父のタスキを渡された日

父のタスキを渡された日

靴箱の整理をしていたら、いちばん奥から一本の布が出てきました。

飴色に焼けた木綿のタスキです。端のほつれは、誰かが細かな針目で縫い留めていました。

父のタスキを手に取った途端、河原を渡る風の匂いが戻ってきました。

隣を走る大きな背中も、二十年の歳月を越えて、すぐそこにありました。

私の父は、岡山の北にある小さな製材の町で、丸太を挽いて暮らす職人でした。

朝はまだ星の残る時刻に、自転車で工場へ向かいます。

帰ってくるのは日が暮れてから。肩にはいつも、おがくずが薄くのっていました。

土間には、挽きたての杉の匂いが満ちていました。

青くて、少し甘い匂いです。今でも、私にとっては父そのものです。

土間の柱には、私の背丈の傷が刻んでありました。

誕生日ごとに、父が鑿の先で、小さな線を足していきます。

若い頃の父は、近隣で名の知れた長距離走者だったそうです。

町の新春駅伝では、毎年のように区間賞をさらったと聞いています。

けれど、大きな大会に手が届く前に、膝を壊しました。

走ることを仕事にする夢は、川面に落ちた木屑のように、静かに流れていきました。

そう教えてくれたのは母です。父自身は、一度も口にしませんでした。

朝の台所には、母の味噌汁の湯気が立っていました。

家での父は、ほとんど喋りません。

夕飯の席で聞こえるのは、箸の音と柱時計の音ばかりでした。

その父が、息子の私にだけは、走ることを教えたがりました。

河原の道を並んで走るあいだだけ、別人のように喋るのです。

電柱ひとつ分の距離

初めて河原を走った朝のことも、覚えています。

六つの冬でした。霜柱が靴の下で砕けて、足がもつれ、私は転びました。

膝をすりむいた私を、父は叱りませんでした。

黙ってしゃがみ、砂を払い、傷口に息を吹きかけました。

「転ぶのは、前に出とる証拠だ」

そう言って、背中を向けました。おぶされ、ということでした。

私は父の背中の杉の匂いを吸い込みながら、家まで運ばれました。

「腕は卵を持つように。肩の力を抜け。前を見ろ、足元じゃない」

「父さん、もうしんどい」

「しんどいのは、ちゃんと走れとる証拠だ。あと電柱ひとつ」

そう言って父は、いつも電柱ひとつ分だけ、私を遠くまで連れて行きました。

普段の沈黙が少し怖かった私にとって、走る時間だけが、父をまっすぐ好きでいられる時間でした。

夏は草いきれの中を走ります。冬は霜柱を踏みしめて走ります。

春には堤の桜が散って、足元で花びらが舞いました。

秋には対岸の山が、燃えるように色づきました。

父はどの景色にも、何も言いません。

ただ、走る速さをほんの少し落として、私に景色を見せてくれていました。

「景色を覚えとけ。しんどくなったら、この道を思い出すんだ」

今でも苦しい場面になると、私はあの河原の四季を思い浮かべます。

呼吸の仕方も、父に教わりました。

「苦しくなったら、吐くことだけ考えろ。吸うのは勝手に体がやってくれる」

八つの年の元旦、父は町の新春駅伝に、最後の出場をしました。

膝はとうに壊れていました。本当は、走れる体ではなかったはずです。

それでも父は、人手の足りない地区に頼まれて、いちばん長いアンカー区間を引き受けました。

沿道で待つ私のところへ、最後の中継点でタスキを受けた父が、足を引きずって走ってきます。

顔は歪んでいます。それでも歩みは止めません。

「父さん、もういいよ。無理しないで」

思わず叫んだ私に、父は走りながら、ほんの少しだけ笑ってみせました。

ゴールで父は膝から崩れて、しばらく立てませんでした。

けれど、次の走者へタスキを渡すまで、その手は決して離れませんでした。

「渡すまでが、走者の仕事だ」

肩で息をしながら、父はそう言いました。

その言葉の本当の意味を、私が知るのは、ずっとあとのことです。

