犬からの10のお願い

玄関のドアの内側に、まだ、古いリードがかけてあります。

外すのを、どうしても、ずっと、ためらっています。

その下の床には、今も、うっすらと、丸い跡が残っています。

ナナが、十四年間、そこで私の帰りを待っていた場所です。

鍵を回す音がすると、家じゅうに響くほど、しっぽで床を叩いた、あの場所です。

ナナがいなくなって、半年が経ちました。

私はまだ、玄関を開けるたびに、いないはずの足音を、探しています。

ナナは、口がきけませんでした。

でも今になって、あの子が、私に十のことを頼んでいたのだと、分かるのです。

ナナと出会ったのは、私が二十五の、雨の夜でした。

会社を辞めたばかりで、何もかもが、うまくいっていない頃でした。

アパートの軒下で、濡れたダンボールの中に、小さな子犬がいました。

灰色がかった、やせっぽちの雑種でした。

私を見上げて、震えながら、それでも、しっぽを振ったのです。

「お前、こんなとこで、何やってんだよ」

私は、傘をたたんで、その子を、上着の中に入れました。

小さな心臓が、私の胸で、ものすごい速さで打っていました。

その夜から、私の一人きりの部屋に、もう一つの呼吸が、増えました。

名前は、ナナにしました。

拾った日が、七月七日だったからです。

「ナナ。お前は、今日からナナだ」

そう言うと、その子は、まるで返事をするように、小さく鳴きました。

ミルクを温めてやると、皿に顔を突っ込むようにして、夢中で飲みました。

飲み終えると、私の指を、ぺろぺろと、いつまでも舐めていました。

その温かい舌の感触を、私は、たぶん一生、忘れません。

次の日、私は、貯金の少なさを思い出して、青くなりました。

自分一人、食べていくのも、やっとだったのです。

「お前を、ちゃんと飼えるのかな」

不安をこぼした私を、ナナは、ただ、まっすぐに見上げていました。

その目は、こう言っているようでした。

「私には、あなたしか、いないのです」

その目に、私は、負けました。

思えば、救われたのは、私のほうだったのかもしれません。

ナナは、賢い子でした。

おすわりも、待ても、すぐに覚えました。

でも、私が落ち込んでいる日だけは、命令を聞きませんでした。

そういう日は、ぴったりと体を寄せて、私の膝に、あごを乗せてくるのです。

「私の言うことが分からなくても、声は分かるんだな」

私が話しかけると、ナナは、決まって、首をかしげました。

言葉は通じなくても、私たちは、たしかに、会話をしていました。

再就職して、生活が、少しずつ立て直っていきました。

残業で、帰りが、夜中になる日もありました。

それでも、ナナは、文句ひとつ言わずに、玄関で待っていました。

何時間でも、何時間でも、あの丸い場所で。

「ただいま。遅くなって、ごめんな」

そう言うと、ナナは、責めるどころか、全身で、喜びをぶつけてきました。

私の一日の疲れは、その瞬間に、いつも溶けていきました。

私が、妻と出会い、結婚したときも、ナナは、そばにいました。

妻は、初め、犬が少し苦手でした。

それでも、ナナは、焦らずに、少しずつ、距離を縮めていきました。

妻が泣いていた夜、ナナが、そっと寄り添ったことがありました。

次の朝、妻は言いました。

「ナナは、人の気持ちが、分かるのね」

その日から、ナナは、私たち二人の、家族になりました。

子どもが生まれてからは、ナナは、立派な「お兄ちゃん」でした。

赤ん坊が泣くと、いちばんに、私たちを呼びに来ました。

よちよち歩きの娘に、しっぽを引っぱられても、決して怒りませんでした。

あの子は、人の手の骨など、簡単に噛める歯を持っていました。

それでも、家族には、一度も、牙をむきませんでした。

優しさとは、力を持つ者が、それを使わずにいることなのだと、ナナに教わりました。

時は、犬には、人の何倍もの速さで流れます。

気づけば、ナナの口のまわりは、白くなっていました。

あんなに軽やかだった足どりが、少しずつ、重くなっていきました。

散歩の距離が、日に日に、短くなっていきました。

階段を上れなくなった日、私は、ナナを抱いて、二階へ運びました。

昔、雨の夜に、上着の中に入れたときと、同じように。

ただ、あの頃よりも、ずっと、ずっと、重くなっていました。

その重さの分だけ、私たちは、長い時間を、一緒に生きたのです。

最期の朝、ナナは、もう、立てなくなっていました。

動物病院の先生は、静かに、首を横に振りました。

「もう、長くは、ないと思います」

私は、迷いませんでした。

「家で、看取らせてください。この子は、家が好きなので」

先生は、うなずいて、痛みを取る薬だけを、出してくれました。

家に帰ると、ナナを、いつもの玄関の、あの丸い場所に寝かせました。

家族みんなで、ナナを囲みました。

娘が、小さな声で、「ナナ、いかないで」と、泣いていました。

私は、ナナの頭を、ずっと、なで続けました。

「ナナ、ありがとうな。お前が来てくれて、本当に、よかった」

