副隊長の息子と柴犬のむぎ

副隊長の息子と柴犬のむぎ

掃除機のスイッチを入れると、いつも足元で、短く吠える声がした。

柴犬のむぎが、まだ我が家にいた頃の、日曜の朝の合図だ。

今朝の私は、スイッチに手をかけたまま、しばらく動けなかった。

吠える声のしない部屋は、驚くほど広くて、音がなかった。

むぎが旅立って、まだ三日しか経っていない。

けれど私は、その三日間で、忘れていたことをひとつ思い出した。

これは、拾われてきた柴犬のむぎと、我が家の十二年間の話だ。

そして、まだ十五歳の息子が、母親の私に教えてくれたことの話でもある。

雨の河原の段ボール

むぎが我が家に来たのは、長男の翔太が三歳の春のことだった。

近所の河原を散歩していたとき、雨に濡れて震えている段ボール箱を見つけた。

中を覗くと、生まれて間もない子犬が、一匹だけ、ぽつんと残されていた。

目もよく開いていないのに、拾い上げた私の指を、必死になって吸ってくる。

その小さな命の温度に、私は、その場で連れて帰ることを決めてしまった。

夫に何と言おうかと、帰り道は、そればかり考えていた。

ところが、玄関で子犬を見た夫は、意外なことを言ったのだ。

「飼ってあげよう」

めずらしく言い出したのは、ふだんは無口な夫のほうだった。

「翔太も、きょうだいができたら、喜ぶだろう」

名前は、夫が毎朝焼くトーストの色に似ているから、むぎ、に決まった。

ミルクの匂いのする小さな体は、私のてのひらに、すっぽり収まった。

最初の夜、むぎは段ボールの中で、心細そうに鳴き続けた。

夫は居間の電気を点けて、「どうした」と、小さな声で話しかけた。

翔太は、自分のタオルケットを引きずってきて、むぎの箱に入れた。

「これ、ぼくの匂いがするから、さみしくないよ」

ようやく、むぎは鳴きやんで、タオルケットの端をくわえたまま眠った。

その寝顔を見ながら、私は、とんでもないものを拾ってきたのだと思った。

でも同時に、この家の真ん中に、新しい灯りが点いたような気もした。

翌朝、動物病院へ連れて行った。

診察台の上で、むぎは、ぶるぶると震えていた。

翔太が耳元で、「だいじょうぶだよ」とささやくと、不思議と、震えが止まった。

獣医さんは、「いい子ですね。手がかかりますよ」と、笑って言った。

本当に、手がかかった。

夜中に何度も鳴いて、私たちは、ずいぶん寝不足になった。

トイレを覚えるまでは、失敗のたびに、夫が黙って後始末をした。

「無口なのに、むぎのことになると甘いんだから」と、私が言った。

夫は、照れくさそうに笑って、何も言い返さなかった。

翔太は、毎日、保育園から帰ると、むぎの箱を覗き込んだ。

「むぎちゃん、おおきくなあれ」と、おまじないのように唱えながら。

近所の人が、通りすがりに、「新しい家族ね」と声をかけてくれた。

夫は、リードを持つ手を、少し誇らしげに、高く上げて見せていた。

散歩の初日、むぎは、二十歩も歩かないうちに、疲れて座り込んだ。

夫は、黙って、むぎを胸に抱えて、残りの道を歩いた。

その背中が、思いのほか大きく見えて、私は、少し驚いた。

気がつけば、いちばんむぎを可愛がっていたのは、その夫だったのかもしれない。

お掃除隊の隊員

翔太が六歳になった年、我が家に、お掃除隊ができた。

隊長は私で、副隊長は翔太、そして隊員はむぎだった。

掃除機を持ち出す日曜の朝は、決まって、この三人で出動した。

隊員の仕事は、掃除機の音に向かって、思いきり吠えることだ。

「むぎ隊員、敵が来たぞ!」と、翔太が叫ぶ。

柴犬のむぎは、尻尾をちぎれそうなほど振って、掃除機の周りをぐるぐる回った。

「ママ、見て! 隊員が、ちゃんと働いてるよ」

そう言って胸を張る翔太の鼻の頭には、いつも、埃がついていた。

以来、掃除機のスイッチを入れる音は、むぎの出動の合図になった。

家族には、それぞれ、むぎと決まった時間があった。

朝は、夫を起こすのがむぎの役目だった。

