
私は保護犬を、余り物として選んだ。
その犬が毎朝、三丁目の二階の窓の下で座り込むようになるとは、あの日の私は知らなかった。
去年の十月、最後の土曜のことだ。
派遣の契約が、その週の金曜で満了になっていた。
更新はありません、と人事の女性は言った。
声は丁寧で、目だけが壁の時計を見ていた。
私は「わかりました」と答えて、ロッカーの鍵を返した。
八年ぶんの事務の仕事は、紙袋ひとつに収まった。
最終日の夕方、誰もいない給湯室で、自分のマグカップを洗った。
水の音だけが、やけに大きかった。
帰りの電車で、その紙袋を膝に抱いたまま、三回乗り過ごした。
暗い窓ガラスに、自分の顔が映っていた。
知らない人の顔に見えた。
部屋に帰っても、灯りをつけなかった。
冷蔵庫のモーターが唸る音を聞きながら、床に座って朝を待った。
土曜の朝になっても、起きる理由が見つからなかった。
それでも外に出たのは、駅前の掲示板に貼られた、一枚のちらしのせいだ。
市民センターで、保護犬の譲渡会をやる。
犬を飼いたかったわけではない。
ただ、誰にも「これからどうするの」と訊かれない場所に、行きたかった。
体育館の隣の集会室には、ケージが十二個並んでいた。
午後四時、閉会の三十分前に着いたとき、ケージの半分はもう空だった。
床には、ビスケットの粉と犬の毛と、消毒液の匂いが残っていた。
「申込みは、あちらの机です」
エプロン姿の女性が言った。
名札には「運営ボランティア 鈴木」とある。
「見るだけでも、大丈夫ですよ」
「はい」
私はそう答えて、いちばん奥のケージの前に立った。
黒い犬がいた。
柴犬に、何か別の血が混ざったような顔をしている。
毛は硬そうで、右の耳だけが半分折れていた。
ケージの札には、マジックで「ひじき 推定5歳 オス」とある。
ひじきは、私を見なかった。
床のタオルの上に前足をそろえて、ただ、そこにいた。
指先を近づけると、鼻がわずかに動いて、匂いを確かめた。
乾いた鼻の先は、冷たかった。
毛からは、日向に干した麦わらのような匂いがした。
それから、ゆっくり伏せた。
「その子、最後の一匹なんです」
鈴木さんが、私の後ろで言った。
「何度も来てくださる方は、いたんですけどね」
それ以上は、言わなかった。
最後の一匹。
その言葉が、胸のどこかに、すとんと落ちた。
誰にも選ばれなかった、余り物。
今日の私と、同じ棚に並べられている気がした。
だから選んだのだ。
この子なら、私が断られることはない、と思って。
机で申込書を書いているあいだ、背中のほうで、入口の扉がゆっくり閉まった。
風が入ったのだと思った。
振り向かなかった。
ペンの先が、住所欄の上で小さく震えていた。
玄関マットの三日間
連れ帰ったのは、その日の夕方だった。
アパートは一階で、十キロまでなら犬を飼える部屋だった。
ひじきの体重は、あとで量ると9.4キロだった。
前の住人が猫を飼っていたのか、ドアの下の壁紙に、細い爪の跡が何本も残っている。
ひじきは、部屋に入らなかった。
玄関で、ぴたりと止まった。
リードを軽く引いても、四本の足が床に貼りついたように動かない。
「ほら、おいで」
声をかけると、耳だけがこちらを向いた。
体は、動かなかった。
結局その夜、ひじきは玄関マットの上で丸くなって眠った。
私はキッチンの床に座って、コンビニの弁当を半分だけ食べた。
犬が家にいる、という感じは、まだなかった。
暗い玄関の隅に、誰かの預かり荷物が置かれているようだった。
二日目も、三日目も、ひじきはマットから離れなかった。
水は飲む。フードも食べる。
ただし、私が見ていないときだけ。
振り向くと、皿のそばで、ぴたりと動きを止める。
私は履歴書を書き直していた。
八年ぶんの経歴は、八行で終わった。
プリンターが紙を吐き出すたびに、玄関のほうで、ひじきの耳が動く気配がした。
三日目の夜、私は思いきって、毛布を玄関に持っていった。
マットの隣の床に、そのまま横になる。
背中に、冷たい靴箱が当たった。
天井の蛍光灯は、端だけが黒ずんでいた。
「狭いね」
私は天井に向かって言った。
返事は、当然ない。
しばらくして、足首のあたりに、温かいものが触れた。
