多くはなかった。お互い忙しかったし、修二は口数が少なくて、積極的に連絡をくれるようなタイプでもなかった。

それでも年に二、三回は店に顔を出した。

修二の店、「修文堂」は松山城の裏手にある細い路地に面した古書店だ。

昭和四十四年に父親が始めた店で、間口は三坪ほどしかないが、奥に向かって思いのほか深く続いていて、壁一面の本棚が迷路のように並んでいる。

紙と埃と、かすかな煙草の匂い。

俺はその匂いが好きだった。

修二も好きだったのだと思う──そういうことは、言葉にしたことが一度もない。けれど、わかっていた。

二人の間には、言葉にしないことのほうが、圧倒的に多かった。

葬儀は家族葬で行われたと聞いた。

俺が参列できたのは四十九日の翌週で、由美さんは仏壇の前で線香を立てながら、「本の整理を少し手伝ってもらえますか」と言った。

六月の最初の土曜日、俺は修文堂に出向いた。

引き戸を開けると、いつもの匂いがした。

修二はもういないのに、店はそのままの顔をしていた。

レジカウンターの椅子。その横の灰皿。壁の古い黒電話。

何一つ変わっていないことが、どこか痛かった──うまく言えないが、そういう感じがした。

「どうぞ遠慮なく」と由美さんが言って、俺は棚の整理を始めた。

売れる本は古書組合に回す。状態の悪いものは処分する。

在庫の台帳と照らし合わせながら、一冊ずつ確認していった。

修二が丁寧に管理していたことがわかる台帳だった。

鉛筆で書かれた細かい字。値段の横に、短い一言メモ。「良品」「ちょっと傷み」「レア」──そんな言葉が、修二の癖のある字で続いていた。

三時間ほど経った頃だった。

店の一番奥、背の高い棚の下段に、大きな茶色の紙袋が置いてあるのに気づいた。

他の本と違って、棚に立てられているわけじゃなかった。

床の上に、そっと置かれていた。

持ち手の部分に、サインペンで字が書いてある。

「松岡へ」

俺の苗字だ。

由美さんを呼ぶと、彼女は袋を見て少し首を傾げた後、「ああ」と小さく声を出した。

「あなたに渡してほしいと、主人から言われていました。何かあったときに──と」

「いつから、ここに?」

「少なくとも三年は前から、あそこにありました」

三年。

俺は膝をついて、紙袋を両手で持ち上げた。

ずっしりと重かった。

中には本が十五冊入っていた。

文庫本が多く、数冊は単行本だった。

どれも状態がいい。日焼けもなく、ページの角も折れていない。修二が商品として積んでいたものとは明らかに違う、丁寧に選ばれた本、という手触りがした。

一冊目は、萩原朔太郎の詩集だった。

見返しのページに、付箋が一枚貼ってある。

修二の字だとわかった。角張っていて、やや右肩上がりの、あの字だ。

「お前が高校のとき好きだったやつの詩集、見つけたから。」

俺は高校の国語の授業で朔太郎の詩を読んで、「こういうのが好きだ」と言ったことがある。

修二はその場で「ふーん」と言っただけだった。

でも覚えていた。

二冊目は、遠藤周作の「沈黙」だった。

付箋には「重いかもしれないけど、お前に読んでほしい気がした。」とある。

三冊目。宮沢賢治の短編集。

「松岡が雨ニモ負ケズって好きそうだから。」

好きかどうか、俺は修二に話したことはない。

でも確かに、好きだ。

四冊目には、「これ読んだらきっと好きな人物がいる。」と書いてある。

五冊目には、「松岡が昔こういう話が好きって言ってたから。」

いつ言ったのか、俺には思い出せない。

六冊目から九冊目まで、付箋はどれも短い文だった。

「長いけど、どうせ読むならこっちがいい。」

「静かな話。でも最後が好きだと思う。」

「これ絶対好き。」

「お前に合う気がして随分前に仕入れたやつ。」

一冊ずつ開けるたびに、修二の字が出てくる。

俺はいつ、こんなことを修二に話したのだろう。

思い出せないものも、ある。

それでも修二は、覚えていた。

三十七年分の、俺が何気なく口にしたひとことを──ほとんど全部。

俺には記憶が薄くても、修二には刻まれていたのだと思う。

そういうことが、できる人間だった。

口下手で、褒め言葉を言えるタイプじゃなくて、「ありがとう」すら照れ臭そうに言う人間だったけれど──その代わりに、こういうことを、していた。

修二と俺が初めて話したのは、高校一年の体育の授業だった。

俺が運動の苦手な部類で、授業中にペアを組む相手がいなくて立っていたら、修二が近づいてきて「俺もだから」とだけ言った。

愛想のない言い方だったが、悪い気はしなかった。

その後も修二から話しかけてくることはなかった。俺のほうから話しかけて、修二が短く返す。そのパターンが三十七年間、変わることはなかった。