六時になると、寝室の扉を前足でかりかりと掻いて、ごはんをねだる。

夫は、眠い目をこすりながらも、必ず起き上がった。

ごはんをやってから、縁側で一服するのが、夫の日課だった。

「むぎは、おれの目覚まし時計だな」と、夫はよく笑っていた。

昼間は、台所に立つ私の足元に、ぴたりと寄り添っていた。

玉ねぎを刻んで涙ぐむと、心配そうに顔を覗き込んでくる。

「むぎ、これは悲しいんじゃないのよ」と話しかけると、首をかしげて聞いていた。

人には言えない愚痴も、むぎにだけは、ずいぶん聞いてもらった気がする。

一度だけ、むぎが、夫の靴下を片方くわえて、庭の隅に隠したことがある。

夫は、朝から、「靴下がない」と家じゅうを探し回った。

昼過ぎに、翔太が、花壇の土の中から、泥だらけの靴下を掘り出してきた。

「隊員、お手柄!」と、翔太が叫んだ。

むぎは、褒められたと思ったのか、得意げに胸を張っていた。

夫が、靴下を片手に、「お前なあ」と言ったときの顔は、怒っていなかった。

夕方になると、玄関の前で、翔太の帰りを待っていた。

ランドセルの音が遠くから聞こえると、尻尾がちぎれそうなほど揺れた。

雨の日でも、必ず玄関で待っていて、ずぶ濡れの翔太の顔じゅうを舐めた。

「ただいま、むぎ。今日も待っててくれたんだね」

そのやり取りを聞くたびに、私は、この家にむぎがいてくれる幸せを感じた。

翔太が小学三年の運動会の日、むぎは、柵の外から、校庭をじっと見つめていた。

徒競走で、翔太は、最後から二番目だった。

ゴールの先で、翔太は、悔しそうに唇を噛んでいた。

帰り道、むぎは、何も言わずに、翔太の足元にぴったり寄り添って歩いた。

翔太は、「むぎだけは、ぼくが遅くても、がっかりしないんだ」と言った。

夜は、翔太と一緒に二階へ上がって、子ども用のベッドにもぐり込んだ。

雷が鳴る夜は、強気なむぎも、震えながら翔太の布団に入ってきた。

「だいじょうぶ、ぼくがいるからね」と、翔太はむぎの背中を撫で続けた。

「むぎは、ぼくの弟だから、ぼくが守るんだ」

守っているつもりが、いつのまにか、二人は守り合っていたのだと思う。

休みの日には、家族四人で、裏山を散歩した。

先頭はむぎで、その尻尾を追いかけて、翔太が転びそうになりながらついていく。

春は土の匂い、夏は草いきれ、秋は落ち葉を踏む音。

冬の朝、雪が積もると、むぎは、真っ先に庭へ飛び出していった。

白い息を弾ませて、雪の上を駆け回る姿を、家族みんなが、窓辺で眺めた。

季節のひとつひとつを、私たちは、むぎと一緒に、足の裏で感じてきた。

毎年の誕生日には、むぎのためだけに、犬用のケーキを用意した。

ろうそくの火を吹き消す係は、翔太とむぎの、二人の共同作業だった。

玄関には、桜の木の下で撮った家族写真が、今も飾ってある。

むぎを真ん中に抱えて、全員が笑っている、私の宝物の一枚だ。

裏山の頂上まで

年月は、人より犬のほうが、ずっと早く流れていく。

気づけば、むぎの口元には、白い毛が混じっていた。

あれほど好きだった裏山の散歩も、途中で座り込むことが増えた。

階段を上がるのをためらうようになり、夜は、一階の私たちの寝室で眠った。

翔太は、少し寂しそうな顔をして、それでも毎晩、一階まで下りてきた。

「むぎ、ゆっくりおやすみ」と、毎晩、声をかけながら。

それでも、夫を起こす朝の役目だけは、むぎは、最後まで律儀に続けた。

「もう無理しなくていいんだぞ」と夫が言っても、六時には、扉を掻いた。

獣医さんには、「もう、ずいぶん高齢ですからね」と、静かに告げられていた。

私たちは、残された一日一日を、ただ大切に過ごそうと決めた。

むぎの好きだったささみを、柔らかく煮て、手のひらから食べさせた。

翔太は、学校から帰ると、真っ先にむぎのそばに座った。

その日あったことを、一つ残らず、話して聞かせた。

「むぎ、今日もぼくの話、聞いてくれてありがとう」

最後の秋、家族四人で、もう一度だけ、裏山を歩いた。

