一緒に遊んでくれた女の子

これは、私が小学三年生だった頃の、いまも忘れられない話です。

その年の春、両親が別れて、私は母と二人きりの暮らしになりました。母は朝から晩まで働きづめで、家に帰ってくるのは、いつも夜の遅い時間でした。

だから私は、放課後に、誰もいない家へ帰るのが、どうしても怖かったのです。鍵を開けて、真っ暗な玄関に「ただいま」と言っても、誰も返事をしてくれない。あの静けさが、幼い私には、たまらなく寂しいものでした。

それで私は、放課後をいつも、近くの市民図書館の児童室で過ごすようになりました。本が読みたかったわけではありません。ただ、誰かの気配のある場所に、夕方までいたかっただけなのです。

夜、母が仕事から帰ってくるまで、家の中はしんと静まり返っていました。冷蔵庫の低い音だけが、ぶうん、と響いていて、私はその音を聞いているのが、なぜだか怖くてたまりませんでした。

母を困らせたくなくて、寂しいとは、一度も言えませんでした。だから図書館は、私にとって、家に帰る時間をすこしでも遅らせるための、たった一つの逃げ場所だったのです。

児童室の本棚の匂い、夕方になると差し込む、あたたかな西日。あの場所のことを思い出すと、いまでも、少しだけ胸が痛みます。寂しさと、そして、ひとつの出会いとが、あの場所には、いまも残っているからです。

友達が一緒のときは、まだよかったのです。みんなで絵本を広げたり、小さな声でおしゃべりをしたりして、時間はあっという間に過ぎていきました。

けれどある日、いつも来てくれる子たちが、みんな都合で来られない日がありました。私は、しんと静まり返った広い児童室に、ぽつんと一人で、取り残されてしまったのです。

何をすればいいのかも分からず、私は窓際の椅子で膝を抱えて、今にも泣き出しそうになっていました。早く母が帰ってくる時間にならないかと、そればかりを考えていました。

そのときでした。

「わたし、二年生の明日香っていうの。いっしょに、ご本よまない?」

一つ年下の、知らない女の子が、大きな絵本を抱えて、私の隣にちょこんと座ったのです。

半泣きだった私は、うつむいたまま、震える声で「……うん」と答えるのが、やっとでした。

明日香ちゃんは、私のそんな様子なんて気にもせず、にこにこ笑いながら、絵本を開いてくれました。

その日の帰り際、明日香ちゃんは、ポケットから小さな飴を一つ取り出して、私の手のひらに、ぎゅっと握らせてくれました。

「これ、いちごあじ。いちばんおいしいの。おねえちゃんに、あげる」

少し溶けかけて、ぬくもりの残ったその飴を、私は家に帰ってからも、なかなか口に入れられませんでした。なめてしまったら、なくなってしまうのが、惜しかったのです。

誰かが、私のことを思って、何かをくれる。そんな当たり前のことが、あの頃の私には、涙が出そうなほど、うれしいことでした。

ある日の帰り道、私たちは、坂の途中で、大きな犬に出くわしたことがありました。明日香ちゃんは、犬が苦手だったらしく、私の腕に、ぎゅっとしがみついてきました。

「だいじょうぶ。おねえちゃんが、いるから」

普段は守られてばかりの私が、そのときだけは、彼女の前で、ちょっぴりお姉さんになれた気がしました。震える小さな肩を抱いて、私は、犬が通り過ぎるまで、ずっとそばにいました。

あの坂道の夕日と、腕にしがみついてきた、明日香ちゃんの体温を、私はいまも、忘れられずにいます。

それからというもの、ほかの友達が来られない日は、いつも明日香ちゃんと過ごすようになりました。

彼女は、私が難しい漢字をすらすら読むたびに、「すごい、三年生ってすごい」と、目をきらきらさせて喜びました。私は、誰かにそんなふうに頼られるのが、くすぐったくて、でも、とてもうれしかったのです。

「ねえ、おねえちゃん。この字、なんて読むの?」

「これは、たいよう、って読むんだよ」

明日香ちゃんは、知らない言葉を覚えるたびに、その日のうちに、何度も口に出して、うれしそうに練習していました。「たいよう、たいよう」と、小さな声で繰り返すその横顔が、私はとても好きでした。

「たいよう! じゃあ、こっちは?」

そうやって、私たちは夕方まで、飽きもせず、絵本の字を一つずつ追いかけました。窓から差し込む夕日が、二人の絵本を、ほんのりと橙色に染めていました。

帰り道、夕焼けの坂道で「おねえちゃん、またあしたね」と手を振る、その小さな手を、私はいまでも、はっきりと覚えています。

一人ぼっちだった私にとって、明日香ちゃんは、いつのまにか、たった一人の妹のような存在になっていました。

雨の降る日には、二人で窓の外を眺めながら、ぽつぽつと話をしました。

「おねえちゃんは、おおきくなったら、なにになりたい?」

「うーん……。図書館の、お姉さんかな。明日香ちゃんは?」

「わたしね、ケーキやさん。おねえちゃんに、いちばんおおきいケーキ、つくってあげるの」

「ほんと? じゃあ、約束ね」と私が言うと、明日香ちゃんは「うん、やくそく」と、小指を差し出しました。二人で結んだ、あの小さな指切りの約束は、とうとう、果たされないままになってしまいました。

