丸坊主だらけの教室と床屋の紙袋

弟が丸坊主になって帰ってきたのは、十一月の水曜日でした。

玄関で靴を脱いでいる背中を見て、私は本気で笑いました。

後頭部だけ少し青くて、耳の上に刈り残しがありました。

「失恋でもしたん」

そう訊いた私に、弟は靴の踵をそろえながら、面倒くさそうに答えました。

「沙紀が、あした来るけん」

それだけでした。

島に床屋は一軒しかない

私が育ったのは、瀬戸内の小豆島です。

港から坂を上がったところに中学校があって、全校で八十人ほどしかいませんでした。

クラスは学年に一つだけ。

小学校から中学まで、顔ぶれはほとんど変わりません。

床屋も、一軒しかありませんでした。

港の角の、青と赤のねじり看板が回っている「久保理髪店」です。

島の子は、みんなあの椅子で髪を切って育ちます。

久保さんはそのころ六十代半ばで、耳が少し遠く、話しかけると必ず一拍おいて返事をしました。

久保さんの店には、独特の匂いがありました。

整髪料と、蒸しタオルと、それから醤油蔵の匂いです。

店の裏手が醤油の蔵で、夏になると、店の中まで甘い匂いが入ってきました。

床には、いつも誰かの髪が落ちていました。

久保さんはそれを、営業中でも小まめに掃きました。

掃いた髪を、久保さんは必ず新聞紙に包んで、店の奥へ持って行きました。

ゴミ箱には、決して入れませんでした。

私はそれを、島の年寄りの几帳面さだと思っていました。

沙紀ちゃんが帰ってくる

沙紀ちゃんは、弟と小学校からの同級生でした。

うちにもよく来る子で、玄関で靴をそろえるのがやたら上手な子でした。

中学一年の秋に体調を崩して、高松の病院に入りました。

そのまま一年、島には戻りませんでした。

薬の副作用で、髪が全部抜けてしまったのだと、母が近所から聞いてきました。

沙紀ちゃんのお母さんが、夏に一度だけ、うちに寄ったことがあります。

フェリーの時間まで、玄関先で母と立ち話をしていました。

「学校のこと、聞くんです」

「行きたい、行きたい、て言うんですけど」

そのあとに続いた言葉を、私は襖の内側で聞きました。

「女の子が丸坊主じゃ、恥ずかしいけん、って」

その日、弟は部屋にいました。

襖の向こうで、テレビの音を消したのを覚えています。

母は、弟の坊主頭を見た晩、何も訊きませんでした。

訊かないまま、夕飯のあとで台所に立って、しばらく戻ってきませんでした。

私が様子を見に行くと、母は流しの前で、湯呑みを一つずつ拭いていました。

拭き終わった湯呑みを、また拭いていました。

「亮、耳が寒かろ」

母はそれだけ言って、翌朝、こっそり弟の鞄にニット帽を入れました。

帽子は、その日の夕方、たたまれたまま鞄から出てきました。

母はそれを見て、黙って簞笥にしまいました。

私は、何もしなかった

正直に書きます。

あの十一月、私は何もしませんでした。

島の高校の一年生で、髪を伸ばしはじめたばかりでした。

三年経ったら島を出るのだと、そればかり考えていました。

沙紀ちゃんが入院していることは知っていました。

お母さんの立ち話も、襖の内側で聞いていました。

それでも私は、鏡の前で前髪を気にしていました。

弟が坊主で帰ってきた晩、私は自分の髪を触りながら、風呂の順番を待っていました。

先に入った弟が、頭を洗う時間が異様に短くて、それがなぜだか腹立たしかったのを覚えています。

次の日、教室じゅうが坊主になったと聞いても、私は「へえ」としか言いませんでした。

本当は、そのとき胸のあたりが冷たくなっていました。

けれど私は、高校でその話を誰にもしませんでした。

自分の学年には、関係のないことだと思い込むことにしたのです。

男の髪は使えん

あとから聞いた話です。

弟は十一月の水曜の放課後、久保理髪店の戸を開けて、こう言ったそうです。

