深煎りの匂いは二階まで上がる

夕暮れの海辺の珈琲焙煎所

俺は一年のあいだ、娘に嫌われとると思うとった。

正確に言うと、嫌われたんは俺やない。

俺が毎朝焼く豆の匂いや。

深煎りの匂いは、二階まで上がる。

うちの店は坂の途中にある。

造船で賑おうとった時分に建った二階屋で、一階が店、二階が住まいになっとる。

親父の代からの焙煎機は裏手に据えてあって、排気の筒が外壁を這うて屋根まで伸びとる。

その筒の口が、ちょうど二階の南の窓の斜め下にある。

せやから風の具合によっては、焼いとる匂いがまっすぐ窓へ上がっていく。

深煎りは重い。

油が浮いて、香ばしさの底に焦げた糖の匂いが沈む。

その重たさが、坂を吹き上げる風を押しのけて上へ届く。

浅煎りは軽い。

青い草を千切ったような匂いで、店先を出たらもう散ってしまう。

親父はよう言うとった。

「うちの二階は、深煎りの日だけ店の中や」

子どものころは、意味がわからんかった。

いまは、いやというほどわかる。

親父が焼いた深煎りの匂いは、この家の柱にも畳にも染みついとる。

ひなたが学校へ行かんようになったんは、中学一年の六月からや。

それから一年、あの子は二階から降りてこんようになった。

いや、降りてはくる。

俺が店を閉めて、風呂を使うて、部屋の電気を消したあとに、台所で音がする。

冷蔵庫の扉。

薬缶の蓋を置く音。

茶碗が流しの底に触れる、遠慮した音。

俺と顔を合わせん時間だけ、あの子は一階におった。

朝は五時に起きて、店の戸を開ける。

坂はまだ暗い。

海から風が上がってきて、シャッターの下を鳴らす。

生豆の麻袋を裏手へ運んで、焙煎機に火を入れる。

ドラムが温まるまでの二十分、俺はいつも二階を見上げとった。

南の窓は、細う開いとることが多かった。

換気やろう、と思うとった。

妻の律子は、焦るなと言うた。

「あんたが下でおどおどしよるけん、降りてこれんのよ」

そうかもしれん、と思うた。

せやけど俺には、もうひとつ思い当たることがあった。

あの子は一度だけ、はっきり言うたことがある。

「あの匂い、きらい」

学校へ行かんようになって、ひと月ほど経った夜やった。

台所ですれ違うて、俺が何か言おうとして、言葉が出んで、そのあいだに言われた。

俺はその一言を、そのまま受け取った。

この家が嫌になったんやと思うた。

豆の匂いの染みついた柱も畳も、あの子の息を詰まらせよるんやと思うた。

せやから次の週から、俺は深煎りを焼くのをやめた。

一年やめた。

それが、あの子から一年を取り上げることやとは、思いもせんかった。

六月十三日の朝

倒れたんは、六月十三日の朝や。

その日も深煎りを焼いとった。

ブラジルの豆を十二分ほど回して、二ハゼの入り口で落とす。

焙煎機の前は、夏場になると四十度を超える。

前の晩から胃の具合が悪うて、朝飯を抜いとった。

ドラムの音が遠うなって、床が斜めになったんは覚えとる。

気がついたら、ひなたが横にしゃがんどった。

学校の鞄を提げたままやった。

「お父さん」

その声だけが、やけにはっきり聞こえた。

あとで聞いたら、あの日は一時間目のあとに気分が悪うなって、早退してきたらしい。

坂を上がってきたら、店の戸が開けっ放しで、焙煎機だけが回っとったと。

救急車を呼んだんも、律子の職場に電話したんも、あの子や。

病院では貧血と脱水やと言われた。

点滴を二本して、三日で帰された。

病室には、律子とひなたが交代で来た。

ひなたは、来ても喋らんかった。

パイプ椅子に座って、点滴の袋をじっと見とる。

「もう半分やな」

言うのは、そんなことばっかりや。

俺は退屈なんやと思うて、帰ってええぞと言うた。

あの子は帰らんかった。

消灯の時間まで、袋を見上げて座っとった。

大したことやない。

俺は本気でそう思うとったし、退院した日にはもう豆を焼いとった。

律子には怒られた。

「一日くらい休みんさい」

「休んだら、豆が古うなる」

「豆と娘と、どっちが古うなるん」

そのときは、何を言うとるんかわからんかった。

