奥さんの日記

その日記を見つけたのは、雨の降る、静かな日曜日の午後でした。

妻が買い物に出ているあいだ、僕は健康保険証を探して、寝室の整理だんすを開けていました。

いちばん下の引き出しの奥、たたまれた古いカーディガンの下から、一冊の小さなノートが出てきました。

色のあせた、布張りの表紙。

角がすり切れて、何度も開かれた跡がありました。

妻の字で、ただ「にっき」とだけ、ひらがなで書かれていました。

見てはいけないものだと、頭ではわかっていました。

それでも僕は、そっとその表紙を開いてしまったのです。

今思えば、あの一ページが、僕の何かを大きく変えました。

この話は、僕がいかに自分の妻を知らなかったか、という、少し恥ずかしい記録です。

妻とは、職場の先輩の紹介で知り合いました。

派手なところのない、けれど、笑うと目尻が下がる、やさしい人でした。

つきあって二年で、僕たちは結婚しました。

小さな式を挙げて、古いアパートで、二人の暮らしが始まりました。

僕の給料は、けっして多くありません。

それでも妻は、いやな顔ひとつせず、僕のそばにいてくれました。

「二人なら、なんとかなるわよ」

口ぐせのように、そう言って笑っていました。

僕は、その言葉に甘えていたのだと思います。

暮らしのこまかいことは、すべて妻にまかせきりでした。

日記の最初のページには、結婚した年の春の日付がありました。

「今日からこのおうちが、私のおうち。がんばろう」

丸みのある、妻らしい字でした。

ページをめくるごとに、僕の知らない妻の毎日が、そこにありました。

その日の献立、近所の人とのちょっとした会話、ベランダで育てている花のこと。

そして、お金のこと。

妻は、家計のやりくりを、こまかく書きつけていました。

「特売の卵、一人五パックまでだった。二回ならんだ」

「今月もなんとか黒字。えらいぞ、私」

そんな調子で、どのページも、明るく書いてあるのです。

読み進めるうちに、僕は、あることに気がつきました。

妻のお昼ごはんが、いつも、ひどく質素なのです。

「お昼は納豆ごはん。これがいちばん落ちつく」

「今日も卵かけごはん。ぜいたくは夜にとっておく」

「お昼はお茶づけ。あったかいと、それだけで幸せ」

来る日も来る日も、妻のお昼は、それだけでした。

ファミリーレストランに行くのも、月に一度と決めているようでした。

「今日は友達とランチ。ドリンクバーだけで二時間ねばった。たのしかった」

その一行を読んで、僕は思わず、笑って、それから泣きそうになりました。

質素なお昼の理由は、すぐ後のページに書いてありました。

「私のお昼を少し削れば、その分、夜にいいお魚が買える」

「あの人に、おいしいものを食べてほしいから」

あの人、というのは、もちろん僕のことでした。

僕は、自分の夕飯のことを思い返しました。

焼きたての魚に、季節の野菜、ときには僕の大好物の牡蠣。

僕はてっきり、妻も同じものを食べているのだと、思いこんでいました。

まさか、自分のお昼を削って、その分を僕の食卓に回しているなんて。

考えたことも、ありませんでした。

「今日は○○さん(あの人)の好きな牡蠣が安かった。やったやった」

そんな一行に、僕は胸を突かれました。

自分のことより、僕の好物が安く買えたことを、ただ素直に喜んでいるのです。

思い返せば、夕飯のとき、妻はよくこう言っていました。

「私はお昼にたくさん食べたから、これで十分よ」

僕は、その言葉を、何の疑いもなく信じていました。

本当は、納豆ごはんしか食べていなかったのに。

日記には、季節のうつろいも、ていねいに書かれていました。

夏のページには、こうありました。

「あの人の誕生日。奮発して、お肉を買った。よろこんでくれた。私はその分、来週お昼をぬこう」

自分の誕生日のページを探すと、ほんの一行だけでした。

「今日は私の誕生日。あの人がケーキを買ってきてくれた。うれしい。それで十分」

ほしいものも、してほしいことも、何ひとつ書いていません。

ただ、僕がしてくれた小さなことを、宝物のように書きとめているのです。

秋のページには、こんな一行がありました。

「商店街で、すてきなコートを見つけた。ためいきが出る値段。あきらめた。でも、見るだけはタダ」

「そのかわり、あの人のセーターを買った。冬、あたたかくしてほしいから」

自分のコートはあきらめて、僕のセーターを選んでいたのです。

その秋に妻が買ってくれたセーターを、僕は今も持っています。

何も知らずに、ただ「あったかいね」と言って着ていた、あのセーターを。

妻は、ほかにもいろいろなことを、切りつめていました。

バスに乗らず、二つ先の駅まで歩く日のこと。

安いお店をいくつもまわって、一円でも安い豆腐を探すこと。

ほつれたブラウスを、夜なべして、何度も繕って着ていること。

そういえば、と僕は思い出しました。

妻の靴は、もう何年も、同じものでした。

かかとのすり減った、焦げ茶色のローファー。

何度も「新しいのを買えばいいのに」と言ったのに、いつも笑ってごまかしていました。