ひじきの背中だった。
触れたというより、寄せてきた、と言うほうが近い。
重さが、靴下ごしに伝わってくる。
私は動かないようにして、長いこと、その温度を数えていた。
五日目に、近所の動物病院へ連れていった。
獣医さんは、ひじきの体をひととおり触ってから、首をかしげた。
「健康です。歯も、思ったよりきれいです」
「ただ、ずいぶん丁寧に扱われた時期があるんでしょうね」
「どうしてですか」
「人の手を怖がらない。怖がらないのに、自分からは近づかない」
「そういう子は、誰かを待つことに慣れているんです」
待つことに、慣れている。
診察台の上で、ひじきは私のほうを一度も見なかった。
翌朝、ひじきは初めて、部屋の中に入った。
入ってすぐ、フローリングの真ん中で、何の合図もなく伏せた。
そのとき、私は気づいた。
ひじきは伏せだけを知っていた。
お座りも、お手も、待てもできない。
呼んでも、来ない。
けれど、伏せの形だけは、誰に教わったのか、完璧だった。
「誰に教わったの」
訊いても、ひじきは顎を床につけたまま、目だけを動かした。
その目が、何かを待っているように見えたのを、私は今でも覚えている。
三丁目の二階の窓
散歩に出られるようになったのは、二週間後だった。
朝は六時半。
仕事がなくなったので、時間だけはあった。
ハーネスを買い、近所の地図を頭に入れ直す作業が、新しい仕事のように思えた。
最初の朝から、ひじきは同じ道を行きたがった。
アパートを出て、商店街の裏を抜け、神社の前の坂を下りて、三丁目の四つ角へ。
そこで、止まる。
角の家は古い二階建てで、一階に車庫があり、二階の窓にはクリーム色のカーテンがかかっている。
ひじきはその窓の真下の歩道に、きっかり三歩で辿り着き、座り込んだ。
座る、というより、据わる、に近かった。
引いても、叱っても、おやつを見せても、動かない。
三分ほど経つと、自分から立ち上がって、何事もなかったように歩き出す。
翌日も、その次の日も、同じだった。
「前の飼い主さんが、あの家にいたのかな」
口に出してみて、自分の考えが気に入った。
そうだ、きっとそうだ。
あの家の誰かが、ひじきを手放したのだ。
だから毎朝、窓の下に来て、帰ってこない人を待っている。
私は、ひどく切ない気持ちになった。
二階の窓を見上げると、カーテンの隙間から、白い天井の端が見えた。
同時に、少しだけ、誇らしかった。
空いた席の続きに、私が座ってやっているのだと思えた。
神社の坂の途中で、八百屋の奥さんに声をかけられたのは、その頃だ。
「あら、その子、ヤマモトさんのとこの角を曲がる子ね」
「ご存じなんですか」
「ご存じもなにも、毎朝通るじゃない」
奥さんは、段ボール箱を抱え直して笑った。
「あそこの二階ね、朝の六時半になると、カーテンが開くのよ」
「一年くらい前から、雨の日も、欠かさず」
「誰が、ですか」
「さあ。子どもじゃないかしら。背が低いもの」
私はそのとき、深く考えなかった。
朝の窓は、どこの家にもある。
三日後、譲渡会を運営していた団体に、電話をかけて、ひじきの経歴を訊いた。
出てくれたのは、鈴木さんだった。
「ひじきくんは、県外の多頭飼育の現場から来た子なんです」
「こちらの町に来たのは、譲渡会の二週間前です」
「三丁目の角の家、ということは、ありえないですか」
「ありえないですね。あの子は、この町の道を、歩いたことがありませんから」
受話器を置いたあと、私はしばらく、自分の推理の置き場所を探した。
どこにも、なかった。
なら、なぜ窓の下なのか。
その疑問だけが、散歩のたびに残った。
十一月に入った、ある朝のことだ。
窓の下で座り込んだひじきを見下ろしながら、私はふと、顔を上げた。
二階のカーテンが、十センチだけ動いた。
風ではなかった。
窓は、閉まっている。
内側から、誰かが、指でカーテンの端を持ち上げた動きだった。
そのとき、ひじきがすっと伏せた。
座り込んでいた姿勢から、前足をそろえ、顎を歩道につけて。
合図を受けた兵隊のような、一分の無駄もない伏せだった。
私は、自分がいつも見落としていたものに、初めて気づいた。
ひじきは、ただ座り込んでいたのではない。
カーテンが動くのを待って、伏せていたのだ。