ひなたが学校を休みはじめたんは、その次の日からや。

最初は腹が痛いと言うた。

次の日は頭が痛いと言うた。

三日目からは、何も言わんようになった。

俺は学校で何かあったんやと思うた。

担任に電話もした。

若い男の先生で、心当たりはありません、と何度も言うた。

友達と揉めた様子もない、と言われた。

律子は保健室の先生に相談に行った。

帰ってきて、玄関でしばらく靴を脱がんと立っとった。

「なんて言われた」

「べつに。しばらく様子を見ましょう、って」

俺は、原因を外に探しとった。

学校にある、友達にある、担任にある。

まさか原因が、あの日の朝の、焙煎機の前の床やとは思わん。

俺は何度か、二階のドアの前まで上がった。

ノックをして、名前を呼んで、返事がないまま立っとった。

ドアの下の隙間から、薄い灯りが漏れとる。

一度だけ、ドア越しに声がした。

「大丈夫やけん」

何が大丈夫なんか、訊かんかった。

訊いたら、あの子が答えを探さないかんようになる気がした。

俺は階段を降りて、店の戸を開けて、豆を焼いた。

それが俺にできる全部やと思うとった。

南風の日の辻さん

辻さんは、親父の代からの客や。

造船所で四十年、配管を曲げとった人で、いまは七十八になる。

週に一度、深煎りを二百グラム買うて帰る。

いや、買うとった、と言わないかん。

辻さんは店に入ってくると、まず鼻から息を吸う。

「今日は浅いのう」

「すんません」

「謝らんでええ。わしが勝手に来よるだけじゃ」

そう言うて、いつも同じ席に座る。

窓際の、脚が一本だけ短い椅子や。

何度も直してやると言うたが、この揺れがええんじゃと譲らん。

「なあ大将。南風の日はのう、おたくの匂いがうちまで来るんよ」

辻さんの家は、坂をもう一段上がった町営住宅の三階にある。

「洗濯もんに匂いがつくけん、嫁が怒りよった」

「それは、えらいすんません」

「いや。嫁は十年前に出ていったけんの。怒る者がおらんようになって、寂しいわい」

そんな冗談を、真顔で言う人や。

俺は笑うてしもうて、ドリップの湯をこぼした。

辻さんは、たまに造船所の話をする。

「あのころの配管はのう、図面どおりに曲げたら入らんのよ」

「入らんのですか」

「入らん。船が歪んどるけん。わしらは現場で、船に合わせて曲げるんじゃ」

「それでええんですか」

「ええんよ。船のほうが正しいけん」

そう言うて、揺れる椅子で笑うた。

俺はそのとき、ただの職人の昔話やと思うて聞いとった。

辻さんは、ひなたのことを一度も訊かんかった。

訊かんかわりに、帰り際に必ず天井を見上げる。

見上げて、それから言う。

「まあ、坂は上がるより下りるほうが膝に来るけんの」

それだけ言うて、戸を閉める。

若い客には、よう訊かれた。

「前にあった黒いブレンド、もうないんですか」

「すんません。いまは浅いのだけで」

「残念やなあ。あれ好きやったのに」

そう言うて帰った人は、たいてい次は来んかった。

夜、勘定を合わせながら律子に言われた。

「豆、また残っとるね」

「浅いのは回転が悪いんよ」

「辻さんとこ、先月から二百が百になっとる」

「そうや」

「あんた、わかっとるやろ」

わかっとった。

深煎りをやめてから、客がひとり、またひとりと来んようになった。

うちの店は、親父が焼いた黒い豆で持っとった店や。

それを俺が引っ込めた。

売上は前の年の六割まで落ちた。

信用金庫の人が、前より丁寧な口のきき方をするようになった。

それでも俺は、浅煎りを焼き続けた。

二階に匂いを上げんことが、いまの俺の仕事やと思うとった。

看板から消した豆

深煎りをやめた週に、俺は店先の黒板を書き換えた。

親父の字を真似て書いとった「深煎りブレンド」の一行を、消した。

かわりに「本日の浅煎り」と書いた。

チョークの粉が指について、袖で拭いた。

その拭いた跡が、いまも黒板の右下に残っとる。

深煎りの匂いが消えた家は、思うたより静かやった。

律子は「洗濯もんが助かる」と言うた。

