もう、五年も前のことになります。
当時の私は、これといった目標もなく、その日暮らしのような毎日を送っていました。
大学をなかば投げ出すように辞めてからは、街はずれの古本屋で、棚の整理を手伝う仕事を細々と続けていました。
埃の匂いと、日に焼けた紙の匂いだけが、私の世界のすべてでした。
大学を辞めたのは、これといった大きな理由があったわけではありません。
ただ、何のために学んでいるのかが分からなくなり、気づけば、足が大学から遠のいていたのです。
まわりがそれぞれの道を見つけていくなかで、私だけが、薄暗い書庫の奥に取り残されているような気がしていました。
古本屋の店主は、無口な老人で、私の事情を何ひとつ詮索しませんでした。
ただ黙って、毎朝、温かいお茶を一杯、私の机に置いてくれました。
その何気ない優しさだけが、当時の私を、かろうじてこの世界につなぎとめていたように思います。
彼女は、その古本屋の、数少ない常連客のひとりでした。
いつも閉店間際にやってきて、詩集の並ぶ棚の前で、長いあいだ静かに立っていました。
ある雨の夜、彼女が珍しく、レジの前でぽつりと、自分のことを話しはじめました。
仕事のこと、家族のこと、これからのこと。彼女は、行き場のない思いを、少しずつこぼしていきました。
正直に言えば、私は最初、他人事のように相づちを打っていただけでした。
気のきいたふりをして、当たり障りのない言葉を返していただけだったのです。
それでも彼女は、「話を聞いてもらえて、少し楽になった」と、帰り際に小さく笑いました。
その笑顔が、なぜだか、ずっと心に残りました。
「こんな話、変ですよね。本を買いにきたのに」
そう言って肩をすくめる彼女に、私は思わず、こう返していました。
「うちは古本屋ですから。古い話のひとつやふたつ、いくらでも引き取りますよ」
彼女は少し驚いた顔をして、それから、今度は声を立てて笑いました。
その夜の雨の音を、私はなぜか、今でもよく覚えています。
※
それからというもの、彼女は閉店の時間になると、決まって店に顔を出すようになりました。
彼女のほうも、私がなぜ大学を辞めたのか、その経緯を、親身になって聞いてくれました。
誰にも話したことのなかった、情けない事情を、私は気づけば、彼女にだけは打ち明けていました。
そうやって、私たちの距離は、雨上がりの水たまりが乾いていくように、少しずつ縮まっていきました。
やがて私たちは、休みの日に、二人で古い喫茶店をめぐるようになりました。
彼女は、私が見つけてきた古い詩集を、声に出して読むのが好きでした。
その低くてやわらかな声を聞いていると、私は自分の境遇さえ、忘れることができました。
ある日、彼女が読んでくれた詩の一節を、私は今でも覚えています。
「悲しみは、ひとりで抱えると重いけれど、分け合えば、半分になる」
「ねえ、これって、本当だと思う」と、彼女は本から顔を上げて尋ねました。
「思うよ」と、私は答えました。「現に今、俺がそうだから」
彼女は照れたように笑って、また静かに、詩の続きを読みはじめました。
彼女と一緒にいる時間は、何ものにも代えがたい、幸せなものでした。
「ねえ、いつか二人で、海の見える街に住みたいね」
古い喫茶店の窓際で、彼女はよく、そんな夢のような話をしました。
「縁側に猫がいて、本棚がいっぱいあって。それだけでいいの」
「猫より、まず仕事を見つけないとな」と私が苦笑すると、彼女は「それもそうね」と笑いました。
取るに足らない、そんなやりとりのひとつひとつが、今思えば、かけがえのない宝物でした。
春には、二人で川沿いの桜を見にいきました。
夏には、縁日の人混みのなかで、彼女の手を離さないように、ずっと握っていました。
秋には、落ち葉を踏みながら、彼女の好きな詩の話を、いつまでもしました。
冬には、底冷えのする古本屋のストーブの前で、二人、肩を寄せ合って本を読みました。
季節がひとめぐりするあいだに、彼女は、私のなかでなくてはならない存在になっていました。
これほど穏やかな幸せが、自分のような人間にも訪れるのかと、私は半ば、信じられない思いでいました。
私は、心から彼女のことが好きでした。
ただ、結婚ということは、なぜか考えていませんでした。
定職に就いていないという引け目も、もちろんありました。
けれどそれ以上に、私はただ彼女と一緒にいられればよくて、結婚しなければならない理由が、どうしても思いつかなかったのです。
いつか仕事を見つけたら、二人で暮らせたらいい。
結婚という形にこだわらなくても、私たちは一緒にいられる。私は、そんなふうに思っていました。
二人が幸せであること。私にとって、大切なのは、ただそれだけだったのです。
※
付き合いはじめて、一年が過ぎた頃のことでした。
彼女の体に、病が見つかりました。
女性にとって、とても大切な場所の病でした。
治療のためには、もう子どもを産むことはできなくなる、ということでした。