「まだ履けるから、もったいないわ」

その言葉の裏に、こんな思いが隠れていたとは、知りませんでした。

日記には、ときどき、僕への小さな不満も書いてありました。

「今日はけんか。あの人、また脱いだ靴下を裏返しのまま」

「もう少し早く帰ってきてくれたら、いっしょにご飯が食べられるのに」

「たまには、ありがとうって言ってほしいな」

読んでいて、耳が痛くなりました。

けれど、その不満のすぐあとには、きまって、こう続くのです。

「でも、まじめに働いてくれているんだもの。文句は言えないな」

「あの人なりに、私を大事にしてくれているのは、ちゃんとわかっているから」

不満を書いておきながら、最後はいつも、僕をかばっていました。

読み進めるほどに、妻の毎日が、まるで映像のように浮かんできました。

「雨の日。あの人の革靴に新聞紙をつめて、乾かした。明日も使えますように」

「あの人のワイシャツ、えりの黄ばみが、なかなか落ちない。ブラシで二十分。やっと白くなった」

「お米が高くなった。私のお茶わんを、ひとまわり小さいのに変えてみた。気のせいか、満足感は同じ」

自分のお茶わんを小さくして、僕に気づかせないようにしていたのです。

言われてみれば、いつのまにか、妻の茶わんは小さくなっていました。

僕は、それにすら、気づいていませんでした。

「あの人が残業の日。先に寝ないで、起きて待っていた。おかえりって言いたいから」

僕が遅く帰った夜、玄関でいつも待っていてくれたのを、僕は当たり前だと思っていました。

妻は、眠い目をこすりながら、それでも僕を待っていてくれたのです。

「あの人、つかれているみたい。何も言わずに、肩をもんだ。気持ちよさそうで、よかった」

あの夜のことを、僕も覚えています。

何も言わずに肩をもんでくれた妻に、僕は「ありがとう」も言わなかった気がします。

日記の中の妻は、いつも、僕の小さな変化に気づいていました。

僕は、妻の大きな我慢にすら、まるで気づいていなかったのに。

「あの人が、おいしいって言ってくれた。それだけで、一日のつかれがふきとぶ」

妻の幸せは、いつも、こんなにも小さくて、こんなにもまっすぐでした。

あるページで、僕は手が止まりました。

その日、妻は熱を出していたようでした。

「朝から頭がいたい。たぶん風邪。でも、あの人のお弁当は作らなきゃ」

「ふらふらしながら、なんとか卵焼きをやいた。形がへんになっちゃった」

僕は、その日の朝のことを、思い出しました。

いつもより、卵焼きの形がいびつだったのを、僕は心の中で、少し笑ったのです。

妻が熱を押して、ふらつきながら焼いてくれたものだとも知らずに。

「あの人、いってきますって、いつもどおり元気だった。気づかれなくてよかった」

自分が熱を出していることさえ、僕に気づかれまいとしていたのです。

心配をかけたくない、その一心で。

僕は、日記を持つ手が、震えるのを感じました。

冬のはじめのページに、めずらしく、ゆれる気持ちが書いてありました。

「久しぶりに、自分のために何か買おうかと思った。ずっとがまんしていた、あの手袋」

「お店の前で、ずいぶん長いこと迷った」

次の行には、こうありました。

「でも、やめた。来月、あの人の好きなお店で、外食をしようと思うから」

「私の手袋より、二人で笑える時間のほうが、ずっといい」

ほんの少しの、自分へのごほうびさえ、妻は僕との時間に変えていたのです。

その「あの人の好きなお店」での外食を、僕はちゃんと覚えていました。

あの夜、妻はやけにうれしそうで、僕は理由もわからず、ただ笑っていました。

今ならわかります。

あれは、妻が自分の手袋をあきらめて、僕のために用意してくれた時間だったのです。

ページの後半に、僕がまだ知らない一行を見つけました。

「こっそり、貯金箱をはじめた。目標は、あの人のあれ」

あの人のあれ、が何なのか、しばらくわかりませんでした。

何ページか先に、その答えがありました。

「あの人、独身のころに乗っていたバイクを手放したらしい。本当は、今でも乗りたいんだって」

「いつか、また乗れるように。少しずつでも、ためておいてあげよう」

僕は、結婚するときに、古いバイクを売りました。

これからは家族のためだと、自分に言い聞かせて、手放したのです。

そのことを、僕は妻に、一度だけ、ぽつりとこぼした覚えがありました。

ただの、なんでもない思い出話のつもりでした。

妻は、それを、ずっと覚えていてくれたのです。

そして、自分のお昼を納豆ごはんにしてまで、少しずつお金をためていた。

いつか僕が、また好きなものに乗れる日が来るようにと。

自分のほしいものは、何ひとつ書いていないのに。

日記の中の妻の願いは、いつも、僕のことばかりでした。

気がつくと、僕は声を出して泣いていました。

日記のページに、ぽたぽたと、涙が落ちました。

あわてて袖でぬぐいましたが、止まりませんでした。

こんなにも、誰かに大事にされていたことが。

そして、そのことに、まったく気づいていなかった自分が。

