閉店間際の詩集と幸せの在り処

閉店間際の詩集と幸せの在り処

閉店間際の詩集の棚に、彼女はいつも立っていました。

もう、五年も前のことになります。

坂の多い港町の、街はずれの古本屋。

私はそこで、棚の整理を手伝う仕事を細々と続けていました。

大学を、なかば投げ出すように辞めたあとのことです。

何のために学んでいるのかが分からなくなり、気づけば足が遠のいていました。

まわりが道を見つけていくなかで、私だけが薄暗い書庫の奥に取り残されていました。

埃の匂いと、日に焼けた紙の匂い。

それだけが、当時の私の世界のすべてでした。

店主は無口な老人で、私の事情を何ひとつ詮索しませんでした。

ただ毎朝、黙って温かいお茶を一杯、私の机に置いてくれました。

湯呑みの底には、欠けた青い花の絵がありました。

その一杯だけが、当時の私を、かろうじてこの世界につなぎとめていたのだと思います。

彼女は、その古本屋の数少ない常連客のひとりでした。

いつも閉店の十分前にやってきて、詩集の棚の前で長いあいだ立っていました。

決まって手に取るのは、背表紙の褪せた一冊でした。

その本には、黄ばんだ取り置きの札が、ずっと挟まったままでした。

札には店主の字で、名前の代わりに「海」とだけ書かれていました。

私はそれを、誰かが忘れていった予約なのだろうと思っていました。

彼女は毎回その一冊を開き、数ページ読んで、そっと棚に戻していきました。

買わないのなら、なぜ毎日来るのだろう。

そう思いながら、私は声をかけませんでした。

ある雨の夜、彼女が珍しく、レジの前で自分のことを話しはじめました。

仕事のこと、家族のこと、これからのこと。

行き場のない思いを、彼女は少しずつこぼしていきました。

市役所の窓口で働いていること。

毎日たくさんの人の名前を書くのに、自分の名前を呼ばれることは少ないこと。

「名前を呼ばれるって、それだけで、生きてる感じがするんです」

正直に言えば、私は最初、他人事のように相づちを打っていただけでした。

気のきいたふりをして、当たり障りのない言葉を返していただけだったのです。

それでも彼女は、帰り際に小さく笑いました。

「話を聞いてもらえて、少し楽になった」

「こんな話、変ですよね。本を買いにきたのに」

肩をすくめる彼女に、私は思わず、こう返していました。

「うちは古本屋ですから。古い話のひとつやふたつ、いくらでも引き取りますよ」

彼女は少し驚いた顔をして、それから声を立てて笑いました。

その夜の雨の音を、私はなぜか、今でもよく覚えています。

トタン屋根を打つ、粒の大きな雨でした。

傘を忘れた彼女に、店の古い番傘を貸しました。

翌日、番傘は乾かして返され、柄に小さな紙が結んでありました。

「ありがとう。また来ます」

閉店間際の詩集の棚

それからというもの、彼女は閉店の時間になると、決まって店に顔を出すようになりました。

相変わらず、閉店間際の詩集を開いては戻す。

そして、レジの前で少しだけ話をして帰る。

彼女のほうも、私が大学を辞めた経緯を、親身になって聞いてくれました。

誰にも話したことのなかった情けない事情を、私は彼女にだけは打ち明けていました。

距離は、雨上がりの水たまりが乾いていくように、少しずつ縮まりました。

やがて私たちは、休みの日に、坂の途中の古い喫茶店をめぐるようになりました。

彼女は、私が見つけてきた古い詩集を、声に出して読むのが好きでした。

低くてやわらかな声でした。

その声を聞いていると、私は自分の境遇さえ忘れることができました。

ある日、彼女が読んでくれた一節を、今でも覚えています。

「悲しみは、ひとりで抱えると重いけれど、分け合えば半分になる」

「ねえ、これって、本当だと思う」

彼女は本から顔を上げて尋ねました。

「思うよ。現に今、俺がそうだから」

