薄荷の飴缶に残った一粒
活版からオフセットへ移る頃の印刷工場で、私がいちばん苦手にしていた部長は、薄荷の飴缶から一粒を取り出し、こつんと奥歯で鳴らす人でした。あの音を叱られる合図だと思…
活版からオフセットへ移る頃の印刷工場で、私がいちばん苦手にしていた部長は、薄荷の飴缶から一粒を取り出し、こつんと奥歯で鳴らす人でした。あの音を叱られる合図だと思…
雨の日曜、整理だんすのいちばん下から出てきた布張りのノート。そこには妻の昼ごはんが毎日、納豆ごはんかお茶づけだと書かれていました。小さくなった茶わん、棚の上の菓…
俺の娘は四つ。妻は娘を産んですぐ家を出て、母の話を避け続けてきた。ある夕方の電車で、片腕のない人を指さした女の子に、その母親が静かに語りかける。みんな同じじゃな…
親父は川べりから帰るとき、いつも平たい石をひとつだけポケットに入れていた。負けた日にだけそうしていたと知ったのは、逝ったあとだ。物置の缶に詰まっていた水切りの石…
夫は、息子の産声を聞けないまま、静かに逝きました。一歳の誕生日に郵便受けへ届いた、二通の手紙。雪深い和紙の里で紙を漉く妻のもとへ、亡き夫が遺した不器用な言葉が、…
坂の港町の古本屋で、彼女はいつも閉店間際の詩集の棚に立っていた。「海」と書かれた取り置きの札を挟んだまま、一年間買わずにいた一冊。病が見つかり別れを切り出した彼…
坂の途中の小さな自転車店。決して人に頭を下げない店主が一度だけ私に頼んだのが、胸ポケットの観戦パスでした。雨の夜に果たされなかった約束と、三十年後の面接室でその…
掃除機のスイッチを入れても、足元で吠える声がしない朝。ミルクの匂いの子犬から白い毛の老犬になるまで、柴犬のむぎと過ごした十二年と、十五歳の息子が差し出した「お掃…
岡山の北、製材の町で育った私に、無口な父は河原で走り方を教えた。喧嘩のあと走るのをやめた私が、雪の朝に病室で握らされた父のタスキ。あの晩、父が言いかけた言葉の続…
押し入れの缶の底から、夕焼けの絵葉書が出てきた。中学の冬、牛乳配達の坂の上で出会った病弱な少女と、木箱の紙きれでかわした短い便り。裏の余白には、書きかけのような…
父の四十九日が過ぎた頃、母が簞笥の奥から古いガラケーを出してきた。受信一覧のいちばん下に、保護されたメールが一通だけ残っていた。九年前の三月十日、送信時刻は朝の…
両親が別れた小学三年の春、図書館の児童室で出会った一つ年下の明日香ちゃん。左のポケットから出てくるいちご味の飴の甘さと、そっけなく返した朝の一言を、大人になった…
雨の夜に拾った雑種の子犬ナナと過ごした十四年。会社を辞め塞ぎ込んだ私を救い、家族の一員となったナナの一生と、最後の散歩、看取った日を描く泣ける話。口がきけなかっ…
病で母を亡くして一年。誕生日のショートケーキを前に、息子が天国の母へ綴る手紙の泣ける話。だしの匂いのする手、焦げた卵焼き、特別な親子丼、悔いの残った一言。七席の…
二歳で母を亡くし、声も顔も知らずに育った娘。その結婚披露宴で、父が二十五年間ひそかに守り続けた一本のテープを再生します。初めて聞く母の声と子守唄に会場が涙した感…