その事実を知ったとき、彼女は私の前で、声をあげて泣きました。
そして、泣きながら、別れを切り出してきたのです。
彼女は以前、いつか一人でいいから、子どもがほしいと話していました。
その、ささやかな願いが、もう叶わなくなってしまったのです。
検査の結果を聞いた日、私は病院の長い廊下で、彼女を待っていました。
診察室から出てきた彼女は、私の顔を見るなり、無理に明るく笑おうとして、失敗していました。
「大丈夫。命に関わるような段階じゃ、ないんだって」
そう言いながら、彼女の手は、かすかに震えていました。
窓の外では、街路樹がやわらかな夕日に照らされ、何ごともなかったように揺れていました。
世界はこんなにも穏やかなのに、と、私はやり場のない思いを持て余していました。
それからの数か月、私は仕事の合間を縫って、彼女の通院に付き添いました。
待合室の固い椅子で、二人並んで、ただ名前が呼ばれるのを待つ時間。
「ごめんね。こんなことに付き合わせて」と、彼女はいつも申し訳なさそうにしました。
「謝るなよ。俺がいたいから、いるんだ」と、私は努めて軽く答えました。
本当は、私のほうこそ、彼女の隣にいさせてもらえることに、感謝していたのです。
不安に押しつぶされそうな夜は、何度もありました。
それでも、彼女の手の温もりを確かめるたびに、私はもう一度、前を向くことができました。
「私はもう、普通の女の子じゃないから」
彼女は、絞り出すように、そう言いました。
「だから、あなたは普通の女の子を見つけて、ちゃんと幸せになってね」
その言葉を聞いて、私は胸が締めつけられました。
「お願いだから、私のことは忘れて」と、彼女は繰り返しました。
「あなたには、ちゃんと家庭を持って、子どもに囲まれて笑っていてほしいの」
その声は、自分自身に言い聞かせるように、震えていました。
彼女は、私の幸せを願うあまり、自分の幸せを、まるごと手放そうとしていたのです。
今、彼女はどれほど辛い思いをしているのだろう。
子どもを産めなくなり、病が体のどこかへ広がっていれば、命さえ危ういかもしれない。
そんな心細さの只中にいながら、彼女は私の未来を案じて、自分から身を引こうとしている。
それが、たまらなく悲しくて、そして、どうしようもなく愛おしく思えました。
※
気がつけば、私は彼女の肩を、強くつかんでいました。
「そんなこと、言わないでくれ」
「俺が支える。確かに、二人に子どものいる未来は、失くなったかもしれない」
「でも、お前との未来まで、失くさないでくれ。頼むから、側にいさせてくれ」
普段は何を言うにも遠回しな私が、そのときばかりは、まっすぐに言葉をぶつけていました。
他人事だから、調子よく言えたわけではありません。
私には、彼女が必要でした。それは、もう疑いようのないことでした。
こんなときでも人を気づかえる優しさも、笑うと少しだけ幼くなる顔も、知らない子どもとすぐに仲良くなれるところも。
公園で子どもと遊ぶ彼女が、心から楽しそうにしていた、あの横顔も。
私は、そのすべてが、どうしようもなく好きでした。
失いたくなかったのです。
もっと、幸せそうに笑う彼女を、隣で見ていたかったのです。
「あなたといると、自分が普通の女の子に戻れた気がするの」
のちに彼女は、あの日のことを、そう振り返りました。
「普通かどうかなんて、誰が決めるんだ」と、私は言いました。
「お前はお前だ。それ以上でも、それ以下でもない。俺が好きなのは、ただのお前なんだよ」
彼女は、私の腕のなかで、しばらく声をあげて泣いていました。
そして、ようやく顔を上げて、「ばかね」と、涙でぐしゃぐしゃの顔で笑いました。
その日から、彼女は少しずつ、前を向いて治療に取り組むようになりました。
「あなたが側にいてくれるなら、私、頑張れる気がする」
そう言って、彼女は私の手を、両手で包みました。
不思議なもので、彼女を支えようとするうちに、いつしか私のほうが、彼女の強さに支えられていました。
このままではいけない、自分も前に進まなければ。私は、生まれて初めて、本気でそう思いました。
面接に落ち続けた時期もありました。
履歴書の空白の期間を、どう説明していいか分からず、うつむくばかりの日もありました。
そんなとき、彼女は決まって、こう励ましてくれました。
「あなたが古本屋で過ごした時間は、無駄なんかじゃないよ」
「あなたほど本を知っている人を、私は他に知らないもの」
その言葉に背中を押されて、私はようやく、自分の歩んできた道を、肯定できるようになりました。
採用の知らせが届いた日、私は真っ先に、彼女に電話をかけました。
「決まったよ。小さな出版社だけど、本に関われる仕事なんだ」
電話の向こうで、彼女は自分のことのように、声をあげて喜んでくれました。
「やっぱりね。あなたなら、きっとそうなると思ってた」
