鳴かない猫と牛舎のラジオ

鳴かない猫と牛舎のラジオ

牛舎の戸を開けると、いつもラジオが鳴っていました。

夜中でも、明け方でも、盆でも正月でも鳴っていました。

岡山の蒜山高原、霧の底に沈んだような朝の五時。

ジャージー牛の白い息と、湯気の立つ乳の匂いのあいだで、古い箱型のラジオだけが人の声で喋っていました。

母は、そのつまみに一度も触らない人でした。

「牛が落ち着くけん」

訊けば必ず、そう答えました。

私はその言葉を、三十年ものあいだ疑いませんでした。

音のない子

ナギがうちに来たのは、私が中学一年の秋でした。

国道482号のバス停の裏、割れたコンクリートの隙間に、子猫が一匹うずくまっていました。

両目が膿んで塞がり、顔の半分が固まっていました。

正直に言えば、猫だとすぐには分かりませんでした。

母が軍手のまま抱き上げて、作業着の胸に入れて帰ってきました。

「触らんほうがええ」

私はそう言いました。

言ってしまってから、自分の声の冷たさに驚きました。

母は何も言い返さず、洗面器に湯を張っていました。

※

母はその晩、寝ませんでした。

洗面器の湯を三度替え、脱脂綿で子猫のまぶたをふやかしては、少しずつ剥がしていきました。

台所の蛍光灯の下で、母の手だけが動いていました。

私は襖の隙間から、それを見ていました。

手伝おうか、とは言いませんでした。

言えなかったのです。

翌朝、洗面器の湯は薄い茶色に濁っていて、母は牛舎へ出る前にそれを裏の畑に撒いていました。

撒きながら、誰にともなく、こう言いました。

「よう、あそこまで鳴いたなあ」

私はその意味を、そのときは分かりませんでした。

※

真庭の川西先生のところへ、母は軽トラで三日続けて通いました。

目は開きました。

けれど先生は、母の顔を見ずにこう言いました。

「命の保証は、できません」

母は診察台の縁を、ずっと親指でこすっていました。

あかぎれの入った、太い親指でした。

鳴かない猫

ナギは、育ちました。

薄いクリーム色の毛が、冬になるほど白く光る、驚くほど美しい猫になりました。

近所の人が牛乳を買いに来るたび、必ず足を止めて見ていきました。

ただ、ナギは鳴きませんでした。

あのバス停の裏で、誰かに見つけてもらおうと声の限り鳴き続けたせいだろう、と川西先生は言いました。

喉が潰れてしまったのだ、と。

口だけは開くのです。

牛舎の柱の上から私を見つけると、あの子はきちんと口を開けました。

けれど、そこから音は出ませんでした。

母はその子に「ナギ」という名前をつけました。

凪、と書くのだと言いました。

「音のない子じゃけん」

※

ナギは牛舎が好きでした。

搾乳の時間になると、必ずどこからか現れて、ミルカーの唸る音の下で丸くなっていました。

牛の脚のあいだを平気で歩く猫でした。

踏まれそうになったことは、一度もありません。

あとになって思えば、あの子は音のないぶんだけ、足の裏で世界を聞いていたのだと思います。

三日いなくなった秋

ナギが六つになった秋に、蒜山一帯が停電したことがありました。

台風が近づいて、高圧線の鉄塔が一本傾いた年です。

電気の止まった牛舎は、驚くほど静かでした。

ミルカーも冷却タンクも止まり、ラジオも消えました。

その晩から、ナギがいなくなりました。

一日、二日と戻りませんでした。

猫は自分で帰ってくるものだ、と私は言いました。

母は返事をしませんでした。

※

二日目の夜、母は軽トラを牛舎の前に横づけにして、エンジンをかけたままカーラジオをつけました。

窓を全部開けて、ボリュームを上げて、霧のなかへ人の声を流し続けました。

ガソリンがもったいない、と私は言いました。

母はハンドルに両手を置いたまま、前を見ていました。

「あの子は、こっちを呼べんのじゃ」

母がその晩、はじめて理由らしいことを言いました。

私はそれでも、まだ分かっていませんでした。

