
母が死んで、二年が経つ。
長野の山の裾野にある、小さなパン屋の厨房で、俺はその事実を、今でも時々、正確に思い出せないでいる。
窯の前に立つたびに、母の顔が、ふとよぎる。怒ったような顔ではなく、電話口でよく見せた、あの困ったような表情で。
※
俺がここにパン屋を開いたのは、六年前のことだ。
東京の製パン会社に八年勤めた後、縁あって長野の南アルプスの麓、旧宿場町の面影が残る小さな集落に移り住んだ。人口二百人にも満たない村だ。コンビニも信号もない。朝になると山の向こうから光が差し込み、夜になると虫の声だけが聞こえる。そこに、小さな店を借りた。
看板もない。ウェブサイトもない。焼きたての食パンと、季節の食材を使ったシンプルなパン。それだけを、毎朝丁寧に焼く。口コミだけで、なんとかやってきた六年だった。
最初の二年は、正直きつかった。村に来る人は少ない。パンを買いに来る人はもっと少ない。冬は雪で道が閉ざされ、三日間一個も売れなかった週もあった。それでも俺はここに居続けた。理由は、うまく言えない。ただ、ここで作るパンが、自分にとって正直だと感じたから、としか言いようがない。
東京にいた頃、俺は毎日たくさんのパンを量産していた。ラインに流れてくる生地を成形し、タイマーに従って焼く。品質は均一で、苦情は少ない。でも、あるとき気づいた。俺が焼いたパンなのか、機械が焼いたパンなのか、もはや区別がつかないことに。
それが嫌になった。ただそれだけだった。
※
母は、俺の開業に反対だった。
少なくとも、俺はそう思っていた。
「安定した仕事を捨てて、山の中で何をするつもりなの。」
東京に住む母が、電話口でそう言った。きつい言い方ではなかった。ただ、静かに、心配しているだけだった。でも俺には、それが反対に聞こえた。父を早くに亡くし、女手一つで俺を育ててくれた母が、初めて俺の夢に首を横に振った──と、そう感じた。
「心配しなくていい。なんとかなる。」
そう言って電話を切った。
それから、母との連絡は、少しずつ、間遠になっていった。最初は月に一度だったのが、二ヶ月に一度になり、やがて正月だけになった。年に一度の正月も、仕事が忙しいを理由に帰らなかった年が、二年続いた。母は何も言わなかった。催促も、怒りも、一度もなかった。それが逆に、俺には重かった。
言い訳が通じない相手と話すより、言い訳をしなくていい距離の方が、楽だった。そう感じていた俺は、たぶん、ずっと子供だったのだと思う。
※
母が膵臓癌だと聞いたのは、三年前の秋のことだった。
電話をくれたのは、母ではなく、近所に住む母の幼馴染だった。「末期なの。本人、あなたに心配かけたくなかったみたいで、ずっと黙ってたみたいよ。」
俺は翌朝、東京に戻った。
病院のベッドの上の母は、思っていたよりずっと小さかった。あの強くて口うるさい母が、白い布団の中に沈み込むように、縮んでいた。骨が浮き出た手が、シーツの上に、ひっそりと置かれていた。
「来なくていいって言ったのに。」
第一声が、それだった。
俺は何も言えなかった。謝ることも、泣くことも、できなかった。ただ、母の隣に座って、窓の外を一緒に見ていた。秋の光が、白い病室の壁に、静かに滑っていた。
「パン屋、うまくいってるの。」
しばらくして、母が言った。
「ああ、なんとかな。」
「そう。」
それだけだった。
もっと話せばよかった、と、今でも思う。母の手を握ればよかった、と。「反対してごめん」と言ってほしかったのか、それとも「俺こそごめん」と言いたかったのか、俺にはもうわからない。ただ、あの短いやりとりが、俺と母の最後のまともな会話だった。
母は、それから半年後に亡くなった。最後に俺が病室に駆けつけた時、母はもう目を開けることができなかった。俺は手を握り、声をかけ続けた。返事はなかった。それでも、握った手が、わずかに温かかったことを、俺は今でも覚えている。
葬儀の後、母の部屋を片付けていると、台所の棚に、俺が知らないノートが一冊あった。中を開くと、日付と短い文章が、几帳面な母の字で並んでいた。日記のようなものだったが、ほとんどが「今日も天気がいい」「近所の○○さんが来た」といった短い記録だった。ただ、毎年四月の末から五月のはじめにかけて、決まってこんな記述があった。「長野へ。」たったそれだけだった。
俺はその時、何の意味かわからなかった。
※
その朝は、四月の終わりだった。
桜がとうに散り、山の若葉が濃くなり始める頃、俺は朝の四時から厨房に入り、いつもと同じようにパンを焼いていた。店を開けてすぐ、一人の老婦人が入ってきた。七十代くらいだろうか。白髪を丁寧に結い上げ、きちんとした紺のコートを着た女性だった。この村では見かけない顔だった。
「あの、こちら、小嶋さんのパン屋さんで、よろしいですか。」
俺は頷いた。
「小嶋光子さんの、息子さんでいらっしゃいますか。」
