その日記を見つけたのは、雨の降る、静かな日曜日の午後でした。
妻が買い物に出ているあいだ、僕は健康保険証を探して、寝室の整理だんすを開けていました。
いちばん下の引き出しの奥、たたまれた古いカーディガンの下から、一冊の小さなノートが出てきました。
色のあせた、布張りの表紙。
角がすり切れて、何度も開かれた跡がありました。
妻の字で、ただ「にっき」とだけ、ひらがなで書かれていました。
見てはいけないものだと、頭ではわかっていました。
それでも僕は、そっとその表紙を開いてしまったのです。
今思えば、あの一ページが、僕の何かを大きく変えました。
この話は、僕がいかに自分の妻を知らなかったか、という、少し恥ずかしい記録です。
※
妻とは、職場の先輩の紹介で知り合いました。
派手なところのない、けれど、笑うと目尻が下がる、やさしい人でした。
つきあって二年で、僕たちは結婚しました。
小さな式を挙げて、古いアパートで、二人の暮らしが始まりました。
僕の給料は、けっして多くありません。
それでも妻は、いやな顔ひとつせず、僕のそばにいてくれました。
「二人なら、なんとかなるわよ」
口ぐせのように、そう言って笑っていました。
僕は、その言葉に甘えていたのだと思います。
暮らしのこまかいことは、すべて妻にまかせきりでした。
※
日記の最初のページには、結婚した年の春の日付がありました。
「今日からこのおうちが、私のおうち。がんばろう」
丸みのある、妻らしい字でした。
ページをめくるごとに、僕の知らない妻の毎日が、そこにありました。
その日の献立、近所の人とのちょっとした会話、ベランダで育てている花のこと。
そして、お金のこと。
妻は、家計のやりくりを、こまかく書きつけていました。
「特売の卵、一人五パックまでだった。二回ならんだ」
「今月もなんとか黒字。えらいぞ、私」
そんな調子で、どのページも、明るく書いてあるのです。
読み進めるうちに、僕は、あることに気がつきました。
妻のお昼ごはんが、いつも、ひどく質素なのです。
「お昼は納豆ごはん。これがいちばん落ちつく」
「今日も卵かけごはん。ぜいたくは夜にとっておく」
「お昼はお茶づけ。あったかいと、それだけで幸せ」
来る日も来る日も、妻のお昼は、それだけでした。
ファミリーレストランに行くのも、月に一度と決めているようでした。
「今日は友達とランチ。ドリンクバーだけで二時間ねばった。たのしかった」
その一行を読んで、僕は思わず、笑って、それから泣きそうになりました。
※
質素なお昼の理由は、すぐ後のページに書いてありました。
「私のお昼を少し削れば、その分、夜にいいお魚が買える」
「あの人に、おいしいものを食べてほしいから」
あの人、というのは、もちろん僕のことでした。
僕は、自分の夕飯のことを思い返しました。
焼きたての魚に、季節の野菜、ときには僕の大好物の牡蠣。
僕はてっきり、妻も同じものを食べているのだと、思いこんでいました。
まさか、自分のお昼を削って、その分を僕の食卓に回しているなんて。
考えたことも、ありませんでした。
「今日は○○さん(あの人)の好きな牡蠣が安かった。やったやった」
そんな一行に、僕は胸を突かれました。
自分のことより、僕の好物が安く買えたことを、ただ素直に喜んでいるのです。
思い返せば、夕飯のとき、妻はよくこう言っていました。
「私はお昼にたくさん食べたから、これで十分よ」
僕は、その言葉を、何の疑いもなく信じていました。
本当は、納豆ごはんしか食べていなかったのに。
※
日記には、季節のうつろいも、ていねいに書かれていました。
夏のページには、こうありました。
「あの人の誕生日。奮発して、お肉を買った。よろこんでくれた。私はその分、来週お昼をぬこう」
自分の誕生日のページを探すと、ほんの一行だけでした。
「今日は私の誕生日。あの人がケーキを買ってきてくれた。うれしい。それで十分」
ほしいものも、してほしいことも、何ひとつ書いていません。
ただ、僕がしてくれた小さなことを、宝物のように書きとめているのです。
秋のページには、こんな一行がありました。
「商店街で、すてきなコートを見つけた。ためいきが出る値段。あきらめた。でも、見るだけはタダ」
「そのかわり、あの人のセーターを買った。冬、あたたかくしてほしいから」
自分のコートはあきらめて、僕のセーターを選んでいたのです。
その秋に妻が買ってくれたセーターを、僕は今も持っています。
何も知らずに、ただ「あったかいね」と言って着ていた、あのセーターを。
※
妻は、ほかにもいろいろなことを、切りつめていました。
バスに乗らず、二つ先の駅まで歩く日のこと。
安いお店をいくつもまわって、一円でも安い豆腐を探すこと。
ほつれたブラウスを、夜なべして、何度も繕って着ていること。
そういえば、と僕は思い出しました。
妻の靴は、もう何年も、同じものでした。
かかとのすり減った、焦げ茶色のローファー。