窓を流れる雨粒を数えながら、私たちは、いつまでも、そんな他愛のない夢の話をしていました。あの時間が、ずっと続くものだと、私は、なんの疑いもなく信じていたのです。

明日香ちゃんは、ときどき、自分で描いた絵を、私に見せてくれました。クレヨンで描かれたその絵には、いつも、手をつないだ二人の女の子がいました。

「これね、わたしと、おねえちゃん」

はみ出したクレヨンの線も、ぐにゃぐにゃの笑った顔も、いまでもはっきりと、目に浮かびます。あの絵を、もらっておけばよかった。そう思うのは、いつも、決まって夜でした。

けれど、その幸せな時間は、長くは続きませんでした。

三年生に上がる頃、いっぱいだった放課後クラブに、ようやく空きが出ました。母は、私を一人にしないで済むと、心から喜んで、私をそのクラブに入れてくれました。

クラブには、同じ学年の友達がたくさんいました。私はもう、あの静かな児童室で、寂しい思いをせずに済むようになったのです。

そうして、楽しい毎日を過ごすうちに、いつのまにか、明日香ちゃんの存在は、私の中で、少しずつ薄れていきました。あんなに大切だった時間を、私は、当たり前のように忘れていったのです。

新しい友達と過ごす毎日は、とても楽しいものでした。私は、自分がもう、寂しくないということに、すっかり安心しきっていました。

あの児童室で、明日香ちゃんが、いまも私を待っているかもしれない。そんなことは、もう、考えもしませんでした。さみしさから救ってくれた相手のことを、さみしくなくなった途端に忘れてしまう。子どもだったとはいえ、それが、いまも私の胸に、棘のように刺さっています。

ある朝のことでした。私は、放課後クラブで仲良くなった友達と、笑いながら登校していました。

すると、後ろのほうから、誰かが小走りに駆けてくる足音が聞こえました。

「○○ちゃん、おはよう!」

振り返ると、明日香ちゃんが、息を弾ませて、満面の笑みで立っていました。久しぶりに私を見つけて、よほどうれしかったのでしょう。

けれど、そのとき私は、友達との楽しい話を遮られたことに、ほんの少しだけ、面倒くささを感じてしまったのです。

「あ……おはよう」

そっけなく、目も合わせずに返した、あの自分の声を、私は一生、忘れることができません。明日香ちゃんは、それでも、にこにこと笑っていました。

いま思えば、あの頃の明日香ちゃんは、私が来なくなった児童室で、また一人になっていたのかもしれません。

一度だけ、放課後クラブの窓から、図書館へ歩いていく、明日香ちゃんの後ろ姿を見かけたことがありました。声をかけようかと、一瞬だけ思って、けれど、結局かけませんでした。あのとき、窓を開けて呼んでいたら。その後悔は、いまも消えません。

それから数か月が過ぎ、私の中で、明日香ちゃんのことも、すっかり忘れかけていた頃でした。

いつものように登校すると、職員室の前で、先生たちが、ただならぬ様子で慌ただしく動いていました。

一人の女の子が、青ざめた顔で、何かを必死に先生に訴えています。

「……それでね、女の子が、道に倒れてて、ぜんぜん動かなくて……!」

その言葉を聞いて、私の胸が、ちくりと痛みました。けれど私は「私には、関係のないことだ」と、自分に言い聞かせて、教室へ向かったのです。

なぜあのとき、もっと気にとめなかったのだろうと、いまでも思います。

昼を過ぎた頃、全校で体育館に集まるようにと、放送が流れました。

何ごとだろうと、ざわめきながら並んだ私たちの前で、壇上に立った校長先生は、真っ赤に腫れた目をしていました。

震える唇で、先生は、絞り出すように、こう言いました。

「二年生の、明日香さんが……今朝、交通事故に遭って……お亡くなりに、なりました」

その瞬間、頭の中が、真っ白になりました。

あの、明日香ちゃんが。毎朝、私に笑いかけてくれた、あの子が。

「とても、とても優しい子で……誰にでも、毎朝挨拶をしてくれて……。先生も、すぐに病院へ駆けつけたのですが……間に合いませんでした」

体育館は、しんと静まり返っていました。すすり泣きの声が、あちこちから、小さく聞こえてきました。

私はただ、立ち尽くしていました。あの明るい「おはよう」の声が、もう二度と聞けないのだということが、どうしても、信じられませんでした。

夢であってほしいと、ただ、それだけを願いました。けれど、不思議と、涙は一滴も出てきませんでした。あまりに突然で、心が、追いつかなかったのです。

その日の放課後、私は、いつもより遠回りをして、家へ帰りました。あの図書館の前を、通ることができませんでした。

夜、帰ってきた母に、私は明日香ちゃんのことを話しました。話しているうちに、ようやく、これが現実なのだと、少しずつ分かってきました。母は、私を黙って、ぎゅっと抱きしめてくれました。

