木のスロープを毎月削る人
事故で足が動かなくなった私が通れる店は、なぜか毎年少しずつ増えていきました。商店街の入口にはめられた木のスロープは、どれも手前の角の落とし方が同じです。乾物屋の…
事故で足が動かなくなった私が通れる店は、なぜか毎年少しずつ増えていきました。商店街の入口にはめられた木のスロープは、どれも手前の角の落とし方が同じです。乾物屋の…
高知・四万十の川漁師の家に生まれた私が、二十七歳ではじめて知った自分の出生の話です。窪川の祖母の家の大黒柱に二本ずつ並んでいた鉛筆の傷。その薄い三本を刻んでいた…
二十二歳の老犬を連れて動物病院へ通う大谷さんは、診察のたびに首輪を外して自分の手首に巻く人でした。小雨の夕方にタクシーを断り、歩いて帰ったその背中の意味を、私は…
香川・小豆島の全校八十人ほどの中学校で、一年ぶりに退院して戻ってくる同級生のために、弟が誰にも言わずに丸坊主になりました。翌朝の教室は坊主だらけ。島にたった一軒…
岡山・蒜山高原で酪農を営んでいた母は、牛舎のラジオを二十一年ものあいだ、ただの一度も消しませんでした。目を潰されて捨てられ、声を失った猫ナギ。十一年帰らなかった…
県外への進学を、父だけが最後まで大反対しました。理由は一度も言ってくれません。勝手に決めて出て行った娘が、父の車のダッシュボードから折りたたんだ地図を見つけたの…
新潟の町の裏で拾った、耳の折れた白い猫。首には大きなしこりがあり、余命は一ヶ月と告げられた。その子は毎朝きまって五時の座布団に座り、戸の外をじっと見ていた。五週…
寂しいときや困ったときだけ、私は決まって良い香りに包まれました。二十歳の夏、取り壊しの決まった蔵で一番奥の桐の長持を開けると、同じ香りが顔を包んだのです。着物の…
いしばし商店の棚には、丸い字の値札と、角ばった値札の二種類が並んでいました。奥さんが入院した週、ご主人はラジオの会社対抗クイズで九十八点と答えます。残りの二点が…
諏訪の団地で二人の男の子を育てています。弟とは同じ小学校へ行けないと伝えた日、兄は部屋に籠り、三十分後に出てきて、たった一つの約束をさせました。その春から続いた…
金融屋をやっていた三年前の夏、取り立てに行った大牟田の文化住宅に、五歳と三歳の兄妹だけが残されていました。裏庭の破れた金網の先にあったのは、小学校の池です。池の…
二十歳の夏、フランクフルト行きの機内で隣に座ったアメリカ人の老人は、四つ折りの紙を膝の上で一度だけ開きました。一九四四年にこの空へ爆弾を落としたと語る人が、二十…
大分・日田で下駄の台を削っていた父は、三つになる娘が掛け紙で折った空っぽの箱を、二十八年ものあいだずっと枕元に置き続けています。「キッスをいっぱい入れたの」と言…
秋田・大館の曲げわっぱ工房で、妻は樺縫いの最後のひと針だけを、毎晩かならず翌朝へ残していました。妻を失った冬、四つになる娘の一言と、老いた職人の静かな証言が、そ…
徳島の藍師の家に生まれた私は、母が誕生日に必ず作るかきまぜを手抜きだと思っていました。母を見送ったあと、古い飯台の底に刻まれた二百八十七本の線が、四十年の沈黙の…