彼女は照れたように笑って、また静かに続きを読みはじめました。

「ねえ、いつか二人で、海の見える街に住みたいね」

喫茶店の窓際で、彼女はよく、そんな話をしました。

「縁側に猫がいて、本棚がいっぱいあって。それだけでいいの」

「猫より、まず仕事を見つけないとな」

私が苦笑すると、彼女は「それもそうね」と笑いました。

日曜の午後には、坂の上の小さな公園にも行きました。

彼女はベンチに座ると、すぐに知らない子どもたちに囲まれました。

砂場で団子を作り、ブランコの背中を押し、転んだ子の膝に息を吹きかける。

「お姉さん、また来てね」と言われて、彼女は本当に嬉しそうでした。

「子ども、好きなんだな」

「うん。いつか一人でいいから、ほしいな」

彼女はそう言って、砂のついた手を、私の前でぱたぱたと払いました。

春には、川沿いの桜を見にいきました。

夏には、縁日の人混みで、彼女の手を離さないように握っていました。

金魚すくいで、彼女は三匹すくって、全部、隣の子にあげてしまいました。

秋には、落ち葉を踏みながら、詩の話をいつまでもしました。

冬には、底冷えのする店のストーブの前で、肩を寄せ合って本を読みました。

ストーブの上では、店主のやかんが、いつも小さく鳴っていました。

季節がひとめぐりするあいだに、彼女は私のなかで、なくてはならない人になっていました。

私は、心から彼女のことが好きでした。

ただ、結婚ということは、なぜか考えていませんでした。

定職に就いていないという引け目も、もちろんありました。

けれどそれ以上に、私はただ、彼女と一緒にいられればよかったのです。

二人が幸せであること。

大切なのは、ただそれだけだと思っていました。

あの頃の私は、片耳のイヤホンを外さない彼と同じで、大事なものに気づくのが遅い人間でした。

病院の長い廊下

付き合いはじめて、一年が過ぎた頃のことでした。

彼女の体に、病が見つかりました。

女性にとって、とても大切な場所の病でした。

治療のためには、もう子どもを産むことはできなくなる、ということでした。

検査の結果を聞いた日、私は病院の長い廊下で、彼女を待っていました。

緑色のリノリウムの床に、夕日が長く伸びていました。

診察室から出てきた彼女は、無理に明るく笑おうとして、失敗していました。

「大丈夫。命に関わるような段階じゃ、ないんだって」

そう言う彼女の手は、かすかに震えていました。

窓の外では、街路樹が何ごともなかったように揺れていました。

世界はこんなにも穏やかなのに、と私はやり場のない思いを持て余しました。

公園で、砂のついた手を払っていた彼女の横顔が、何度も浮かびました。

あのささやかな願いが、もう叶わなくなってしまったのです。

それからの数か月、私は仕事の合間を縫って、通院に付き添いました。

待合室の固い椅子に、二人並んで座る時間。

名前が呼ばれるのを、ただ待つ時間。

彼女は待合室で、いつも鞄から文庫の詩集を出して読んでいました。

けれど、ページは一向に進みませんでした。

同じ行を、何度も指でなぞっていました。

「これ、声に出して読んでいい」

「病院だぞ」

「小さい声なら、いいでしょ」

彼女は、聞こえるか聞こえないかの声で、一節を読みました。

隣の老婦人が、目を閉じて聞いていました。

読み終わると、老婦人は「ありがとう」と小さく言いました。

彼女は、その日はじめて、本当の顔で笑いました。

名前を呼ばれて診察室へ入っていく背中が、少しだけ、まっすぐになっていました。

「ごめんね。こんなことに付き合わせて」

「謝るなよ。俺がいたいから、いるんだ」

本当は、私のほうこそ、隣にいさせてもらえることに感謝していたのです。

帰りのバスで、彼女は私の肩に頭を預けて、眠ったふりをしていました。

ふりだと分かったのは、指が、私の袖をずっと握っていたからです。

