柱の傷あとが上がるついたちの朝

寺社回廊の朝、身長を測る親子

「せんせい、ついたちはまだですか」

そう訊いてきたのは、六年生の勝一だった。

ついたちの朝にだけ、私は子どもたちの背を測り、庫裏の柱に線を入れる。

大きくなったら東京へ帰れる。

そう言ったのは、私だ。

嘘である。

柱の傷あとは、いつも私の胸のあたりから始まった。

いちばん小さい三年生の背丈が、ちょうどそこだったからだ。

昭和十九年の秋、私は十九だった。

東京の国民学校から四十二人を預かって、信州の山あいの寺にいた。

肩書きは代用教員という。

師範を出たわけでもない娘が、先生と呼ばれていた。

寺は、村から坂を二十分ほど上がったところにあった。

山門をくぐると、線香と、雨に濡れた木の匂いがした。

本堂の裏手に庫裏があり、十六畳の板の間が子どもたちの部屋になった。

四十二人が寝ると、畳の縁が見えなくなる。

最初の晩、三年生の女の子が布団の中で泣いた。

つられて、三人が泣いた。

私は何を言えばよいのかわからず、廊下に座っていた。

本堂の畳は冷たく、線香の匂いが布団にまで移った。

東京の匂いを覚えている子は、そのうち一人もいなくなった。

寺へ着いた日、和尚さまが私に言った。

「背が伸びたら帰れる。そういうことにしておきなされ」

方便だとわかっていた。

それでも次の朝、私は子どもたちに同じことを言った。

言ってしまってから、自分の声が嫌いになった。

けれど、その嘘は子どもたちをよく眠らせた。

泣く子は、ひと月のうちに一人になった。

朝は六時の鐘で起きる。

本堂の掃除、廊下の雑巾がけ、それから点呼をした。

点呼の返事は、日ごとに小さくなっていった。

私は夜、帳面に四十二人の名を書き写した。

書き写しながら、自分は東京の何を守っているのだろうと思った。

母からの葉書は、二月に一度ほど届いた。

読んだあとは、子どもたちに見つからないところで畳んだ。

手紙の来ない子の前で、嬉しそうな顔をするわけにはいかなかった。

村の人は、よくしてくれた。

それでも、四十二人ぶんの米はどこにもなかった。

朝は雑炊、昼は麦の握り飯がひとつ、夜はまた雑炊。

冬には、その握り飯が半分になった。

子どもたちの手首は、竹の箸のように細くなっていった。

伸びるはずがない。

私はそう思っていた。

ついたちが近づくたび、胃の裏側が冷たくなった。

測ってしまえば、嘘のほうが先に露見する。

そう思っていた。

小刀と柱の傷あと

ついたちの朝は、まだ暗いうちに始まる。

板の間の雨戸を一枚だけ開ける。

山の空気が、足首のあたりを撫でて通っていく。

子どもたちは、背の低い順に廊下へ並んだ。

誰が決めたわけでもない順番だった。

柱の前に立たせて、頭のてっぺんに物差しを水平に当てる。

小刀の先で、柱に横一本。

すぐ脇に、その子の名の頭の字を彫る。

「せんせい、おれ、上がった?」

「上がったよ」

「どんくらい」

「三分」

三分は、指の腹ひとつぶんにも足りない。

それでも子どもたちは歓声を上げた。

上がったというその一語だけで、その日は一日、走り回れるらしかった。

和尚さまは、廊下の端で腕を組んで見ていた。

笑いもせず、止めもしない。

台所からは、味噌を溶く匂いがしていた。

柱の傷あとを数えるのは、子どもたちの遊びになった。

日曜の昼、めいめいが柱の前にしゃがんで、自分の字を探す。

「おれ、ここまで来た」

「おれのほうが上だ」

「背が高いだけだろ」

柱の傷あとは、ひと月に四十二本ずつ増えていく。

秋が終わるころには、柱の一面が細かい線で埋まった。

和尚さまは、それを一度も拭かなかった。

小刀は和尚さまのものだった。

刃の根元に、小さな印が彫ってある。

「これは仏具じゃない。経机をこしらえたときの残りだ」

和尚さまはそう言って、ついたちの前の晩に必ず研いでくれた。

研ぐ音は、庫裏の裏手から聞こえてくる。

しゃり、しゃり、と、間をおいて。

その音を聞くと、明日が来るのだと思えた。

