妻が拾った4380の音

静かな海辺の散歩

妻が逝ったのは、三年前の桜が散った頃のことだった。

俺はその日から、ほとんど誰とも口をきかなくなった。

海まで徒歩七分の借家には、十五年連れ添った柴犬の、のぶだけが残った。

俺の名前は史郎、六十六歳。福岡県糸島市の芥屋という小さな漁村で生まれて、そのまま六十六年、ここを離れたことがない。

地元の新聞販売店で二十五年、朝刊と夕刊を配り続けて、二年前に引退した。

朝は三時に起きて、原付バイクで決まったルートを回る。

海沿いの国道二〇二号線を北へ、芥屋の漁港の脇を抜け、二丈の山あいの集落まで、片道二十三キロ。

雨の日も、台風の日も、雪の朝も、休んだのは妻が倒れたあの一週間だけだった。

新聞配達という仕事は、誰にも見られない仕事だ。

真っ暗な道を一人で走り、まだ寝静まっている家々の郵便受けに、ことりと音を立てて新聞を差し込んでいく。

配達中、人とすれ違うことは、ほとんどない。

誰かに「ありがとう」と言われたことも、ない。

俺はそれでよかった。むしろ、人と話すよりも、暗い海の匂いの中を一人で走っている時間のほうが、自分には合っているのだと、ずっと思っていた。

カブのエンジン音と、波の遠い気配と、たまに過ぎる夜釣りの軽トラのライト。

それで世界が満ちていれば、俺には充分だった。

妻の凪子は、寡黙な俺と違って、よく笑い、よく喋る人だった。

俺が黙って湯呑みを差し出せば「ああ、麦茶ね、今朝は冷たいのが欲しかったとね」と、聞いてもいないことまで言葉にした。

毎朝、俺が配達から戻ってくる六時前には、のぶを連れて海岸を散歩していたらしい。

のぶは、十五年前の冬、芥屋の堤防の下で凪子が拾ってきた捨て犬だった。

段ボール箱の中で震えていた仔犬を、凪子は黙って胸に抱えて帰ってきて、「お父ちゃん、この子はうちの子になります」とだけ言った。

俺は反対する間もなく、ただ「うん」と頷いていた。

玄関の引き戸を開けると、土間に潮の匂いを連れた凪子が立っていた。

裸足の足の裏に、海岸の砂が薄く付いていた。

「お父ちゃん、お疲れさま。今日も無事に帰ってきてくれてありがとう」

十五年、判で押したように、毎朝、同じ言葉だった。

俺は「うん」とか「ああ」とか、それくらいの返事しかしなかった。

ありがとう、と言われると、なんだか面映ゆくて、目を合わせられなかったのだ。

一度、台風の夜のことだった。

横殴りの雨で全身ずぶ濡れになって帰った俺を、凪子は無言で迎え、土間で外套を脱がせ、肩から大判のバスタオルを掛けた。

その夜だけは「ありがとう」とは言わなかった。

かわりに、「あんた、よう帰ってきたねえ」と、ぽつり、そう言った。

俺はその時もただ、「うん」とだけ答えた。

あとから思えば、あの夜の凪子の顔は、笑っていたのに、泣きそうにも見えた。

けれど、台風の風の音にかき消されて、俺はその顔の意味を、深く考えなかった。

凪子に膵臓癌が見つかったのは、六十三歳の冬。

見つかった時には、もう手の施しようがなかった。

入院から三か月で、桜の散り始めた朝、病室で逝った。

逝く前日の夜、凪子は俺の手を握って、何か言いたそうな顔をしていた。

けれどモルヒネで眠っていて、結局その言葉は、空気のまま消えた。

俺は、彼女の唇が小さく動くのを、薄暗い病室の蛍光灯の下で、ただ見つめているだけだった。

俺はそのとき、いつものように「うん」とだけ言って、彼女の手を握り返した。

──「うん」では足りなかったことに、俺はずっと気づかないままだった。

葬儀のあと、家に戻ると、土間にはもう、誰もいなかった。

のぶだけが、玄関の三和土に伏せて、引き戸の方をじっと見ていた。

引き戸が開く音を、まだ待っているような目だった。

俺は、それから三年、ほとんど誰とも口をきかずに暮らした。

引退してから、俺は急に時間を持て余すようになった。

のぶの散歩は、凪子が生きていたうちは妻の役目で、俺は触ったこともなかった。

けれど妻が逝ってからは、毎朝五時半、のぶの首にリードを掛けて、芥屋海岸まで歩くようになった。

のぶはもう十五歳で、白内障で目が見えにくくなりつつある。

けれど波音のする方向だけは、まだはっきり分かるらしく、海岸に出ると尻尾を一度だけ振った。

五月の終わり、ある朝のことだった。

遠縁の親戚が古い甕を取りに来るというので、台所の流しの下を片付けていた。

奥に、押し込まれた古い瀬戸物の漬物樽を見つけた。

俺の腰の高さほどある、紺色の釉薬の剥げた、ずいぶん古い樽だ。

凪子の母から譲り受けた、嫁入り道具の一つだと、結婚した頃に聞いた覚えがある。

俺は十五年、その樽を見たことがなかった。

蓋を開けると、中身は漬物ではなかった。

──貝殻だった。

白い小さな桜貝、いびつな巻貝、桃色のひだのある二枚貝、灰色の月日貝。

それから、波で角の取れた小石、流木の小片、半透明のシーグラス。

かすかに、潮の匂いが、まだ残っていた。

樽の内側の壁には、妻の鉛筆の細かい字で、日付と「八個」「十二個」「五個」と書き込まれていた。

いちばん古い日付は、十二年前の春。