その晩、母が古い帯をほどいて縫った手製のタスキを、土間に持ち出しました。

母は炬燵の向こうで、そのタスキの端に、黙って針を動かしていました。

白い息を吐きながら、父が言いました。

「次は父さんが二区だ。お前はアンカーな」

「アンカーって、いちばん速い人がやるんでしょ」

「そうだ。だからお前だ」

めずらしく声をあげて笑う父を、私は見上げていました。

今思えば、父は終わったはずの青春を、もう一度だけ私の隣で走り直していたのかもしれません。

杉の端材のお守り

中学に上がると、私は迷わず陸上部に入りました。

手足の長さは父譲りだったようで、記録はぐんぐん伸びました。

郡の大会で、表彰台に立つこともありました。

父は仕事を抜けてでも、必ず沿道に立っていました。

製材所の作業着のまま、おがくずを肩につけて、人垣のいちばん後ろにいます。

声を張って応援はしません。腕を組んで、じっと私の走りだけを見ていました。

良い記録を出した夜は、決まって茶碗酒を傾けて、赤い顔で同じことを言いました。

「お前と一緒に、もう一度あの道を走りたかったなあ」

あの道が何を指すのか、私には分かりませんでした。

大きな大会の道なのか、膝を壊した町外れの坂なのか。

ただ、それを言うときの父の目だけは、子供心にもまぶしく見えました。

ある日曜、私は初めて父の製材所を訪ねました。

巨大な帯鋸が丸太を裂く音は、腹の底まで響きます。

父は耳当てをつけ、木目を読みながら、迷いなく刃を入れていきました。

一本の丸太から、無駄なく板を取り出していく手つきです。

レースを見つめるときと、同じ目をしていました。

「木にはな、いちばん強くなる挽き方ってのがある。それを探すのが仕事だ」

汗を拭いながら、父はそう言いました。

無口な父がいちばん多くを語るのは、走るときと、木に向かうときだけでした。

昼になると、父は薄い弁当箱を開けました。

梅干しをひとつ、箸で半分に割って、片方を私の弁当の隅にのせてくれます。

言葉はありません。ただ、割った梅干しの大きさが、ぴったり同じでした。

帰り際、父は端材を一枚くれました。

手のひらほどの杉の板で、かんなをかけたように滑らかです。

「お守りだ」

ぶっきらぼうな声でした。その板は、今も机の引き出しにあります。

二年の秋に、県大会の出場権が懸かった一戦がありました。

最終周の直線で、前を行く強豪校の選手の背中を、私はようやく捉えました。

沿道の声が遠のいて、聞こえるのは自分の足音と、心臓の音だけです。

ゴールテープを切って膝に手をついていると、作業着のままの父が駆け寄ってきました。

「見たぞ。最後の二十メートル、お前、笑ってたな」

「笑ってないよ。苦しかっただけ」

「いいや、笑ってた。走るのが好きな奴の顔だった」

父は節くれだった手で、私の頭を一度だけ、不器用に撫でました。

木を挽く手は、硬くてささくれていました。

けれど、驚くほど温かいことを、私はその時初めて知りました。

父が手渡してくれた端材のように、言葉にならない贈り物の話は、雪の夜の未送信メールや夕焼けの絵葉書にも綴っています。

言いかけた父の一言

高校に上がると、伸び続けていた記録が、嘘のように止まりました。

背が伸びて体が重くなり、足が思うように回りません。

授業にもついていけず、私はいつも苛立っていました。

勉強のことは何も言わない父が、走りのことばかり気にかけてくるのです。

それが、だんだん疎ましくなりました。

父が期待しているのを知っていたから、その顔をまっすぐ見られなかったのだと思います。

「今日はどうだった」

そう聞かれるだけで、私は黙って二階に上がるようになりました。

記録会の帰りのことです。その日も、平凡なタイムしか出ませんでした。

追試の勉強で寝不足が続き、体が言うことを聞かなかったのです。

