走れなかった日から

函館の秋の朝

函館に生まれて、三十五年。

仕事は自動車整備士で、港から歩いて十分ほどの小さな整備工場に勤めている。

毎朝、函館山が見える坂道を自転車で下って出勤する。

風が強い日は山の輪郭がくっきりとして、晴れ晴れしているのにどこか胸が痛かった。

俺には、二十年間ずっと謝れなかった相手がいた。

健(たける)のことだ。

中学時代の親友。陸上部のエースで、クラスで一番足が速かった。

俺と健が仲良くなったのは、中一の体育の時間だった。

マラソン大会のタイムで、俺が健に次いで二位になったのが最初のきっかけだ。

「お前も好きだろ、走ること」

健は汗を拭きながら、そう言った。

俺は照れくさくて、うまく返事ができなかった。

でもそれから、俺たちはいつも一緒にいた。

放課後の海沿いの道を、二人でよく走った。

潮風が強くて、向かい風のときは叫びながら走った。

健は俺より足が速かったけれど、いつも少しペースを落として隣を走ってくれた。

二人が並ぶと、函館の空が横に広がって見えた。あのころの空は、ずいぶん広かった。

中学三年の秋、俺たちは函館の大型スポーツ店まで自転車で行って、おそろいのランニングシューズを買った。

一時間以上かけて選んだ、黄色いラインの入った白いシューズ。

健が試し履きをしながら「これだ」と言った顔を、今でも覚えている。

「このシューズで、いつかフルマラソンを一緒に完走しよう」

健がそう言ったとき、俺は本気でそうなると思っていた。

あのころは、何でもできる気がしていた。

二人でいれば、どこまでだって走っていけると思っていた。

※

事故は、高校入学から三週間後に起きた。

健が部活の帰りに自転車で走っていたとき、わき道から出てきた車にはねられた。

俺が知ったのは、次の日の朝だった。

クラスの誰かから連絡が来て、それだけで頭が真っ白になった。

何がどうなっているのか、全然わからなかった。

健は入院した。

左膝を複雑骨折して、靱帯も傷ついた。

後遺症が残るかもしれないという話は、すぐに俺たちの耳に入ってきた。

俺は、お見舞いに行けなかった。

何を言えばいいのかわからなかった。

「大丈夫か」なんて言葉は軽すぎる気がして、

「一緒に走れなくて残念だ」なんて絶対に口にできなかった。

健の走る姿を、誰より近くで見てきた自分に、かける言葉なんてなかった。

一度、病院の入口まで行ったことがある。

自動ドアの前まで立って、ガラス越しに白い廊下を見た。

でも扉を開けることができずに、そのまま帰ってきた。

冬の寒い日で、吐いた息が白く見えた。

それだけ覚えている。

健が退院したあとも、俺は何度か電話しようとした。

携帯を開いて名前を探して、また閉じた。

それを何十回、何百回と繰り返したかわからない。

気がついたら、俺たちは別の高校に進んでいた。

顔を合わせる機会がなくなると、連絡する理由も薄れていった。

「いつか、またちゃんと話せる機会が来たら」

そう思いながら、二十年が過ぎた。

俺の中でずっと、後ろめたさがあった。

走れなくなった親友を、俺は捨てた。

そういう気持ちだった。

海沿いの道を車で通るたびに、潮の匂いがするたびに、健のことを思い出した。

思い出すたびに、目を逸らした。

※

去年の秋のことだ。

工場に一台の軽トラックが入ってきた。

車検の依頼だった。

俺は受付に出て、書類を受け取るために顔を上げた。

そこに立っていたのは、健だった。

二十年ぶりの顔を、俺はすぐに分かった。

目が細くなって、肩幅が広くなっていた。

でも笑ったときの目の形が、中学の頃と同じだった。

健も俺に気づいた。

一瞬、場が止まった。

「あ……勝也か」

「健……」

しばらく、どちらも何も言えなかった。

「お前、こっちで整備士やってたんだ」

「ああ。健こそ、こっちで仕事してるのか」

「造船の会社。港の方。もうすぐ十年になる」

世間話みたいなやり取りだった。

