
駅前の公衆電話は、日曜の朝だけ、売上がゼロになる。
その理由を、私は半年のあいだ知らなかった。
私の仕事は、街に残った公衆電話を順に回って、硬貨を集め、受話器とボタンを点検することだ。
災害の日のために置かれた電話が、思ったより多く残っている。
商店街の薬局の前。小学校の裏門。港の待合所。
どの電話も、受話器を上げると、同じ低い音が耳の奥で鳴る。
その音を確かめることが、私の一日のほとんどだった。
機械の内側には、通話の記録が残る。
いつ、どこへ、どれだけ。
駅前の一台には、日曜の十時前後に、毎週きまって一件の発信があった。
それなのに、硬貨の回収箱だけが、その日は空っぽだった。
発信はあるのに、一円も落ちていない。
故障を疑って、本体を開けた。
基板も、硬貨の通り道も、拍子抜けするほどきれいだった。
平日の回収箱を覗けば、小銭の重さはきちんと返ってくる。
日曜だけが、軽い。
先輩の保守員に、写真をつけて報告した。
「ああ、駅前ね」
電話口の川口さんは、缶コーヒーをすする音を立てた。
「日曜だけ発信があって売上がないのは、通話が成立してないってことだ」
「成立していない、ですか」
「相手が出なきゃ、金は取られない。取られない金は、返ってくる」
「悪戯かもしれんぞ。気味が悪けりゃ、現場を見てこい」
私は礼を言って、通話を切った。
気味が悪くなって、私は点検の予定を一日ずらし、日曜の朝に駅前へ向かった。
ロータリーの空気には、まだ夜の湿りが残っていた。
パン屋の換気口から、焦げた砂糖のにおいが流れてくる。
緑色の電話ボックスの前に、背の高い老人が立っていた。
紺のカーディガンの背中が、少しだけ左に傾いている。
祖父だった。
声をかけようとして、私は口を閉じた。
祖父は革の小銭入れから、十円玉を一枚だけ取り出した。
角の白くなったその小銭入れは、祖母が縫い直したものだ。
受話器を上げ、硬貨を落とし、迷いのない指で番号を押していく。
私はその指の順番に、見覚えがあった。
祖母の携帯電話の番号だった。
祖母が逝って、半年になる。
祖父は受話器を耳に当てたまま、一言も話さなかった。
人差し指だけが、受話器の縁を、とん、とん、と叩いている。
十まで数えているのだと、しばらくして気づいた。
十回目で、祖父は静かに受話器を置いた。
受話器を置くと、返却口で十円玉が小さく鳴った。
祖父はそれを指でつまみ上げ、小銭入れの同じ仕切りへ戻した。
そして、ゆっくりと歩いて帰っていった。
戻ってくる十円玉
売上がゼロの理由は、あっけなかった。
公衆電話は、相手が出なければ、硬貨を返す。
祖父は毎週、呼び出し音だけを聞いて、同じ十円玉を手元へ戻していたのだ。
けれど、わからないことが一つ残った。
祖母の携帯電話は、もうどこにもつながっていないはずだった。
私は駅前のベンチに腰をおろし、母に電話をかけた。
ベンチの背もたれは、朝露でまだ冷たかった。
「お母さん、おばあちゃんの携帯、解約したんだよね」
「したわよ。四十九日のあとに、お父さんと二人でショップへ行って」
「お祖父ちゃん、分かってた?」
「分かってたわよ。印鑑も、自分で押したんだから」
母の声は、少しだけ尖っていた。
「日曜の朝って、お祖父ちゃん、どうしてる?」
「散歩よ。十時を過ぎるまで戻らないの。それがどうかしたの」
「ううん、ちょっと気になっただけ」
私は、見たことを言えなかった。
言えば母は、祖父の記憶の話を始める。
祖父は去年の冬から、ときどき、私を孫だと思い出せない日があった。
通夜の晩のことも、思い出した。
弔問客が帰った座敷で、祖父だけが、祖母の携帯電話を膝に置いていた。
画面は暗いままで、親指だけが、ボタンの上をゆっくり往復していた。
私が声をかけると、祖父は携帯を座布団の下に隠した。