ナナは、最後の力で、私の手を、一度だけ、ぺろりと舐めました。

あの、雨の夜の、子犬の頃と、同じように。

私は、ナナの目を、最後まで、見ていました。

「こわくないぞ。ここにいるからな。どこにも、行かないからな」

昔、誰かに、「見ているのがつらいだろう」と言われたことがあります。

でも、私は、席を外しませんでした。

あの子が、雨の夜に、私を信じてくれたように。

今度は、私が、最後まで、そばにいる番でした。

ナナは、私の手のひらの中で、眠るように、息を引き取りました。

穏やかな、本当に、穏やかな、顔でした。

ナナは、口がきけませんでした。

だから、何ひとつ、言葉では頼みませんでした。

でも、十四年をふり返ると、あの子が、私に頼んでいたことが、たしかに、十、ありました。

今、それを、ナナの代わりに、書いておきます。

一つ。「私の時間は、あなたの何倍も速い。だから、一緒にいられる今を、大切にしてほしい」

白くなったナナの口もとを見て、私は、これを、いちばんに思い知りました。

二つ。「私が言うことを分かるまで、少しだけ、待ってほしい」

おすわりを覚えるまで、ナナは、何度も失敗しました。でも、焦らなかったのは、私のほうが教わったことです。

三つ。「叱るより先に、おなかが空いていないか、どこか痛くないか、気にかけてほしい」

年老いて粗相をした夜、私は、叱る代わりに、そっと、ナナの体をさすりました。

四つ。「長い留守番は寂しいけれど、あなたが帰ってくると信じて、私は待っている」

残業の夜、玄関のあの丸い場所で、ナナは、いつも、信じて待っていてくれました。

五つ。「あなたには家族や仕事があるけれど、私には、あなたしか、いないのです」

雨の夜、ダンボールの中から私を見上げた、あの目が、ずっと、そう言っていました。

六つ。「私に話しかけてほしい。言葉は分からなくても、あなたの声は、ちゃんと分かるから」

落ち込んだ日に膝へあごを乗せてきたナナは、言葉ではなく、声を聞いていたのです。

七つ。「私がいたずらをしても、叩く前に、思い出してほしい。私が決して、あなたを噛まないことを」

娘にしっぽを引っぱられても怒らなかったナナを、私は、生涯、忘れません。

八つ。「私が年老いて、動けなくなっても、どうか、世話をしてほしい。あなたも、いつか年を取るのだから」

階段を上れなくなったナナを抱き上げたとき、私は、この願いを、はっきりと受け取りました。

九つ。「私のことを、ときどきでいいから、思い出してほしい」

今、こうして書いていること自体が、その願いへの、私の返事です。

十。「最期の旅立ちのときには、どうか、そばにいてほしい」

この、いちばん大切な願いだけは、私は、ちゃんと、かなえてあげられました。

「あなたがそばにいてくれるだけで、私は、どんなことも、安らかに受け入れられる」

ナナは、きっと、最後に、そう言いたかったのだと思います。

その十番目の願いだけは、私は、ちゃんと、かなえてあげられました。

それだけが、今の私の、たった一つの、救いです。

玄関のリードは、もう少しだけ、あのままにしておきます。

外す日が来たら、きっと、私は、ちゃんと笑えるようになっている気がするから。

ナナ。短い一生を、私のそばで、生ききってくれて、ありがとう。

次に生まれてくるときも、どうか、また、あの雨の夜に、私を見つけてください。

今度は、傘をささずに、走って、迎えに行きます。

会社を辞めたあとの数か月は、私は、ほとんど、部屋から出られませんでした。

昼も夜も、布団にもぐって、自分を責めてばかりいました。

そんな私を、毎朝、起こしに来たのが、ナナでした。

鼻先で、布団を、ぐいぐいと押すのです。

「分かったよ、散歩だろ」

しかたなく外に出ると、朝の光が、思いのほか、まぶしかった。

ナナがいなければ、私は、あの部屋から、出られなかったかもしれません。

あの子は、ただ散歩をせがんでいただけのつもりで、私の命を、引っぱり出していたのです。

一度だけ、ナナが、迷子になったことがあります。

花火の音に驚いて、開いていた門から、飛び出してしまったのです。

私は、夜じゅう、名前を呼びながら、町じゅうを走りました。

「ナナ!ナナ、どこだ!」

声がかれて、もう、だめかと思った明け方。

アパートの、あの軒下に、ナナは、ずぶ濡れで、座っていました。

出会った、あの場所に、自分で、帰ってきたのです。

私を見つけると、ナナは、転がるように、駆け寄ってきました。

私は、泥だらけのその体を、力いっぱい、抱きしめました。

ナナが子犬の頃、一度、大きな病気をしました。

高い熱が、何日も下がらず、もう、覚悟してください、と言われました。

私は、乏しい貯金をはたいて、できるかぎりの治療を、頼みました。

夜通し、小さな体を、てのひらで温め続けました。

「頼む、ナナ。まだ、逝くなよ」

三日目の朝、ナナは、ふっと目を開けて、私の指を、舐めました。

あのとき、助かってくれたから、私たちには、その後の十年以上があったのです。

