
妻が逝ったのは、三年前の桜が散った頃のことだった。
俺はその日から、ほとんど誰とも口をきかなくなった。
海まで徒歩七分の借家には、十五年連れ添った柴犬の、のぶだけが残った。
俺の名前は史郎、六十六歳。福岡県糸島市の芥屋という小さな漁村で生まれて、そのまま六十六年、ここを離れたことがない。
地元の新聞販売店で二十五年、朝刊と夕刊を配り続けて、二年前に引退した。
朝は三時に起きて、原付バイクで決まったルートを回る。
海沿いの国道二〇二号線を北へ、芥屋の漁港の脇を抜け、二丈の山あいの集落まで、片道二十三キロ。
雨の日も、台風の日も、雪の朝も、休んだのは妻が倒れたあの一週間だけだった。
新聞配達という仕事は、誰にも見られない仕事だ。
真っ暗な道を一人で走り、まだ寝静まっている家々の郵便受けに、ことりと音を立てて新聞を差し込んでいく。
配達中、人とすれ違うことは、ほとんどない。
誰かに「ありがとう」と言われたことも、ない。
俺はそれでよかった。むしろ、人と話すよりも、暗い海の匂いの中を一人で走っている時間のほうが、自分には合っているのだと、ずっと思っていた。
カブのエンジン音と、波の遠い気配と、たまに過ぎる夜釣りの軽トラのライト。
それで世界が満ちていれば、俺には充分だった。
妻の凪子は、寡黙な俺と違って、よく笑い、よく喋る人だった。
俺が黙って湯呑みを差し出せば「ああ、麦茶ね、今朝は冷たいのが欲しかったとね」と、聞いてもいないことまで言葉にした。
毎朝、俺が配達から戻ってくる六時前には、のぶを連れて海岸を散歩していたらしい。
のぶは、十五年前の冬、芥屋の堤防の下で凪子が拾ってきた捨て犬だった。
段ボール箱の中で震えていた仔犬を、凪子は黙って胸に抱えて帰ってきて、「お父ちゃん、この子はうちの子になります」とだけ言った。
俺は反対する間もなく、ただ「うん」と頷いていた。
玄関の引き戸を開けると、土間に潮の匂いを連れた凪子が立っていた。
裸足の足の裏に、海岸の砂が薄く付いていた。
「お父ちゃん、お疲れさま。今日も無事に帰ってきてくれてありがとう」
十五年、判で押したように、毎朝、同じ言葉だった。
俺は「うん」とか「ああ」とか、それくらいの返事しかしなかった。
ありがとう、と言われると、なんだか面映ゆくて、目を合わせられなかったのだ。
一度、台風の夜のことだった。
横殴りの雨で全身ずぶ濡れになって帰った俺を、凪子は無言で迎え、土間で外套を脱がせ、肩から大判のバスタオルを掛けた。
その夜だけは「ありがとう」とは言わなかった。
かわりに、「あんた、よう帰ってきたねえ」と、ぽつり、そう言った。
俺はその時もただ、「うん」とだけ答えた。
あとから思えば、あの夜の凪子の顔は、笑っていたのに、泣きそうにも見えた。
けれど、台風の風の音にかき消されて、俺はその顔の意味を、深く考えなかった。
凪子に膵臓癌が見つかったのは、六十三歳の冬。
見つかった時には、もう手の施しようがなかった。
入院から三か月で、桜の散り始めた朝、病室で逝った。
逝く前日の夜、凪子は俺の手を握って、何か言いたそうな顔をしていた。
けれどモルヒネで眠っていて、結局その言葉は、空気のまま消えた。
俺は、彼女の唇が小さく動くのを、薄暗い病室の蛍光灯の下で、ただ見つめているだけだった。
俺はそのとき、いつものように「うん」とだけ言って、彼女の手を握り返した。
──「うん」では足りなかったことに、俺はずっと気づかないままだった。
葬儀のあと、家に戻ると、土間にはもう、誰もいなかった。
のぶだけが、玄関の三和土に伏せて、引き戸の方をじっと見ていた。
引き戸が開く音を、まだ待っているような目だった。
俺は、それから三年、ほとんど誰とも口をきかずに暮らした。
引退してから、俺は急に時間を持て余すようになった。
のぶの散歩は、凪子が生きていたうちは妻の役目で、俺は触ったこともなかった。
けれど妻が逝ってからは、毎朝五時半、のぶの首にリードを掛けて、芥屋海岸まで歩くようになった。
のぶはもう十五歳で、白内障で目が見えにくくなりつつある。
けれど波音のする方向だけは、まだはっきり分かるらしく、海岸に出ると尻尾を一度だけ振った。
※
五月の終わり、ある朝のことだった。
遠縁の親戚が古い甕を取りに来るというので、台所の流しの下を片付けていた。
奥に、押し込まれた古い瀬戸物の漬物樽を見つけた。
俺の腰の高さほどある、紺色の釉薬の剥げた、ずいぶん古い樽だ。
凪子の母から譲り受けた、嫁入り道具の一つだと、結婚した頃に聞いた覚えがある。
俺は十五年、その樽を見たことがなかった。
蓋を開けると、中身は漬物ではなかった。
──貝殻だった。
白い小さな桜貝、いびつな巻貝、桃色のひだのある二枚貝、灰色の月日貝。
それから、波で角の取れた小石、流木の小片、半透明のシーグラス。
かすかに、潮の匂いが、まだ残っていた。
樽の内側の壁には、妻の鉛筆の細かい字で、日付と「八個」「十二個」「五個」と書き込まれていた。
いちばん古い日付は、十二年前の春。