あるとき、研いでいる背中に声をかけた。

「和尚さま、明日も三分でしょうか」

「さあ」

「伸びていなかったら、どういたしましょう」

「そのときは、そのときだ」

砥石を動かす手は、止まらなかった。

測るのは、朝食の前と決まっていた。

和尚さまがそう決めたからである。

「腹に何か入ると、背は縮むでな」

これも嘘だ。

けれど子どもたちは真に受けて、前の晩から水も飲まない子が出た。

「それは体に毒です」

「せんせいだって嘘をつくじゃないですか」

武志が言った。

私は返事ができなかった。

九月の最初の朝、私も一度だけ自分の線を引いた。

子どもたちにせがまれたからである。

脇に彫ったのは「ち」の一字だ。

千鶴の、ちである。

私は、毎月きちんと線が上がっていくのが不思議だった。

不思議だとは思ったが、深くは考えなかった。

考えたら、続けられなくなる気がした。

どの月も、どの子も、前の線とのあいだはきっかり三分だった。

四十二人が揃って同じだけ伸びる。

そんなことがあるはずはない。

私はそれを、十五年のあいだ考えないようにしてきた。

半歩離れて立つ子

勝一だけは、柱にぴたりと背をつけなかった。

いつも半歩、手前に立つ。

「くっつきなさい」

「これでいいです」

そう言って、あごを引き、まっすぐ前を見た。

背の順でいえば、勝一は最後尾だった。

六年生で、四十二人のうちでいちばん年上だった。

下の子が夜に泣くと、暗いうちに起きて便所まで連れていった。

私より先に起きている朝が、何度もあった。

勝一の家からは、五月を最後に便りが来なくなっていた。

ほかの子には、月に一通か二通、葉書が届く。

届いた子の名を、私は夕食の前に読み上げた。

読み上げるあいだ、勝一は必ず廊下の柱に寄りかかって、天井を見ていた。

一度だけ、訊いたことがある。

「おうちに、手紙を書かないの」

「書いてます」

「返事は」

「そのうち来ます」

それきり、勝一はその話をしなかった。

十一月に、村の人が芋のつるを荷車で運んできた。

葉を落とし、茹でて、味噌で和える。

初めて出した日、三年生の武志が一口食べて言った。

「せんせい、これ、縄じゃないですか」

「縄は食べられません」

「じゃあ、これも食べられません」

板の間が笑いでいっぱいになった。

襖の向こうで、和尚さまが噴き出す音がした。

その晩、武志は茶碗を二度おかわりした。

笑った日は、みんなよく食べた。

笑わせることのほうが教えることより大事な仕事なのだと、私はそのころ思うようになった。

雪が降ると、庫裏の廊下は氷のようになった。

朝、雑巾を絞ると、指の先が白くなって感覚がなくなる。

子どもたちは、廊下を走るときだけ足袋を履いた。

二月のある晩、勝一が自分の椀の芋を、隣の三年生の椀へ移しているのを見た。

「勝一」

「落としただけです」

「箸で落としたの」

「はい」

そう言って、勝一は白湯を飲んだ。

私は何も言わずに台所へ戻った。

言えば、次の日から見えない場所でやるだろうと思ったからだ。

風呂は三日に一度、村の家を順に借りた。

湯に浸かると、子どもたちの背骨が一本ずつ浮いて見えた。

私は数えないようにして、下の子の頭を洗った。

三月に、三年生の女の子が母親へ出す手紙を書けずにいた。

鉛筆を持ったまま、半刻も紙を見ている。

勝一がその隣に座って、何か小さな声で言った。

女の子は、それからすらすらと書きはじめた。

あとで訊くと、勝一はこう言った。

「元気ですと書けば、元気になります」

「ほんとうに」

「うちの母も、そう書いてました」

その母からの便りが十か月来ていないことを、私は言わなかった。

ついたちの朝、勝一の爪のあいだには、いつも白い粉が入っていた。

「手を洗いなさい」

「洗いました」

「洗ってないでしょう」

勝一は手を後ろに回して、少しだけ笑った。

薪でも割っているのだろうと、私は思った。

思って、それきりにした。

障子が閉まらない

年が明けて、和尚さまがこぼすようになった。

「障子の建てつけが悪うなった」