その頃、彼女は店に来なくなりました。

閉店間際の詩集は、取り置きの札を挟んだまま、棚で埃をかぶっていきました。

私は毎晩、その背表紙を指で拭いてから、店の灯りを消しました。

店主は何も言いませんでした。

ただ、朝のお茶が、心なしか少し熱くなりました。

ある夜、彼女は絞り出すように言いました。

「私はもう、普通の女の子じゃないから」

「だから、あなたは普通の女の子を見つけて、ちゃんと幸せになってね」

「お願いだから、私のことは忘れて」

「あなたには、ちゃんと家庭を持って、子どもに囲まれて笑っていてほしいの」

その声は、自分自身に言い聞かせるように震えていました。

彼女は、私の幸せを願うあまり、自分の幸せをまるごと手放そうとしていたのです。

病が体のどこかへ広がっていれば、先のことさえ分からない。

そんな心細さの只中で、彼女は私の未来を案じて、自分から身を引こうとしている。

それが、たまらなく悲しくて、どうしようもなく愛おしく思えました。

湯呑みの青い花

気がつけば、私は彼女の肩を強くつかんでいました。

「そんなこと、言わないでくれ」

「確かに、二人に子どものいる未来は、失くなったかもしれない」

「でも、お前との未来まで、失くさないでくれ。頼むから、側にいさせてくれ」

普段は何を言うにも遠回しな私が、そのときばかりは、まっすぐに言葉をぶつけていました。

私には、彼女が必要でした。

こんなときでも人を気づかえる優しさも、笑うと少しだけ幼くなる顔も。

公園で知らない子どもとすぐに仲良くなる、あの横顔も。

失いたくなかったのです。

「あなたといると、自分が普通の女の子に戻れた気がするの」

のちに彼女は、あの日のことをそう振り返りました。

「普通かどうかなんて、誰が決めるんだ」

「お前はお前だ。俺が好きなのは、ただのお前なんだよ」

彼女は、私の腕のなかで、しばらく声をあげて泣いていました。

そして顔を上げて、「ばかね」と、ぐしゃぐしゃの顔で笑いました。

その日から、彼女は少しずつ、前を向いて治療に取り組むようになりました。

「あなたが側にいてくれるなら、私、頑張れる気がする」

不思議なもので、支えようとするうちに、私のほうが彼女の強さに支えられていました。

自分も前に進まなければ。

生まれて初めて、本気でそう思いました。

面接に落ち続けた時期もありました。

履歴書の空白をどう説明していいか分からず、うつむくばかりの日もありました。

五社目の面接で、「その三年で何を学びましたか」と聞かれました。

私は、古本屋の棚の並べ方の話を、十分も続けてしまいました。

帰り道、自分の愚かさに、足が重くなりました。

けれど後日、その会社から連絡がありました。

「棚の話をあんなに楽しそうにする人を、初めて見た」と、面接官は言いました。

そんなとき、彼女は決まって言いました。

「あなたが古本屋で過ごした時間は、無駄なんかじゃないよ」

「あなたほど本を知っている人を、私は他に知らないもの」

採用の知らせが届いた日、私は真っ先に彼女に電話をかけました。

「決まったよ。小さな出版社だけど、本に関われる仕事なんだ」

電話の向こうで、彼女は自分のことのように声をあげて喜んでくれました。

「やっぱりね。棚の話、十分もした人だもの」

その夜、私は店主に、辞めることと就職が決まったことを伝えました。

店主はいつものお茶を一杯淹れて、「よかったな」と、それだけ言いました。

青い花の湯呑みが、机の上で湯気を立てていました。

その短い言葉に、私はなぜか、涙がこぼれそうになりました。

店を出るとき、店主は棚から一冊の古い詩集を抜いて、私に手渡しました。

閉店間際の詩集でした。

あの取り置きの札が、まだ挟まっていました。

「持っていけ。お前さんたちに、似合いそうだからな」

「でも、これ、誰かの取り置きじゃ」

店主は、札を指で弾いて、少しだけ笑いました。

