灯台守の爺と孫の小舟

夕暮れ時の海辺の庭

潮の匂いが、灯台の螺旋階段を昇ってくる。

その匂いを、俺は四十年、毎晩嗅いできた。

鉄の手すりは、夏でもひやりと冷たい。

百八十段。

膝が笑うようになった今でも、俺はその段を、一段も飛ばさずに昇る。

岬の突端で、俺はひとつの灯を守ってきた。

半島の、どんづまり。

村のいちばん外れの、そのまた先。

岩ばかりの鼻先に、白い塔がぽつんと立っている。

昭和も四十年を過ぎた頃には、もう若い者はみんな本土へ渡っていったが、俺はこの岩の上に残った。

灯を消せば、沖の船が岩に乗り上げる。

だから俺は四十年、日が暮れる前に必ず灯を点けてきた。

点け忘れた夜は、一度もない。

台風の晩も、熱を出して唸った晩も、俺は這ってでも塔を昇った。

そういう仕事だ。

この灯だけは、俺の代わりが誰もいなかった。

俺には、拓という孫がいた。

娘の、忘れ形見だ。

澪が向こうへ発ってから、俺がこの手で育てた。

澪は、体の弱い子だった。

春先にこじらせた風邪が、そのまま長い床につながって、桜の散る頃に、静かに眠るように逝った。

拓が、まだ三つの時だった。

母親の顔を覚える暇もない歳で、あの子は俺の膝の上に残された。

婿は、その二年前に海へ還っていた。

時化の晩に、網を上げに出て、そのまま戻らなかった。

沖で光った稲妻を、俺は今でも覚えている。

だから拓の家族は、この岩の上の、皺くちゃの爺ひとりきりになった。

俺は灯を点けることと、粗末な飯を炊くことしか知らなかった。

おむつの替え方も、子守唄も、何ひとつ知らなかった。

夜中に拓が泣くと、俺は塔の灯を指さして、あれが母ちゃんだと嘘をついた。

回る光を見上げているうちに、あの子はいつの間にか泣き止んで眠った。

最初の冬は、ひどいものだった。

あの子は熱を出しては、夜通し咳き込んだ。

本土の医者を呼ぶにも、時化れば連絡船は来ない。

俺は濡れた手ぬぐいを額に載せ替えながら、灯だけは絶やすまいと、何度も塔と布団を往復した。

澪を眠らせてしまった熱を、俺は骨の髄まで恐れていた。

だから拓の小さな胸が上下するのを、朝まで手のひらで確かめていた。

夜が明けて、あの子が「腹減った」と言った時の安堵を、俺は今も忘れない。

それでも日は暮れる。

日が暮れれば、灯を点ける。

灯を点ければ、腹の減った孫が泣く。

俺はその繰り返しの中で、いつの間にか爺から親らしきものに変わっていったのだと思う。

棚には、あの子の誕生日ごとに彫った小舟が、歳の数だけ並んでいた。

流木を削って作った、俺の下手くそな舟だ。

節くれだった指では、帆はいつも少し歪んだ。

それでも拓は、それを宝物みたいに並べ替えては、飽きもせず眺めていた。

小舟が増えるということは、あの子が一つ大きくなるということだった。

思えば、澪が小さい頃にも、俺は同じ小舟を彫っていた。

あの子はそれを枕元に並べて、波の音を聞きながら眠る子だった。

娘に彫った舟と、孫に彫った舟。

同じ手で削った舟が、二つの時代の枕元を、静かに照らしていたことになる。

俺の下手な小刀は、それくらいしか、家族にしてやれることがなかった。

俺の作る飯は、我ながらひどいものだった。

味噌汁はいつも塩辛く、飯は芯が残っていた。

煮魚は焦がすし、卵焼きはいつも黒かった。

「じいちゃんのおかず、しょっぱい」

拓は口を尖らせながら、それでも茶碗を空にした。

残せば俺が黙り込むのを、あの子は幼いなりに知っていたのだと思う。

しょっぱいしょっぱいと笑いながら、二人で膳を平らげた。

灯台の狭い台所に、湯気だけが温かかった。

外は年じゅう、風が唸っていた。

その風の音の中で、二人分の箸の音だけが、やけにはっきりと聞こえた。

