不格好な湯呑みと最後の壁

静かな朝の湖畔の家庭

朝の五時に目が覚める。

三十年、変わらない。

布団を畳み、台所に立って湯を沸かす。

棚の奥から、不格好な湯呑みを取り出す。

釉薬のかかりが不均一で、持ち手のあたりが歪んでいる。

結婚したばかりの頃、妻が陶芸体験で焼いたものだ。

「下手くそだな」

受け取った日に、俺はそう言った。

「じゃあ捨てて」

妻はそれだけ返して、台所へ戻った。

捨てなかった。

翌朝から毎日、この不格好な湯呑みで茶を飲んだ。

理由は自分でもわからない。

ただ、手に馴染んだ。

それだけのことだ。

縁が一か所、米粒ほど欠けている。

十年ほど前に、流しの角にぶつけた。

その欠けたところが、ちょうど唇に当たる。

当たる場所が決まっているから、持ち替えなくていい。

俺は左官をやっている。

湖のほとりの小さな町で、父の代から鏝を握ってきた。

壁を塗る。

ただそれだけの仕事だ。

派手さはない。

褒められることもない。

ただ、塗った壁が何十年も残る。

それが俺のやってきたことだった。

この町は湖から湿気が上がる。

冬は壁が呼吸をしにくい。

だから、この土地の左官は塗りを薄くする。

厚く塗れば見栄えはいいが、春に浮く。

父からそう教わって、俺もそうしてきた。

塗った壁を、何年かしてから見に行く癖がある。

浮いていないか、色がどう落ち着いたか。

車を停めて、外から眺めるだけだ。

家の人に挨拶をしたことはない。

父は無口な男だった。

仕事を言葉で教わった覚えがない。

黙って壁に向かい、鏝を動かす。

俺はその背中を見て育った。

壁の呼吸を読め。

土が乾く速さを、手で感じろ。

父の教えは全部、背中から盗んだものだ。

職人の親の背中というのは、どこの家でも似ているのかもしれない。

同じ町の鳶の家の話を聞いたときも、そう思った(鳶職の父)。

父の道具箱は、そのまま俺が使っている。

中身の並びも変えていない。

鏝が大きい順に寝かせてあり、いちばん端に、やけに小さな面取り鏝が一本ある。

壁には使わない大きさだ。

父が何に使っていたのか、俺は知らない。

一度だけ、使っているところを見た。

母の欠けた飯茶碗の縁を、あれで撫でていた。

捨てればいいものを、と思った。

父は何も言わなかった。

湖の対岸の土壁

妻の陽子とは、この町の盆踊りで知り合った。

無口な女だった。

俺も無口だった。

だから都合が良かったのかもしれない。

互いに多くを語らず、朝になれば俺は現場へ出て、陽子は家にいた。

出会った晩、陽子は櫓の下で踊らずに立っていた。

「踊らんの」

「見とるほうが好きやで」

それだけの会話だった。

翌週、俺は現場の帰りに、同じ場所を通った。

陽子が一人で、片づけの終わった櫓を見ていた。

話しかける言葉が浮かばず、隣に立った。

十分ほど、二人とも黙っていた。

そういう始まり方をした夫婦だった。

結婚した年の秋、陽子が一度だけ俺を誘った。

「日曜、陶芸の体験に行かん?」

「現場や」

「日曜も?」

「乾きが遅れとる」

陽子はそれ以上言わなかった。

次の日曜、陽子は一人でバスに乗っていった。

町から窯元まで、乗り継いで二時間かかる。

帰りの最終に間に合わなかったらしく、暗くなってから玄関が開いた。

「遅かったな」

「うん」

帰ってきた手に、新聞紙の包みがあった。

中身が、あの湯呑みだった。

三十年の間、俺は一度も「ありがとう」と言ったことがない。

陽子もまた、俺の仕事について何か言ったことはなかった。

弁当は毎朝、玄関の靴の横に置かれていた。

中身は三十年、ほとんど変わらない。

飯と、卵焼きと、煮物と、漬物。

冬だけ、包みが二重になる。

現場で開けたとき、まだ温かいことがあった。

帰れば風呂が沸いていた。

夏は麦茶が冷えていて、冬は味噌汁が温め直されていた。

それが当たり前だと思っていた。

当たり前のことに礼を言う必要などない、と思っていた。