「その札はな、剥がさんでくれと頼まれとる」

「誰に、とは聞くな。お前さんが自分で聞け」

「わしもな、若い頃、同じ棚で同じことをしとった」

「買わんで通った本が、一冊だけある」

店主はそれ以上、何も言いませんでした。

ストーブの上で、やかんが小さく鳴っていました。

私は、札の「海」という字を見つめました。

意味が分からないまま、私はその一冊を鞄に入れました。

改札の向こうの声

あれから、時は流れ、今に至ります。

私は小さな出版社で、古本屋で身につけた知識を生かして働いています。

はじめて担当した本は、地方の詩人の、薄い復刊でした。

校正刷りを読みながら、私は何度も、彼女の声でその行を聞いていました。

見本が届いた日、最初の一冊を、あの港町の古本屋へ送りました。

返事は、葉書に一行だけ。

「棚に置いた」

それで、十分でした。

その棚のどこに置かれたのか、私には分かっていました。

お互いの仕事の都合で、一緒に暮らすことは、まだ叶っていません。

離れた街で暮らす遠距離のままですが、私たちの関係は、今も続いています。

月に一度、私は電車を乗り継いで、彼女の住む街へ会いにいきます。

彼女の街の駅は海が近く、改札を出ると潮の匂いがします。

「海の見える街、半分は叶ってるね」と、彼女は笑います。

改札で待っている彼女を見つけるたび、あの雨の夜の笑顔を思い出します。

「おかえり」と彼女は言い、「ただいま」と私は答えます。

暮らす家は別々でも、その言葉を交わす瞬間だけは、ひとつの家に帰っているのでした。

彼女の病は、幸いにも、大きく広がることはありませんでした。

定期的な検査に通いながら、彼女は前と変わらず、穏やかに笑っています。

今では立場が逆転して、私のほうが仕事の悩みを聞いてもらってばかりです。

「あんたは、二度もあたしを救ってくれた。あの雨の夜と、別れようとしたあの日と」

「だから今度は、あたしがあんたを守る番なんだ」

守る、守られる。

私たちは、いつのまにか、そうやって支え合う一対になっていました。

先日、ようやく私は、彼女を両親に引き合わせる約束を取りつけました。

両親には、彼女の病のことも、正直に話すつもりです。

それでも反対されたら、何度でも、話すつもりです。

「ご両親、私のこと、どう思うかな」

珍しく不安そうにする彼女に、私は答えました。

「大丈夫だよ。俺が、いちばん自慢に思っている人だって、ちゃんと話すから」

彼女は少しだけ目を潤ませて、「うん」と小さくうなずきました。

その帰り道、駅前のベンチで、私は鞄から、あの詩集を取り出しました。

黄ばんだ札は、まだ挟まったままでした。

「これ、覚えてる」

彼女は札を見て、しばらく黙っていました。

「海」という一文字を、指でなぞりました。

彼女の名前の、一文字でした。

「最初の雨の日の、次の朝に、店主さんに頼んだの」

「取り置きにしてください。でも、私が買うまで、誰にも売らないで、って」

「なんで買わなかったんだ」

彼女は、片方だけのピアスを隠した彼女のように、少し悪い顔で笑いました。

「買っちゃったら、閉店間際に行く口実が、なくなるでしょ」

彼女は一年のあいだ、買えば終わってしまう一冊を、買わずにいたのでした。

「本を買いにきたのに、って言ってたくせに」

「うん。嘘」

潮の匂いのする風が、札の端を、小さく揺らしました。

私たちの幸せの在り処は、ずっと、こんなにも近くにあったのです。

海の見える街も、縁側の猫も、まだ先の話です。

けれど、札を剥がさないまま二人で待つこの時間が、もう幸せそのものでした。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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