※

四日目の朝、ナギは泥だらけで戻ってきました。

後ろ脚を引きずって、耳の先が裂けていました。

母は洗面器に湯を張って、何も言わずに拭きました。

その週のうちに、母は中古の発電機を買いました。

牛のためだと、みんな思っていました。

発電機は牛舎の隅に置かれ、そこから伸びたコードは、あのラジオだけにつながっていました。

※

牛が落ち着くけん

うちの牛舎のラジオは、朝のニュースも、昼の相談番組も、深夜の音楽番組も、全部そのまま流していました。

父が生きているころからそうだった、と私は思い込んでいました。

父は私が小学校に上がる前に病気で倒れ、それから十年、牛舎には出ていません。

だから母ひとりで二十二頭を見ていました。

朝四時に起きて、夜八時に牛舎の戸を閉める。

その繰り返しのなかで、ラジオだけが、母以外の声でした。

「牛が落ち着くけん」

母はそう言い、私はそれを、酪農の常識として受け取りました。

実際、乳量は安定していました。

だから疑う理由がありませんでした。

乳の温度

ジャージー牛の乳は、搾りたてで三十八度あります。

手の甲に一滴落とすと、体温より少しだけ高い温度が残ります。

その一滴を拭かずに次の牛へ移ると、朝の終わりには手の甲が乳の膜でつっぱります。

冬の蒜山では、その膜が霜の匂いを吸って、少し甘くなります。

母の手は、いつもその匂いがしていました。

※

牛乳を買いに来る人が、まだ何人かいた頃のことです。

集落の子どもたちが、瓶を抱えたついでにナギを探しに来ました。

「鳴かんの」

子どもは必ずそう訊きました。

私が「鳴かん」と答えると、たいていの子はつまらなそうな顔をしました。

けれど一人だけ、毎回同じことを言う女の子がいました。

「ほんなら、こっちが呼んだるわ」

その子は牛舎の入口で、ナギの名前を何度も呼んでから帰っていきました。

母はその声を、乳を搾りながら聞いていたはずです。

※

私は蒜山を出た

高校を出て、私は大阪の建材商社に入りました。

牛の匂いのしない場所に行きたかった、というのが本当のところです。

十年勤めて、独立しました。

人を信じすぎた、というのは言い訳です。

私が甘かったのです。

取引先の倒産に巻き込まれ、保証をかぶり、事務所を畳みました。

畳んだ日のことは、よく覚えています。

事務所の鍵を大家に返して、ビルの階段を降りるとき、踊り場の窓から梅田の夕方が見えました。

人がたくさん歩いていて、そのなかに私の行き先だけがありませんでした。

携帯電話は、朝から鳴り続けていました。

私はそれを、電源を切らずに鞄の底に入れたまま、四日ほど持ち歩きました。

鳴っているうちは、まだ誰かが自分を探している気がしたのです。

その頃には、実家に電話をかけることが、もうできなくなっていました。

母は、一度も電話をかけてきませんでした。

盆にも、正月にも、私の誕生日にも、電話は鳴りませんでした。

私はそれを、見放されたのだと思っていました。

※

大阪のワンルームで、私は深夜のラジオをつけっぱなしにして眠るようになりました。

誰かの声がしていないと、部屋が広すぎたのです。

山陽放送の深夜番組を、電波の弱い日はざらざらした音のまま聴いていました。

ときどき、岡山の年配のリスナーからのハガキが読まれました。

牛の話、霧の話、大根の話。

そういうものを聞きながら眠るのが、あの数年の唯一の習慣でした。

十一年ぶりの霧

三十九になる冬に、私は蒜山へ帰りました。

帰った、というよりは、行くところがなくなった、というほうが正確です。

母は玄関で、私の顔を見て、こう言いました。

「ご飯、食べたん」

それだけでした。

「どこ行っとったん」も、「なんで連絡せんかったん」もありませんでした。

台所には、二人分の茶碗が出してありました。

私が帰ることを、母は知らなかったはずです。

※

牛舎の戸を開けると、やはりラジオが鳴っていました。

