弟が丸坊主になって帰ってきたのは、十一月の水曜日でした。
玄関で靴を脱いでいる背中を見て、私は本気で笑いました。
後頭部だけ少し青くて、耳の上に刈り残しがありました。
「失恋でもしたん」
そう訊いた私に、弟は靴の踵をそろえながら、面倒くさそうに答えました。
「沙紀が、あした来るけん」
それだけでした。
島に床屋は一軒しかない
私が育ったのは、瀬戸内の小豆島です。
港から坂を上がったところに中学校があって、全校で八十人ほどしかいませんでした。
クラスは学年に一つだけ。
小学校から中学まで、顔ぶれはほとんど変わりません。
床屋も、一軒しかありませんでした。
港の角の、青と赤のねじり看板が回っている「久保理髪店」です。
島の子は、みんなあの椅子で髪を切って育ちます。
久保さんはそのころ六十代半ばで、耳が少し遠く、話しかけると必ず一拍おいて返事をしました。
※
久保さんの店には、独特の匂いがありました。
整髪料と、蒸しタオルと、それから醤油蔵の匂いです。
店の裏手が醤油の蔵で、夏になると、店の中まで甘い匂いが入ってきました。
床には、いつも誰かの髪が落ちていました。
久保さんはそれを、営業中でも小まめに掃きました。
掃いた髪を、久保さんは必ず新聞紙に包んで、店の奥へ持って行きました。
ゴミ箱には、決して入れませんでした。
私はそれを、島の年寄りの几帳面さだと思っていました。
沙紀ちゃんが帰ってくる
沙紀ちゃんは、弟と小学校からの同級生でした。
うちにもよく来る子で、玄関で靴をそろえるのがやたら上手な子でした。
中学一年の秋に体調を崩して、高松の病院に入りました。
そのまま一年、島には戻りませんでした。
薬の副作用で、髪が全部抜けてしまったのだと、母が近所から聞いてきました。
※
沙紀ちゃんのお母さんが、夏に一度だけ、うちに寄ったことがあります。
フェリーの時間まで、玄関先で母と立ち話をしていました。
「学校のこと、聞くんです」
「行きたい、行きたい、て言うんですけど」
そのあとに続いた言葉を、私は襖の内側で聞きました。
「女の子が丸坊主じゃ、恥ずかしいけん、って」
その日、弟は部屋にいました。
襖の向こうで、テレビの音を消したのを覚えています。
母は、弟の坊主頭を見た晩、何も訊きませんでした。
訊かないまま、夕飯のあとで台所に立って、しばらく戻ってきませんでした。
私が様子を見に行くと、母は流しの前で、湯呑みを一つずつ拭いていました。
拭き終わった湯呑みを、また拭いていました。
「亮、耳が寒かろ」
母はそれだけ言って、翌朝、こっそり弟の鞄にニット帽を入れました。
帽子は、その日の夕方、たたまれたまま鞄から出てきました。
母はそれを見て、黙って簞笥にしまいました。
※
私は、何もしなかった
正直に書きます。
あの十一月、私は何もしませんでした。
島の高校の一年生で、髪を伸ばしはじめたばかりでした。
三年経ったら島を出るのだと、そればかり考えていました。
沙紀ちゃんが入院していることは知っていました。
お母さんの立ち話も、襖の内側で聞いていました。
それでも私は、鏡の前で前髪を気にしていました。
※
弟が坊主で帰ってきた晩、私は自分の髪を触りながら、風呂の順番を待っていました。
先に入った弟が、頭を洗う時間が異様に短くて、それがなぜだか腹立たしかったのを覚えています。
次の日、教室じゅうが坊主になったと聞いても、私は「へえ」としか言いませんでした。
本当は、そのとき胸のあたりが冷たくなっていました。
けれど私は、高校でその話を誰にもしませんでした。
自分の学年には、関係のないことだと思い込むことにしたのです。
※
男の髪は使えん
あとから聞いた話です。
弟は十一月の水曜の放課後、久保理髪店の戸を開けて、こう言ったそうです。