いちばん新しい日付は、凪子が入院する前日、桜の蕾がほころび始めた朝だった。

俺はその場にしゃがみ込んだ。

のぶが、俺の脛に頭を寄せてきた。

樽の中の貝殻を、両手ですくって、息を詰めて数えた。

四千個は、優に超えていた。

正確な数は分からないが、十二年分のほぼ毎日、凪子は一つ、また一つと、海岸で何かを拾っていたことになる。

俺は、彼女が毎朝海岸を歩いていたことは知っていたが、何をしていたかは、考えたこともなかった。

桜貝の一つ一つに、凪子の指紋が、薄く残っているような気がした。

潮の匂いの奥に、彼女の手の匂いが、まだ生きているような気がした。

翌朝、いつもより少し早く家を出て、海岸まで歩いた。

五月の終わりの朝の海は、まだ冬の冷たさを少し残していた。

渚の方に、近所の魚屋の女将・つるさんが立っていた。

つるさんは凪子と同じ年で、十年以上の散歩仲間だったらしい。

俺はぶっきらぼうに、漬物樽のことを話した。

つるさんは「ああ、あれね」と、波打ち際を見ながら、皺の深い顔で笑った。

「凪子さん、毎朝、犬の散歩しながら拾うとったよ。一日に何個、ち決めとったみたい」

俺は黙って聞いていた。

「あんね、史郎さん」

つるさんは少し声を落とした。

「凪子さん、ここで毎朝、あんたの音、聴いとったよ」

「──音?」

「あんたの原付の音たい。三キロ先の今津橋の方から、おまえさんのバイクの音、聞き分けられる、ち言うとった」

俺は、波音の中で、自分の聞き間違いかと思った。

原付の音など、どれも似たようなものだ。

新聞販売店には十台以上のバイクがある。みな同じカブだ。

けれどつるさんは、まじめな顔で続けた。

「凪子さん、あんたのカブだけ、エンジンの音が少し高い、ち言うとった」

「十五年も毎朝聴いとったら、そりゃあ、分かるばい、と笑うとった」

「雨の朝は、エンジン音が水の膜の向こうに沈むけん、いつもより耳を澄ましとった、ち」

つるさんは、足元の桜貝を一つ拾って、俺の手のひらにそっと置いた。

「あんたの音が聞こえたら、今日も無事、ち安心して、家に帰っとったとよ」

「貝殻はね、その日の安心の数たい」

「波が荒れた日や、雪の朝は、二個、三個と多めに拾うとった」

俺は何も言えなかった。

のぶが、波の方を向いて、しばらく動かなかった。

つるさんは、もう一度だけ、こちらを見て言った。

「あんたは知らんかったろうけどね、凪子さんは、あんたの音で一日を始めとったよ」

「あんたの音が三キロ先で響くまで、ここで貝殻を探しよったとよ。音が聞こえたら、その日の貝殻を樽に入れて、家に戻りよった」

俺は、自分が暗い道を一人で走っていたつもりだったのが、ずっと、海から聴かれていたのだという事実に、足の裏が、砂に少し沈むのを感じた。

誰にも見られない仕事だと思っていた。

けれど、たった一人、毎朝、三キロ先の波打ち際で、俺のカブの音を聴いている人がいたのだ。

その人は、もう、いない。

家に戻って、もう一度、漬物樽の中身を、畳の上に静かに広げた。

底のほうに、貝殻に紛れて、白い陶片が一枚だけ入っていた。

欠けた茶碗の破片らしい。

裏返すと、妻の万年筆で、薄く滲んだ字で「ありがとう」と書いてあった。

俺の名前ではなく、ただ「ありがとう」とだけ。

陶片の下に、薄い和紙が四つ折りに挟まれていた。

広げると、震える字で、こう書かれていた。

「のぶへ。お父ちゃんは、私の声を聴くのが下手な人。だから、私が逝ったあとは、私の代わりに、海の音を聴いてあげてね。お父ちゃんが、毎朝ちゃんと帰って来てくれるように、四千の音を、貝殻に変えて置いておきます。お父ちゃんが見つけられたら、一緒に海まで連れて行ってあげてね。 凪子」

日付は、入院する三日前のものだった。

のぶは、和紙を見ても、別に何もしなかった。

ただ、俺の手の匂いを、ふっと嗅いだ。

俺は、その夜、たぶん三年ぶりに泣いたのだと思う。

声は出さなかった。

畳の上に座って、漬物樽を抱えるようにして、肩だけが揺れた。

のぶが、ゆっくりと、俺の膝の上に顎を乗せた。

──十五年、毎朝の「ありがとう」に、俺は一度も、ちゃんと返事をしていなかったのだ。

俺の「うん」は、ずっと、海の音の中に、置き去りにされていたのだ。

翌朝、俺はのぶを連れて、芥屋海岸へ歩いた。

のぶは目が見えにくいのに、波の方角だけは、はっきり分かるらしい。

今朝の海は、淡い銀色だった。

潮の引いた砂の上に、小さな桜貝が一つ、落ちていた。

俺は腰を屈めて、それを拾い、上着のポケットに入れた。

のぶ。

もう少しだけ、二人で歩こうな。

俺は、たぶん、これから先の毎朝、一日に一個ずつ、貝殻を拾うのだと思う。

四千の音を、四千の朝に変えて、漬物樽に返していくのだ。

凪子に、いまさら返事をするように。

「うん」とか「ああ」とかではなく、ちゃんと、貝殻の数で。

のぶが、俺の足首にそっと寄りかかった。

波が、ひとつ、また、ひとつ、寄せて来た。

──俺はその音の中で、初めて、妻の声を聴いたのかもしれない。

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