兄が遺した銀の鈴

雨の街角の静かなカフェ

雨が屋根を打つ音で、いつもより一時間早く目が覚めた。

四月の終わり、横浜の元町は朝靄に深く沈んでいた。

カウンターの奥に置いた籐の籠で、昴が薄目を開けて私を見上げた。

三毛のオス猫で、もう十七歳になる。

パン屋を一人で開ける前の小さな儀式として、私は昴の籠の脇にぬるま湯を一さじだけ注いだ。

赤い古びた革の首輪に、銀色の小さな鈴が一つ揺れている。

かちり、と乾いた金属の音がした。

「すばる堂」という看板を、私は元町の坂道の中ほどでひっそり掲げている。

店の名は、亡くなった兄が二十三年前に拾ってきた、この猫の名から取った。

兄が亡くなって、ちょうど五年になる。

兄の祐介は、東京西郊の大学院で天文学を研究していた。

三十五歳の春の朝、兄は自分の研究室の机に向かったまま、二度と動かなかったという。

拡張型心筋症だった、と後で主治医に聞かされた。

兄は子供の頃から無口で、表情があまり動かない人だった。

家族の食卓でも、ぽつりとひと言だけ感想を呟いて、あとは黙々と箸を運ぶ。

けれど、その兄が、月に二度か三度の週末に、昴のドライフードの缶詰を抱えて私のパン屋を訪ねてきていた。

店の隅の高いスツールに腰を下ろし、窓の外の坂道をぼんやり眺めて、ブラックコーヒーを一杯だけ飲んで帰る。

会話らしい会話はあまりなかった。

「研究で疲れたから、息抜きに」と兄はいつも同じ短い言葉で、来訪の理由を説明した。

私は私で、「そう、お疲れさま」と笑って受け流すだけで、それ以上は問わなかった。

兄はパンを買うことが滅多になく、たまに私が試作中のクルミとイチジクのカンパーニュを一切れ、皿にのせて差し出すと、二口ほど黙って噛みしめてから、ふっと口元を緩める。