いちばん新しい日付は、凪子が入院する前日、桜の蕾がほころび始めた朝だった。
俺はその場にしゃがみ込んだ。
のぶが、俺の脛に頭を寄せてきた。
樽の中の貝殻を、両手ですくって、息を詰めて数えた。
四千個は、優に超えていた。
正確な数は分からないが、十二年分のほぼ毎日、凪子は一つ、また一つと、海岸で何かを拾っていたことになる。
俺は、彼女が毎朝海岸を歩いていたことは知っていたが、何をしていたかは、考えたこともなかった。
桜貝の一つ一つに、凪子の指紋が、薄く残っているような気がした。
潮の匂いの奥に、彼女の手の匂いが、まだ生きているような気がした。
※
翌朝、いつもより少し早く家を出て、海岸まで歩いた。
五月の終わりの朝の海は、まだ冬の冷たさを少し残していた。
渚の方に、近所の魚屋の女将・つるさんが立っていた。
つるさんは凪子と同じ年で、十年以上の散歩仲間だったらしい。
俺はぶっきらぼうに、漬物樽のことを話した。
つるさんは「ああ、あれね」と、波打ち際を見ながら、皺の深い顔で笑った。
「凪子さん、毎朝、犬の散歩しながら拾うとったよ。一日に何個、ち決めとったみたい」
俺は黙って聞いていた。
「あんね、史郎さん」
つるさんは少し声を落とした。
「凪子さん、ここで毎朝、あんたの音、聴いとったよ」
「──音?」
「あんたの原付の音たい。三キロ先の今津橋の方から、おまえさんのバイクの音、聞き分けられる、ち言うとった」
俺は、波音の中で、自分の聞き間違いかと思った。
原付の音など、どれも似たようなものだ。
新聞販売店には十台以上のバイクがある。みな同じカブだ。
けれどつるさんは、まじめな顔で続けた。
「凪子さん、あんたのカブだけ、エンジンの音が少し高い、ち言うとった」
「十五年も毎朝聴いとったら、そりゃあ、分かるばい、と笑うとった」
「雨の朝は、エンジン音が水の膜の向こうに沈むけん、いつもより耳を澄ましとった、ち」
つるさんは、足元の桜貝を一つ拾って、俺の手のひらにそっと置いた。
「あんたの音が聞こえたら、今日も無事、ち安心して、家に帰っとったとよ」
「貝殻はね、その日の安心の数たい」
「波が荒れた日や、雪の朝は、二個、三個と多めに拾うとった」
俺は何も言えなかった。
のぶが、波の方を向いて、しばらく動かなかった。
つるさんは、もう一度だけ、こちらを見て言った。
「あんたは知らんかったろうけどね、凪子さんは、あんたの音で一日を始めとったよ」
「あんたの音が三キロ先で響くまで、ここで貝殻を探しよったとよ。音が聞こえたら、その日の貝殻を樽に入れて、家に戻りよった」
俺は、自分が暗い道を一人で走っていたつもりだったのが、ずっと、海から聴かれていたのだという事実に、足の裏が、砂に少し沈むのを感じた。
誰にも見られない仕事だと思っていた。
けれど、たった一人、毎朝、三キロ先の波打ち際で、俺のカブの音を聴いている人がいたのだ。
その人は、もう、いない。
※
家に戻って、もう一度、漬物樽の中身を、畳の上に静かに広げた。
底のほうに、貝殻に紛れて、白い陶片が一枚だけ入っていた。
欠けた茶碗の破片らしい。
裏返すと、妻の万年筆で、薄く滲んだ字で「ありがとう」と書いてあった。
俺の名前ではなく、ただ「ありがとう」とだけ。
陶片の下に、薄い和紙が四つ折りに挟まれていた。
広げると、震える字で、こう書かれていた。
「のぶへ。お父ちゃんは、私の声を聴くのが下手な人。だから、私が逝ったあとは、私の代わりに、海の音を聴いてあげてね。お父ちゃんが、毎朝ちゃんと帰って来てくれるように、四千の音を、貝殻に変えて置いておきます。お父ちゃんが見つけられたら、一緒に海まで連れて行ってあげてね。 凪子」
日付は、入院する三日前のものだった。
のぶは、和紙を見ても、別に何もしなかった。
ただ、俺の手の匂いを、ふっと嗅いだ。
俺は、その夜、たぶん三年ぶりに泣いたのだと思う。
声は出さなかった。
畳の上に座って、漬物樽を抱えるようにして、肩だけが揺れた。
のぶが、ゆっくりと、俺の膝の上に顎を乗せた。
──十五年、毎朝の「ありがとう」に、俺は一度も、ちゃんと返事をしていなかったのだ。
俺の「うん」は、ずっと、海の音の中に、置き去りにされていたのだ。
※
翌朝、俺はのぶを連れて、芥屋海岸へ歩いた。
のぶは目が見えにくいのに、波の方角だけは、はっきり分かるらしい。
今朝の海は、淡い銀色だった。
潮の引いた砂の上に、小さな桜貝が一つ、落ちていた。
俺は腰を屈めて、それを拾い、上着のポケットに入れた。
のぶ。
もう少しだけ、二人で歩こうな。
俺は、たぶん、これから先の毎朝、一日に一個ずつ、貝殻を拾うのだと思う。
四千の音を、四千の朝に変えて、漬物樽に返していくのだ。
凪子に、いまさら返事をするように。
「うん」とか「ああ」とかではなく、ちゃんと、貝殻の数で。
のぶが、俺の足首にそっと寄りかかった。
波が、ひとつ、また、ひとつ、寄せて来た。
──俺はその音の中で、初めて、妻の声を聴いたのかもしれない。