
備考欄には、いつも同じ一行が書いてあった。
「姉と同じ長さで」
丸い字だった。鉛筆の芯を何度も尖らせたような、力の入った字。
その注文票を、私は一枚も捨てずに取ってある。毎月の姉の髪の長さが、あの子の字で記された束だ。引き出しの底に、月ごとに輪ゴムで束ねて。
駅裏の細い通りに、私の店はある。椅子が並ぶだけの小さな美容室だ。
朝は近所のおばあさんたちの白髪染め。昼は子連れの母親。夕方は、仕事帰りの人が滑り込んでくる。
その子が初めて来たのは、桜がほとんど散った平日の午後だった。
ドアベルが鳴って、制服のズボンに黒いスニーカーの男の子が立っていた。中学生だろう。肩幅だけが、まだ背丈に追いついていない。
「予約、してないんですけど」
「大丈夫。空いてるよ」
彼は店の中をぐるりと見回してから、いちばん奥の椅子に座った。
鏡の前で背筋を伸ばし、膝の上で両手を握っている。緊張しているのが、背中の硬さでわかった。
ケープをかけながら、私は訊いた。
「今日は、どんな感じにしましょうか」
彼はポケットからスマートフォンを出し、画面を私に向けた。
写っていたのは、頭だった。
真上から撮ったらしい。白い枕の上に、短い髪が、芝を刈ったあとのように生えそろっている。顔は写っていない。
「この長さにしてください」
「かなり短いね。バリカンで刈った感じかな」
「たぶん、そうです」
たぶん。引っかかったが、問いただすほどのことでもない。
「お友達? それとも、野球部の先輩とか」
「……姉です」
「お姉さんと、同じにしたいんだ」
「はい」
短い返事だった。それ以上は、何も足さなかった。
私は彼の髪をひとつまみ持ち上げた。耳にかかる長さの、くせのない黒髪。切るのが惜しいくらい、つやがあった。
「いいの? 思い切るよ」
「いいです。お願いします」
バリカンの低い羽音が、店に満ちた。シャンプーの甘い匂いの中に、刈られた髪の、ほのかに焦げたような匂いが混じる。
床に落ちていく黒い髪を、彼は一度も見なかった。
仕上がった頭は、画面の写真と寸分違わない長さだった。刈り上げたあとの頭皮は、まだ少し青白かった。
私は手鏡を差し出し、後頭部を見せようとした。
「後ろ、確認してみて」
「あ、大丈夫です」
彼は手鏡を受け取らなかった。かわりに、スマートフォンの画面と、自分の側頭部に当てた指先とを、何度も見比べていた。
「写真と、同じなので」
そう言って、小さく頭を下げた。
いつもの封筒
会計のとき、彼は制服のポケットから白い封筒をふたつ出した。
ひとつには、折り目のついた千円札が入っていた。今日の代金で、数えるとぴったりだった。
もうひとつは、のり付けされた小さな封筒で、表に鉛筆で名前が書いてあった。
「これ、預かってもらえませんか」
「預かる?」
「毎月、少しだけ足しに来ます。お釣りが出る分とか、全部」
私は表書きを読んだ。丸い字で、「澪」とあった。
「澪さん」
「姉の名前です」
「お姉さんの代金を、先に貯めておくの?」
「いつか、ここに来るかもしれないので」
そのときの私は、その「かもしれない」を軽く受け取った。美容室に来たがらない年頃の姉を、弟が気づかっているのだろう、くらいに。
封筒は、レジの引き出しの隅に立てかけた。
それから、湊くんは毎月来るようになった。名前を知ったのは、二度目の予約の電話口だ。
「湊です。ひらがなじゃなくて、さんずいの」
「はい、湊くんね。お待ちしてます」
いつも、第一日曜の朝一番だった。他のお客さんが来る前の、店がまだ冷たい空気を残している時間。
五月の日曜は、風の強い朝だった。ドアを開けた拍子に、新緑の匂いが店に流れ込んだ。
彼は奥の椅子に座り、スマートフォンを差し出した。
前の月と同じ頭の写真だった。ただ、白い枕に対して、髪の色が少し濃くなっている。
写真の中の髪は、毎月、爪の幅ほどずつ伸びていた。
「今月は、この長さで」