「誰か、いるんですか」
私は窓に向かって言った。
声は、朝の空気に吸われた。
カーテンは、もう動かなかった。
傘の下の男の子
雨の朝が来たのは、その翌週だった。
傘をさして角に着くと、ひじきはいつものように座り込んだ。
合羽を着せていないので、背中がみるみる濡れていく。
「ごめん、今日は帰ろう」
リードを引いたとき、家の玄関が開いた。
出てきたのは、小学校の中学年くらいの男の子だった。
ランドセルを背負い、黄色い傘を、ひらかないまま手に持っている。
男の子は歩道まで来て、ひじきの前で止まった。
それから私を見て、小さく頭を下げた。
「あの、触っていいですか」
「あ、どうぞ」
男の子は傘を地面に置いた。
しゃがんで、ひじきの背中を、ゆっくり二回なでた。
ひじきの尻尾が、一度だけ振れた。
この二週間で、私が一度も見たことのない、大きな振り方だった。
「ひじき」
男の子は、小さな声で言った。
私は耳を疑った。
「この子の名前、知ってるの」
男の子は、はっとして顔を上げた。
雨が、前髪から鼻の先へ落ちた。
「…うん」
「どうして」
「譲渡会、毎週行ってたから」
私の中で、何かが、ぶれた。
「毎週」
「五月から、十月まで。土曜日に」
「ひとりで」
「お母さんとは、最初だけ。あとは、自転車で」
私は、ひじきの濡れた背中を見た。
毎週。五か月。
鈴木さんの「何度も来てくださる方は、いたんですけどね」という声が、耳の奥で鳴った。
「…飼いたかったんだね」
男の子は、答えなかった。
代わりに、ランドセルの肩ひもを、ぎゅっと握った。
「いまは、お姉さんの犬なの?」
「うん。私の」
声が、少し細くなった。
「ごめんなさい」
謝る理由を、自分でも言葉にできないまま、言った。
「ううん」
男の子は首を横に振った。
「よかった」
「よかった?」
「ひじき、ちゃんと、ごはん食べてる?」
質問があまりにまっすぐで、私は少し笑ってしまった。
「最初の三日は、玄関のマットから動かなかったの」
「やっぱり」
男の子も、初めて少し笑った。
「ひじき、ケージのときも、タオルの上から動かなかったから」
その言葉で、私の「余り物」は、音を立てて崩れた。
余り物と呼ぶには、ひじきを知っている子が、いたのだ。
五か月のあいだ、毎週、自転車で通った子がいる犬を。
私は、売れ残りと呼んだのだ。
「返したほうがいいのかな」
言ってから、口の中が乾いた。
「君の家で、飼えないの。お母さんに、話してみたら」
男の子は、傘を拾って、ひらいた。
「うち、ペット禁止の家なんだ」
「そう」
「だからお母さんが、引っ越しを決めてくれたの」
「決めてくれた」
「来年の三月。戸建ての中古。あと四か月」
男の子は、指を折って数えた。
「ひじきは、そのとき迎えに行くつもりだった」
傘の下で、雨が静かに鳴った。
私は、言葉を失った。
「でも、いいんだ」
男の子は、はっきりした声で言った。
「ひじき、お姉さんのところで、ちゃんと伏せてるから」
「窓のあれは、君だったの」
「うん。毎朝、ちょっとだけ」
男の子は、自分の手のひらを下に向けて、ゆっくり下げてみせた。
その動きに、ひじきは前足をそろえ、雨の歩道に顎をつけた。
「ひじきは、伏せだけ知ってたでしょ」
「…うん」
「ぼくが、教えたの」
それだけ言って、男の子は傘を握り直した。
「バスの時間だから」
黄色い傘が、坂の下に向かって小さくなった。
私は、雨の中に立ったまま、動けなかった。
あの子が、二階の窓の内側で、毎朝どんな顔で手を下げていたのか。
想像しようとして、やめた。
足元で、ひじきが、濡れた顎を上げて、私を見ていた。
縁石に座った朝
その週は、散歩のたびに、窓を見上げた。
カーテンは、動いたり、動かなかったりした。
動かない朝は、少しだけ、胸がきしんだ。
私が何を奪ったのか、考えてしまうからだ。
夜、ひじきの背中をなでながら、何度も、同じことを思った。
この犬は、私のものなのか。
それとも、預かっているだけなのか。
答えが出ないまま、土曜が来た。
角の家の前に、男の子と、母親が立っていた。
母親は四十代の前半に見えた。
薬局の白衣の上に、薄いコートを羽織っている。
