鳴かない猫と牛舎のラジオ

牛舎の戸を開けると、いつもラジオが鳴っていました。

夜中でも、明け方でも、盆でも正月でも鳴っていました。

岡山の蒜山高原、霧の底に沈んだような朝の五時。

ジャージー牛の白い息と、湯気の立つ乳の匂いのあいだで、古い箱型のラジオだけが人の声で喋っていました。

母は、そのつまみに一度も触らない人でした。

「牛が落ち着くけん」

訊けば必ず、そう答えました。

私はその言葉を、三十年ものあいだ疑いませんでした。

音のない子

ナギがうちに来たのは、私が中学一年の秋でした。

国道482号のバス停の裏、割れたコンクリートの隙間に、子猫が一匹うずくまっていました。

両目が膿んで塞がり、顔の半分が固まっていました。

正直に言えば、猫だとすぐには分かりませんでした。

母が軍手のまま抱き上げて、作業着の胸に入れて帰ってきました。

「触らんほうがええ」

私はそう言いました。

言ってしまってから、自分の声の冷たさに驚きました。

母は何も言い返さず、洗面器に湯を張っていました。

母はその晩、寝ませんでした。

洗面器の湯を三度替え、脱脂綿で子猫のまぶたをふやかしては、少しずつ剥がしていきました。

台所の蛍光灯の下で、母の手だけが動いていました。

私は襖の隙間から、それを見ていました。

手伝おうか、とは言いませんでした。

言えなかったのです。

翌朝、洗面器の湯は薄い茶色に濁っていて、母は牛舎へ出る前にそれを裏の畑に撒いていました。

撒きながら、誰にともなく、こう言いました。

「よう、あそこまで鳴いたなあ」

私はその意味を、そのときは分かりませんでした。

真庭の川西先生のところへ、母は軽トラで三日続けて通いました。

目は開きました。

けれど先生は、母の顔を見ずにこう言いました。

「命の保証は、できません」

母は診察台の縁を、ずっと親指でこすっていました。

あかぎれの入った、太い親指でした。

鳴かない猫

ナギは、育ちました。

薄いクリーム色の毛が、冬になるほど白く光る、驚くほど美しい猫になりました。

近所の人が牛乳を買いに来るたび、必ず足を止めて見ていきました。

ただ、ナギは鳴きませんでした。

あのバス停の裏で、誰かに見つけてもらおうと声の限り鳴き続けたせいだろう、と川西先生は言いました。

喉が潰れてしまったのだ、と。

口だけは開くのです。

牛舎の柱の上から私を見つけると、あの子はきちんと口を開けました。

けれど、そこから音は出ませんでした。

母はその子に「ナギ」という名前をつけました。

凪、と書くのだと言いました。

「音のない子じゃけん」

ナギは牛舎が好きでした。

搾乳の時間になると、必ずどこからか現れて、ミルカーの唸る音の下で丸くなっていました。

牛の脚のあいだを平気で歩く猫でした。

踏まれそうになったことは、一度もありません。

あとになって思えば、あの子は音のないぶんだけ、足の裏で世界を聞いていたのだと思います。

三日いなくなった秋

ナギが六つになった秋に、蒜山一帯が停電したことがありました。

台風が近づいて、高圧線の鉄塔が一本傾いた年です。

電気の止まった牛舎は、驚くほど静かでした。

ミルカーも冷却タンクも止まり、ラジオも消えました。

その晩から、ナギがいなくなりました。

一日、二日と戻りませんでした。

猫は自分で帰ってくるものだ、と私は言いました。

母は返事をしませんでした。

二日目の夜、母は軽トラを牛舎の前に横づけにして、エンジンをかけたままカーラジオをつけました。

窓を全部開けて、ボリュームを上げて、霧のなかへ人の声を流し続けました。

ガソリンがもったいない、と私は言いました。

母はハンドルに両手を置いたまま、前を見ていました。

「あの子は、こっちを呼べんのじゃ」

母がその晩、はじめて理由らしいことを言いました。

私はそれでも、まだ分かっていませんでした。

