親父からのタスキ

玄関の靴箱を整理していたら、いちばん奥から色の褪せた一本のタスキが出てきました。木綿の布は飴色に焼けて、端のほつれを誰かが几帳面に縫い留めた跡が残っています。

それを手に取った瞬間、河原を吹き抜ける風の匂いと、隣を走る大きな背中が、二十年の歳月を飛び越えて私のところへ戻ってきました。

私の父は、中国山地の小さな製材の町で、丸太を挽いて暮らしを立てる無口な職人でした。朝はまだ星の残るうちに自転車で工場へ向かい、日が暮れてから、肩いっぱいにおがくずをのせて帰ってきます。

家の土間にはいつも、挽きたての杉の、青くて甘い匂いが満ちていました。その匂いは、私にとっていまでも父そのものです。

若い頃の父は近隣に名の知れた長距離走者で、町の新春駅伝ではいつも区間賞をさらっていたそうです。けれど大きな舞台に手が届く前に膝を壊し、走ることを仕事にする夢は、川面に落ちた木屑のように静かに流れていったと、母から聞きました。

その父が、なぜか息子の私にだけは、走る楽しさを伝えたがりました。家ではほとんど口を開かない人なのに、河原の道を並んで走っているあいだだけは、別人のように喋り続けるのです。

「腕は卵を持つように。肩の力を抜け。前を見ろ、足元じゃない」

「父さん、もうしんどい」

「しんどいのは、ちゃんと走れとる証拠だ。あと電柱ひとつ」

そう言って、いつも電柱ひとつ分だけ、私を遠くまで連れて行くのでした。普段の沈黙が少し怖かった私にとって、走っている時間だけが、父をまっすぐ好きでいられる時間でした。

夏は河原の草いきれのなかを、冬は霜柱を踏みしめて、私たちは毎朝、同じ道を走りました。

春には堤の桜が散って、足元に花びらが舞い、秋には対岸の山が燃えるように色づきました。父はそのどれを見ても何も言いませんでしたが、走る速度をほんの少し落として、私に景色を見せてくれているのが分かりました。

「景色を覚えとけ。しんどくなったら、この道を思い出すんだ」

その言葉どおり、私はいまでも苦しい場面になると、あの河原の四季を思い浮かべます。

私が八つの年の元旦、父は町の新春駅伝に、最後の出場をしました。膝はとうに壊れていて、本当はもう走れる体ではなかったはずです。

それでも父は、人手の足りない地区のチームに頼まれて、いちばん長いアンカー区間を引き受けました。

沿道で待つ私のところへ、父は最後の中継でタスキを受け取り、顔を歪め、足を引きずるようにしながら走ってきました。それでも歩みは決して止めません。

「父さん、もういいよ、無理しないで」

思わずそう叫んだ私に、父は走りながら、ほんの少しだけ笑ってみせました。

ゴール地点で父は膝から崩れ落ち、しばらく立てませんでした。けれどそのタスキを次の走者へ渡すまで、決して手を離そうとはしませんでした。

「渡すまでが、走者の仕事だ」

肩で息をしながら、父はそう言いました。その言葉の本当の意味を、私が知るのはずっとあとのことです。

家に帰ると、母が古い帯をほどいて縫ってくれた手製のタスキを取り出して、私たちは土間で二人だけの駅伝ごっこをしました。

「次は父さんが二区だ。お前はアンカーな」

「アンカーって、いちばん速い人がやるんでしょ」

「そうだ。だからお前だ」

白い息を吐きながら、父はめずらしく声をあげて笑っていました。いま思えば、あの頃の父は、終わったはずの自分の青春を、もう一度だけ私の隣で走り直していたのかもしれません。

中学に上がると、私は当然のように陸上部の門を叩きました。長い手足は父譲りだったらしく、記録はぐんぐん伸びて、郡の大会で表彰台に立つこともありました。

父は仕事を抜けてでも、必ず沿道に立っていました。製材所の作業着のまま、おがくずを肩につけて、人混みのいちばん後ろから私を見ているのです。

声を張って応援するわけではありません。ただ、腕を組んで、じっと私の走りだけを見ていました。

私が良い記録を出した夜は、決まって茶碗酒を傾けて、赤い顔で同じ言葉を繰り返しました。

「お前と一緒に、もう一度あの道を走りたかったなあ」

あの道、というのが大きな大会のことなのか、自分が膝を壊した町外れの坂なのか、私には分かりませんでした。ただ、その言葉を言うときの父の目だけは、子供心にもまぶしく見えたのを覚えています。

ある日曜、私は父の働く製材所を初めて訪ねました。巨大な帯鋸が丸太を裂く音が、腹の底まで響きます。

父は防音の耳当てをつけ、木目を読みながら、迷いなく刃を入れていきました。一本の丸太から、無駄なく板を取り出していくその手つきは、レースを見つめるときと同じ目をしていました。