でも俺は、健と普通に話している自分が信じられなかった。

謝らなきゃいけない。

そう思うほど、言葉が出てこなかった。

作業中、俺は何度か健の足元を見た。

歩き方は少し不自然だったけれど、立って普通に話している。

それだけで、なぜか胸が痛くなった。

車検の作業を終えて、俺が鍵を返しに行ったとき、健がトランクを開けた。

荷物の中を確認しているようだった。

俺は何気なく、トランクの中を見た。

そこに、ランニングシューズが入っていた。

使い込まれた一足と、まだ履いていない新品が一足。

同じモデル。

黄色いラインの入った白いシューズだった。

俺の心臓が、止まりそうになった。

「健」

声が、震えた。

「それ……」

健はトランクを閉めながら、こちらを見た。

少しだけ笑った。

「あのシューズ、中学の頃に俺たちが選んだやつとほぼ同じモデルなんだよ。何度か廃番になりそうになったけど、毎回復活してくれてる。丈夫でいいシューズなんだ」

「二足、入ってたけど」

「ああ」

健はしばらく黙った。

それから、前を向いたまま言った。

「左膝は今でも完璧には動かないけど、ゆっくりなら走れるんだ。去年から、ハーフマラソンに出てる」

「ハーフ……」

「フルはまだ先だな。でも、いつかは走りたいと思ってる」

俺は、何も言えなかった。

「新品の方はな」と健は続けた。「もしいつか一緒に走れる日が来たら使おうと思って持ち歩いてた。馬鹿みたいだろ」

俺は目の奥が熱くなるのを感じた。

「馬鹿じゃない」

声が、また震えた。

「俺が謝らなきゃいけないんだよ。二十年、ずっと謝れなくて……」

健は少し笑った。

困ったような、でも優しい笑顔だった。

「俺はお前に謝ってほしかったわけじゃないよ」

「でも俺は、健が入院した時に会いに行けなくて」

「知ってるよ。玄関まで来てたろ」

俺は息が止まった。

「ナースさんが教えてくれたんだ。ガラス越しに男の子がいたって。すぐにお前だと思った」

「なんで……言わなかったんだよ」

「こっちも怖かったから」

健は港の方を見た。

函館の湾が、工場の隙間から少し見えた。

「走れなくなったことを、お前に知られるのが嫌だったんだよ。お前が誰よりも俺の走りをよく知ってたから。だからお前が来なくてよかったって部分もあった。でも来てほしかった部分もあった。ガキだったんだよ、俺も」

俺は目を拭いた。

拭っても、また滲んだ。

「ごめん」

それだけ言った。

「ああ」

健もそれだけ言った。

二十年分の言葉は、たった二言で終わった。

でも、それで充分な気がした。

※

帰り際、健が振り返って言った。

「来年の春、函館マラソンのハーフに出るから。一緒に走るか」

俺は笑った。

泣きながら、笑った。

「走る。絶対走る」

「あのシューズ、渡しておくよ。練習しとけよ。俺はゆっくりしか走れないから、お前もペース落とせよ」

「わかった」

何度も頷いた。

工場の前の通りを、健の軽トラックが走っていった。

排気音が遠ざかると、函館山がよく見えた。

俺は工場の前に立ったまま、中学の頃に健と走った海沿いの坂道を思い出した。

潮風が強くて、二人で叫びながら走ったあの道。

健がいつも少しペースを落として、隣を走ってくれた。

あのシューズを持ち帰って、俺は久しぶりに走り始めた。

毎朝、函館山の見える坂道を下って、また上って。

情けないくらい息が上がったけれど、走るたびに少しだけ胸が軽くなった。

春になれば、また健と並んで走れる。

二十年越しで、やっとスタートラインに戻ってきた気がした。

走りながら、何度も泣いた。

でも走ることをやめなかった。

健が二十年間、一度もやめなかったように。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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