母の常連ノート

静かな海辺のカフェ風夜景

母が亡くなって、四十九日が過ぎた頃のことだった。

食堂の解体が来週に決まったという連絡が、不動産屋から届いた。

私は出版社に三日間の休みを願い出て、福井へ帰ることにした。

東京駅から金沢、そこから北陸線で小浜へ。

ホームに降りると、潮の匂いが立ちのぼってきた。

子どもの頃と、何も変わらない匂いだった。

ただ、迎えに来る人は、もう誰もいない。

改札を抜け、駅前のロータリーに立つと、五月の風が、まだ少し冷たかった。

タクシーには乗らず、私は港の方角へ、ゆっくりと歩き出した。

母の店「めぐみ食堂」は、小浜の漁港の脇に、慎ましく構えていた。

カウンター七席と、奥に座敷が一卓。

それだけの店を、母は十五年、ひとりで守り続けてきた。

私が中学のとき、父が肝臓を悪くして急に逝った。

四十九歳だった。

そのときから、母は黙々と店を続けてきた。

店の引き戸は、いつものように、少し力を入れないと開かなかった。

祖父の代から続く、この戸の建てつけの悪さも、もう来週には、なくなってしまう。

カウンターの板は、長年の魚の脂で、深い飴色に光っていた。

壁には、母が書いた「本日の一品」の紙が、まだ残っていた。

そこには「あおさのおみそ汁」とだけ、書かれていた。

母が、最後の日に出していた一品だった。

店の鍵を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

カウンターの上に、うっすらと埃が積もっている。

母がいなくなったのは、ほんの三ヶ月前のことなのに、店はもう、誰もいない時間の匂いをまとっていた。

胃癌だった。

見つかったときには、もう、できることが少なかった。

最後の三週間だけ、私は東京から戻り、母の枕元で過ごした。

最後まで、母はあまり喋らなかった。

「あんた、東京に戻りなさい」とだけ、何度も繰り返した。

それが、母の最後の言葉だった。

母は、無口な人だった。

私が小さい頃から、必要以上のことは言わない人だった。

朝、目を覚ますと、台所で味噌汁の匂いがしていた。

学校から帰ると、おやつが座卓に置いてあった。

「食べなさい」とも「お疲れさま」とも言わない。

ただ、そこに、置いてあった。

小学校の参観日のとき、私はそっと教室の後ろを振り返ったことがある。

母は来てくれていた。

ただ、誰とも話さず、廊下側の窓際に立って、ただ、私を見ていた。

他のお母さんたちが連れ立って話しているなか、母はひとり、何も言わずに、立っていた。

帰り道、私は「なんで誰とも話さないの」と訊いた。

母は「見にきたから」とだけ答えた。

それ以上のことは、何も言わなかった。

私は、その答えが、長いあいだ、不器用な言い訳だと思っていた。

店に立つようになってからも、母はそうだった。

カウンター越しに客の話を聞きはするけれど、自分から話しかけることはなかった。

私はずっと、母をそういう人だと思っていた。

愛情を表現するのが下手なだけではない──たぶん、人にあまり興味のない人なのだろうと。

中学に上がる頃には、もう諦めていた。

母から温かい言葉を引き出そうとするのを。

東京の大学に出てからは、帰省するのも、年に数回になった。

電話をしても、母は「うん」「ああ」と返すだけだった。

私は、そういう距離を、いつしか心地よく感じていた。

近くにいると、母の沈黙が、私を責めているように思える日があったからだ。

店の片付けは、ひとりでやることにした。

業者を頼むほどの家財はなかったし、何より、母の遺したものを、見知らぬ誰かに触られたくなかった。

割烹着、菜箸、年季の入った中華鍋、欠けた湯呑み。

ひとつずつ、段ボールに入れていく。

母が触れていたものが、ひとつずつ、消えていく。

その作業を、私はなぜか急いでやっていた。

ゆっくりやると、何かに飲まれそうな気がした。

カウンターの下の、いちばん奥の引き出しを開けたのは、二日目の夕方だった。

奥に、紐で十字に縛られた、ノートの束があった。

埃が積もっていて、布巾でひと拭いすると、紺色の表紙が現れた。

大学ノートが、十二冊。