俺は、これでええと思うとった。

ひなたが小さいころ、あの子は焙煎の時間になると必ず階段を降りてきた。

小学三年くらいやったと思う。

裏手の焙煎機の横に立って、ドラムの回る音を聞いとった。

「熱いけん、そこまでな」

「うん」

一ハゼが来ると、あの子は毎回びっくりした顔をする。

豆がパチ、パチと鳴る音や。

何十回聞いても、必ずびっくりする。

「これ、痛ないん」

「豆は痛ないよ」

「ほんまに?」

「ほんまや」

そのころのあの子が、一度だけ、妙なことを言うた。

学校から帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながらや。

「この匂いがしたら、お父さんが下におるってわかる」

俺は「そらおるわ、店やけん」と笑うた。

あの子は、笑わんかった。

そのまま二階に上がっていった。

俺はその日の夕飯のときには、もう忘れとった。

いま思い出しても、あのときのあの子の顔だけが出てこん。

中学の制服は、夏のを一度着ただけや。

玄関の脇に、鞄がそのまま置いてある。

律子が一度しまおうとして、俺が止めた。

止めた理由は、自分でもようわからん。

夏の終わりに、律子が一度だけ、引っ越しの話をした。

「校区の外に出たら、別の中学に行けるんやないの」

「店はどうするん」

「店は……ここやろね」

それで終いになった。

その夜も、俺は浅煎りを焼いた。

豆の量を間違えて、半分焦がした。

焦げた匂いは、深煎りとは似ても似つかん。

ただ苦いだけの匂いや。

それでも俺は、その匂いが二階に上がらんように、換気扇を強うした。

誕生日には、ケーキを買うた。

二階に持って上がって、ドアの前に置いた。

朝には、皿だけが廊下に出とった。

きれいに食べてあった。

俺はその皿を洗いながら、少し笑うた。

律子に「なんで笑いよるん」と訊かれて、答えられんかった。

あの子が昼に何をしよるんか、俺は一度だけ律子に訊いたことがある。

「窓のとこにおるよ」

「窓?」

「うん。椅子持ってきて、窓のとこに座っとる」

俺は、外を見とるんやと思うた。

坂の下の海が、あの窓からは少しだけ見える。

海を見よるんやろう、と思うた。

そう思うほうが、楽やった。

深煎りの匂いが来ん夜

冬のあいだ、俺は一度だけ、二階のドアを強く叩いたことがある。

正月の三日や。

酒が入っとった。

「ひなた。顔だけ見せえ」

返事はなかった。

律子に腕を掴まれて、階段を降りた。

降りながら、後ろでドアの把手が、かちりと鳴った。

開きはせんかった。

それでも、あの子は把手に手をかけたんやと思う。

梅雨が明けたころ、辻さんが店に来て言うた。

「大将。一遍でええけん、親父さんの豆を焼いてくれんか」

断る理由を、俺はちゃんと持っとった。

持っとったのに、口から出んかった。

「……焼きます」

「そうか」

辻さんは椅子を揺らして、天井を見上げた。

その日は北風やった。

坂の下の海から吹き上げるんやのうて、山のほうから落ちてくる風や。

夕方、店を閉めてから、俺は一年ぶりに深煎りを焼いた。

ブラジルとコロンビアを八対二。

親父のノートの配合や。

ドラムを回すと、手のひらが勝手に覚えとった。

一ハゼ。

それから、少し間があって、二ハゼの入り口。

排気口の蓋を開けたとたん、一年ぶりの深煎りの匂いが、店じゅうに満ちた。

焦げた糖と、油と、その奥にほんの少しだけ甘い匂い。

俺は自分の店の匂いを、一年ぶりに嗅いだ。

そして、泣きそうになった自分に腹が立った。

その夜や。

風呂を出て、台所で水を飲んどったら、二階のドアの把手が、かちりと鳴った。

ひなたが降りてきた。

一年ぶりに、俺と目を合わせた。

髪が、肩より下まで伸びとった。

背が、律子と同じくらいになっとった。

「お父さん」

「おう」

「今日、焼いとった?」

俺は、何を訊かれとるんかわからんかった。

「焼いたよ。深煎り」

ひなたは、しばらく黙っとった。

それから、こう言うた。