むぎは、何度も休みながら、それでも頂上まで、ゆっくり登りきった。

夕日に染まる町を、四人と一匹で、並んで眺めた時間を、私は一生忘れない。

下りの道で、むぎはもう歩けなくなり、夫が、その体をそっと抱き上げた。

「軽くなったなあ」と、夫がつぶやいた。

その声が、胸にぎゅっと食い込んで、私は、返事ができなかった。

腕の中のむぎは、それでも気持ちよさそうに、夫の頬をぺろりと舐めた。

家に帰ると、むぎは縁側の日だまりで、長いあいだ、うとうとしていた。

その寝顔を、翔太は、スケッチブックに、一生懸命に描き写していた。

「むぎが元気だった頃の顔も、ちゃんと残しておくんだ」と、翔太は言った。

十五歳の少年が、別れの予感を、静かに受けとめようとしていた。

その日から、翔太は、夕食のあと、毎晩、スケッチブックを開いた。

むぎの耳、むぎの鼻、むぎの前足。

鉛筆の先が、紙をこする音が、居間に、静かに響いた。

私は、台所からその背中を見て、声をかけられなかった。

最後の一週間、むぎは、ほとんど水しか飲めなくなった。

スポイトで、少しずつ水を口に含ませると、むぎは、小さく喉を鳴らした。

翔太は、その喉の動きを、息を詰めて見守っていた。

「ちゃんと飲んでるよね、ママ」

「うん、ちゃんと飲んでる」

そう答える私の声も、細く、揺れていた。

その晩、夫は、私にだけ聞こえる声で、言った。

「もし、もう一度、あの河原に行けたら、俺は、同じ箱をまた拾うよ」

私は、「私も」と答えた。

夫が涙ぐむのを見たのは、結婚して、初めてだった。

柴犬のむぎの寝床

その夜、むぎは、私の布団のそばまで来て、じっと顔を見つめていた。

「今までありがとう」と言っているような、おだやかな目だった。

私は、その頭を抱きしめて、「こちらこそ、ありがとうね」と、何度も伝えた。

今思えば、あれは、むぎなりのお別れの挨拶だったのだろう。

翌朝、いつもの、扉を掻く音が聞こえなかった。

いやな予感がして、私は、寝室の隅の寝床を覗き込んだ。

むぎは、眠っているように、まあるくなって横たわっていた。

そっと背中に手を当てると、まだ、ほんのりと温かい。

ついさっきまで、確かにここで、息をしていた。

そのぬくもりが、かえって、私の胸を深くえぐった。

私は、むぎを抱き上げて、その場に泣き崩れた。

獣医さんは、「大切にされた子は、最期の顔が違うんですよ」と、やさしく言ってくれた。

苦しんだ様子もなく、満ち足りたような、おだやかな顔だった。

それが、せめてもの救いだった。

翌日、裏山の麓に、小さなお墓を作った。

翔太は、いちばん大切にしていたボールを、そっと供えた。

夫は、むぎの首輪を、自分の鞄に静かにしまった。

「いつも一緒だったから、せめて、これくらいはな」と、ぽつりと言った。

私は、むぎのごはん皿を、どうしても片づけられなかった。

毎朝、空のままの皿が目に入るたびに、胸の奥がきゅっと痛んだ。

その翌朝、夫は、いつもの時間に、ひとりで起きてきた。

誰に起こされたわけでもないのに、体が、その時間を覚えていたのだ。

縁側に座って煙草に火を点けた夫の足元に、まとわりつく小さな影はなかった。

「長いこと、起こしてくれて、ありがとうな」

夫が、誰にともなくつぶやいた声に、私は、また何も言えなくなった。

夫は、その日、仕事を休んで、一日じゅう、縁側に座っていた。

私は、お茶を二つ淹れて、一つを、夫の隣に置いた。

夫は、湯呑みに口をつけず、庭の隅を見ていた。

むぎが、いつも、穴を掘っていた場所だった。

それからの私は、まるで抜け殻のようだった。

食事の支度をしていても、洗濯物を畳んでいても、ふいに視界が滲む。

眠れない夜は、ネットで、同じように犬を見送った人の話を探して読んだ。

最後まで守った芝犬を読んで、声を殺して泣いた。

ナオと歩いた家族の時間では、散歩の足音の描写で、画面を閉じた。

他人の話なのに、どの一行も、むぎの足音に聞こえた。