四日目の朝、ナギは泥だらけで戻ってきました。

後ろ脚を引きずって、耳の先が裂けていました。

母は洗面器に湯を張って、何も言わずに拭きました。

その週のうちに、母は中古の発電機を買いました。

牛のためだと、みんな思っていました。

発電機は牛舎の隅に置かれ、そこから伸びたコードは、あのラジオだけにつながっていました。

牛が落ち着くけん

うちの牛舎のラジオは、朝のニュースも、昼の相談番組も、深夜の音楽番組も、全部そのまま流していました。

父が生きているころからそうだった、と私は思い込んでいました。

父は私が小学校に上がる前に病気で倒れ、それから十年、牛舎には出ていません。

だから母ひとりで二十二頭を見ていました。

朝四時に起きて、夜八時に牛舎の戸を閉める。

その繰り返しのなかで、ラジオだけが、母以外の声でした。

「牛が落ち着くけん」

母はそう言い、私はそれを、酪農の常識として受け取りました。

実際、乳量は安定していました。

だから疑う理由がありませんでした。

乳の温度

ジャージー牛の乳は、搾りたてで三十八度あります。

手の甲に一滴落とすと、体温より少しだけ高い温度が残ります。

その一滴を拭かずに次の牛へ移ると、朝の終わりには手の甲が乳の膜でつっぱります。

冬の蒜山では、その膜が霜の匂いを吸って、少し甘くなります。

母の手は、いつもその匂いがしていました。

牛乳を買いに来る人が、まだ何人かいた頃のことです。

集落の子どもたちが、瓶を抱えたついでにナギを探しに来ました。

「鳴かんの」

子どもは必ずそう訊きました。

私が「鳴かん」と答えると、たいていの子はつまらなそうな顔をしました。

けれど一人だけ、毎回同じことを言う女の子がいました。

「ほんなら、こっちが呼んだるわ」

その子は牛舎の入口で、ナギの名前を何度も呼んでから帰っていきました。

母はその声を、乳を搾りながら聞いていたはずです。

私は蒜山を出た

高校を出て、私は大阪の建材商社に入りました。

牛の匂いのしない場所に行きたかった、というのが本当のところです。

十年勤めて、独立しました。

人を信じすぎた、というのは言い訳です。

私が甘かったのです。

取引先の倒産に巻き込まれ、保証をかぶり、事務所を畳みました。

畳んだ日のことは、よく覚えています。

事務所の鍵を大家に返して、ビルの階段を降りるとき、踊り場の窓から梅田の夕方が見えました。

人がたくさん歩いていて、そのなかに私の行き先だけがありませんでした。

携帯電話は、朝から鳴り続けていました。

私はそれを、電源を切らずに鞄の底に入れたまま、四日ほど持ち歩きました。

鳴っているうちは、まだ誰かが自分を探している気がしたのです。

その頃には、実家に電話をかけることが、もうできなくなっていました。

母は、一度も電話をかけてきませんでした。

盆にも、正月にも、私の誕生日にも、電話は鳴りませんでした。

私はそれを、見放されたのだと思っていました。

大阪のワンルームで、私は深夜のラジオをつけっぱなしにして眠るようになりました。

誰かの声がしていないと、部屋が広すぎたのです。

山陽放送の深夜番組を、電波の弱い日はざらざらした音のまま聴いていました。

ときどき、岡山の年配のリスナーからのハガキが読まれました。

牛の話、霧の話、大根の話。

そういうものを聞きながら眠るのが、あの数年の唯一の習慣でした。

十一年ぶりの霧

三十九になる冬に、私は蒜山へ帰りました。

帰った、というよりは、行くところがなくなった、というほうが正確です。

母は玄関で、私の顔を見て、こう言いました。

「ご飯、食べたん」

それだけでした。

「どこ行っとったん」も、「なんで連絡せんかったん」もありませんでした。

台所には、二人分の茶碗が出してありました。

私が帰ることを、母は知らなかったはずです。

牛舎の戸を開けると、やはりラジオが鳴っていました。