「もう、鳴らないからな」
そう言って、祖父は線香の火を見ていた。
電話を切ったあと、私は電話ボックスに戻った。
受話器を上げ、十円玉を一枚入れ、さきほど祖父が押した順に指を動かした。
解約された番号なら、案内の声が流れるはずだった。
聞こえたのは、呼び出し音だった。
一回。二回。
三回目のとき、向かいの喫茶店の窓際で、誰かが顔を上げたように見えた。
私は五回目で、受話器を戻した。
その夜、私は祖父の家へ寄った。
玄関には、祖父の靴が、かかとを揃えて置いてあった。
居間の電話台は、空だった。
祖母が逝った翌月に、祖父は固定電話を解約したのだと、母から聞いていた。
「鳴ると、取りに行ってしまうから」と、祖父は言ったそうだ。
台所では、祖父が味噌汁の鍋を、焦がさないように見張っていた。
「お祖父ちゃん、日曜の朝は、散歩?」
「散歩だよ。駅のほうまでね」
「駅で、何をしてるの」
「何も。空を見るだけだ」
祖父は鍋の火を止め、振り向かずに言った。
「お前は、いい子だな」
その一言が、私を孫と呼んでいるのか、他人と呼んでいるのか、分からなかった。
味噌汁は、少し煮詰まって、しょっぱかった。
点検の方ですか
次の日曜、私は会社の上着を着て、九時半にボックスの横に立った。
本当は、孫として会いに来たのだった。
祖父は同じ時刻に、同じ歩幅で現れた。
「おはようございます」
私が会釈すると、祖父は帽子の庇に指を添えた。
「ああ、点検の方ですか。ご苦労さまです」
その日の祖父は、私を孫だとは思っていなかった。
胸の奥が、冷たい水に触れたように縮んだ。
「電話をお借りしますよ。十円で足りるんです」
「どなたに、おかけなんですか」
「さあ。昔の人にね」
祖父は小銭入れを開け、十円玉を親指で押し出した。
「出ないのが、約束なんです」
「出ないのが、ですか」
「出られたら、困る。……いや、出てくれたら、嬉しいんだが」
祖父は笑って、首を横に振った。
「年を取ると、言うことが行ったり来たりしましてね」
受話器を持つ祖父の手は、薄く震えていた。
十回。
縁を叩く指の音だけが、朝の空気に残る。
駅の時計の針が、ひとつ、音もなく進んだ。
ロータリーを、始発のバスが、ゆっくり回り込んでいく。
祖母のことを、そのとき思い出した。
祖母は昔から、電話を十回しか鳴らさない人だった。
「十回出ない人は、いま出られない人だから」と言って、きっぱり切った。
留守番電話にも、何も残さなかった。
「無事なら、それでいいのよ」
そう言うときの祖母は、台所の流しで手を拭きながら、私のほうを見ずに笑った。
祖母が入院していた春、病棟では携帯電話が使えなかった。
一階の廊下の隅に、緑色の公衆電話が一台だけあった。
祖母は毎朝、そこまで歩いて、祖父の家の電話を鳴らした。
祖父はその時刻、居間の座布団に座って、電話を見つめていた。
一度も、受話器を取らなかった。
私はそれを、祖父の意地だと思っていた。
祖父が置いた受話器の返却口で、十円玉が鳴った。
祖父はそれをつまみ、小銭入れの同じ仕切りに、そっと戻した。
「ありがとう。お仕事、がんばってください」
祖父は私に深く頭を下げて、帰っていった。
私は背中が見えなくなるまで、受話器に残った祖父の体温を、手のひらで確かめていた。
公衆電話の受話器
その次の日曜、祖父は来なかった。
前の晩から熱を出し、母が家で寝かせているという。
私は十時の五分前まで、ボックスの前に立っていた。
十時ちょうど。
電話は、鳴らなかった。
鳴らない電話の前は、思ったより、静かすぎた。
そのとき、向かいの喫茶店「ことり」の扉が開いた。
白髪を後ろでまとめた女性が、エプロンの紐を握ったまま、小走りに道を渡ってくる。
七十は過ぎているだろう。
「あの」
息を整えてから、彼女は言った。
