
少し前の話だ。
近所のスーパーで、小さな飴玉をひとつもらった。
たったそれだけのことを、俺は半年たった今も、毎日のように思い出している。
俺は二十四歳で、解体工事の現場で働いている。
髪は金に近い茶色で、眉は細く、首には白いタオルを巻いている。
見た目はどう見ても、ヤンキーだ。
この見た目のせいで、子どもに泣かれたことが二度ある。
だから俺は、普段、人に声をかけるのが苦手だ。
これは、セルフレジの飴玉をもらった日に、自分の思い込みに気づかされた話だ。
金髪と作業着
スーパーに行くのは、いつも仕事帰りだ。
作業着のまま、粉塵で白くなった安全靴で、店に入る。
入口で、ベビーカーを押した母親が、さりげなく道を空ける。
それにはもう、慣れっこになっていた。
レジの店員さんも、あまり目を合わせない。
別に、腹は立たない。
こっちが相手の立場でも、たぶん、同じようにする。
ただ、ほんの少しだけ、寂しい。
去年の夏、現場近くの公園で、三歳くらいの男の子が俺の顔を見て泣き出したことがある。
母親が慌てて抱き上げ、小さく頭を下げた。
本当は、俺のほうが「すみません」と言いたかった。
言えないまま、背中を向けた。
だから俺は、なるべく静かに、早く買い物を済ませるようにしていた。
弁当と缶コーヒー、それに翌朝のパンがひとつ。
それが、毎日の買い物のすべてだった。
同じ現場の先輩には、よく笑われた。
「お前、顔は怖いのに、買うもんが小学生だな」
言い返せないまま、俺はいつも缶コーヒーを握りしめた。
ばあちゃんは、俺が高校を出るまで、一緒に暮らしていた。
腰の曲がった小さな人で、よく俺の頭をはたいた。
そのばあちゃんの口癖が、これだった。
「困ってる人がいたらね、考える前に手を出しな」
俺は笑って、聞き流していた。
「考えてからじゃ、遅いこともあるんだよ」
そう言いながら、ばあちゃんは、近所の人の荷物をいつも勝手に持っていた。
小学生のころ、雨の日の駅前で、知らない人の傘を勝手に開いてやったこともある。
「知らないおばさんだよ」と俺が言うと、ばあちゃんは言った。
「知らないから、いいんじゃないか」
その意味は、当時の俺には、さっぱり分からなかった。
そのばあちゃんも、三年前に旅立った。
俺はその言葉を、ずっと、ただの昔話としてしまい込んでいた。
新しい精算機
その日は、木曜の夕方だった。
うちの町のスーパーに、セルフの精算機が入ったばかりだった。
店員さんがバーコードを通して、支払いだけ客が機械でする方式だ。
夕方のスーパーは、いつも少しだけ騒がしい。
カートのきしむ音、冷蔵ケースのモーター音、特売を告げる店内放送。
その真ん中で、新しい機械だけが、よそ行きの顔をして光っていた。
入口の横には、使い方の張り紙が何枚も貼られていた。
「お支払いは、お客様ご自身で」と、大きな字で書いてある。
年配の客ほど、その字の前で足を止めていた。
俺は弁当と缶コーヒーを持って、機械の前に立った。
ボタンの位置が分からなくて、少し手間取った。
そのとき、隣の機械から、小銭の落ちる音がした。
カラン、と床に転がる、乾いた音。
横目で見ると、八十歳くらいの男性が立っていた。
灰色のカーディガンを着て、杖を機械の縁に引っかけている。
手足がうまく動かない病気なのか、指先がずっと震えていた。
左手の薬指には、細い銀の指輪が、ゆるく回っていた。
百円玉を、投入口に近づける。
入らない。
指先から滑って、また床に落ちる。
カラン。
拾おうとして、男性の体が大きく傾いた。
後ろには、順番を待つ人が二人、並び始めていた。
俺は、缶コーヒーを握ったまま、動けなかった。
「手伝ったほうがいいかな」
頭の中で、そう思った。
その直後に、別の声が割り込んだ。
いきなり声をかけて、怒鳴られたらどうする。
余計なお世話だと言われたら、どうする。
こんな見た目の俺が近づいたら、怖がらせるかもしれない。
ばあちゃんの声は、どこかへ引っ込んでしまった。
結局、俺は何もできずに、ぼんやり突っ立っていた。
そのとき、男性がふっと顔を上げて、俺を見た。
そして、小さな声で言った。
「ごめんねぇ……」
床に落ちた小銭
一瞬、何を謝られたのか分からなかった。
すぐに、頭が真っ白になった。
邪魔をしているのは、俺じゃない。
この場を困らせているのも、俺じゃない。
ただ、うまく動かない手で、懸命に小銭を入れようとしている人が、いるだけだ。