「坊主にしてください」
久保さんは、いつものように一拍おいてから、椅子を回しました。
それから、バリカンを持った手を止めて、こう訊いたそうです。
「なんでな」
弟は、沙紀ちゃんの名前を出しました。
女が丸坊主じゃ恥ずかしいと言っているのなら、丸坊主がほかにもおればいい、と。
野球部はもともと坊主だから、野球部じゃない坊主がおったほうがいい、と。
※
久保さんは、しばらく黙っていたそうです。
それから、バリカンのスイッチを入れずに、こう言いました。
「男の髪は、あの子には使えんのじゃ」
弟には、その意味が分かりませんでした。
訊き返しても、久保さんは答えませんでした。
代わりに、こう言いました。
「使えんぶんは、数で並べ」
そして、バリカンを入れました。
弟の耳の上の刈り残しには、理由がありました。
あの水曜、久保さんは夕方から夜まで、二十人以上の頭を刈っています。
手が疲れて、最後のほうはバリカンの角度が甘くなったのだそうです。
弟は、順番で言えばかなり早いほうでした。
それでも刈り残しがあったのは、久保さんが途中で一度、手を止めたからだと思います。
弟は、そのとき久保さんが鏡越しに自分を見ていた、と言っていました。
「なんか、じっと見よった」
久保さんは、たぶん、弟に沙紀ちゃんの名前を言わせたところで、何かを決めたのです。
※
翌日の教室
翌朝、弟は坊主頭で家を出ました。
十一月の島の風は、坂の上で正面から吹きます。
耳が痛い、と弟は何度も言っていました。
母は「なんちゅう頭ね」と笑いながら、玄関でニット帽を渡そうとしました。
弟はそれを受け取らずに出ていきました。
※
その日の夕方、弟は帰ってくるなり、玄関でこう言いました。
「同じこと考えとった奴が、山ほどおった」
教室の男子は、ほとんど全員が坊主か、それに近い頭になっていたそうです。
いつも髪型に一番うるさかった子も、生徒会長も、茶色くしていた子も。
そして担任の先生まで、青い頭で教壇に立っていたそうです。
誰も、示し合わせてはいませんでした。
少なくとも、生徒たちの側では。
担任は、本土から来て二年目の若い先生でした。
島の言葉が分からず、生徒によくからかわれていた人です。
その先生も、あの水曜の夜、久保さんの店の硝子戸を開けていました。
あとで先生は、職員室でこう言ったそうです。
「僕は、あの子らに教えることが、まだ何もないんです」
先生は三年で島を出て、いまは高松の中学にいます。
去年、島の同窓会に来て、いちばん最初に久保理髪店へ行ったと聞きました。
※
女の子たちの髪
驚いたのは、女子でした。
沙紀ちゃんと仲の良かった子たちが、揃ってベリーショートになっていたのです。
肩まであった子も、腰まで伸ばしていた子も。
そして一人、完全に剃った子がいました。
陸上部の、川原さんという子です。
川原さんは何も言わずに教室に入ってきて、いつもの席に座ったそうです。
※
沙紀ちゃんは、その教室の戸を開けて、立ち止まりました。
ニット帽をかぶっていました。
そして、笑い出したそうです。
大声で、椅子に手をついて、しばらく笑い続けたそうです。
笑いながら、泣いていたそうです。
「ありがとう」
「ありがとう」
それだけを、何度も言ったそうです。
川原さんは、陸上の大会が三週間後に控えていました。
県の駅伝の予選です。
丸刈りで走ることに、本人は何のためらいもなかったそうです。
ただ、お母さんが泣いた、という話は、あとから聞きました。
髪の長い子で、小さいころから毎朝、お母さんが結っていたのだそうです。
川原さんは、切った髪を自分で持ち帰って、家の仏壇の横に置きました。
「久保さんとこに、あとで持ってく」
そう言ったそうです。