牛は十四頭に減っていました。

そして柱の上に、ナギがいました。

もう十九年目のはずでした。

痩せて、毛は白く、目のまわりだけが薄く濁っていました。

ナギは私を見て、きちんと口を開けました。

音は、出ませんでした。

私はその場にしゃがんで、しばらく立てませんでした。

音のない夜

帰って四日目の晩のことです。

私は母屋の離れで、電気もつけずに座っていました。

何かを考えていたわけではありません。

考えることをやめてしまった、という感じでした。

畳の目に指を当てて、そのまま何時間も動けずにいました。

もう自分は、誰の役にも立たないのだと思っていました。

その晩、家の中が、妙に静かでした。

牛舎のラジオが、鳴っていなかったのです。

音のない家というものが、あれほど広いとは知りませんでした。

柱の鳴る音、風で軋む戸、遠くで牛が身じろぎする音。

そういうものが、全部くっきり聞こえました。

離れの窓を五センチだけ開けておく癖は、私が高校生の頃からのものでした。

煙草の煙を逃がすために開けはじめて、そのままにしていたのです。

母はその隙間を、一度も閉めませんでした。

冬の蒜山で、五センチの隙間は、部屋の温度をはっきり下げます。

それでも母は、私が家を出てからの十一年、あの窓を閉めずにいました。

あとで訊いたとき、母はこう言いました。

「あの子が入るけん」

猫のためだと、母は言い張りました。

けれど、あの隙間から入ってこられるのは、猫だけではありません。

そのなかを、ナギが入ってきました。

離れの窓は、いつも五センチだけ開けてありました。

ナギはその隙間から、痩せた体を器用に落として、私の膝の横にまわりこみました。

そして、鳴きました。

ナギが出した声

掠れた、まるで木の枝がこすれるような、小さな音でした。

けれど、確かに声でした。

十九年、私が一度も聞いたことのない音でした。

もう一度、鳴きました。

三度目は、少し長く鳴きました。

私は、その子の背中に手を置いたまま、声を上げて泣きました。

泣きながら、なぜか腹が減っていることに気づきました。

四日ぶりに、ちゃんと腹が減ったのです。

台所へ行くと、母が茶を淹れていました。

眠っていなかったのだと、すぐに分かりました。

「ナギが、鳴いた」

私がそう言うと、母はしばらく黙って、それから湯呑みを二つ、盆に載せました。

「そうか」

それだけでした。

乳日誌の余白

母が入院したのは、その二年後です。

私は牛舎を継いで、乳日誌を引き継ぎました。

母の字で、二十年以上ぶんの乳量が並んでいました。

その余白に、私は妙な書き込みを見つけました。

日付の横に、小さく「ハガキ」と書いてある日が、点々とあるのです。

年に十回か、二十回か。

その隣に、番組の名前が略して書いてありました。

山陽放送の、深夜の、あの番組です。

私は病室で、母に訊きました。

母は天井を見たまま、こう言いました。

「牛の話やら、霧の話やら、大根の話やら」

「名前は書かんかった」

「ハガキ、何を書いとったん」

私が訊くと、母は少し困った顔をしました。

「大したことは書かん」

「牛が霧の日は乳を出さん、とか」

「大根が今年は太かった、とか」

「そんなもんじゃ」

読まれたかどうかは、母は確かめていないと言いました。

ラジオは牛舎で鳴っていて、母は搾乳の最中に、その時間を通り過ぎるだけだったからです。

それでも、書いて、切手を貼って、蒜山の郵便局まで出しに行っていました。

私はその往復の道を、頭のなかで何度もたどりました。

私は、自分がその声を、大阪の暗い部屋で何度も聞いていたことを言えませんでした。

言えば、母が謝るような気がしたのです。

母は、そのあとしばらく黙っていました。

点滴の管を目で追って、それから小さく笑いました。

「ようけ電気代を使うたわ」