数日後、お別れの会が開かれると聞いて、私は一人、その会場へ向かいました。

ホールに足を踏み入れた瞬間、私は、その場に立ち尽くしてしまいました。

一番奥の、中央の高いところに、明日香ちゃんの、あの笑った顔が、大きな写真として飾られていたからです。

「どうぞ、真ん中の明日香ちゃんに、お花をあげてくださいね」

会場の入り口で、知らないお母さんが、私に白い花を二輪、そっと手渡してくれました。その手も、声も、かすかに震えていました。

会場には、私と同じ学年の友達も、何人か来ていました。

けれど、その子たちは、まるで遠足にでも来たかのように、くすくすと笑い声を立てていました。

「ねえ、かわいそうだよね」

「ほんとほんと。あ、それより、昨日のテレビ見た?」

お棺の、すぐそばで、何でもない世間話が始まりました。私には、その光景が、どうしても、どうしても許せませんでした。

この子たちは、本当に、明日香ちゃんのことを思って、ここに来たのだろうか。そう思うと、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられました。

会場の隅で、図書館の児童室にいた、顔なじみの係の方が、ハンカチで目を押さえていました。きっと、明日香ちゃんのことを、覚えていてくれたのでしょう。

その姿を見て、私は、ようやく少しだけ、救われたような気持ちになりました。ちゃんと、彼女を惜しんでくれる大人が、ここにもいるのだと。

私は、おそるおそる、たくさんの花に囲まれた、明日香ちゃんのそばへ寄りました。

きれいな黒髪が、いつもより少しだけ短くなって、白い頬には、薄く化粧がほどこされていました。まるで、ただ眠っているだけのようで、今にも「おねえちゃん」と、ぱっちり目を開けて、起き上がってきそうでした。

私は、手にした白い花を、そっと彼女の胸もとに手向けました。

その瞬間、私の指先が、ふと、彼女の頬に触れました。

あんなに温かかった、あの手。私の手のひらに、いちご味の飴を握らせてくれた、あの小さな手と、同じ手のはずでした。

とても、冷たい。

その冷たさが、これは夢ではないのだと、すべてを、いっぺんに現実にしてしまいました。

次の瞬間、ぼろぼろと、音を立てるようにして、涙が溢れ出してきました。

友達の前で、声を上げて泣いたのは、後にも先にも、あの時きりです。あまりに激しく泣く私を見て、周りの子たちが、驚いて、ぽかんと私を見ていました。

頭の奥では、いつか明日香ちゃんが、絵本を読みながら口ずさんでいた、名前も知らない短いメロディが、ぐるぐると、止まらずに回っていました。

あの夕焼けの坂道で、「またあしたね」と手を振ってくれた、あの小さな手を思い出して、私はもう、立っていることさえできませんでした。床にうずくまって、ただ、泣き続けました。

袖が、涙で、ぐっしょりと濡れていきました。それでも、涙は、いつまでも止まってくれませんでした。

あの会のあと、私はしばらく、夜になると、明日香ちゃんのことばかり考えていました。

あの朝、もしも、ちゃんと目を見て「おはよう」と返していたら。もしも、放課後クラブなんかに入らずに、ずっと一緒に絵本を読んでいたら。考えても仕方のないことを、何度も、何度も考えました。

もらった、あのいちご味の飴を、私は、結局なめずに、小さな箱にしまっていました。けれど、いつのまにか、どこかへ無くしてしまいました。そのことに気づいた夜も、私は、声を殺して泣きました。

あれから、何年もの月日が流れました。それでも私は、あの図書館での日々と、お別れの会のことを、一日たりとも忘れたことがありません。

大人になったいまでも、図書館の児童室の前を通ると、私はつい、足を止めてしまいます。絵本を抱えた小さな女の子が、いまにも「いっしょに読まない?」と、話しかけてくれそうな気がして。

あの日、勇気を出して声をかけてくれた明日香ちゃんがいなかったら、寂しがりだったあの頃の私は、どうなっていたか分かりません。たった一人の小さな女の子が、私の子ども時代を、確かに救ってくれたのです。

明日香ちゃん。

私は、あのとき、あなたにそっけなくしてしまったことを、いまも悔やんでいます。もっと、たくさん「ありがとう」を言えばよかった。もっと、たくさん、一緒に絵本を読めばよかった。

あなたのご家族以外のみんなが、いつか、あなたのことを忘れてしまっても、私だけは、絶対に、絶対に忘れません。

一人ぼっちで泣いていた私に、勇気を出して話しかけてくれて、一緒に遊んでくれて、本当に、ありがとう。

あなたがくれた、いちご味の飴の甘さを、私はいまでも、覚えています。あなたが話してくれた、いちばん大きなケーキの夢も、ちゃんと覚えています。

いつか、私がそちらへ行くことがあったら、その時は、またあの絵本を、二人で一緒に読んでね。

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