五十五になった年の秋、最後の現場が決まった。

湖の対岸にある古い料亭の、土壁を塗り直す仕事だった。

若い衆に任せることが増えていた。

膝が悪くなり、足場に長く立てなくなっていた。

親方から「そろそろ考えろ」と言われたのは、もう二年前のことだ。

膝のことは、陽子には言っていない。

階段を上がるとき、右足から出す癖がついた。

それくらいは気づかれているかもしれない。

台所で湿布の匂いがしたことは、一度もなかった。

陽子が黙って洗濯機に入れていたのだろう。

最後の現場だと、陽子には言わなかった。

言っても仕方がないと思った。

三十年、一度も現場に来たことがない女だ。

出がけに、道具箱の蓋を開けた。

鏝の並びが、いつもと少し違った。

端の小さな面取り鏝だけが、半寸ほど内側にずれていた。

陽子が拭き掃除のときに触ったのだろう、と思った。

その程度のことだった。

玄関には、いつも通り弁当が置いてあった。

「行ってくる」

台所から「うん」とだけ返ってきた。

それがいつもの朝だった。

色の濃い手のひら

料亭の壁は、思った以上に傷んでいた。

長年の湿気で下地が浮き、角にひびが走っていた。

俺はまず、古い壁を落とすところから始めた。

鏝の背で軽く叩いて、音の変わる場所を探す。

中が空になっているところは、鈍い音がする。

座敷の北側を叩いていて、手が止まった。

角の下のほう、手のひらほどの大きさで、そこだけ土の色が濃かった。

雨漏りの跡ではない。

染みなら輪郭が滲む。

これは輪郭が丸く、縁がはっきりしていた。

土壁は、触られた場所が変わる。

手の脂を吸って、そこだけ乾き方が遅くなる。

何年も経てば色が残る。

誰かが、この座敷でここに手を当てたのだ。

それも、一度や二度ではない。

若い衆の松本が、脚立を運びながら覗き込んだ。

「親方、そこ、なんかありました?」

「いや」

落とす前に、指の腹でそこを押してみた。

まわりより、わずかに硬い。

手の脂を吸った土は、締まるのだ。

客の家の壁で、同じものを見たことがある。

子供の背丈のところに、丸く色の濃い場所があった。

毎日そこに手をついて靴を履く家だった。

壁は、その家の暮らしを覚えている。

俺はそのまま、上から順に落としていった。

仕事を止める理由にはならない。

砂と土と藁を混ぜ、水を足して足で踏む。

練り方が甘いと、乾いたときに髪の毛ほどのひびが走る。

下地を整え、中塗りを置き、それから上塗りに入る。

一日目の壁には、翌朝まで触らない。

新しい土を、もう一度練り直した。

左官の仕事は急いではいけない。

土が呼吸する速さに合わせる。

それも父に教わった。

休憩のとき、松本が聞いてきた。

「親方、壁塗ってる時って、何考えてるんすか」

「何も考えてない」

嘘ではなかった。

壁を塗っている間、頭は空になる。

手だけが動く。

呼吸と鏝の音だけが残る。

「俺、それ無理っすわ。なんか考えちゃう」

「考えてるうちは、まだ手が信用できてない」

松本は納得のいかない顔で茶を飲んでいた。

「親方、この料亭、何年くらいですか」

「建ったのは戦前やと聞いとる」

「誰が最初に塗ったんすかね」

「知らん」

「気になりません?」

「なる」

俺は座敷の北側を見た。

「壁ってのは、塗った奴の名前が残らん」

「ほんとっすね」

「残るのは、触られた跡だけや」

松本は意味がわからないという顔をした。

それでいい。

俺も、その時はまだわかっていなかった。

三日かけて、土壁は生まれ変わった。

朝の光が当たると、土の粒子がかすかに光った。

湖からの風が障子を揺らす。

光の筋が、新しい壁の上をゆっくり移っていった。

上塗りを終えた夕方、座敷に一人で座ってみた。

畳の目と、壁の面と、障子の桟。

どれも古いのに、壁だけが新しい。

浮いて見えないか、そればかり気にしていた。

我ながら、悪くない仕事だと思った。

女将が指した高さ