「木にはな、いちばん強くなる挽き方ってのがある。それを探すのが仕事だ」

汗を拭いながら、父はそう言いました。無口な父が、いちばん多くを語るのは、走るときと、木に向かうときだけでした。

帰り際、父は端材を一枚くれました。手のひらほどの杉の板で、表面はかんなで磨いたように滑らかでした。「お守りだ」と、ぶっきらぼうに言いました。私はいまでもその板を、机の引き出しにしまっています。

呼吸の仕方も、父が教えてくれました。

「苦しくなったら、吐くことだけ考えろ。吸うのは勝手に体がやってくれる」

レースの苦しい場面で、私はいつも父のその声を思い出していました。

二年の秋、県大会の出場権が懸かった一戦がありました。最終周、私は前を行く強豪校の選手の背中を、最後の直線でようやく捉えました。

沿道の喧騒が遠のき、聞こえるのは自分の足音と、心臓の音だけ。ゴールテープを切った先で膝に手をついて喘いでいると、父がいつもの作業着で駆け寄ってきました。

「見たぞ。最後の二十メートル、お前、笑ってたな」

「笑ってないよ。苦しかっただけ」

「いいや、笑ってた。走るのが好きな奴の顔だった」

父はそう言って、節くれだった手で私の頭を一度だけ、不器用に撫でました。木を挽く手は硬くて、ささくれていて、けれど驚くほど温かいことを、私はそのとき初めて知りました。

家に帰ると、母がいつもより一品多い夕飯を用意していて、父はその晩、いつもより長く茶碗酒を傾けていました。

高校に進むと、伸び続けていた記録は、嘘のように頭打ちになりました。背が伸びて体が重くなり、思うように足が回りません。

追い打ちをかけるように授業にもついていけなくなり、私はいつも苛立っていました。勉強のことには何も言わないくせに、走りのことばかり気にかけてくる父が、急に疎ましく感じられるようになりました。

父が期待しているのを知っているからこそ、その顔をまっすぐ見られなかったのだと思います。帰宅して父が「今日はどうだった」と聞くだけで、私は黙って自分の部屋に上がるようになりました。

ある記録会の帰り、その日も平凡なタイムしか出せませんでした。理由は分かっていました。追試の勉強で寝不足が続き、体が言うことを聞かなかったのです。

自分が何をやっているのか分からなくなって、私は部屋のベッドに転がり、天井のしみばかり眺めていました。そこへ、父が入ってきました。

また走りのことで何か言われるのかと思うと、顔も見たくありませんでした。父は私の枕元に腰を下ろし、長い沈黙のあとで、低い声で切り出しました。

「お前、なんのために走ってるんだ。そんなに眉間に皺を寄せて。父さんはな、お前が……」

そこまで言いかけた父に、こらえていたものが一気に噴き出しました。

「うるさい。出ていってよ。父さんに僕の気持ちなんか分かるわけないだろ」

「父さんの顔色をうかがいながら走るの、もう嫌なんだよ。期待が重いんだ。全部、父さんのせいだ」

言い切ってしまった私を、父は驚いた顔で見つめていました。それからゆっくりと、ひどく悲しそうな表情になって、私の頬を一度だけ強く張りました。

乾いた音が部屋に響き、頬よりも胸の奥が熱くなりました。母が止めに入るまで、私たちは取っ組み合いの喧嘩をしました。

その日を境に、父との会話は途絶えました。私はほどなく陸上部に退部届を出し、靴紐を結ぶことをやめました。

走るのをやめても、成績が上がるわけでも、苛立ちが消えるわけでもなく、ただ毎日が灰色に淀んでいきました。

靴箱の奥でスパイクが埃をかぶっていくのを、見て見ぬふりをして過ごしました。たまに夢のなかで河原を走り、目が覚めると枕が湿っていることもありました。

一度だけ、町の駅伝の日に、こっそり沿道へ足を運んだことがあります。走者たちがタスキをつないでいくのを見ていると、胸の奥がちりちりと痛みました。

父がいないかと目で探している自分に気づいて、私は逃げるようにその場を離れました。けれど意地になって、二度とあの河原の道へは出ませんでした。

私が部活を辞めて二ヶ月ほど経った頃でした。製材所で丸太を挽いていた父が、突然その場に崩れ落ち、病院へ運ばれました。

膵臓の癌で、見つかったときにはもう、手の施しようがないところまで進んでいました。余命は、長くて数ヶ月だと告げられました。

私は打ちのめされましたが、それでも父とのわだかまりが胸につかえて、母に何度誘われても見舞いに行けませんでした。

職場と家と病院を行き来して、日に日にやつれていく母を見ると、苦労をかける父に腹が立つことすらありました。そんな自分が嫌で、夜になると布団のなかで歯を食いしばっていました。