「今日は、あの背の高い方は、いらっしゃらないんですか」
私は、言葉を失った。
「毎週、十時に、ここから」
彼女は電話ボックスを指さした。
「私の携帯に、かかってくるんです」
「祖父は、風邪で寝ています」
「そう」
彼女の肩から、力が抜けるのが分かった。
「よかった。何かあったのかと思って」
店の窓際の席に、私は通された。
壁の時計は、十時を六分過ぎていた。
カウンターの奥で、サイフォンがこぽ、と鳴る。
「松尾といいます。ここは娘夫婦の店なんですけど、日曜の朝だけ、手伝いに来ているの」
運ばれてきたコーヒーは、苦くて、熱かった。
彼女は携帯電話をテーブルに置き、画面を私のほうへ向けた。
着信履歴には、同じ時刻の行が、几帳面に並んでいた。
日曜、十時、公衆電話。
日曜、十時、公衆電話。
指で送っても送っても、同じ行が続く。
エプロンのポケットからは、小さな手帳も出てきた。
日曜の欄に、丸印が、びっしりと並んでいる。
空白は、今日の一つだけだった。
その枠だけ、鉛筆の先で何度もなぞった跡があった。
「今日は十時になっても鳴らなくて」
「十分待って、二十分待って。それでも鳴らないから、行ってみようと思ったの」
「半年前に、新しく契約したんです。ショップで渡された番号が、これで」
「最初は怖くてね。知らない公衆電話から、毎週ですもの」
彼女は携帯を、両手で包んだ。
爪を短く切りそろえた指が、画面の縁を、何度も撫でていた。
その手つきを、私は祖母の台所で見たことがあった。
「三回目の日曜に、窓から見ました。あの方が、受話器を持って立っているのを」
「手が、震えていたの」
「出ようと思いました。でも、すぐに分かったんです」
「何が、ですか」
「あの方は、ぴったり十回鳴らして、置くのよ」
私は、息を止めた。
「私も昔、同じことをしたから」
「主人の携帯も、鳴らなくなってから、ずっと解約できずにいてね」
「あの方が来ない日曜が、怖かったの」
彼女の夫は、若い頃に単身赴任をしていたという。
毎晩、駅の公衆電話から、十円玉を一枚だけ入れて、家の電話を鳴らした。
「出れば十円が取られるでしょう。出なければ、戻ってくるの」
「鳴ったら無事。それだけを、伝えたい人だったのよ」
私はカップの縁を見つめたまま、言った。
「十回で置くのは、祖母のやり方でした」
「出られなくても、鳴らせば無事の合図だからって」
彼女は、ゆっくりうなずいた。
「じゃあ、あの方は、その続きをしているのね」
「主人が逝って、日曜の朝が、急に広くなってしまって」
「そこへ知らない番号が、ちょうど十時に、鳴るようになったの」
「あなたは、どうして出なかったんですか」
「出たら、あの方の十円が、消えてしまうでしょう」
彼女はそう言って、小さく笑った。
「出なければ戻ってくるから。戻ってくれば、来週もまた、一枚の十円で来られるから」
出なければ十円が戻ってくると、その人は知っていて、出ないことを選んでいた。
半年のあいだ、毎週。
名前も知らない老人の日曜を、彼女はひとりで、預かっていたのだ。
居間で受話器を取らなかった祖父の背中を、私はそのとき、思い出した。
日曜の十時の窓
翌々週の日曜、祖父はいつもの歩幅で、駅前に現れた。
今度は私を見て、祖父は「来ていたのか」と言った。
私はうなずき、何も言わず、祖父の隣に立った。
十円玉が落ち、番号が押され、指が縁を叩く。
十回。
受話器を置くと、返却口で十円玉が鳴った。
祖父はふと顔を上げ、向かいの窓へ、帽子の庇に指を添えた。
窓の中で、白髪の女性が携帯電話を、そっと持ち上げて見せる。
祖父は何も言わず、十円玉を小銭入れの同じ仕切りに戻して、笑った。
駅前の公衆電話は、日曜の朝だけ、売上がゼロになる。
点検日誌のその欄に、私は今日も、ゼロと書く。