情けなくて、ありがたくて、胸が、いっぱいになりました。

親をのぞいて、これほどまでに僕に尽くしてくれた人は、いませんでした。

僕は、妻に、何をしてやれていたでしょう。

給料は、多くありません。

ぜいたくをさせてやることも、できていません。

専業でいてほしいと頼んだのは、僕のほうでした。

それなのに、妻はお金のことで、僕を一度も責めませんでした。

「節約も、なれると、けっこう楽しいものよ」

いつも、そう言って笑っていただけでした。

その笑顔の下に、どれほどの我慢があったのか。

僕は、何も見ていなかったのです。

日記をめくる手を、僕はしばらく止めました。

窓の外では、雨が、まだ静かに降り続いていました。

その雨音を聞きながら、僕はこれまでの結婚生活を、ひとつひとつ思い返しました。

思えば、僕は妻に、たくさんのものをもらってきました。

あたたかいごはん、洗いたてのシャツ、おかえりの声。

そのどれもが、当たり前のように、そこにありました。

けれど、当たり前のものなど、ひとつもなかったのです。

そのすべてが、妻の、見えない努力でできていました。

僕がぐっすり眠っているあいだに。

僕が外で働いていると思っているあいだに。

妻は、こんなにもたくさんのことを、ひとりで背負ってくれていたのです。

それも、つらそうな顔ひとつ、見せずに。

むしろ、いつも笑いながら。

「二人なら、なんとかなるわよ」

あの口ぐせの本当の意味が、ようやく、僕にはわかった気がしました。

なんとかしてくれていたのは、いつも、妻のほうだったのです。

玄関の戸が開く音がしました。

妻が、買い物から帰ってきたのです。

僕はあわてて日記を閉じ、元の場所に、そっと戻しました。

カーディガンを、もとのとおりにたたみ直して。

何ごともなかったように、居間に座りました。

「ただいま。今日は牡蠣が安かったのよ」

妻が、台所からうれしそうに、声をかけてきました。

その声を聞いて、僕はまた、泣きそうになりました。

その牡蠣のために、あなたは今日のお昼も、納豆ごはんだったのでしょう。

そう言いたいのを、ぐっと、のどの奥でこらえました。

「うん。ありがとう。楽しみだな」

僕は、それだけ言うのが、やっとでした。

台所から、まな板を打つ、軽やかな音が聞こえてきます。

その音が、いつもよりずっと、僕の胸にしみました。

日記の最後のほうに、こんな一行がありました。

「私は、しあわせ者だな、と思う。たいしたものは何もないけれど」

「あの人がそばにいてくれる。それだけで、毎日がやさしい」

その一行を読んで、僕はもう一度、目頭が熱くなりました。

たいしたものは何もない、と妻は書きました。

けれど、妻が僕にくれたものは、たいしたものばかりでした。

お金では決して買えない、いちばん大切なものを、僕は毎日もらっていたのです。

その夜、僕は妻に、ひとつだけ約束をしました。

バイクのことも、日記のことも、口には出しませんでした。

妻が大事にためているものを、僕が先に知ってしまったとは、言えませんでした。

ただ、夕飯のあと、僕はこう言いました。

「これからも、ずっと、君を大事にするよ」

妻は、きょとんとした顔をしました。

「どうしたの、急に。へんなの」

そう言って笑う妻の顔を、僕は一生、忘れないと思います。

盗み読みは、よくないことです。

それでも、あの日記を読んでよかったと、心から思っています。

僕は決して、器用な夫ではありません。

気の利いた言葉も、立派な稼ぎも、持ち合わせていません。

けれど、これだけは誓えます。

あの人が僕にくれた優しさに、これからの一生をかけて、応えていこうと。

次の日から、僕は少しだけ早く帰り、皿を洗うようになりました。

小さなことです。

それでも、妻の負担を、ほんの少しでも分けたかったのです。

皿を洗いながら、僕はときどき、台所に立つ妻の背中を見ます。

小さな背中です。

その背中が、これまでどれだけ、僕の暮らしを支えてきたことか。

僕は、立派なことは何もできません。

それでも、妻が僕にしてくれたように、これからは僕が、妻を見ていようと思います。

見えないところでの、小さながまんに、ちゃんと気づける夫になりたいのです。

いつか、あの貯金箱がいっぱいになったら。

僕は妻に、こう言うつもりです。

このお金で、二人で出かけよう、と。

バイクではなく、妻のための、新しい靴を買いに。

その靴を渡すとき、僕はきっと、うまく言葉にできないでしょう。

それでも、精いっぱいの「ありがとう」を、伝えるつもりです。

あなたが僕にしてくれたぶん、これからは僕が、あなたを大事にします。

そう、ちゃんと声に出して、伝えたいのです。

今度は僕が、あの人の隣で、ずっと笑っていようと思います。

たとえどんなにささやかな毎日でも、二人でいれば、それはきっと、世界でいちばんあたたかい場所になるのですから。

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