「うん。先月より、ちょっと伸びたね」
「はい。……ちょっとずつ、です」
彼はそこで言葉を切った。ハサミを入れる私の手元ではなく、床の隅の一点を見ていた。
彼の髪のほうが、いつも少しだけ先に伸びた。姉の髪の長さに弟の頭を合わせるのが、私の仕事になった。
ハサミの音は、バリカンより乾いていて、細かい。彼はその音を、目を閉じて聞いていた。
仕上げに、また手鏡を向けた。
「後ろ、見る?」
「いえ。写真と同じなので」
やはり、受け取らなかった。
注文票の備考欄には、毎回、同じ一行が書いてあった。
「姉と同じ長さで」
どうして鏡を見ないの、とは訊かなかった。訊けば、彼が来なくなる気がした。
会計のたびに、彼は小さな封筒に五百円玉を一枚ずつ足した。釣り銭の十円玉を、ひとつずつ重ねる月もあった。
封筒は、少しずつ、重くなっていった。
写真の中の姉の髪の長さ
夏が来た。
七月の店は、昼から蝉の声に窓を揺らされた。ドライヤーの熱と冷房が、ぶつかりあって中途半端な風になる。
冷たい麦茶を出すと、彼は両手でグラスを持ち、一息に半分まで飲んだ。
「部活は、入ってないんだよね」
「はい。入ってないです」
「じゃあ、夏休みは、ずっとお姉さんと一緒か」
「姉は、家にいます。あんまり、外に出ないので」
グラスの氷が鳴った。
「会いたい友達だって、いるだろうにね」
「……髪が、まだ」
そこで彼は言葉を飲んだ。続きを待ったが、麦茶の水滴が、テーブルに輪を広げていくだけだった。
「髪が、あんまり伸びてなくて」
彼はそう言い直した。私は、何も訊かなかった。
その夜、帰り支度をしながら、引き出しの底の注文票を数えた。
四枚。姉の髪の長さを記した紙が、四枚。写真は貼っていない。けれど私の頭の中では、四枚の写真が重なって、同じ頭が少しずつ起き上がってくるように見えた。
九月の第一日曜は、台風の翌朝だった。
道路には折れた枝と濡れた葉が貼りついていた。ドアベルが鳴って、傘をたたむ音がした。
湊くんの肩は、半分ほど濡れていた。
「ごめんなさい。途中で、風にやられて」
「いいから、まずタオル」
私は温めたタオルで、彼の頭を包んだ。耳の先が冷たかった。
その日、写真の髪は、指でつまめるほどの長さになっていた。
「ねえ、これ、お姉さんに」
私はシャンプーの小さな試供品を、彼の手に載せた。
「頭皮がやわらかいときでも使える、やさしいやつなの。よかったら」
彼は試供品を見つめ、しばらく黙っていた。
「……渡して、いいんですか」
「うん。余ってるから」
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。その頭から、私のシャンプーの香りがした。
十月には、写真の耳の上のあたりに、色の濃い束が混じりはじめた。
十一月、髪の毛先は初めて、内側にくるりと丸まっていた。
「くせ毛なんだね」
思わず口に出すと、湊くんの肩がほんの少し上がった。
「姉のは、元は、まっすぐだったんです」
「生え変わるときに、変わることがあるのよ」
「そう、らしいです」
らしい。その言い方が、彼が口にする以上のことを、私に教えた。
くせのなかった彼の髪も、写真に合わせて、毎月すこしずつ内側へ丸めていった。見知らぬ人の癖を、むりやりなぞるみたいに。
私はそれを、切ない作業だと思った。けれど、切るたびに彼の肩から力が抜けていくのも、見ていた。
十二月の予約表
十二月の予約表には、彼の名前が、いつもより遅い時間に入っていた。
昼の三時。店は静かで、ストーブのやかんがかすかに鳴っていた。
「今月は、午後で大丈夫でしたか」
「はい。朝に、姉の用事があって」
用事。その言葉を聞いたのは、初めてだった。
彼が奥の椅子に座り、写真を出した。
一目で、いつもと違うとわかった。頭の写真は同じように真上から撮られていたが、画面の右端に、細い光の筋が写っていた。