何度も「新しいのを買えばいいのに」と言ったのに、いつも笑ってごまかしていました。
「まだ履けるから、もったいないわ」
その言葉の裏に、こんな思いが隠れていたとは、知りませんでした。
日記には、ときどき、僕への小さな不満も書いてありました。
「今日はけんか。あの人、また脱いだ靴下を裏返しのまま」
「もう少し早く帰ってきてくれたら、いっしょにご飯が食べられるのに」
「たまには、ありがとうって言ってほしいな」
読んでいて、耳が痛くなりました。
けれど、その不満のすぐあとには、きまって、こう続くのです。
「でも、まじめに働いてくれているんだもの。文句は言えないな」
「あの人なりに、私を大事にしてくれているのは、ちゃんとわかっているから」
不満を書いておきながら、最後はいつも、僕をかばっていました。
※
読み進めるほどに、妻の毎日が、まるで映像のように浮かんできました。
「雨の日。あの人の革靴に新聞紙をつめて、乾かした。明日も使えますように」
「あの人のワイシャツ、えりの黄ばみが、なかなか落ちない。ブラシで二十分。やっと白くなった」
「お米が高くなった。私のお茶わんを、ひとまわり小さいのに変えてみた。気のせいか、満足感は同じ」
自分のお茶わんを小さくして、僕に気づかせないようにしていたのです。
言われてみれば、いつのまにか、妻の茶わんは小さくなっていました。
僕は、それにすら、気づいていませんでした。
「あの人が残業の日。先に寝ないで、起きて待っていた。おかえりって言いたいから」
僕が遅く帰った夜、玄関でいつも待っていてくれたのを、僕は当たり前だと思っていました。
妻は、眠い目をこすりながら、それでも僕を待っていてくれたのです。
「あの人、つかれているみたい。何も言わずに、肩をもんだ。気持ちよさそうで、よかった」
あの夜のことを、僕も覚えています。
何も言わずに肩をもんでくれた妻に、僕は「ありがとう」も言わなかった気がします。
日記の中の妻は、いつも、僕の小さな変化に気づいていました。
僕は、妻の大きな我慢にすら、まるで気づいていなかったのに。
「あの人が、おいしいって言ってくれた。それだけで、一日のつかれがふきとぶ」
妻の幸せは、いつも、こんなにも小さくて、こんなにもまっすぐでした。
※
あるページで、僕は手が止まりました。
その日、妻は熱を出していたようでした。
「朝から頭がいたい。たぶん風邪。でも、あの人のお弁当は作らなきゃ」
「ふらふらしながら、なんとか卵焼きをやいた。形がへんになっちゃった」
僕は、その日の朝のことを、思い出しました。
いつもより、卵焼きの形がいびつだったのを、僕は心の中で、少し笑ったのです。
妻が熱を押して、ふらつきながら焼いてくれたものだとも知らずに。
「あの人、いってきますって、いつもどおり元気だった。気づかれなくてよかった」
自分が熱を出していることさえ、僕に気づかれまいとしていたのです。
心配をかけたくない、その一心で。
僕は、日記を持つ手が、震えるのを感じました。
※
冬のはじめのページに、めずらしく、ゆれる気持ちが書いてありました。
「久しぶりに、自分のために何か買おうかと思った。ずっとがまんしていた、あの手袋」
「お店の前で、ずいぶん長いこと迷った」
次の行には、こうありました。
「でも、やめた。来月、あの人の好きなお店で、外食をしようと思うから」
「私の手袋より、二人で笑える時間のほうが、ずっといい」
ほんの少しの、自分へのごほうびさえ、妻は僕との時間に変えていたのです。
その「あの人の好きなお店」での外食を、僕はちゃんと覚えていました。
あの夜、妻はやけにうれしそうで、僕は理由もわからず、ただ笑っていました。
今ならわかります。
あれは、妻が自分の手袋をあきらめて、僕のために用意してくれた時間だったのです。
※
ページの後半に、僕がまだ知らない一行を見つけました。
「こっそり、貯金箱をはじめた。目標は、あの人のあれ」
あの人のあれ、が何なのか、しばらくわかりませんでした。
何ページか先に、その答えがありました。
「あの人、独身のころに乗っていたバイクを手放したらしい。本当は、今でも乗りたいんだって」
「いつか、また乗れるように。少しずつでも、ためておいてあげよう」
僕は、結婚するときに、古いバイクを売りました。
これからは家族のためだと、自分に言い聞かせて、手放したのです。
そのことを、僕は妻に、一度だけ、ぽつりとこぼした覚えがありました。
ただの、なんでもない思い出話のつもりでした。
妻は、それを、ずっと覚えていてくれたのです。
そして、自分のお昼を納豆ごはんにしてまで、少しずつお金をためていた。
いつか僕が、また好きなものに乗れる日が来るようにと。
自分のほしいものは、何ひとつ書いていないのに。
日記の中の妻の願いは、いつも、僕のことばかりでした。
※
気がつくと、僕は声を出して泣いていました。
日記のページに、ぽたぽたと、涙が落ちました。
あわてて袖でぬぐいましたが、止まりませんでした。