海の凪いだ朝には、俺はあの子を伝馬船に乗せた。

櫓の握り方を、後ろから手を添えて教えた。

「腕で漕ぐな。腰で押せ」

何度言っても、拓の櫓はあらぬ方へ跳ねた。

舟がくるくると回るたび、あの子は声を上げて笑った。

その笑い声だけが、澪の幼い頃とそっくりだった。

俺は櫓を握る小さな背中を見ながら、いつも喉の奥が詰まった。

「じいちゃん、まっすぐ進まない」

「まっすぐは、いっぺんに覚えるもんじゃねえ」

そう言いながら、俺は自分の来し方も、ちっともまっすぐではなかったと思った。

台風が来ると、岩に当たる波が、塔の窓まで飛沫を上げた。

拓は俺の半纏の裾を握って、灯の点る塔の中で、じっと夜が明けるのを待った。

「船、大丈夫かな」

「この灯が点いてる限り、みんな帰ってこられる」

そう答えると、あの子は少しだけ手の力をゆるめた。

俺の言葉を、あの子は本当に信じていた。

だから俺は、なおのこと灯を絶やせなかった。

誕生日には、決まって小舟を彫った。

その年に拾った、いちばん良い流木を選んで削った。

小刀を握る手つきを、拓はいつも横からのぞき込んでいた。

「今年のは帆が曲がってる」

「文句を言うな。世界に一つだ」

生意気を言いながら、拓はそれを棚のいちばん端に、そっと並べた。

そうして棚の小舟は、一つ、また一つと増えていった。

夜、灯を点けた後で、あの子はよく俺の隣に座った。

膝を抱えて、回る光を見上げながら、ぽつりと聞くのだ。

「母ちゃんって、どんな人だった」

そう聞かれるたび、俺はうまく答えられなかった。

澪の笑い方も、その手の柔らかさも、全部この胸にあるのに、言葉にすると嘘くさくなる気がした。

だから俺は、「お前とよう似た笑い方をした」とだけ言った。

拓はそれで満足したように、灯の回る音を聞いていた。

海の上を、光がゆっくりと撫でていく。

その光の帯を、俺と孫は肩を並べて見ていた。

言葉は、そう多くいらなかった。

灯が一回りする間の沈黙が、俺たちの会話だった。

拓が十を過ぎる頃には、灯の点し方も、あの子が覚えてしまった。

俺が膝を痛めて塔を昇れなかった晩、あの子は一人で百八十段を昇り、きちんと灯を点けた。

「じいちゃん、点いたよ」

下から見上げた塔の先に、確かに光が回り始めた時、俺は柄にもなく、胸が熱くなった。

この子は、俺がいなくなっても、この灯を消さずにいられる。

そう思うと、少しだけ、肩の荷が軽くなった気がした。

ある年の秋、これまでにない大時化が来た。

風で発電機が止まり、灯が一度、ふっと消えかけた。

俺と拓は、真っ暗な螺旋階段を、手燭ひとつを頼りに駆け上がった。

予備の油に火を移す俺の手元を、あの子は風に飛ばされそうな体で、必死に照らし続けた。

「じいちゃん、灯りは消さない。絶対に」

歯を食いしばってそう言うあの子の顔は、いつか海へ還った父親の顔に、よく似ていた。

灯が再び回り出した時、俺たちは油まみれのまま、床に座り込んで笑った。

沖のどこかで、この光を頼りに舵を切っている船がいる。

それを二人で守ったのだと思うと、疲れも寒さも、どこかへ消えていた。

「父ちゃんも、この灯に助けられたことがあるのかな」

拓がそう呟いた時、俺は「きっとあるさ」とだけ答えた。

婿が最期に見た光が、この灯であってくれたらと、俺はずっと願っていた。

盆には、村の墓所まで二人で舟を出した。

澪と婿の墓に、あの子は野の花を供えて、律儀に手を合わせた。

「母ちゃん、父ちゃん、拓は元気です」

そう報告するあの子の横顔を、俺は少し離れて見ていた。

海の向こうへ、迎え火の煙がまっすぐに昇っていった。

帰りの舟で、拓はぽつりと言った。