翔太は、むぎが旅立った日から、ほとんど口をきかなくなった。

けれど夜になると、二階の子ども部屋から、押し殺した泣き声が漏れてきた。

本当は、親の私が、部屋に入って、抱きしめてあげなければいけなかった。

それなのに私は、ドアの前でうずくまって、声を殺して泣くことしかできなかった。

副隊長の出動

翌週、近所の奥さんが、回覧板を持って来て、玄関先で声をかけてくれた。

「むぎちゃん、最近、見かけないわね」

一瞬、言葉に詰まった。

「先週、旅立ちました」と、私は、できるだけ普通の声で答えた。

奥さんは、「そう……」と、しばらく黙ってから、続けた。

「あの子、毎朝、前を通るたびに、尻尾を振ってくれたのよ」

「ありがとう、って、伝えたかったの」

その言葉は、思いがけず、胸の奥の、固く閉じた場所に届いた。

柴犬のむぎは、我が家だけでなく、町の朝にも、小さな灯りをともしていたのだ。

その夕方、台所で洗い物をしながら、私は、また泣いていた。

蛇口の水の音に混じって、嗚咽がこぼれていた。

気配に気づいて振り向くと、翔太が、戸口に立っていた。

背が伸びて、もう、私の目線とほとんど変わらない。

「ママ」

「うん」

「次、どこ掃除する?」

意味が分からず、私は、濡れた手で顔を拭いた。

「お掃除隊だよ。ほら、昔、やったでしょ」

翔太は、照れくさそうに、頭の後ろを掻いた。

「ママが隊長で、ぼくが副隊長。出動、しない?」

泣きっぱなしで、ぐしゃぐしゃの顔をした私は、思わず、吹き出してしまった。

「隊長ばっかりで、副隊長が一人しかいないじゃない」

「しょうがないよ」と、翔太は、まっすぐ私の目を見て言った。

「むぎ隊員は、永久欠番だから」

あの子の声が、ほんの少しだけ、震えていた。

そのとき、私は気づいた。

翔太も、ずっと、泣くのを我慢していたのだ。

私が泣けば、泣けなくなる子だった。

そのまま、翔太は、続けた。

「むぎはさ、ぼくたちが笑ってるのを見るのが、いちばん好きだったでしょ」

「だから、ママがずっと泣いてたら、むぎが心配しちゃうよ」

その一言に、私は、さっきとは違う涙をこぼした。

情けなくて、けれど、たまらなく愛おしくて。

くよくよしてばかりではいけないことを、まだ少年の息子が、私に教えてくれたのだ。

その夜、私は、久しぶりに、家族三人で食卓を囲んだ。

むぎのいない食卓は、やはり、少し広くて、静かだった。

けれど翔太が、むぎの思い出を、次々に話し始めた。

「覚えてる? むぎが、パパのスリッパを庭に埋めちゃったこと」

「ああ、あれは参ったなあ」と、夫が、久しぶりに声をあげて笑った。

泣いてばかりでは、楽しい思い出まで、悲しみで塗りつぶしてしまう。

そのことに、私は、ようやく気づいたのだ。

翌朝、私は、むぎのお皿を、きれいに洗って、棚にしまった。

捨てるのではない。

いつかまた、別の小さな命を迎える日のために、大切に取っておくのだ。

翔太には、まだ少し早い話かもしれない。

それでも、いのちは、こうして誰かから誰かへと、手渡されていくのだと思う。

そして、日曜の朝が来た。

掃除機を出して、居間のコンセントに、プラグを差し込む。

スイッチに、指をかけた。

いつもなら、ここで、足元から、あの短い声が聞こえた。

目を閉じて、私は、スイッチを入れた。

低い唸りが、部屋に響いた。

そのとき、階段の上から、少しかすれた声が降ってきた。

「……ワン」

副隊長の声は、変わったばかりの低さで、むぎよりずっと低かった。

私は、掃除機を持ったまま、その場で、声を上げて笑った。

笑いながら、頬を、熱いものが伝った。

足元は、静かだった。

けれど、居間は、もう、静かではなかった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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