牛は十四頭に減っていました。

そして柱の上に、ナギがいました。

もう十九年目のはずでした。

痩せて、毛は白く、目のまわりだけが薄く濁っていました。

ナギは私を見て、きちんと口を開けました。

音は、出ませんでした。

私はその場にしゃがんで、しばらく立てませんでした。

音のない夜

帰って四日目の晩のことです。

私は母屋の離れで、電気もつけずに座っていました。

何かを考えていたわけではありません。

考えることをやめてしまった、という感じでした。

畳の目に指を当てて、そのまま何時間も動けずにいました。

もう自分は、誰の役にも立たないのだと思っていました。

その晩、家の中が、妙に静かでした。

牛舎のラジオが、鳴っていなかったのです。

※

音のない家というものが、あれほど広いとは知りませんでした。

柱の鳴る音、風で軋む戸、遠くで牛が身じろぎする音。

そういうものが、全部くっきり聞こえました。

離れの窓を五センチだけ開けておく癖は、私が高校生の頃からのものでした。

煙草の煙を逃がすために開けはじめて、そのままにしていたのです。

母はその隙間を、一度も閉めませんでした。

冬の蒜山で、五センチの隙間は、部屋の温度をはっきり下げます。

それでも母は、私が家を出てからの十一年、あの窓を閉めずにいました。

あとで訊いたとき、母はこう言いました。

「あの子が入るけん」

猫のためだと、母は言い張りました。

けれど、あの隙間から入ってこられるのは、猫だけではありません。

※

そのなかを、ナギが入ってきました。

離れの窓は、いつも五センチだけ開けてありました。

ナギはその隙間から、痩せた体を器用に落として、私の膝の横にまわりこみました。

そして、鳴きました。

ナギが出した声

掠れた、まるで木の枝がこすれるような、小さな音でした。

けれど、確かに声でした。

十九年、私が一度も聞いたことのない音でした。

もう一度、鳴きました。

三度目は、少し長く鳴きました。

私は、その子の背中に手を置いたまま、声を上げて泣きました。

泣きながら、なぜか腹が減っていることに気づきました。

四日ぶりに、ちゃんと腹が減ったのです。

※

台所へ行くと、母が茶を淹れていました。

眠っていなかったのだと、すぐに分かりました。

「ナギが、鳴いた」

私がそう言うと、母はしばらく黙って、それから湯呑みを二つ、盆に載せました。

「そうか」

それだけでした。

乳日誌の余白

母が入院したのは、その二年後です。

私は牛舎を継いで、乳日誌を引き継ぎました。

母の字で、二十年以上ぶんの乳量が並んでいました。

その余白に、私は妙な書き込みを見つけました。

日付の横に、小さく「ハガキ」と書いてある日が、点々とあるのです。

年に十回か、二十回か。

その隣に、番組の名前が略して書いてありました。

山陽放送の、深夜の、あの番組です。

※

私は病室で、母に訊きました。

母は天井を見たまま、こう言いました。

「牛の話やら、霧の話やら、大根の話やら」

「名前は書かんかった」

「ハガキ、何を書いとったん」

私が訊くと、母は少し困った顔をしました。

「大したことは書かん」

「牛が霧の日は乳を出さん、とか」

「大根が今年は太かった、とか」

「そんなもんじゃ」

読まれたかどうかは、母は確かめていないと言いました。

ラジオは牛舎で鳴っていて、母は搾乳の最中に、その時間を通り過ぎるだけだったからです。

それでも、書いて、切手を貼って、蒜山の郵便局まで出しに行っていました。

私はその往復の道を、頭のなかで何度もたどりました。

※

私は、自分がその声を、大阪の暗い部屋で何度も聞いていたことを言えませんでした。

言えば、母が謝るような気がしたのです。

母は、そのあとしばらく黙っていました。

点滴の管を目で追って、それから小さく笑いました。

「ようけ電気代を使うたわ」