庫裏の障子が、あと一寸というところで動かなくなる。

和尚さまは鉋を持ち出して、敷居のほうを削った。

削っても、ひと月もするとまた閉まらなくなる。

「古い家は、生きものみたいなもんでな」

そう言って、和尚さまは笑っていた。

私も笑った。

笑うよりほかに、できることがなかった。

春になると、村の人が蕨と蕗を持ってきた。

子どもたちは、山へ入るのを何より喜んだ。

手のひらに蕗のあくがついて、洗ってもなかなか落ちない。

その黒い手のまま、みんなで柱の前に並んだ朝もあった。

五月のついたちだった。

測り終わったあと、武志が私の袖を引いた。

「せんせいも測ってください」

「先生はもう伸びません」

「じゃあ縮んでるかもしれない」

子どもたちが囃した。

私は柱の前に立って、物差しを自分の頭に当てた。

そのころ、私の着物は帯を二重に巻いても余っていた。

線を引いて、「ち」の字の下にもう一本、印をつけた。

「せんせい、下がってます」

武志が言った。

ほんとうに、秋に引いた線より下だった。

私は笑った。

笑ってから廊下へ出て、しばらく戻らなかった。

六月のついたちだけは、どの子も六分だった。

三分ではなく、六分である。

「先生、倍だ」

武志が物差しを持ちたがって、私の頭にも当てた。

「せんせいも六分です」

子どもたちが笑った。

私も笑った。

暖かくなったからだろうと思った。

その朝の味噌汁は、いつもより少しだけ塩が強かった。

七月に入ると、蝉の声が山の上まで上がってきた。

子どもたちは日が落ちるまで外にいた。

夕方、勝一が下の子を背負って坂を上がってくるのが見えた。

「重いでしょう」

「軽いです」

軽い、という言葉が、あの夏はいちばん悲しい言葉だった。

八月の半ば、村の駐在が寺へ来て、和尚さまと長いこと話していた。

その日から、山は静かになった。

子どもたちには何も説明しなかった。

説明できることが、私には何ひとつなかった。

八月のついたちが、最後の朝になった。

その朝は、蝉が鳴いていた。

測り終えると、子どもたちは何も言わずに散っていった。

誰も、上がったかとは訊かなかった。

私はしばらく、小刀を握ったまま柱の前に立っていた。

ひと月もしないうちに、迎えが来はじめた。

子どもたちは一人ずつ、荷物を背負って山を下りていった。

勝一の母親が来たのは、十月の末である。

痩せて、脚絆を巻いていた。

玄関の三和土で、私に何度も頭を下げた。

便りが途絶えていたのは、家を移ったからだと言った。

勝一は、母親の顔を見ても走らなかった。

荷物をまとめてから、庫裏の柱の前に立った。

自分の線を、上から下まで指でなぞった。

「せんせい、この柱、削らんといてください」

「削らないわ」

それが、勝一と交わした最後の言葉になった。

本堂の経机の底板

それから十五年が過ぎた。

私は東京へ戻らなかった。

村の分校に勤めて、三十四になっていた。

分校の子どもは、いちばん多い年で十九人だった。

私は嫁にも行かず、二十代を村で終えた。

年に何度か、寺の前の坂を通る。

通るたび、庫裏の柱のことを思った。

十五年のあいだに、村の道は舗装された。

バスが日に三本、坂の下まで来るようになった。

疎開の子のうち何人かは、はじめの数年、手紙をくれた。

やがて、それも間遠になった。

当然のことだと思う。

あの十一か月は私にとっては生涯だが、あの子たちには小学校の一時期にすぎない。

建て替えると聞いたのは、春先である。

いまの住職は、和尚さまの息子だ。

「柱だけは残しますで」

住職はそう言って、私に立ち会うよう頼んできた。

「先生に見といてもらわんと、親父が納得せんのですわ」

奥の部屋を覗くと、和尚さまは陽の当たる縁に座っていた。

前の年に隠居して、もう鉋は持たない。

私が挨拶をすると、柱のほうへ顎をしゃくった。

「残すでな」

それだけ言って、また外を見た。

床板をはがす日、私は朝から縁側に座っていた。

柱の根元の畳を上げると、黒ずんだ床板が出てきた。