ベッドに転がって、天井のしみばかり見ていました。

そこへ、父が入ってきました。

枕元に腰を下ろした父は、長い沈黙のあとで、低い声で切り出しました。

「お前、なんのために走ってるんだ。そんなに眉間に皺を寄せて。父さんはな、お前が……」

そこで、言葉が途切れました。

私の中で、こらえていたものが噴き出しました。

「うるさい。出ていってよ。父さんに僕の気持ちなんか分かるわけないだろ」

「父さんの顔色をうかがいながら走るの、もう嫌なんだよ。期待が重いんだ」

「全部、父さんのせいだ」

父は驚いた顔で、私を見つめました。

それから、ひどく悲しそうな顔になりました。

そして、私の頬を一度だけ強く張りました。

乾いた音が部屋に響き、頬よりも胸の奥が熱くなりました。

母が止めに入るまで、私たちは取っ組み合いをしました。

その日を境に、父との会話は途絶えました。

私はほどなく退部届を出し、靴紐を結ぶことをやめました。

走るのをやめても、成績は上がりません。苛立ちも消えません。

毎日が、ただ灰色に淀んでいきました。

靴箱の奥で、スパイクが埃をかぶっていきます。それを、見て見ぬふりで過ごしました。

ある朝、そのスパイクが、玄関の土間にそろえて置いてありました。

泥が落とされ、紐も新しく通してあります。誰が磨いたのかは、聞けませんでした。

たまに夢の中で河原を走り、目が覚めると枕が湿っていることもありました。

一度だけ、町の駅伝の日に、こっそり沿道へ行きました。

走者たちがタスキをつないでいくのを見ていると、胸の奥がちりちりと痛みました。

父の姿を目で探している自分に気づいて、逃げるようにその場を離れました。

意地になって、二度とあの河原へは出ませんでした。

雪の道を走った朝

部活を辞めて二か月ほど経った頃です。

製材所で丸太を挽いていた父が、突然その場に崩れ落ちました。

病院で見つかったのは、膵臓の癌でした。

手の施しようがないところまで、進んでいると言われました。余命は長くて数か月です。

打ちのめされたのに、私は見舞いに行けませんでした。

母に何度誘われても、あの夜の頬の熱さが、胸につかえて動けなかったのです。

職場と家と病院を行き来して、母は日に日にやつれていきました。

その背中を見ると、苦労をかける父に腹が立つことさえありました。

そんな自分が嫌で、夜は布団の中で歯を食いしばっていました。

ある朝、台所で母が、独り言のようにこぼしました。

「お父さんね、あんたが高校でも陸上を続けとること、ほんとに嬉しそうだったんよ」

「記録が伸びんで苦しんどる頃は、お父さんも一緒に眠れん夜を過ごしとった」

「あの喧嘩のあと、あんたがぱったり走らんようになっても、何にも言わんかったやろ」

「あの人なりに、こらえとったんよ」

母は味噌汁の鍋に向き直り、それきり黙りました。

その話は、小さな棘のように胸に残りました。

学校へ行っても、棘は痛みつづけました。

休み時間に、友達が何気なくこぼした一言が、決定的でした。

「あの先生のせいでさ、俺、数学が嫌いになったわ」

その瞬間、私は気づいてしまいました。

あの夜、私は父に何を言ったのか。

誰よりも走るのが好きで、誰と走るよりも私と走るのが好きだった父に。

父さんのせいで、走るのが嫌いになった、と言ったのです。

授業を放り出して、病院へ走りました。

前の夜の雪が道に残っていて、何度も足を取られかけました。

製材所の前を通ると、帯鋸の音がしません。あの町でいちばん大きな音が、止まっていました。

久しく走っていなかった心臓は、肋骨を破りそうなほど鳴ります。

冷たい空気で、肺が焼けるように痛みました。

それでも、止まりませんでした。

吐くことだけ考えろ。吸うのは体がやってくれる。

父の声が、足を前へ送り出してくれました。

病室の父は、見違えるほど小さくなっていました。