私は笑えませんでした。

二十一年ぶんの電気代を、母は一度も高いと言ったことがありません。

牛舎の帳面には、電気代の欄だけが、律儀に赤い線で囲んでありました。

母は続けました。

「電話したら、あんたが帰ってくる理由が、わたしになってしまうけん」

その夜、私は牛舎の戸を閉めてから、ラジオのつまみに手をかけました。

母が二十年以上、一度も触らなかったつまみです。

指をかけたところで、手が止まりました。

牛はもう横になっていて、藁を踏む乾いた音だけがしていました。

その静けさが、あの晩の離れの静けさと同じ形をしていました。

私は手を離して、そのまま戸を閉めました。

※

ラジオを消した人

乳日誌の最初の一冊を開いて、私はもうひとつ気づきました。

ラジオの購入日が、備品の欄に記してあったのです。

ナギを拾った週の、四日あとでした。

ラジオを消さなかったのは、牛のためではありませんでした。

声の出ない子は、道に迷ったとき、自分から呼ぶことができません。

だから母は、家のほうから鳴り続けることにしたのです。

鳴けない子を呼び戻すには、こちらが鳴り続けるしかなかったのです。

※

そして、あの晩のことです。

「四日目の晩、ラジオが消えとった」

私がそう言うと、母は、ようやくこちらを見ました。

「消したんよ」

あの晩、ラジオを消したのは、母でした。

「あんたの声が、聞こえんようになるけん」

母は離れの物音を、ずっと聞いていたのだそうです。

そして四日目の夜、家じゅうの音を消しました。

音のない家で、代わりに鳴いたのが、あの子でした。

いまも鳴っている

ナギを見送った日、私は牛舎の柱に、小さな傷をひとつ入れました。

あの子がいつも丸くなっていた、梁の付け根のところです。

鑿の先でつけただけの、深さ二ミリほどの傷です。

搾乳のあいだ、私はときどきそこに親指を当てます。

母が診察台の縁をこすっていた、あの親指の当て方に、いつのまにか似ていました。

※

ナギは二十一年生きて、春先の霧の朝に、牛舎の柱の上で眠るように旅を終えました。

川西先生は、あの朝も来てくださいました。

もう七十を過ぎて、診療所は息子さんが継いでいましたが、電話をすると軽自動車で上がってきてくれました。

先生はナギの前脚に触れて、しばらく黙っていました。

それから、こう言いました。

「よう、ここまで来たなあ」

母が二十一年前、洗面器の湯を畑に撒きながら言ったのと、ほとんど同じ言葉でした。

※

私は今も、牛舎のラジオを消しません。

牛は九頭に減り、私はひとりで搾っています。

ときどき、つまみに手が伸びそうになります。

牛舎の梁の高いところには、いまも古い巣箱の跡があります。

父が元気だった頃に据えたもので、燕はもう何年も来ていません。

それでも私は、毎年春になると、その下の藁を替えます。

来ないと分かっているものを待つ支度をするのは、この家の癖のようなものです。

けれど、消せません。

どこかで誰かが、声を出せずに立ち止まっているかもしれないからです。

※

母は今年、八十四になりました。

施設の部屋にも、小さなラジオを置いています。

先日行ったとき、母は窓の外を見ながら、こう言いました。

「ナギは、ようやっと鳴けたんじゃなあ」

私は、そうじゃないと思っています。

あの子はきっと、ずっと鳴いていたのです。

ただ、家じゅうが鳴っているあいだは、私の耳に届かなかっただけなのです。

※

猫と家族の距離を描いた話としては、ミルと父や、猫が運んだ茶のボタンも、静かな読後感が残ります。

言葉にできなかった親の思いという点では、父が捨てなかった種袋も、あわせて読んでいただけたら嬉しく思います。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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