母の名前が出てきて、俺は思わず、その老婦人の顔を正面から見た。
「わたし、高校の同級生なんです。千代といいます。ずっと同じ長野の隣町に住んでいて。」老婦人は、遠慮がちに微笑んだ。「急にすみません。光子さんが亡くなったことを最近知りまして。お線香だけでも、と思ったんですが、東京まで行く足がなくて。でも、息子さんがここでパン屋を開いているとは聞いていたから。それで、思い切って来てみたんです。」
千代さんと名乗った老婦人は、ゆっくりカウンターの前に立ち、店内をぐるりと見回した。焼きたてのパンの匂いが、春の朝の空気の中に広がっていた。
「素敵なお店ね。光子さんが自慢するはずだわ。」
俺は、その言葉の意味がわからず、黙っていた。
「光子さん、毎年来ていたんですよ。ここに。」
「え。」
「毎年春に、一人でここまで来てたんです。電車を乗り継いで、三時間かけて。息子に知らせると心配するから黙ってきてるんだって、笑いながら言っていて。」千代さんは、どこか懐かしそうに言った。「わたしも去年は一緒についていったんです。せっかくだから、って。光子さんが来るたびに連絡をくれていたから、それなら一緒に行きましょうって。」
千代さんは、小さなバッグの中からスマートフォンを取り出した。
「去年の春、せっかくだから記念に、って撮らせてもらって。」
そこには一枚の写真があった。
この店の前に立つ、母だった。
大きな紙袋を両手に抱えて、照れくさそうに、でもどこか誇らしそうに、笑っていた。俺が最後に見た病院のベッドの上の顔ではなく、もっと前の、俺が知っている頃の、あの母の顔で。
俺は、その写真から目を離せなかった。
「うちの息子の作ったパンね、本当においしいのよ、って言いながら、いつも十個も二十個も買って帰るんです。近所の人たちにも配って、全部なくなったら翌日またここに来て。それで帰りのバスで一個だけ残ったやつを、大事そうに食べてね。」
千代さんの声が、遠くなっていく気がした。
「世界一なのよ、って言ってましたよ。うちの息子のパンは、世界一なんだって。恥ずかしいくらい、何度も言うんです。」千代さんは、小さく笑った。「光子さん、開業に反対したって言ってたけどね、あれは心配だったんだと思いますよ。山の中で、息子が寂しくないかって。反対してるうちに言いそびれて、ずっと言えなかったんだって、こぼしてたから。でも毎年ここに来て、あなたの焼いたパンを食べて、帰りはいつも顔がぱっと明るくなってね。それで十分だったんじゃないかしら。」
母は、俺に黙って、俺のパンを食べ続けていた。
千代さんが帰り際、「これ、去年落としていかれたものだと思って、ずっと持っていて」と言いながら、小さなものをカウンターに置いた。
紺色のコートのボタンだった。丸くて小さな、濃紺の貝ボタン。
俺は覚えていた。母が長年愛用していた、紺のコート。東京に帰るたびに、母はいつもそのコートを着ていた。古くなっても手放さないから、「買い換えたら」と言うと、「気に入ってるんだから余計なことを言わないの」と言い返された。そのコートのボタンが、この店の前で落ちたのだ。去年の春、母がここに来た時に。
千代さんはもう帰ってしまっていた。
俺は、そのボタンを、エプロンのポケットにそっと入れた。
片付けていた時に見つけた母の日記のことを、思い出した。毎年四月末の「長野へ。」という一行を。あれが、ここのことだったのだ。
※
厨房に戻ると、次のパンのための生地が待っていた。
小麦粉の白さ。窯の熱。生地を押す手のひらの感触。
俺はここに来て六年間、ずっと一人でパンを焼いてきた。誰かに見せるためではなく、誰かに認めてもらうためでもなく、ただこの場所で正直なものを作りたかったから焼いてきた。
でも母は、毎年春になるたびに、三時間かけてここまで来ていた。俺が開けた店の前に立って、大きな紙袋を抱えて、笑っていた。一度も、来たとは言わなかった。「世界一」とも、「おいしい」とも、一度も俺の耳には届かなかった。
──俺に向かっては。
母は、俺が知らない場所で、ずっと俺のパンを食べていた。反対していたはずの母が。言い合いになったまま連絡を絶やした俺のことを、どこかで誇りに思いながら、毎年春になるたびに、三時間かけて長野へと向かっていた。言いたいことがあっても言わないまま、ただパンを買って帰る。それが母なりの、俺への返事だったのかもしれない。
生地を折り返す。空気を閉じ込めるように、丁寧に。それだけが、今の俺にできることだった。
ポケットの中で、ボタンが、指先に触れた。
今年の春も、もうすぐ終わる。来年の春、母はここには来ない。でも、この店は開いている。俺は、ここでパンを焼き続ける。それだけは、変わらない。
次は、声に出して言いに来てくれよ。
そう思った。口に出しては言えなかったけれど、そう思った。
窯の中で、パンが、今日も静かに膨らんでいた。