その床板をはがした大工が、途中で手を止めた。

「先生、これ、なんですかな」

柱の周りだけ、根太の上に薄い板が重ねてあった。

三尺四方ほどの、ちょうど子どもが立つだけの広さである。

杉だった。

一枚一枚が、きっかり三分の厚みだった。

住職と大工と私の三人で、しばらくその板を見下ろしていた。

誰も、すぐには手を出さなかった。

板の角が、指で押したように丸くなっている。

何度も出し入れされた木の角だった。

「先生、これは大人の仕事じゃありませんな」

大工が一枚を持ち上げて、日に透かした。

「鋸の目が粗い。子どもの引いた目です」

住職が本堂から古い経机を運んできた。

底板が抜けていた。

抜けたあとには、鋸の目が残っている。

「親父が、この机の底がいつのまにか無うなった言うて、ずっと捜しとりました」

私は縁側の柱に手をついた。

木の粉の匂いが、十五年ぶりに鼻の奥へ戻ってきた。

勝一の爪のあいだに入っていたあの白い粉は、この経机の底板を割った杉の粉だった。

薪ではなかった。

私は一度も、その手を取って見なかった。

床下の十二枚

大工が板を一枚ずつ抜いて、縁側に並べた。

私は数えた。

十二枚あった。

ついたちに測った回数は、十一回である。

三分の板を一枚敷けば、その上に立つ者の背は三分高くなる。

四十二人が揃って三分ずつ伸びていたのは、そういうことだった。

床が上がっていたのだから、障子が閉まらなくなるのは道理だった。

和尚さまは毎月、敷居のほうを削っていた。

上げる側がいて、削る側がいた。

私は柱に近づいて、勝一の線を探した。

柱の傷あとは、子どものものだけで四百六十二本あった。

「か」の字が、そのうちの十一本である。

ほかの子の線は、どれも定規を当てたように等間隔だった。

勝一の線だけが、揃っていない。

三月の線と四月の線は、ほとんど重なっていた。

そして二月の線は、一月の線より下にあった。

勝一の傷だけが、ひと月ぶん下がっていた。

板を踏まない場所に立てば、自分の背だけは正しく測れる。

勝一は毎月、半歩離れて立っていた。

四十二人のうち、ほんとうの背丈を知っていたのは、あの子ひとりだった。

大工が板を裏返していった。

裏には鉛筆で、月が書いてある。

十月、十一月、十二月、一月。

子どもの字だった。

六月の板は、二枚あった。

一枚には六月とあり、もう一枚には月が書いていない。

その一枚の裏には、鉛筆で、せんせいのぶん、と書いてあった。

私は縁側に座り込んだ。

大工が煙草に火をつけて、縁側から離れていった。

住職は何も言わなかった。

十一か月、ついたちの前の晩に、あの子は床下へ潜っていた。

和尚さまが小刀を研いでいる、あの晩にである。

しゃり、しゃり、と音が鳴っているあいだなら、床下の物音は誰にも聞こえない。

五月のついたちに、私は子どもたちの前で下がった。

笑って廊下へ出た、あの朝である。

翌月、床は三分ではなく六分上がった。

板は、住職が桐の箱に納めて本堂へ上げた。

庫裏は建て替わり、柱だけが新しい壁の中に立っている。

勝一からは、年に一度、賀状が来る。

名古屋の消印である。

文面はいつも同じで、お変わりありませんか、とだけ書いてある。

私は返事に、寺の柱はまだありますと書く。

会いに行こうと思ったことは、何度もある。

行かないのは、訊いてしまいそうだからだ。

あの板を敷いたのはあなたですかと訊けば、勝一はきっと、そんなことはしていませんと言う。

あの子は、そういう子だった。

分校の子どもたちは、ときどき私に背を測らせろとせがむ。

私は柱ではなく、廊下の壁に鉛筆で線を引く。

床には、何も敷かない。

敷かなくても、この子たちは伸びていく。

柱の傷あとは、いまも私の胸のあたりから始まっている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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