「おはようございます。突然すみません」
母親は、頭を下げた。
「この子が、お話ししたいことがあるそうで」
「息子が毎朝、窓から犬を見ているのは、知っていたんです」
「ただ、理由までは、聞いていなくて」
男の子は、母親の後ろから、半歩だけ出た。
ひじきは、歩道のいつもの場所で、もう伏せていた。
「ぼく、あの日、行ったんだ」
「あの日」
「譲渡会の、最後の日。四時十分に」
母親が、息をのんだのがわかった。
「試合があるって、言ってたじゃない」
「試合は、午前で終わった」
男の子は、足元の石を見た。
「お母さんは、四時半に来る予定だった。印鑑をもらった書類を持って、いっしょに申し込むって、決めてた」
「ぼくは、先に行って、ひじきに『もうすぐだよ』って言いたかった」
私の喉が、動かなくなった。
「集会室の扉を開けたら、ひじきのケージの前に、お姉さんが立ってた」
「お姉さんは、自分の両方の肘を、持ってた」
「寒いときに、するやつ」
「その日、そんなに寒くなかったのに」
私は、思わず、自分の両肘に触れた。
確かに、あの日の私は、そうしていた。
「それから、ひじきが伏せた」
「お姉さんの前で」
「ぼくが教えた伏せを、初めて会う人の前でしたの、見たことなかった」
「ぼくにだけ、してたのに」
男の子の声は、そこで、少し揺れた。
「お姉さんが、机で紙を書き始めて」
「ぼくは、扉のところに立ってた」
「言おうと思ったんだ。その子、ぼくが先にって」
「言えばよかったのに」
母親が、震える声で言った。
男の子は、首を横に振った。
「お姉さんの顔が、もう、誰にも待たれてない人の顔だった」
「ひじきには、ぼくがいる。お母さんも、引っ越してくれる」
「でも、あのお姉さんは、ひじきがいなかったら、帰っても、誰もいないと思った」
男の子は、まっすぐ私を見た。
「だから、扉を、そっと閉めたの」
「音が、しないように」
「聞こえたよ」
私は、やっとそれだけ言った。
「風の音だと、思ってた」
あの日、扉がゆっくり閉まったのは、風のせいではなかった。
母親は、口元を手で覆って、何も言わなかった。
その夜、息子が夕食のあいだ黙っていたことも、翌日から一度も犬の話をしなくなったことも、ようやく一本の線につながったのだろう。
私は、膝から力が抜けて、縁石に座り込んだ。
八年間、私は誰かに必要とされるために、誰かの代わりが利く仕事をしてきた。
更新がない、と告げられた日、私は自分を余り物だと思った。
その私を、余り物と思わなかった人がいた。
小学校四年生の、ランドセルを背負った子が。
ひじきが、伏せたまま、ずるずると私の足元へ寄ってきた。
顎を、私の靴の上に乗せる。
その重みは、あの玄関の夜と、同じだった。
ひじきを私に譲ったのは、譲渡会の人ではなく、十歳の男の子だった。
土曜の朝の持ち手
三月の最初の土曜日、男の子の家族は、川向こうの戸建てに引っ越した。
町を出たわけではない。橋を渡れば、歩いて二十分の距離だ。
引っ越しの翌週から、土曜の朝だけ、男の子は自転車で、私のアパートの前まで来る。
私は、ひじきのリードの持ち手を、男の子と半分ずつ持つ。
商店街の裏を抜け、神社の坂を下り、三丁目の角で止まる。
二階の窓には、もう誰もいない。
それでも、ひじきは三歩で辿り着いて、座り込む。
それから、ゆっくり、伏せる。
男の子が手のひらを下に向けると、ひじきの尻尾が、大きく振れた。
「来月の譲渡会、お母さんと行くんだ」
男の子が言った。
「いちばん最後まで、残ってる子のところに行く」
「最後まで?」
「うん。そういう子のこと、待ってる人がいるって、ぼく、知ってるから」
新しい家の二階の窓には、白いカーテンがかかっていた。
男の子は、自転車を止めて、その窓を指さした。
「あそこが、ぼくの部屋。ここからは、ひじきの散歩道は、見えないんだけど」
「見えなくて、いいの」
「うん。土曜は、こうして会えるから」
その言い方が、あまりに大人びていて、私は何も返せなかった。
ひじきが、男の子の靴の上に、顎を乗せた。
私は、リードの持ち手を握り直した。
最後の一匹。
あの言葉を、私は一年かけて、ようやく読み替えた。
余り物を選んだつもりでいたのは、私だけだった。