その夜、私は古本屋の店主に、辞めることと、就職が決まったことを伝えました。
無口な店主は、いつものお茶を一杯淹れてくれて、「よかったな」と、それだけ言いました。
その短い言葉に、私はなぜか、涙がこぼれそうになりました。
店を出るとき、店主は棚から一冊の古い詩集を抜いて、私に手渡しました。
「持っていけ。お前さんたちに、似合いそうだからな」
それは、彼女がいつも、閉店間際に眺めていた、あの棚の詩集でした。
店主は、ずっと前から、何もかも見抜いていたのでしょう。
私はその一冊を、今でも、彼女と暮らす日のために、大切に取ってあります。
彼女のために胸を張れる人間になりたい。その思いが、立ち止まっていた私の背中を、ようやく押したのです。
私が、ためらいながらも就職活動を始めたのは、ちょうどその頃でした。
※
あれから、時は流れ、今に至ります。
私は、ようやく定職に就き、まじめに働くようになりました。
古本屋で身につけた、本の知識を生かせる、小さな出版社の仕事です。
お互いの仕事の都合で、一緒に暮らすことは、まだ叶っていません。
離れた街で暮らす遠距離のままですが、私たちの関係は、今も変わらず続いています。
月に一度、私は電車を乗り継いで、彼女の住む街へ会いにいきます。
駅の改札で待っている彼女を見つけるたび、私はいつも、あの雨の夜の笑顔を思い出します。
「おかえり」と彼女は言い、「ただいま」と私は答えます。
暮らす家は別々でも、その言葉を交わす瞬間だけは、私たちは確かに、ひとつの家に帰っているのでした。
先日、ようやく私は、彼女を両親に引き合わせる約束を取りつけました。
「ご両親、私のこと、どう思うかな」と、彼女は珍しく、不安そうにしていました。
「大丈夫だよ。俺が、いちばん自慢に思っている人だって、ちゃんと話すから」
そう答えると、彼女は少しだけ目を潤ませて、「うん」と、小さくうなずきました。
二人で歩いていく未来が、まだはっきりとは見えなくても。
それでも、その一歩を、私はようやく踏み出せたのだと思います。
彼女の病は、幸いにも、大きく広がることはありませんでした。
定期的な検査に通いながら、彼女は前と変わらず、穏やかに笑っています。
今では、立場がすっかり逆転して、私のほうが、仕事の悩みを聞いてもらってばかりです。
彼女は、いつもこう言います。
「あんたは、二度もあたしを救ってくれた。あの雨の夜と、別れようとしたあの日と」
「だから今度は、あたしがあんたを守る番なんだ」
その言葉を聞くたびに、私は胸の奥が、じんと熱くなります。
守る、守られる。私たちは、いつのまにか、そうやって支え合う一対になっていました。
私が本当に彼女を支えられる日は、いったいいつ来るのでしょうか。
これまで私は、親のすねをかじって生きてきた、不出来な息子でした。
子どもを産めない彼女を、両親に紹介するというのは、簡単なことではありません。
これ以上、親に心配をかけることが、私にはできずにいました。
一度だけ、私は彼女に、両親に会ってほしいと、おそるおそる切り出したことがあります。
彼女は、ほんの少しだけ間を置いて、静かに首を横に振りました。
「もう少し、あなたが胸を張れるようになってからにしましょう」
「私のことで、あなたとご両親のあいだに、波風を立てたくないの」
その気づかいが、嬉しくて、同時に、ひどく胸が痛みました。
彼女は、そんな私の弱さも、何もかも分かったうえで、あの日、別れを切り出したのでしょう。
彼女と一緒にいること自体が、きっと、私なりの、ささやかな親不孝なのかもしれません。
それでも私は、私たちなりの幸せの形を、これから先も、ゆっくりと探していきたいのです。
この先に、二人の未来が本当にあるのか、正直なところ、まだ分かりません。
遠く離れていて、今この瞬間、彼女の姿は見えなくても。
それでも、私には分かるのです。
幸せは、遠いどこかにあるのではなく、確かに、今ここに、あるのだということが。
いつか彼女が話していた、海の見える街。縁側に猫がいて、本棚がいっぱいある家。
その夢が、いつ叶うのかは、まだ分かりません。
けれど、夢が叶う日を二人で待っているこの時間こそが、すでに幸せそのものなのだと、今の私には分かります。
形あるものを手に入れることだけが、幸せではないのでしょう。
誰かの幸せを、心から願える相手がいる。ただ、それだけで、人は十分に満たされるのだと思います。
あの雨の夜、古本屋のレジ越しに聞いた、彼女のささやかな打ち明け話。
あそこから、私たちのすべては始まりました。
もし、あの夜、私が面倒くさがって彼女の話を聞き流していたら。
人の縁とは、本当に、ささやかなきっかけで結ばれるものだと思います。
あの一杯のお茶も、あの古い詩集も、すべてが今へとつながっていました。
今の幸せは、どこにもなかったのだと思うと、不思議な気持ちになります。
私たちの幸せの在り処は、ずっと、こんなにも近くにあったのです。