誰も、そのときは意味が分かりませんでした。
※
水曜日に灯りがついていた
久保理髪店は、三十年ずっと、水曜日が休みでした。
島の人間なら、誰でも知っていることです。
それなのに、あの週だけ、水曜の夕方から夜まで、店に灯りがついていました。
私は塾の帰りに、その前を通りました。
硝子戸の内側に、子どもの背中がいくつも並んでいるのが見えました。
順番を待っているのだと、そのときは思いませんでした。
ただ、水曜なのにおかしいな、と思っただけです。
※
あとで分かったことがあります。
久保さんは、あの日に来た一人ひとりに、同じことを言っていました。
「なんでな」と訊いて、理由を言わせて、それから刈った。
誰にも、ほかの誰が来たかは言いませんでした。
だから子どもたちは、翌朝まで、自分だけがやったつもりでいたのです。
担任の先生の名前も、その日の帳面に並んでいました。
奥の棚
久保さんが、切った髪を新聞紙に包んで奥へ運ぶ理由を、私は高校を出るまで知りませんでした。
成人式の日、島に戻った同級生たちは、みんな一度は港の角を通ります。
私も振袖のまま、久保理髪店の前で立ち止まりました。
硝子戸を開けると、久保さんは椅子の張り替えの布を膝に載せて座っていました。
「大きゅうなったなあ」
一拍おいて、そう言われました。
私は、あの十一月に自分が何もしなかったことを、その場で話しました。
言ってしまってから、なぜ言ったのか分かりませんでした。
久保さんは、布を畳みながら、こう言いました。
「あんたのは、まだ棚にあるけんな」
※
知ったのは、成人式の帰り、店に寄ったときです。
久保さんが、奥の戸を開けたままにしていたのです。
そこには、木の棚がありました。
棚には、名前を書いた紙袋が、いくつも並んでいました。
ひらがなの名前も、漢字の名前もありました。
私の名前の袋も、ありました。
※
久保さんは、長さの足りる髪を、本土の工房へ送っていたのです。
医療用のかつらを作るところでした。
三十年、島の子の髪を、少しずつ集めていました。
本人にも、親にも、言わずに。
「言うたら、切るのに理由がついてしまうけん」
久保さんはそう言いました。
棚の紙袋には、日付も書いてありました。
いちばん古いものは、昭和五十年代のものでした。
紙が茶色くなって、名前の字が滲んでいました。
送るには長さが足りない髪も、久保さんは捨てずに置いていました。
足りない髪は、いつか誰かの足りるぶんと束ねるのだそうです。
「一人ぶんでは、かつらにはならんのじゃ」
久保さんはそう言いました。
「何十人か、寄せてはじめて、ひとつになる」
※
半年後の紙袋
沙紀ちゃんのところに、かつらが届いたのは、あの日から半年ほどあとです。
夏のはじめでした。
沙紀ちゃんは、それを一度、断ったそうです。
「借り物みたいやけん」
そう言って、箱を開けずに、しばらく机の上に置いていたそうです。
※
沙紀ちゃんが箱を開けなかった半年のことを、私はあとになって想像しました。
教室じゅうが坊主になったあの日、あの子は笑って泣いて、そのあと家に帰っています。
帰ってから、たぶん、誰も見ていないところで、鏡を見ています。
教室に坊主が並んでも、あの子の髪が戻るわけではありません。
優しさをもらったあとに残るのは、ときどき、もらったぶんの重さです。
だから「借り物みたいやけん」という言葉は、拒絶ではなかったのだと思います。
※
それを聞いた久保さんが、店から歩いて、沙紀ちゃんの家まで行きました。
港から沙紀ちゃんの家までは、坂を二つ越えます。
耳の遠い、六十を越えた人が、その坂を上がりました。
そして、玄関先で、たった一言だけ言って帰ったそうです。
「それは、あんたのクラスの髪じゃ」
あの子がかぶっていた髪は、教室じゅうの髪でした。