「坊主にしてください」

久保さんは、いつものように一拍おいてから、椅子を回しました。

それから、バリカンを持った手を止めて、こう訊いたそうです。

「なんでな」

弟は、沙紀ちゃんの名前を出しました。

女が丸坊主じゃ恥ずかしいと言っているのなら、丸坊主がほかにもおればいい、と。

野球部はもともと坊主だから、野球部じゃない坊主がおったほうがいい、と。

久保さんは、しばらく黙っていたそうです。

それから、バリカンのスイッチを入れずに、こう言いました。

「男の髪は、あの子には使えんのじゃ」

弟には、その意味が分かりませんでした。

訊き返しても、久保さんは答えませんでした。

代わりに、こう言いました。

「使えんぶんは、数で並べ」

そして、バリカンを入れました。

弟の耳の上の刈り残しには、理由がありました。

あの水曜、久保さんは夕方から夜まで、二十人以上の頭を刈っています。

手が疲れて、最後のほうはバリカンの角度が甘くなったのだそうです。

弟は、順番で言えばかなり早いほうでした。

それでも刈り残しがあったのは、久保さんが途中で一度、手を止めたからだと思います。

弟は、そのとき久保さんが鏡越しに自分を見ていた、と言っていました。

「なんか、じっと見よった」

久保さんは、たぶん、弟に沙紀ちゃんの名前を言わせたところで、何かを決めたのです。

翌日の教室

翌朝、弟は坊主頭で家を出ました。

十一月の島の風は、坂の上で正面から吹きます。

耳が痛い、と弟は何度も言っていました。

母は「なんちゅう頭ね」と笑いながら、玄関でニット帽を渡そうとしました。

弟はそれを受け取らずに出ていきました。

その日の夕方、弟は帰ってくるなり、玄関でこう言いました。

「同じこと考えとった奴が、山ほどおった」

教室の男子は、ほとんど全員が坊主か、それに近い頭になっていたそうです。

いつも髪型に一番うるさかった子も、生徒会長も、茶色くしていた子も。

そして担任の先生まで、青い頭で教壇に立っていたそうです。

誰も、示し合わせてはいませんでした。

少なくとも、生徒たちの側では。

担任は、本土から来て二年目の若い先生でした。

島の言葉が分からず、生徒によくからかわれていた人です。

その先生も、あの水曜の夜、久保さんの店の硝子戸を開けていました。

あとで先生は、職員室でこう言ったそうです。

「僕は、あの子らに教えることが、まだ何もないんです」

先生は三年で島を出て、いまは高松の中学にいます。

去年、島の同窓会に来て、いちばん最初に久保理髪店へ行ったと聞きました。

女の子たちの髪

驚いたのは、女子でした。

沙紀ちゃんと仲の良かった子たちが、揃ってベリーショートになっていたのです。

肩まであった子も、腰まで伸ばしていた子も。

そして一人、完全に剃った子がいました。

陸上部の、川原さんという子です。

川原さんは何も言わずに教室に入ってきて、いつもの席に座ったそうです。

沙紀ちゃんは、その教室の戸を開けて、立ち止まりました。

ニット帽をかぶっていました。

そして、笑い出したそうです。

大声で、椅子に手をついて、しばらく笑い続けたそうです。

笑いながら、泣いていたそうです。

「ありがとう」

「ありがとう」

それだけを、何度も言ったそうです。

川原さんは、陸上の大会が三週間後に控えていました。

県の駅伝の予選です。

丸刈りで走ることに、本人は何のためらいもなかったそうです。

ただ、お母さんが泣いた、という話は、あとから聞きました。

髪の長い子で、小さいころから毎朝、お母さんが結っていたのだそうです。

川原さんは、切った髪を自分で持ち帰って、家の仏壇の横に置きました。

「久保さんとこに、あとで持ってく」

そう言ったそうです。

誰も、そのときは意味が分かりませんでした。

水曜日に灯りがついていた