いちばん上のノートを取り上げると、表紙に母の几帳面な字で、こう書かれていた。

「お客さんノート 平成二十三年 春」

私は、その文字を、しばらく、じっと見つめた。

母が、ノートをつけていたなんて、聞いたこともなかった。

紐をほどいて、いちばん古いノートを開いた。

最初のページには、店の見取り図と、テーブルごとの席番号が書かれていた。

次のページから、客の名前が並んでいた。

「中谷源造さん 六十三歳 漁師 松鶴丸の船長」

「焼き魚定食 ぶり大根 日本酒『梵』のお燗 甘いものは食べない 奥さんが糖尿病」

母の字で、淡々と、書かれていた。

私は、ページをめくる手が、止まらなくなった。

「鈴木フミさん 七十二歳 近所 夫の鈴木幸夫さん七十四歳と来店」

「おでん 大根とこんにゃくを大きめに切ること 鈴木さんは入れ歯」

「フミさん、孫の話をよくする。長男の娘の結衣ちゃん(小四)と、次男の息子の慎之介くん(小一)」

「平成二十三年六月、フミさんの夫、入院。一人で来るようになる。話し相手になってほしいような顔をしている。とくに何も訊かないようにする」

母は、何も訊かなかった。

そう、書いてあった。

訊かないことが、母の優しさだったのだ。

ノートをめくっていくうちに、私は、母の店の十五年が、ゆっくりと立ち上がってくるのを感じた。

中谷さんは平成二十六年に船を譲り、引退した。

「中谷さん、最後の漁の話を一度だけした。それから一度もしない。話したくないのかもしれない」

鈴木さんの夫は、平成二十五年に亡くなった。

「フミさん、葬式の翌週から、また来てくれた。おでんを一品多く出す。お代はいただかない」

そうやって、母は、自分の店に来てくれる一人ひとりを、書き留めていた。

四冊目のページに、もう一人、印象に残る名前があった。

「谷口康子さん 六十八歳 近所のクリーニング屋」

「うどん(柔らかめ) 卵を落とす 味は薄め お父さんの介護で疲れている」

「谷口さん、最近、髪を染めるのをやめた。何も訊かない。お代わりをそっと出す」

「平成三十年十二月、谷口さんのお父さん、亡くなる。葬式の翌日も来てくれた。湯豆腐を作った。何も訊かなかった」

ページの隅に、走り書きで、こうあった。

「谷口さん、たぶん、自分のことを話してくれる人を、もう亡くしたのだろう」

母は、客のために、ノートを書いていただけではなかった。

書くことで、彼らの孤独に、寄り添っていた。

ノートには、客の好物だけでなく、顔色や、足取りや、季節ごとの体調のことまで、細かく書かれていた。

「岡村さん、今日は咳がひどい。雑炊にして塩を少し控えた」

「井上さんの奥さん、お腹が大きくなってきた。塩を抜いた味噌汁を出した。出汁を多めに」

「岩崎さん、今日は息子と来た。久しぶりに笑っていた。煮魚、いつもより骨を丁寧に取った」

「井上さんの息子さん、中学に上がったらしい。眉毛が父親に似ている、と奥さんが嬉しそうだった」

「岩崎さんの娘さん、結婚したらしい。お酒を一杯多く頼んだ。注がずに、自分で注がせた」

「中谷さん、奥さんを亡くした。一人で来るようになる。話すことが少ない。ぶり大根を作って待つ」

ひとつひとつのページに、人の人生の節目が、淡々と書き込まれていた。

母は、客の顔を、見ていたのだった。

何も言わずに。

ただ、見て、書いて、料理に込めていた。

私は、カウンターの椅子に座り込んで、しばらく、ノートを撫でていた。

七冊目を開いたとき、見覚えのある名前が出てきた。

「林辰雄」──父の名前だった。

亡くなる前の年、父がまだ少しは元気だった頃の記述だった。

「辰雄さん、店に顔を出してくれた。久しぶりに『うまい』と言ってくれた。寡黙な人だけれど、料理を残したことは一度もない」

私は、はっとした。

母は、夫である父のことすら、客と同じノートに書いていたのだ。

それは、冷たいことではなかった。

たぶん、母にとって、「書く」ということは、その人を見続けることだった。

書くことでしか、関わり方を知らなかったのかもしれない。

父が亡くなった月のページには、こう書かれていた。

「辰雄さん、来なくなった。もう、来てくれない」

それだけだった。