道具を洗っていると、女将が茶を持ってきた。

「職人さん、奥さんによろしくお伝えくださいね」

俺は手を止めた。

「うちの家内を、ご存じですか」

女将は少し驚いた顔をして、それから笑った。

「ご存じも何も。奥さん、うちにいらしたことがありますよ」

「いつです」

「もう三年ほど前でしょうか」

女将は座敷のほうを見た。

「このお座敷の壁を見て、『主人が塗った壁です』とおっしゃって」

俺は黙っていた。

「それで、『いつかここを塗り直す時が来たら、主人に頼んでいただけませんか』と」

「三年前に、ですか」

「ええ。まだまだ綺麗だったんですけどね、あの頃は」

女将は湯呑みを盆に戻した。

「でも奥さん、とても誇らしそうでしたよ」

「そうですか」

「壁に手を当てて、しばらくじっと触れていらっしゃいました」

鏝を洗う水が、指の間をすり抜けていった。

「どのあたりに、手を」

女将は少し考えて、座敷の北の角を指した。

「あちらの、低いところです。座ったまま、腰の高さくらいのところに」

俺は濡れた手のまま座敷へ上がった。

落としたばかりの壁の、下地が出ている。

女将の言った高さに手を当てると、俺の手のひらがちょうど重なった。

三年ぶん、色が濃くなるほど、そこに手が置かれていた。

この現場を紹介してくれたのは親方だった。

帰りに、親方の家へ寄った。

玄関先で、聞くだけ聞いて帰るつもりだった。

「あの料亭の仕事、誰から来ました」

親方は湯呑みを置いた。

「女将さんからや」

「それだけですか」

親方はしばらく黙っていた。

「……三年前にな、おまえの家内が来たわ」

「うちのが」

「おまえの膝のこと、聞きに来た」

「なんて」

「あと何年もつか、て」

俺は上がり框に座ったまま動けなかった。

「最後の仕事は、自分が見とる壁にしてやってくれ、て言うた」

「見とる壁」

「わしも意味がわからんかった。せやから、そのまま覚えとった」

親方は俺の顔を見なかった。

「三年、待っとったんやな。あの料亭が傷むのを」

帰り道、湖沿いの県道を走った。

駅前の交番。

商店街の呉服屋。

小学校の体育館の外壁。

湖畔の公民館。

信用金庫の待合の腰壁。

潰れた写真館の、今は看板だけが残っている建物。

どれも、俺が塗った壁だ。

数えたことはない。

数えたら、終わりが見える気がしていた。

陽子は、これを全部知っていたのだろうか。

俺のいない場所で、この壁の前に立ったことがあったのだろうか。

あの無口な女が、壁に手を当てて、何を思っていたのだろう。

呉服屋の壁は、俺が三十四のときの仕事だ。

体育館は四十二。

公民館は四十八。

どれも、家では一言も話さなかった現場だ。

陽子は、どうやってそれを知ったのか。

親方に聞いたのか、町の誰かに聞いたのか。

聞いて回っていたのだとしたら、いつからだろう。

湖の上に夕陽が落ちかけていた。

水面がオレンジに染まり、対岸の稜線が紫に霞んでいた。

この景色を何千回と見てきた。

今日は、滲んで見えた。

ハンドルを握る手が、少しだけ震えた。

不格好な湯呑みの底

家に着くと、いつも通り玄関の灯りがついていた。

靴を脱ぎ、居間に上がると、陽子が台所に立っていた。

背中しか見えない。

三十年、ずっとこの背中を見てきた。

少しだけ丸くなった背中。

若い頃はもっと姿勢が良かった。

いつから丸くなったのか、俺は知らない。

「風呂、沸いてるよ」

いつもの一言だった。

いつもなら「ああ」とだけ返す。

今日は、先に茶を飲みたくなった。

不格好な湯呑みで。

棚から取り出し、急須から注いだ。

温かい茶が、歪んだ器を満たしていく。

一口飲んで、両手で包んだ。

釉薬の凹凸が指に当たる。

三十年、毎朝触れてきた感触だ。

ふと、ひっくり返してみた。

理由はわからない。

三十年、一度もそんなことをしたことがなかった。

ただ、今日は見てみたくなった。

底に、小さな文字が彫られていた。