久保理髪店は、三十年ずっと、水曜日が休みでした。

島の人間なら、誰でも知っていることです。

それなのに、あの週だけ、水曜の夕方から夜まで、店に灯りがついていました。

私は塾の帰りに、その前を通りました。

硝子戸の内側に、子どもの背中がいくつも並んでいるのが見えました。

順番を待っているのだと、そのときは思いませんでした。

ただ、水曜なのにおかしいな、と思っただけです。

あとで分かったことがあります。

久保さんは、あの日に来た一人ひとりに、同じことを言っていました。

「なんでな」と訊いて、理由を言わせて、それから刈った。

誰にも、ほかの誰が来たかは言いませんでした。

だから子どもたちは、翌朝まで、自分だけがやったつもりでいたのです。

担任の先生の名前も、その日の帳面に並んでいました。

奥の棚

久保さんが、切った髪を新聞紙に包んで奥へ運ぶ理由を、私は高校を出るまで知りませんでした。

成人式の日、島に戻った同級生たちは、みんな一度は港の角を通ります。

私も振袖のまま、久保理髪店の前で立ち止まりました。

硝子戸を開けると、久保さんは椅子の張り替えの布を膝に載せて座っていました。

「大きゅうなったなあ」

一拍おいて、そう言われました。

私は、あの十一月に自分が何もしなかったことを、その場で話しました。

言ってしまってから、なぜ言ったのか分かりませんでした。

久保さんは、布を畳みながら、こう言いました。

「あんたのは、まだ棚にあるけんな」

知ったのは、成人式の帰り、店に寄ったときです。

久保さんが、奥の戸を開けたままにしていたのです。

そこには、木の棚がありました。

棚には、名前を書いた紙袋が、いくつも並んでいました。

ひらがなの名前も、漢字の名前もありました。

私の名前の袋も、ありました。

久保さんは、長さの足りる髪を、本土の工房へ送っていたのです。

医療用のかつらを作るところでした。

三十年、島の子の髪を、少しずつ集めていました。

本人にも、親にも、言わずに。

「言うたら、切るのに理由がついてしまうけん」

久保さんはそう言いました。

棚の紙袋には、日付も書いてありました。

いちばん古いものは、昭和五十年代のものでした。

紙が茶色くなって、名前の字が滲んでいました。

送るには長さが足りない髪も、久保さんは捨てずに置いていました。

足りない髪は、いつか誰かの足りるぶんと束ねるのだそうです。

「一人ぶんでは、かつらにはならんのじゃ」

久保さんはそう言いました。

「何十人か、寄せてはじめて、ひとつになる」

半年後の紙袋

沙紀ちゃんのところに、かつらが届いたのは、あの日から半年ほどあとです。

夏のはじめでした。

沙紀ちゃんは、それを一度、断ったそうです。

「借り物みたいやけん」

そう言って、箱を開けずに、しばらく机の上に置いていたそうです。

沙紀ちゃんが箱を開けなかった半年のことを、私はあとになって想像しました。

教室じゅうが坊主になったあの日、あの子は笑って泣いて、そのあと家に帰っています。

帰ってから、たぶん、誰も見ていないところで、鏡を見ています。

教室に坊主が並んでも、あの子の髪が戻るわけではありません。

優しさをもらったあとに残るのは、ときどき、もらったぶんの重さです。

だから「借り物みたいやけん」という言葉は、拒絶ではなかったのだと思います。

それを聞いた久保さんが、店から歩いて、沙紀ちゃんの家まで行きました。

港から沙紀ちゃんの家までは、坂を二つ越えます。

耳の遠い、六十を越えた人が、その坂を上がりました。

そして、玄関先で、たった一言だけ言って帰ったそうです。

「それは、あんたのクラスの髪じゃ」

あの子がかぶっていた髪は、教室じゅうの髪でした。

沙紀ちゃんは、それをかぶって、二学期の始業式に出ました。

誰も、何も言いませんでした。