窓際には、見舞いの花ではなく、杉の端材が一本立てかけてありました。

消毒液の匂いに混じって、かすかに杉が香りました。

骨ばった体から何本もの管が伸びて、薄い胸が苦しそうに上下しています。

肩で息をする私に気づくと、父はかすれた声で言いました。

「走って、来たのか」

私が頷くと、父は「そうか」とだけ言いました。

目尻に、深い皺が寄りました。

良い記録を出したあの日と、まったく同じ顔でした。

管につながれてもなお、息子の走りを喜ぶ顔だけは、少しも変わっていなかったのです。

「父さん、ごめん。あの日のこと、ずっと――」

言いかけた私を、父は弱く首を振って遮りました。

「いいんだ。お前が来てくれた。それで、いい」

それから、枕元の引き出しに手を伸ばしました。

皺だらけの布が出てきました。

震える手で、父はそれを私の手に握らせました。

子供の頃に二人で掛けた、あの手製のタスキでした。

「走るのは……まだ、好きか」

私は答えられませんでした。かわりに、その硬い手を、両手で包み込みました。

父は、笑っていました。

手のひらに残る父のタスキ

数日後、父は静かに息を引き取りました。

最期に握ってくれた手の硬さと温もりは、今も手のひらに残っています。

いくつもの板を磨き上げてきた、職人の手でした。

掌の中央には、帯鋸で切った古い傷が、白い線になって残っていました。

葬儀には、製材所の仲間が大勢来てくれました。

その中の一人、増田さんという年配の職人が、帰り際に私を呼び止めました。

「これ、お前さんに渡しといてくれと、頼まれとった」

黒い表紙の、作業日誌でした。

めくってみると、木の種類や寸法の書き込みの余白に、小さな字で数字が並んでいます。

大会の日付と、私の種目、そしてタイムでした。

中学一年の郡大会から、高校一年の記録会まで。

平凡なタイムしか出せなかった、あの日の欄にもありました。

その横に、鉛筆で一言だけ添えてあります。

「よう走った」

退部届を出した日の行には、何も書かれていません。

ただ、そのページの角だけが、何度もめくられて柔らかくなっていました。

葬儀の慌ただしさが過ぎて、部屋に戻ると、机の上に父のタスキが置いてありました。

広げてみると、褪せた布の端に、母の細かな針目で名前が縫い取られています。

父の名と、私の名。二つが並んで刺してありました。

どちらも、ほどけかけては結び直した跡があります。何度も手を入れた跡でした。

そのとき、襖の向こうに母が立っていました。

「あの晩ね、お父さんは『走らんでもいい』て言うつもりやったんよ」

私は、顔を上げました。

「期待が重いんなら、タスキは置いてええ。走りたくなった日に、また拾えばええって」

母はそう言って、台所へ戻っていきました。

渡すまでが走者の仕事。あの元旦の言葉は、受け取るかどうかを私に委ねる、という意味でした。

雪の解けた春、私はまた河原の道を走りはじめました。

木漏れ日も、草いきれも、ゆるやかな坂も、記憶のままです。

違うのは、隣に父がいないことだけでした。

けれど走り出すと、肩のあたりに父の気配があります。

あと電柱ひとつ。もうひとつ。

今では私が、町の小学生に走り方を教えています。

「腕は卵を持つように。肩の力を抜いて。前を見て」

「コーチ、もうしんどい」

「しんどいのは、ちゃんと走れとる証拠だ。あと電柱ひとつ」

自分の声が、いつのまにか父の声に似てきました。

先日、いちばん足の速い男の子に、父のタスキを掛けてやりました。

目を丸くするその子に、私は父と同じ顔で言ったはずです。

走るのは、楽しいだろう、と。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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