そうしているあいだにも父の体は痩せ細り、いつ容態が変わってもおかしくないと言われるまでになりました。

ある朝、台所で母が、独り言のようにこぼしました。

「お父さんね、あんたが高校でも陸上を続けてること、ほんとに嬉しそうだったんよ」

「記録が伸びんで苦しんどるときは、お父さんも同じように眠れん夜を過ごしとった」

「いつかあんたが、自分のせいで走ることを嫌いになってしまうんやないかって、それだけをずっと心配しとってね」

「あの喧嘩のあと、あんたがぱったり走らんようになっても、何にも言わんかったやろ。あの人なりに、こらえとったんよ」

母はそれだけ言うと、味噌汁の鍋に向き直りました。その話が、私の胸の奥に小さな棘のように引っかかりました。

学校へ行っても、棘はずっと痛みました。休み時間、友達が何気なくこぼした一言が、決定的でした。

「あの先生のせいで、俺、数学が嫌いになったわ」

その瞬間、私は気づいてしまったのです。私はあの夜、誰よりも走るのが好きで、誰と走るよりも私と走ることが好きだった父に、こう言い放ったのだと。

父さんのせいで、走るのが嫌いになった、と。

授業を放り出して、私は病院へ走りました。道には前夜の雪が残り、何度も足を取られそうになりました。

久しく走っていなかった心臓は、肋骨を破りそうなほど高鳴り、肺が冷たい空気で焼けるように痛みます。それでも私は走りました。

吐くことだけ考えろ、吸うのは体がやってくれる――父の声が、足を前へ送り出しました。

走るあいだじゅう、あの夜、私を張る前に見せた父の悲しそうな顔が、何度も何度もまぶたの裏に浮かびました。

病室の父は、見違えるほど小さくなっていました。骨ばった体からは何本もの管が伸び、薄い胸を大きく上下させて、苦しそうに息をしていました。

肩で息をしている私に気づくと、父はかすれた声で言いました。

「走って、来たのか」

私が頷くと、父は「そうか」とだけ言って、目尻に深い皺を寄せました。

その顔は、私が良い記録を出したあの日と、まったく同じ顔でした。痩せ細り、管につながれてもなお、息子の走りを喜ぶ顔だけは、少しも変わっていなかったのです。

「父さん、ごめん。あの日のこと、ずっと――」

言いかけた私を、父は弱く首を振って遮りました。

「いいんだ。お前が来てくれた。それで、いい」

それから枕元の引き出しに手を伸ばし、皺だらけの布を取り出します。震える手で、それを私の手に握らせました。

小さい頃、二人で掛けたあの手製のタスキでした。

「走るのは……まだ、好きか」

父は、笑っていました。私は答えのかわりに、ただその硬い手を、両手で包み込むことしかできませんでした。

その数日後、父の容態は急変し、間もなく息を引き取りました。

最期に握ってくれた手の硬さと温もりは、いまも私の手のひらに残っています。あれは、いくつもの板を磨き上げてきた、職人の手でした。

葬儀の慌ただしさがようやく過ぎ、私が自分の部屋に戻ったとき、机の上に置きっぱなしのタスキが目に入りました。

手に取って広げると、褪せた布の端に、母の細かな縫い取りで、父と私の名前が並んで刺してありました。二つの名前は、ほどけかけては結び直された跡があり、何度も何度も手を入れられていたのが分かりました。

父の夢は、私と肩を並べて大きな大会を走ることだったのだと、いまになって分かります。そして、自分の手で私にタスキを渡すことだったのだと。

もちろん、二人で大舞台を走ることはもう叶いません。それは父が生きていても同じだったでしょう。

けれど父はたしかに、最後の力を振り絞って、私の手にタスキを握らせました。渡すまでが走者の仕事だと、あの元旦の父が言っていたことを、私はようやく思い出しました。

なぜだか涙が次から次へとあふれて、止まりませんでした。そうだ、私はたしかに、このタスキを受け取ったのだ。

雪が解けた春、私はまた走りはじめました。小さい頃、父と並んで走ったあの河原の道です。

記憶のなかと同じ木漏れ日、同じ草いきれ、同じゆるやかな坂。ただひとつ違うのは、隣に父がいないことだけでした。

けれど不思議と、走り出すと、肩のあたりに父の気配を感じるのです。あと電柱ひとつ、もう電柱ひとつと、いまも誰かが背中を押してくれている気がします。

走り終えて橋の上で息を整えていると、川面に朝日が散って、まぶしさに目を細めました。父と並んで見た光と、何も変わらない光でした。

やがて私にも、子が生まれました。その子が歩きはじめた頃、私は河原の道へ手を引いて連れていきました。

「ほら、父さんと競争だ。あの電柱まで」

よちよちと駆ける小さな背中を見ていると、父がなぜあれほど私と走りたがったのか、ようやく胸に落ちました。人は、自分がいちばん幸せだった時間を、愛する者ともう一度だけ生き直したいのかもしれません。

いまでは私も、町の小学生に走り方を教える側になりました。

「腕は卵を持つように。肩の力を抜いて。前を見て」

父の言葉を、そっくりそのまま、子どもたちに手渡しています。

「コーチ、もうしんどい」

「しんどいのは、ちゃんと走れとる証拠だ。あと電柱ひとつ」

そう言うときの自分の声が、いつのまにか父の声に似てきたことに、最近気づきました。

先日、いちばん足の速い男の子に、あの飴色のタスキを掛けてやりました。驚いたように目を丸くするその子に、私は父と同じ顔で言ったはずです。

走るのは、楽しいだろう、と。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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