けれど、その一行のあとに、小さな丸が一つ、ボールペンで打たれていた。

句点でも、文字でもない、ただの、丸だった。

私は、その丸を、長いあいだ、見つめていた。

夜になっていた。

外で、潮の匂いが濃くなっていた。

私は、最後の一冊を、いちばん最後に手に取った。

表紙には「お客さんノート 令和八年」とあった。

母が亡くなる年の、最後のノートだった。

開く前に、私は、深く息を吸った。

ここに、何が書かれているのか。

それを見ることが、怖いような気がしていた。

表紙の裏に、母の字で、こう書かれていた。

「林 涼子」

私の、名前だった。

息が、止まった。

その下に、年表のように、文字が並んでいた。

「平成二十二年四月 涼子、東京の出版社に就職。本当は近くにいてほしかったけれど、言わなかった」

「平成二十六年八月 涼子、髪を短くして帰省。何かあったのかもしれない。訊かなかった」

「平成三十年正月 涼子、男の人を連れてきた。優しそうな人だった。あとから、別れたと聞いた」

「令和三年五月 涼子、コロナで帰れず。電話の声が痩せていた。本を一冊送った」

「令和五年お盆 涼子、少し痩せた。仕事が忙しいのかもしれない。何も言わなかった」

「令和七年八月 涼子、父の十五回忌。何も訊かなかった。涼子も、何も話さなかった」

ひとつひとつの記述の合間に、小さな空白の行があった。

そこに、書かなかった言葉が、母には、たくさんあったのだろう。

ページを、めくった。

「令和八年一月 胃の検査の結果が出た。涼子には言わない」

「令和八年二月 涼子に電話。声が震えた。気づかれなかったかもしれない」

「令和八年三月 涼子、東京から戻ってきた。三週間休みを取ったらしい。やっぱり、話したい話なんて、ない」

そして、最後のページ。

書いたボールペンの色が、違っていた。

最後の三行は、震えるような、薄い字だった。

「令和八年三月十五日 涼子、お粥を作ってくれた。久しぶりに、よく食べた」

「ありがとう、とは言えなかった」

「明日もまた、来てくれるかもしれない」

母は、その翌日──三月十六日の朝、息を引き取った。

私は、最後の三行を、何度も、何度も、読んだ。

ボールペンの跡が、ノートの紙を、わずかに凹ませていた。

母は、痩せ細った指で、それでも、書こうとしていたのだった。

私のことを。

書き続けてきた、十五年間と、同じように。

涙は、すぐには出てこなかった。

私はノートを閉じて、しばらく、店の窓から外を見ていた。

海が、月明かりで、銀色に光っていた。

潮の音が、店の壁を撫でるように、聞こえていた。

母は、ここで、毎日、この音を聞いていたのだろう。

そして、客の顔を見て、彼らの暮らしを、書き続けていた。

ひとりで。

誰にも、見せずに。

そのなかに、私もいた。

母は、無口な人だった。

何も訊かない人だった。

愛情を表現するのが下手な人だと、私はずっと思ってきた。

違ったのだ。

母は、書いていた。

書くことが、母の話し方だったのだ。

そう気づいたとき、ようやく、頬に温かいものが落ちた。

「お母さん」と、私は、誰もいない店に向かって、小さく呼んだ。

返事は、なかった。

けれど、返事がないことが、母らしい答えのような気がした。

私は、ノートを胸に抱いて、店の電気を消した。

「明日もまた、来てくれるかもしれない」

その一行を、私は、自分のなかにずっと持っていようと思った。

母の店は、来週、なくなる。

けれど、母の言葉は、私のなかに、残った。

ずっと、書かれていた。

私は、ずっと、見られていた。

東京に戻る列車のなかで、私はノートを膝に乗せ、また最初から開いた。

中谷さんのページに、鈴木さんのページに、谷口さんのページに、岡村さんのページに、岩崎さんのページに。

母の十五年が、潮の匂いと一緒に、よみがえってきた。

母は、店をやっていたのではない。

母は、見ていた人を、ずっと忘れないように、書き続けていたのだった。

そのなかに、私もいた。

それで、十分すぎた。

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