男子たちは、そのころにはもう髪が伸びていて、ふつうの頭に戻っていました。

川原さんだけが、まだ短いままでした。

島の冬は、風が音を立てて坂を上ってきます。

あの年の十一月、坊主頭の子どもたちが、みんなその風のなかを歩いて登校しました。

誰もニット帽をかぶらなかったそうです。

かぶってしまえば、坊主にした意味がなくなるからです。

耳が真っ赤になった子が並んでいる教室を、私は見ていません。

見ていないのに、いまでもはっきり思い浮かべることができます。

私が髪を切った日

私が久保理髪店の椅子に座ったのは、成人式から二年後の春です。

就職が決まって、島を出る前の週でした。

腰まであった髪を、肩より上まで切ってもらいました。

久保さんは何も訊きませんでした。

鋏の音だけが、店の中で規則正しく鳴っていました。

切り終わったあと、久保さんは床の髪を掃いて、新聞紙に包みました。

そして、いつものように奥へ持って行きました。

私は鏡のなかで、その背中を見ていました。

十一月の遅れを、十六か月かけて、やっと少しだけ取り返した気がしました。

久保さんの娘

久保さんが髪を集めはじめたのには、理由がありました。

娘さんの智恵さんが、十代のころ、本土の病院に長くいたのです。

そのころ島には、かつらというものが手に入る店がありませんでした。

智恵さんは、退院してからも、しばらく島に帰ってこなかったそうです。

人に会うのが怖かったのだと、久保さんは言いました。

智恵さんは、いま大阪で美容師をしています。

五十を過ぎて、店を二つ持っているそうです。

数年前、久保さんの店の椅子を張り替えに、島へ戻ってきました。

そのとき私は、港でその人とすれ違いました。

髪の長い、姿勢のいい人でした。

智恵さんは、大阪の店で、いまも髪の寄付を受け付けているそうです。

受付の紙に、島の住所を書いていく人がときどきいると聞きました。

小豆島から出て行った子たちが、大人になって、その店を探して行くのだそうです。

誰かに言われたわけではありません。

ただ、髪を切るときに、あの新聞紙の音を思い出すのだと思います。

いまも新聞紙に包む

久保さんは今年、八十七になります。

耳はさらに遠くなって、返事までの一拍が二拍になりました。

それでも、水曜以外は店を開けています。

私は去年、自分の子の髪を切ってもらいに行きました。

久保さんは子どもの頭を押さえながら、いつものように床を掃きました。

そして、掃いた髪を新聞紙に包んで、奥へ持って行きました。

沙紀ちゃんは、いま島の診療所で看護師をしています。

髪は、肩より少し長いくらいです。

先日、待合で会ったとき、彼女は私にこう言いました。

「うち、いまでも髪を切るとき、久保さんとこにしか行かんのよ」

理由は訊きませんでした。

訊かなくても、あの奥の棚に、彼女の名前の紙袋が並んでいることは分かります。

弟は、あれからずっと坊主のままです。

四十を前にして、そろそろ坊主でなくても目立たない頭になってきました。

本人は「楽やけん」としか言いません。

けれど正月に帰ってきたとき、久保さんの店の前で一度立ち止まって、看板が回っているのを、しばらく見ていました。

私はその背中に、何も声をかけませんでした。

あの日の玄関で、笑ってしまった代わりのつもりです。

誰かのために黙って動いた人の話としては、彼は私の名前を履いていたや、転校生の父が歌い出した日も、教室の空気ごと思い出させてくれる一編です。

島や町の大人が子どもを支える物語としては、峠の地蔵と金平糖も、あわせてお読みいただけたら嬉しく思います。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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