私は笑えませんでした。

二十一年ぶんの電気代を、母は一度も高いと言ったことがありません。

牛舎の帳面には、電気代の欄だけが、律儀に赤い線で囲んでありました。

母は続けました。

「電話したら、あんたが帰ってくる理由が、わたしになってしまうけん」

その夜、私は牛舎の戸を閉めてから、ラジオのつまみに手をかけました。

母が二十年以上、一度も触らなかったつまみです。

指をかけたところで、手が止まりました。

牛はもう横になっていて、藁を踏む乾いた音だけがしていました。

その静けさが、あの晩の離れの静けさと同じ形をしていました。

私は手を離して、そのまま戸を閉めました。

ラジオを消した人

乳日誌の最初の一冊を開いて、私はもうひとつ気づきました。

ラジオの購入日が、備品の欄に記してあったのです。

ナギを拾った週の、四日あとでした。

ラジオを消さなかったのは、牛のためではありませんでした。

声の出ない子は、道に迷ったとき、自分から呼ぶことができません。

だから母は、家のほうから鳴り続けることにしたのです。

鳴けない子を呼び戻すには、こちらが鳴り続けるしかなかったのです。

そして、あの晩のことです。

「四日目の晩、ラジオが消えとった」

私がそう言うと、母は、ようやくこちらを見ました。

「消したんよ」

あの晩、ラジオを消したのは、母でした。

「あんたの声が、聞こえんようになるけん」

母は離れの物音を、ずっと聞いていたのだそうです。

そして四日目の夜、家じゅうの音を消しました。

音のない家で、代わりに鳴いたのが、あの子でした。

いまも鳴っている

ナギを見送った日、私は牛舎の柱に、小さな傷をひとつ入れました。

あの子がいつも丸くなっていた、梁の付け根のところです。

鑿の先でつけただけの、深さ二ミリほどの傷です。

搾乳のあいだ、私はときどきそこに親指を当てます。

母が診察台の縁をこすっていた、あの親指の当て方に、いつのまにか似ていました。

ナギは二十一年生きて、春先の霧の朝に、牛舎の柱の上で眠るように旅を終えました。

川西先生は、あの朝も来てくださいました。

もう七十を過ぎて、診療所は息子さんが継いでいましたが、電話をすると軽自動車で上がってきてくれました。

先生はナギの前脚に触れて、しばらく黙っていました。

それから、こう言いました。

「よう、ここまで来たなあ」

母が二十一年前、洗面器の湯を畑に撒きながら言ったのと、ほとんど同じ言葉でした。

私は今も、牛舎のラジオを消しません。

牛は九頭に減り、私はひとりで搾っています。

ときどき、つまみに手が伸びそうになります。

牛舎の梁の高いところには、いまも古い巣箱の跡があります。

父が元気だった頃に据えたもので、燕はもう何年も来ていません。

それでも私は、毎年春になると、その下の藁を替えます。

来ないと分かっているものを待つ支度をするのは、この家の癖のようなものです。

けれど、消せません。

どこかで誰かが、声を出せずに立ち止まっているかもしれないからです。

母は今年、八十四になりました。

施設の部屋にも、小さなラジオを置いています。

先日行ったとき、母は窓の外を見ながら、こう言いました。

「ナギは、ようやっと鳴けたんじゃなあ」

私は、そうじゃないと思っています。

あの子はきっと、ずっと鳴いていたのです。

ただ、家じゅうが鳴っているあいだは、私の耳に届かなかっただけなのです。

猫と家族の距離を描いた話としては、ミルと父や、猫が運んだ茶のボタンも、静かな読後感が残ります。

言葉にできなかった親の思いという点では、父が捨てなかった種袋も、あわせて読んでいただけたら嬉しく思います。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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