高校三年のとき、修二は突然「店継ぐことになった」と言った。

俺が「嫌じゃないのか」と聞くと、「嫌だけど、仕方ない」と言った。

そのときの修二の顔を、俺は今でも覚えている。

窓際の席で、グラウンドのほうを見ながら、少し唇を結んでいた。

何か言おうとして、俺は何も言えなかった。

あれから三十七年、修二は一度も店を辞めたいと言わなかった。

ただ本が好きだった──本に囲まれているのが好きだったのだと、今はわかる。

修二が店を継いでから、俺が顔を出すたびに、いつも読みかけの本を閉じて「どうした」と言う。

特に何を話すわけでもなかった。

俺が棚を眺めて、修二が勧めたい本を取り出して「これ面白いぞ」と言う。

俺が「どんな話?」と聞く。

修二が「読めばわかる」と言う。

そのやりとりが何十回と繰り返された。

「いつか読む」と俺が言って受け取った本は、たぶん三十冊を超える。

実際に読んだのは、そのうち半分もないかもしれない。

修二は何も言わなかった。

読んだかどうか、確認もしなかった。

ただ次に店に来ると、また「これ面白いぞ」と言う。

そういう人間だった。

十四冊目まで開いて、俺は少し手を止めた。

由美さんが「お茶でも」と言って奥に消えていった。

俺は茶色の紙袋を見た。

最後の一冊が、まだ残っている。

手に取ると、他の本よりも少し重い気がした。

夏目漱石の「坊っちゃん」だった。

愛媛を舞台にした、あの小説だ。

松山に住んでいれば誰でも知っていて、観光客向けの書店にはいつも平積みになっている、そういう本。

修二も松山生まれで、俺も松山育ちで、どちらも子供の頃から何度も読んでいる。

今さら、と思った。

見返しを開いた。

付箋が一枚、貼ってある。

他の付箋とは違う。

小さな正方形のメモ用紙じゃなくて、一回り大きな白い便箋の切れ端に、修二の字でびっしりと書いてある。

──読んで、俺は本を閉じた。

由美さんがお茶を持って戻ってくるまでの数分間、俺はただ座っていた。

何かを考えていたわけじゃない。

頭の中が、静かだった。

それだけだ。

由美さんが戻ってきて、湯呑みを俺の横に置いた。

「主人は口下手でしたから」と、由美さんは静かに言った。「本のことしか話しませんでしたけど、あなたのことをいつも話していたんです」

「何を話していたんですか」

「松岡さんはこういうものが好きそうだとか、松岡さんならこれを気に入るとか。三十年以上前のことも、よく覚えていて。あなたがこう言っていた、ああ言っていたって」

由美さんは笑っていたが、少し泣いているようにも見えた。

「あの紙袋のことも、何かあったらあなたに渡してほしいと、ずっと前から言われていました。主人らしい渡し方でしょう。直接は渡せないんですよ、あの人は」

俺は湯呑みを持ったまま、しばらく返事をしなかった。

由美さんの言う通りだと思った。

修二は、自分がいる間は絶対にこの袋を渡さなかっただろう。照れ臭くて、きまりが悪くて。

だから「何かあったときに」にしていたのだ。

そのときになって初めて、届くように。

「坊っちゃん」の付箋に書いてあったのは、長い文だった。

修二の字で、こう書いてあった。

「お前がいなければ、俺はたぶん本が嫌いになっていたと思う。

父親に店を継げと言われたとき、嫌だった。本の世界で食っていける気がしなかった。何も面白くなかった。

でもお前が俺の店に来るたびに棚を眺めて楽しそうにしているから、少し誇らしかった。

お前が『いつか読む』って言って受け取っていった本は全部、俺が選んだ本だ。

お前が読んだかどうかは知らん。

けど選んだのは俺だ。

それだけでよかった。

この袋の本も全部俺が選んだ。

ありがとうな、松岡。

俺の最高の友達に渡す本を選び続けたことが、俺には誇りだった。」

修二の角張った字で、そう書いてあった。

店を出たのは昼過ぎだった。

六月の空は薄曇りで、路地に差し込む光が柔らかかった。

俺は紙袋を両手で抱えて、細い路地に立ち止まった。

修文堂の引き戸を、由美さんが後ろ手に閉めた。

古い木の戸が、きゅっと鳴った。

いつもの音だった。

修二はもういない。

けれど俺の手の中には、修二が選んだ十五冊の本がある。

三十七年かけて、俺のために選び続けた本が。

「いつか読もう」と言って、まだ読んでいないものが、この十五冊の中にも、たぶん何冊かある。

今度は、読む。

全部読む。

それだけが、今の俺にできることだと思った。

路地の向こうに、松山城のある丘が見えた。

修二が子供の頃から見上げてきた、あの城が。

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