釉薬に半ば埋もれて、爪の先でなぞらなければ読めない。

焼く前に、細い棒か何かで刻んだのだろう。

いや、棒ではない。

線の端が、わずかに角を落としてある。

刃先を寝かせて引いた線だ。

道具箱の、端の面取り鏝。

半寸ずれていたのは、拭き掃除のせいではなかった。

陶芸体験の朝、陽子はあれを一度持ち出している。

文字は五つだった。

「ずっと、そばに」

陶芸体験の日、「下手くそだな」と笑った俺に、陽子は「じゃあ捨てて」と言った。

俺は左官だ。

壁に言葉は書かない。

ただ塗る。

ただ整える。

壁は言葉を残さない。

残るのは、触れた場所の色だけだ。

捨ててと言ったとき、五文字はもう底にあった。

陽子は湯呑みの底に言葉を隠した。

見つけてもらえなくてもいい場所に、五文字を刻んだ。

どちらも、言えないぶんを手で置いていたのだと思う。

台所から、包丁がまな板に当たる音が聞こえていた。

俺は湯呑みを食卓に置き、立ち上がった。

台所の入口から、陽子の背中を見た。

「陽子」

妻が振り向いた。

手には大根を持っていた。

「何」

口を開いた。

三十年分の言葉が、胸の奥で渋滞していた。

ありがとう。

すまなかった。

気づかなくて。

お前がいてくれたから。

全部、言いたかった。

出てきたのは、ひとつだけだった。

「……あの湯呑み、いい湯呑みだな」

陽子は少しだけ目を見開いて、視線を大根に戻した。

「三十年経って、やっと気づいたの」

声が、少しだけ震えていた。

包丁の音が、一度だけ止まった。

それから、また続いた。

その晩の味噌汁に、大根が入っていた。

厚さが揃っていなかった。

陽子の切る大根は、いつも同じ厚さだ。

俺は何も言わずに食べた。

「料亭の壁、どうやった」

陽子が初めて、俺の仕事のことを聞いた。

「傷んどった」

「そう」

「北の角だけ、色が濃かった」

陽子は箸を止めなかった。

「……そうやったの」

それ以上は、どちらも言わなかった。

言葉にできないものを書き留める人のことを、俺は何も知らなかった(引き出しの奥の布張りのノート)。

弁当の上の付箋

翌朝も五時に目が覚めた。

台所に立ち、湯を沸かし、棚から湯呑みを取り出した。

持ち上げる前に、底を見た。

五文字は昨日と同じ場所にあった。

当たり前だ。

三十年間、ずっとそこにあったのだから。

茶を注ぎ、一口飲んだ。

いつもと同じ味のはずだった。

今朝は、少しだけ甘く感じた。

居間に戻ると、玄関に弁当が置かれていた。

いつもと同じ場所に、いつもと同じ包み方で。

ただ、包みの上に小さな付箋が貼ってあった。

「いってらっしゃい」

三十年で初めて見る、陽子の書いた付箋だった。

俺は付箋を丁寧に剥がし、作業着の胸ポケットにしまった。

現場に着いて、胸ポケットから一度出した。

松本が覗き込んで、何も聞かずに脚立を運んでいった。

昼に、もう一度出した。

紙が汗で少し波打っていた。

その日の帰り、湖沿いで車を停めた。

対岸の料亭の屋根が、小さく見えた。

三年前、陽子はどの道を通って、あの座敷まで行ったのだろう。

バスを乗り継いだはずだ。

免許を持っていない女だ。

家に着いて、いつも通り「ただいま」とだけ言った。

風呂が沸いていた。

棚から湯呑みを出すとき、隣にもう一つ、同じ手の器があるのに初めて気づいた。

陽子が自分の分を、三十年、奥に置いていた。

現場に着いて、胸ポケットから一度出した。

松本が覗き込んで、何も聞かずに脚立を運んでいった。

昼に、もう一度出した。

紙が汗で少し波打っていた。

道具箱を開けて、端の面取り鏝を、半寸だけ内側へずらした。

引退は、もう少し先にしようと思った。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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