家族が増えて、私たちは、海の近くの町へ、引っ越しました。

ナナは、初めて見る海に、最初は、おっかなびっくりでした。

でも、すぐに、波打ち際を、走り回るようになりました。

娘とナナが、砂浜を駆けていく姿を、私は、今も、よく思い出します。

夕日の中で、二つの影が、長く伸びていました。

あの夏は、もう、戻ってきません。

だからこそ、あの夏は、私たちの宝物になりました。

私の父が亡くなった年も、ナナは、そばにいてくれました。

葬式から帰った夜、私は、誰もいない部屋で、声を殺して泣きました。

ナナは、何も言わず、ただ、私の背中に、体をぴたりとつけていました。

その温もりが、どんな慰めの言葉よりも、私を、支えてくれました。

「お前は、いてくれるだけで、いいんだな」

ナナは、ふっと、ため息のような息を、つきました。

分かっているよ、とでも言うように。

年を重ねたナナは、よく、窓辺の日なたで、うとうとするようになりました。

私も、隣に座って、一緒に、夕暮れを眺めました。

特別なことは、何もない時間でした。

でも、そういう、なんでもない時間こそが、いちばん、幸せだったのだと、今は分かります。

ナナの寝息と、私の呼吸が、同じ速さに、なっていく夕暮れでした。

亡くなる三日前、ナナに、調子の良い日が、一日だけ、ありました。

その日、ナナは、自分から、リードのほうへ、よろよろと歩いていきました。

「散歩、行きたいのか」

私たちは、ゆっくり、ゆっくり、近所の公園まで歩きました。

ナナは、いつもの木の根もとの匂いを、長い時間、かいでいました。

まるで、一つひとつに、別れを告げているようでした。

ベンチに並んで座った夕方を、私は、生涯、忘れないと思います。

あれが、ナナと私の、最後の散歩になりました。

ナナには、毎日の、決まった儀式がありました。

私の帰る時間になると、窓辺に座って、外を見張るのです。

角を曲がる私の姿を見つけると、家じゅうを駆け回って、知らせました。

妻が、よく笑っていました。

「あなたが帰ってくるの、ナナのほうが、先に分かるのよ」

どんな日も、私には、待っていてくれる相手がいる。

そのことが、外でどんなに嫌なことがあっても、私の足を、家へ向かわせました。

ナナがいなくなって、家は、ずいぶん、静かになりました。

床に落ちる、足音がありません。

窓辺で、外を見張る影も、ありません。

娘は、しばらく、ナナの名前を、口にしませんでした。

ある日、ぽつりと、こう言いました。

「ナナは、お空で、走り回ってるかな」

私は、「きっと、そうだよ」と、答えるのが、精一杯でした。

家族みんなの中に、ナナの形をした、小さな空白が、できたのです。

ナナは、自分の名前が、大好きでした。

「ナナ」と呼ぶたびに、しっぽが、千切れそうなほど振れました。

七月七日に拾ったから、ナナ。

いいかげんに付けた名前なのに、あの子は、世界でいちばん、その名前を喜びました。

私は、一日に何度も、意味もなく、その名前を呼びました。

呼べば、必ず、返事がある。

それが、どれほど、ありがたいことだったか。

犬の一年は、人の、何年分にもあたると言います。

だから、私がうっかりしているあいだに、ナナは、どんどん、年を取っていきました。

昨日まで子犬だったのに、気づけば、私を、追い越していました。

その速さを知っていたら、もっと、たくさん、散歩に行けばよかった。

もっと、たくさん、名前を呼べばよかった。

後悔は、いつも、間に合わないところから、やってきます。

不思議なことに、ナナは、雨の日が、好きでした。

普通の犬は、濡れるのを嫌がるのに。

雨が降ると、窓の外を、じっと、いつまでも眺めていました。

きっと、私と出会った、あの雨の夜を、覚えていたのだと思います。

「お前は、雨に拾われた子だもんな」

そう言うと、ナナは、振り向いて、私を、まっすぐに見ました。

その目は、雨の夜の子犬のまま、最後まで、澄んでいました。

今、ナナは、小さな骨壷になって、窓辺にいます。

あの子が好きだった、日なたの場所です。

毎朝、私は、その白い壺を、てのひらで、そっと撫でます。

昔、頭を撫でたときと、同じ手つきで。

「おはよう、ナナ。今日も、いい天気だぞ」

返事は、もう、ありません。

でも、撫でた手のひらに、たしかに、あの温もりが、よみがえる気がするのです。

犬を飼うということは、いつか必ず、この別れを引き受けるということです。

それでも、私は、もう一度、あの雨の夜の選択を、繰り返すでしょう。

短い一生だと知っていても、その時間が、何よりも温かいと、ナナが教えてくれたから。

あの丸い跡は、いつか、消えてしまうのかもしれません。

それでも、あそこでナナが待っていてくれた十四年は、消えません。

私の胸の、いちばん温かい場所に、ちゃんと、刻まれています。

ありがとう、ナナ。

出会えたことが、私の人生の、いちばんの幸運でした。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。