カーテンの隙間から差した、冬の昼の光。白い枕に、うすく斜めに落ちている。
「今月の写真、窓が開いてたんだね」
「……はい。姉が、自分で開けたので」
彼は、そこだけ少し早口になった。
「それで、あの」
「うん」
「来月、予約を、二人分、取れますか」
私はハサミを持った手を止めた。
「二人分」
「隣の椅子も、使えれば。朝の、いちばん早い時間に」
隣の椅子には、ふだん誰も座らせていなかった。
「お姉さんなの?」
「まだ、来るって言ってないんです。でも、来月の日曜になったら、言える気がして」
私は笑って、予約表の二月の欄に、二人分の斜線を引いた。
その斜線を引く自分の指が、思ったよりも震えていた。なぜか、泣きそうだった。
帰りがけ、彼は封筒をレジに置いた。いつもより少し、厚かった。
「全部で、足りますか」
「足りるよ。何の心配もいらない」
封筒の中身を数えなくても、言える言葉だった。
備考欄の一行
二月の第一日曜は、前の晩に降った雪が、道の端に硬く残っていた。
開店の三十分前に、私は暖房を強くした。奥の椅子をふたつ並べて、タオルを温めた。
九時きっかりに、ドアベルが鳴った。
湊くんが立っていた。その後ろに、もうひとり、黒いニット帽の人がいた。
マスクをして、ダウンコートの襟に顎をうずめ、足元を見つめている。細い肩だった。
「おはようございます」
「おはよう。寒かったでしょう」
湊くんは、後ろを振り返った。
「入ってこられる?」
返事はなかった。しばらくして、ブーツの先が、敷居をこえた。
「……澪です」
小さな声だった。マスク越しで、冬の朝みたいに乾いていた。
「澪さん。お待ちしてました。いちばんいい椅子を、どうぞ」
澪さんは座る前に、ニット帽に手をかけた。指が、そこで止まった。
湊くんが、隣の椅子に、先に腰を下ろした。何も言わずに。
それが合図のように、澪さんは帽子を脱いだ。
髪は、耳の上まで届いていた。細くて、やわらかくて、ところどころ色が違う。毛先が内側にくるりと丸まって、小さな波をつくっている。
爪の幅ほどずつ、何か月もかけて、ここまで伸びてきたのだ。
「ずいぶん、伸びましたね」
「……そう、ですか」
「写真で、姉の髪の長さを毎月見てましたから」
澪さんは顔を上げ、湊くんを見た。
「写真?」
「毎月、俺が持ってきてた。姉ちゃんの頭の」
「聞いてない」
「言ってないから」
澪さんはしばらく、何も言わなかった。
私はレジの引き出しから、白い封筒を出した。表には、丸い字で「澪」とあった。
「これ、湊くんから預かっていました。今日のお代金に」
澪さんは封筒を受け取り、表書きを指でなぞった。
「ここに来るかもしれないって、ずっと?」
「うん。そう言ってた」
膝の上で封筒を開けると、五百円玉と十円玉が、ことりと鳴った。
「私、鏡が、見られなかったんです」
ぽつりと、彼女は言った。
「髪がなくなってから、家の鏡、全部、布をかけてもらって。見たら、自分じゃない人が映る気がして」
湊くんは、隣で身じろぎもしなかった。
「でも毎月、湊が、同じ頭で帰ってきて。同じ長さの頭が、目の前にあって。……それを見てると、私も、そんなに変じゃないのかなって」
「俺は、姉ちゃんが家で、変じゃなく思えたらいいと思っただけで」
「うん」
「鏡のつもりじゃ、なかった」
澪さんの目の端が、赤くなった。
私は引き出しの奥から、あの手鏡を取り出した。去年の春、彼が受け取らなかった手鏡を。
「後ろは、見る?」
今度は、澪さんが、手鏡を受け取った。
澪さんは、手鏡を受け取ると、鏡の中の自分より先に、隣に座る弟の頭を見た。
それから、ゆっくり、鏡の角度を変えた。
「毛先だけ、整えてください。短くは、しないで」
「長さは、どうしますか」
澪さんは、もう一度、弟の頭を見た。
その日の備考欄には、初めて別の一行があった。
「弟と同じ長さで」
丸い字は、弟の字とそっくりだった。