「匂い、せんかった」

俺は、窓の外を見た。

裏の杉の葉が、坂の下に向かって流れとる。

北風や。

北風の日は、排気の筒から出た匂いは、二階へは上がらん。

そのまま坂の下へ落ちていく。

「……北風やけん」

「そうなん」

ひなたは、それだけ言うて、コップに水を汲んだ。

そして、階段を上がっていった。

二階のドアの把手

俺はその場に立ったまま、動けんかった。

今日は焼いたか、と訊かれた。

焼いたと答えたら、匂いがせんかった、と言われた。

つまりあの子は、匂いで、確かめとったということや。

何を確かめとったんかは、考えんでもわかった。

律子が寝室から出てきて、俺の顔を見て「どしたん」と言うた。

俺は、いま降りてきたことを話した。

律子は、コップを洗いながら、なんでもないことのように言うた。

「あの子、雨の日はずっと窓開けとったよ」

「窓?」

「うん。寒いけん閉めえ言うても、閉めんのよ。音が聞こえんけんって」

「音って」

「焙煎機の音やろ。パチパチ言うやつ」

俺は、台所の椅子に座った。

一年のあいだ、俺が二階へ上げとったんは、浅煎りの軽い匂いや。

店先を出たら散ってしまう匂いや。

二階には、届いとらん。

届かん日、あの子は窓を開けて、耳で確かめとった。

俺が、下におるかどうかを。

その夜、俺は初めて二階に上がった。

ひなたの部屋やない。

廊下の突き当たりの、物置にしとる部屋や。

南向きの窓は、そこにもある。

窓を開けて、しばらく座っとった。

下から、換気扇の音がした。

それだけや。

風が北から落ちてくる日は、匂いはひとつも上がってこん。

俺は、一年ぶんの北風の日を、思い出そうとした。

何日あったんか、見当もつかんかった。

六月十三日の朝、焙煎機の前で床に倒れとった俺を見つけたんは、あの子や。

学校で何かあったんやない。

家に誰もおらんようになるんが、怖かっただけや。

「あの匂い、きらい」

あれは、この店が嫌やという意味やない。

倒れた朝に店じゅうに満ちとった、あの黒い匂いのことや。

あの子は、あの匂いを嗅ぐたびに、床に倒れた俺を見とった。

それでも、その匂いだけが、俺が下におる証拠やった。

きらいで、必要やった。

俺はそれを、片方だけ聞いた。

聞いて、消した。

消したせいで、あの子は一年、窓を開けて耳を澄ませ続けた。

あの子が窓を開けとったんは、匂いの上がらん日ばかりやった。

次の朝から、俺は深煎りを焼いとる。

黒板の一行も戻した。

親父の字を真似た「深煎りブレンド」や。

辻さんは二百グラムに戻った。

椅子は、まだ直しとらん。

売上も、まだ六割のままや。

辻さんは、天井を見上げるのをやめた。

かわりに、帰り際にこう言うようになった。

「今日は上がりよるのう」

ひなたは、学校へは行っとらん。

中学二年の夏やけど、まだ行っとらん。

取り上げた一年は、どうやっても返せん。

それでも朝になると、俺は裏手で豆を回す。

北風の日は、匂いが上がらん。

せやから、排気口の蓋を、わざと強う閉める。

ドラムの取っ手も、いつもより高う鳴らす。

律子には「乱暴になったね」と笑われた。

そうやない、とは言わんかった。

あの夜から、ふた月ほど経ったころや。

ひなたが、焙煎機の横まで降りてきた。

立ったまま、ドラムの音を聞いとった。

一ハゼが来た。

パチ、と鳴った。

あの子は、びっくりした顔をした。

小学三年のときと、同じ顔やった。

「これ、痛ないん」

俺は、豆を落とすレバーに手をかけたまま、声が出んかった。

「……痛ないよ」

「ほんまに?」

「ほんまや」

あの子は、少しだけ笑うた。

そのまま二階へ上がっていった。

把手が、かちりと鳴った。

深煎りの匂いは、いまも二階まで上がっている。

上がらん日は、俺が音を立てる。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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