こんなにも、誰かに大事にされていたことが。
そして、そのことに、まったく気づいていなかった自分が。
情けなくて、ありがたくて、胸が、いっぱいになりました。
親をのぞいて、これほどまでに僕に尽くしてくれた人は、いませんでした。
僕は、妻に、何をしてやれていたでしょう。
給料は、多くありません。
ぜいたくをさせてやることも、できていません。
専業でいてほしいと頼んだのは、僕のほうでした。
それなのに、妻はお金のことで、僕を一度も責めませんでした。
「節約も、なれると、けっこう楽しいものよ」
いつも、そう言って笑っていただけでした。
その笑顔の下に、どれほどの我慢があったのか。
僕は、何も見ていなかったのです。
※
日記をめくる手を、僕はしばらく止めました。
窓の外では、雨が、まだ静かに降り続いていました。
その雨音を聞きながら、僕はこれまでの結婚生活を、ひとつひとつ思い返しました。
思えば、僕は妻に、たくさんのものをもらってきました。
あたたかいごはん、洗いたてのシャツ、おかえりの声。
そのどれもが、当たり前のように、そこにありました。
けれど、当たり前のものなど、ひとつもなかったのです。
そのすべてが、妻の、見えない努力でできていました。
僕がぐっすり眠っているあいだに。
僕が外で働いていると思っているあいだに。
妻は、こんなにもたくさんのことを、ひとりで背負ってくれていたのです。
それも、つらそうな顔ひとつ、見せずに。
むしろ、いつも笑いながら。
「二人なら、なんとかなるわよ」
あの口ぐせの本当の意味が、ようやく、僕にはわかった気がしました。
なんとかしてくれていたのは、いつも、妻のほうだったのです。
※
玄関の戸が開く音がしました。
妻が、買い物から帰ってきたのです。
僕はあわてて日記を閉じ、元の場所に、そっと戻しました。
カーディガンを、もとのとおりにたたみ直して。
何ごともなかったように、居間に座りました。
「ただいま。今日は牡蠣が安かったのよ」
妻が、台所からうれしそうに、声をかけてきました。
その声を聞いて、僕はまた、泣きそうになりました。
その牡蠣のために、あなたは今日のお昼も、納豆ごはんだったのでしょう。
そう言いたいのを、ぐっと、のどの奥でこらえました。
「うん。ありがとう。楽しみだな」
僕は、それだけ言うのが、やっとでした。
台所から、まな板を打つ、軽やかな音が聞こえてきます。
その音が、いつもよりずっと、僕の胸にしみました。
※
日記の最後のほうに、こんな一行がありました。
「私は、しあわせ者だな、と思う。たいしたものは何もないけれど」
「あの人がそばにいてくれる。それだけで、毎日がやさしい」
その一行を読んで、僕はもう一度、目頭が熱くなりました。
たいしたものは何もない、と妻は書きました。
けれど、妻が僕にくれたものは、たいしたものばかりでした。
お金では決して買えない、いちばん大切なものを、僕は毎日もらっていたのです。
※
その夜、僕は妻に、ひとつだけ約束をしました。
バイクのことも、日記のことも、口には出しませんでした。
妻が大事にためているものを、僕が先に知ってしまったとは、言えませんでした。
ただ、夕飯のあと、僕はこう言いました。
「これからも、ずっと、君を大事にするよ」
妻は、きょとんとした顔をしました。
「どうしたの、急に。へんなの」
そう言って笑う妻の顔を、僕は一生、忘れないと思います。
盗み読みは、よくないことです。
それでも、あの日記を読んでよかったと、心から思っています。
僕は決して、器用な夫ではありません。
気の利いた言葉も、立派な稼ぎも、持ち合わせていません。
けれど、これだけは誓えます。
あの人が僕にくれた優しさに、これからの一生をかけて、応えていこうと。
次の日から、僕は少しだけ早く帰り、皿を洗うようになりました。
小さなことです。
それでも、妻の負担を、ほんの少しでも分けたかったのです。
皿を洗いながら、僕はときどき、台所に立つ妻の背中を見ます。
小さな背中です。
その背中が、これまでどれだけ、僕の暮らしを支えてきたことか。
僕は、立派なことは何もできません。
それでも、妻が僕にしてくれたように、これからは僕が、妻を見ていようと思います。
見えないところでの、小さながまんに、ちゃんと気づける夫になりたいのです。
いつか、あの貯金箱がいっぱいになったら。
僕は妻に、こう言うつもりです。
このお金で、二人で出かけよう、と。
バイクではなく、妻のための、新しい靴を買いに。
その靴を渡すとき、僕はきっと、うまく言葉にできないでしょう。
それでも、精いっぱいの「ありがとう」を、伝えるつもりです。
あなたが僕にしてくれたぶん、これからは僕が、あなたを大事にします。
そう、ちゃんと声に出して、伝えたいのです。
今度は僕が、あの人の隣で、ずっと笑っていようと思います。
たとえどんなにささやかな毎日でも、二人でいれば、それはきっと、世界でいちばんあたたかい場所になるのですから。