それなのに、俺は、勝手に「怖がられるかもしれない」と決めつけた。
何もしていないのに、一人で身構えていた。
そんな俺に、頭を下げてくれたのは、この人のほうだった。
「俺、最低だな」
心の中でそうつぶやいたら、やっと身体が動いた。
缶コーヒーを台に置いて、床にしゃがんだ。
転がった百円玉と十円玉を、ひとつずつ拾い集める。
男性の手の届く高さまで、そっと差し出した。
「大丈夫ですか。入れるの、手伝いますね」
声が、思ったより小さくなった。
男性は、ほっとしたように、目尻を下げた。
「ありがとうね……本当に、助かったよ」
俺は、震える指に重ならないように、投入口の下で小銭を支えた。
ひとつ入れるたびに、ピッと音が鳴る。
後ろの二人は、何も言わずに待っていてくれた。
会計が終わると、男性はカーディガンのポケットを探った。
震える指先で、小さな包みを取り出す。
「これ、よかったらもらってくれる?」
スーパーでよく売っている、ごく普通のイチゴ味の飴玉だった。
「いや、俺は……」
断ろうとして、男性の顔を見た。
その目は、まっすぐで、少し照れていた。
「ありがとうございます」
受け取った飴玉が、妙に重く感じられた。
たった数十円の小銭を拾っただけなのに。
本当は、もっと早く、もっと自然に、手を出すべきだったのに。
それでも男性は、帰り際まで、何度も繰り返した。
「ごめんね」
「ありがとうね」
その声が、店を出てからも、耳に残っていた。
セルフレジの飴玉の行方
家に帰っても、飴玉は食べられなかった。
作業着のポケットに入れたまま、一週間が過ぎた。
セルフレジの飴玉は、日に日に重くなっていくようだった。
包み紙を開けるのが、なんとなく、もったいなかった。
いや、違う。
あの日の自分と向き合うのが、怖かったのだと思う。
夜、布団の中で、人の親切にまつわる話ばかり読んだ。
線路の向こうで二本の指が上がるや、夫は靴を外へ向けて並べたの話だ。
どの話にも、先に動いた誰かがいた。
俺は、先に動けなかった側の人間だった。
現場では、近所のお年寄りから、粉塵の苦情を受けた。
「うるさいし、埃もひどいのよ」
普段なら、顔をそらして黙る場面だ。
その日の俺は、先に頭を下げた。
「すみません。すぐ、水を撒きます」
お年寄りは、拍子抜けしたように、声をやわらげた。
「……あんた、ちゃんとしてるのね。ご苦労さん」
たったそれだけで、肩の力が抜けた。
先に謝るというのは、負けることではないのかもしれない。
昼休み、先輩にあの日のことを話した。
先輩は、笑わずに聞いてくれた。
「俺も、先に謝れなかったことがあるよ」
「いつの話です?」
「ずっと前だ。まだ、謝れてない」
先輩は缶コーヒーを飲み干して、空を見上げた。
親方にも、現場で聞かれた。
「お前、最近、静かだな」
「ちょっと、考え事を」
「ほう。珍しいこともあるもんだ」
親方は笑って、俺の肩を叩いた。
一週間後の同じ曜日、俺はまた、あのスーパーに行った。
入口で買い物かごを取ったとき、精算機の前に、灰色のカーディガンが見えた。
あの男性だった。
今日も、小銭を取り落としている。
カラン、と百円玉が転がった。
そのときだった。
考えるより先に、足が動いていた。
俺は床の百円玉を拾って、男性の隣に立った。
「手伝います。ゆっくりで、大丈夫ですよ」
男性は驚いたように、俺の顔を見た。
それから、くしゃっと笑った。
「ああ、この間の人だ」
「覚えててくれたんですか」
「忘れないよ。飴、食べてくれたかい?」
俺は、胸ポケットを叩いた。
「いえ、まだ。もったいなくて」
「ははは。食べてくれていいのに」
「近いうちに、食べます。ちゃんと」
「俺は、渡辺といいます」
「小野寺です。この近くに、娘夫婦と住んでるんだよ」
会計を終えた小野寺さんは、杖をつきながら、ゆっくり出口へ向かった。
その背中が、少しだけ軽く見えた。
俺は、その背中に、頭を下げた。
先に謝ったのは、金髪の俺ではなく、手の震えるその人のほうだった。
その夜、俺は初めて、包み紙を開けた。
イチゴの甘さが、舌の上でゆっくり広がった。
ばあちゃんの声が、やっと戻ってきた気がした。
「困ってる人がいたらね、考える前に手を出しな」
今度は、聞き流さなかった。
包み紙は、捨てずに財布に入れてある。
折り目がつかないように、薄く伸ばしてある。
あのセルフレジの飴玉は、今も、俺のいちばん甘い宿題だ。