その緩み方は、子供の頃の食卓の頷き方と、まったく同じだった。

不思議だったのは、兄がスツールに座っている間、昴がカウンターの奥から音もなく現れて、兄の足元の床に丸まって眠ることだった。

昴は私には決して懐かなかった。

私が毎朝餌を出し、毎晩水を替え、雨の日には濡れた毛をタオルで拭いてやっているのに、抱き上げようとすれば腕の中をするりと抜けた。

それなのに、兄が来た日だけ、昴は別の生き物のように兄に寄り添い続けた。

私は時々、それを少しだけ拗ねながら見ていた。

世話をしているのは私なのに、と。

葬儀の日、横浜から東京西郊まで雨が一日中降っていた。

研究室の片付けは、兄の同期と後輩たちが二日で済ませたと聞いた。

遺品らしい遺品は、本がたくさんと、銅製の手のひらサイズの古びた温度計が一本だけだった。

水銀柱の台座の側面に、兄の細い字で「2018.4」と日付が刻まれていた。

その意味は、当時の私には分からなかった。

私は温度計だけを横浜の店に持ち帰り、レジ脇の木の棚にそっと置いた。

その隣には、昴の予備の首輪を並べて飾った。

赤い革に銀の鈴が一つ付いた、古びた小さな首輪。

兄が大学二年生の頃、下宿先の路地裏で雨に濡れていた小さな三毛を抱き上げた日、自分の食費を削って買ってきた最初の贈り物だった。

古びた首輪と古びた温度計は、レジの脇でただ並んだまま、五年間黙っていた。

店を訪れる客の誰一人、その意味を私に問うことはなかった。

私自身も、もう問おうとはしていなかった。

その朝、ドアの上のカウベルが鳴ったのは、開店三十分前の六時半過ぎだった。

「すみません、まだ準備中ですよね」と、雨に濡れた若い男が、傘の柄を握ったまま深く頭を下げた。

三十代半ばだろうか、肩から大きな黒い鞄を斜めにかけている。

「吉村祐介さんの、妹さんでいらっしゃいますか」と男は私の胸の名札に視線を落として静かに言った。

その名前を、私は五年ぶりに、自分以外の誰かの口から聞いた。

男は若山亮平と名乗った。

兄の研究室で五年下の後輩だった人で、今は地方の国立大学で天文学の助教を務めているという。

「先月、卒業した大学の天文台図書館を改装することになりまして」と若山さんは言葉を選びながら口を開いた。

「奥の倉庫の段ボールの底から、吉村さんの古い研究ノートが一冊出てきたんです」

濡れた鞄から取り出されたのは、A5サイズの黒い革表紙のノートだった。

角が長い時間で擦れて、革は飴色に変わっていた。

「これ、ご家族にお返しすべきだと思って、横浜まで」

言葉に詰まった若山さんに、私は何度も小さく頷くことしかできなかった。

店の奥のカウンター席に座ってもらい、淹れたばかりのコーヒーを一杯出した。

若山さんは三十分ほど店にいて、兄の研究室での無口な姿を二つ三つ思い出話のように話して、雨が止みかけた頃に帰っていった。

その間も、その後も、私は黒い革のノートをまだ開けずに、ただ表紙を撫でていた。

店を閉めた夕方、奥の小さな住居でノートを膝に乗せた瞬間、昴が私の足元に音もなく現れた。

そして、ふだんは決して甘えない昴が、ゆっくりと私の膝の上に乗ってきた。

五年ぶりに、私の膝でこの猫の重みを感じた。

昴は十七歳の年齢を全身に湛えながら、少し時間をかけて私の太腿に身体を沈めた。

銀の鈴が、ちりんと小さく鳴って、すぐに静まった。

私は震える指で、ノートの最初のページを開いた。

細かい数字と式が並んでいた。

星団の距離と年齢を測るための計算式だった。

「すばる星団」と冒頭に書かれたページが何枚も続いた。

兄が大学院に入った頃から書き始めたものらしい。

研究の途中の余白に、兄は時折、雑記のような短い文を書き残していた。

「妹のパン屋に行ってきた。妹は元気そうにしていた、安心した」

「妹のクロワッサンは、母が朝に焼いていたパンの匂いと少しだけ似ている」

「妹のところの昴は、十二歳になった。よく食べ、よく眠る」

「妹は今日、新作のレーズンパンを焼いていた。昴は私の足元で、いつもより少し長く眠った」

そんな短い言葉が、研究の合間にぽつりぽつりと挟まれていた。

私は手の震えを止められなくなった。

そして、ノートの最後のページに辿り着いた。

そこには、研究のための文字ではない言葉が、いつもより少しだけ大きな字で書き込まれていた。

「2018年4月。主治医から、心筋症の進行が思っていたより早いと告げられた」

「五年か、長くて七年。突然になることもあるそうだ」

「妹には、まだ言わない」

その下に、こう続いていた。

「私はもう、新しい論文を書くことを目的にしないことに決めた」

「残された時間で、私が一番やり残しそうなことを、ひとつだけやる」

「昴が、私より長生きしてくれますように」

「妹に、ちゃんと懐いてくれますように」

「私は、もう、それだけが心残りだ」

「だから、私は毎週末、妹の店に通うことにする」

「私の隣で眠った昴の毛皮の匂いを、少しずつ妹の店に移していく」

「妹がそれと気づかぬうちに、昴の心の中で、私の場所を妹に明け渡していく」

「それが、私にできる、たぶん最後のひとつだ」

ノートを閉じるまでに、どれほどの時間がかかったか、私はもう覚えていない。

窓の外で雨は止んでいて、街灯の橙色が濡れた石畳に滲んでいた。

昴は、私の膝の上で深く眠っていた。

その重みは、五年前に兄の足元で眠っていた小さな三毛の重みに、確かにつながっていた。

銀の小さな鈴が、私の太腿の上で、ほんの少しだけ揺れた。

かちり、と乾いた音が、店の静けさにそっと溶けていった。

兄は、無口な人だった。

けれど無口な人は、言葉のない場所で、ずっと働き続けていたのだ。

毎週末、店の隅のスツールに腰かけて、私には何ひとつ言わずに、自分の毛皮の匂いを少しずつ私の方へ寄越し続けていた。

三年間。

主治医に病を告げられてから亡くなる日まで、兄はその時間のほとんどを、自分の論文ではなく、昴の心を私に渡すために削っていた。

論文の続きが書けないことを、兄は誰にも嘆かなかったはずだ。

私はそのことに、五年もの間、気づかぬまま過ごしていた。

赤い古びた首輪に、銀の小さな鈴。

あの鈴は、兄が学生時代の自分の食費を削って買った、二十三年前の最初の贈り物だった。

店のレジ脇の棚で、首輪と銅の温度計はもう五年、並んで黙っていた。

けれど黙っていたのは、私の方だったのだと、ようやく今、分かった。

翌朝、私は雨上がりの店に一番早く灯りを点けた。

レジ脇の棚から赤い首輪を取り、昴の籠の脇にそっと置き直した。

窓を開けると、洗われたばかりの空が白く澄んで、横浜港の方から潮の匂いが坂を上ってきた。

カウンターの奥からゆっくりと足を運んできた昴が、私の手の甲に額をすり寄せた。

銀の鈴が、もう一度、かちりと鳴った。

その音は、五年前のあの朝から、ずっと私の店の中で、鳴り続けていた音だった。

ただ私が、それを兄の足音だと、気づけなかっただけだったのだ。

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