※
沙紀ちゃんは、それをかぶって、二学期の始業式に出ました。
誰も、何も言いませんでした。
男子たちは、そのころにはもう髪が伸びていて、ふつうの頭に戻っていました。
川原さんだけが、まだ短いままでした。
島の冬は、風が音を立てて坂を上ってきます。
あの年の十一月、坊主頭の子どもたちが、みんなその風のなかを歩いて登校しました。
誰もニット帽をかぶらなかったそうです。
かぶってしまえば、坊主にした意味がなくなるからです。
耳が真っ赤になった子が並んでいる教室を、私は見ていません。
見ていないのに、いまでもはっきり思い浮かべることができます。
※
私が髪を切った日
私が久保理髪店の椅子に座ったのは、成人式から二年後の春です。
就職が決まって、島を出る前の週でした。
腰まであった髪を、肩より上まで切ってもらいました。
久保さんは何も訊きませんでした。
鋏の音だけが、店の中で規則正しく鳴っていました。
切り終わったあと、久保さんは床の髪を掃いて、新聞紙に包みました。
そして、いつものように奥へ持って行きました。
私は鏡のなかで、その背中を見ていました。
十一月の遅れを、十六か月かけて、やっと少しだけ取り返した気がしました。
※
久保さんの娘
久保さんが髪を集めはじめたのには、理由がありました。
娘さんの智恵さんが、十代のころ、本土の病院に長くいたのです。
そのころ島には、かつらというものが手に入る店がありませんでした。
智恵さんは、退院してからも、しばらく島に帰ってこなかったそうです。
人に会うのが怖かったのだと、久保さんは言いました。
※
智恵さんは、いま大阪で美容師をしています。
五十を過ぎて、店を二つ持っているそうです。
数年前、久保さんの店の椅子を張り替えに、島へ戻ってきました。
そのとき私は、港でその人とすれ違いました。
髪の長い、姿勢のいい人でした。
智恵さんは、大阪の店で、いまも髪の寄付を受け付けているそうです。
受付の紙に、島の住所を書いていく人がときどきいると聞きました。
小豆島から出て行った子たちが、大人になって、その店を探して行くのだそうです。
誰かに言われたわけではありません。
ただ、髪を切るときに、あの新聞紙の音を思い出すのだと思います。
※
いまも新聞紙に包む
久保さんは今年、八十七になります。
耳はさらに遠くなって、返事までの一拍が二拍になりました。
それでも、水曜以外は店を開けています。
私は去年、自分の子の髪を切ってもらいに行きました。
久保さんは子どもの頭を押さえながら、いつものように床を掃きました。
そして、掃いた髪を新聞紙に包んで、奥へ持って行きました。
※
沙紀ちゃんは、いま島の診療所で看護師をしています。
髪は、肩より少し長いくらいです。
先日、待合で会ったとき、彼女は私にこう言いました。
「うち、いまでも髪を切るとき、久保さんとこにしか行かんのよ」
理由は訊きませんでした。
訊かなくても、あの奥の棚に、彼女の名前の紙袋が並んでいることは分かります。
※
弟は、あれからずっと坊主のままです。
四十を前にして、そろそろ坊主でなくても目立たない頭になってきました。
本人は「楽やけん」としか言いません。
けれど正月に帰ってきたとき、久保さんの店の前で一度立ち止まって、看板が回っているのを、しばらく見ていました。
私はその背中に、何も声をかけませんでした。
あの日の玄関で、笑ってしまった代わりのつもりです。
※
誰かのために黙って動いた人の話としては、彼は私の名前を履いていたや、転校生の父が歌い出した日も、教室の空気ごと思い出させてくれる一編です。
島や町の大人が子どもを支える物語としては、峠の地蔵と金平糖も、あわせてお読みいただけたら嬉しく思います。