「じいちゃんは、絶対に先に行かないでよ」

俺は「爺は舟より頑丈だ」と、笑ってごまかした。

本当は、いつまで一緒にいてやれるか、俺にも分からなかった。

分校の運動会には、俺は不釣り合いな学生服みたいな上着を引っ張り出して出かけた。

若い母親たちに混じって、皺くちゃの爺が一人、綱引きの列に並んだ。

拓は少し恥ずかしそうにしていたが、俺が転びかけると、真っ先に駆け寄ってきた。

「じいちゃん、無理すんなって」

口ではそう言いながら、あの子は俺の手をしっかり握って、砂の上を引いた。

その日、二人でもらった参加賞の鉛筆を、拓は長いこと大事に使っていた。

帰り道、あの子は「来年も来てよ」と言った。

俺は「灯の番があるからな」と、そっぽを向いて答えた。

本当は、来年も再来年も、行くつもりでいた。

拓が十五になった春、あの子は本土の水産学校を受けると言い出した。

この岩の上には、その先はもう何もない。

分校は中学までで、船を学びたければ、海を渡るしかなかった。

「じいちゃんを、一人にするのは」

言いよどむあの子に、俺はわざと荒い声を出した。

「馬鹿を言うな。爺の心配より、てめえの舵を心配しろ」

俺は「好きにしろ」とだけ言って、背を向けて灯の掃除をした。

本当は、真鍮を磨く手が、さっきから震えていた。

拓が渡っていけば、この塔は、また俺ひとりの塔に戻る。

分かっていたことが、いざとなると、腹の底に重く沈んだ。

試験の日、あの子は連絡船で本土へ渡っていった。

結果は、週に一度の連絡船が、手紙にして運んでくる。

その日、俺は朝から桟橋に立っていた。

灯台の仕事もそっちのけで、水平線ばかり睨んでいた。

船が水平線に現れてから桟橋に着くまで、たっぷり一時間かかる。

その一時間が、四十年の灯守りより長かった。

船頭が手紙の束を差し出した時、俺はそれを、そろりと受け取った。

拓の字の封筒を探り当てて、けれど封を切るのが怖くて、指がいうことをきかなかった。

十秒か、二十秒か、俺は封筒を裏返してばかりいた。

受かっていなかったら、あの子はどんな顔で帰ってくるだろう。

そんなことばかり考えて、なかなか指が動かなかった。

同じ過ちは二度繰り返さない、というのが俺の信条だ。

澪の時、俺は最期に「頑張ったな」の一言が、うまく言えなかった。

だから今度は、逃げずに向き合おうと、思い切って封を切った。

そこには、拓の下手な字で、たった一行あった。

「じいちゃん、受かった」

俺は桟橋の上で、しばらく動けなかった。

海鳥がうるさく鳴いていた。

空は嫌になるくらい晴れていた。

それなのに、手紙の字が、じわじわと滲んで読めなくなった。

誰も見ていないのをいいことに、俺は少しだけ、洟をすすった。

――良い爺なら、孫との間合いは程よく取るものだ。

そんな見栄を張らずに、もっと下手な飯を食わせて、もっと馬鹿な話をしておけばよかった。

灯ばかり見て、あの子の背丈が伸びるのを見落としていた日々を、俺は心底悔いた。

その晩、俺はいつもより念入りに、塔の灯を磨いた。

本土のどこかにいる拓にも、この光が届けばいいと思った。

あの子が渡っていった塔は、思っていたより、ずっと広かった。

二人分だった箸の音が、また一人分に戻った。

しょっぱい味噌汁を、文句を言う相手もなく、俺は一人ですすった。

それでも、月に一度は、拓から手紙が届いた。

船の構造がどうの、海図の読み方がどうのと、下手な字がびっしり並んでいた。

俺はそれを、老眼鏡をずり上げながら、何度も読み返した。

返事に何を書けばいいか分からず、俺はいつも「灯は今夜も点いている」とだけ書いた。

たった一行の返事を、あの子は嫌がりもせず、律儀に待っていたらしい。

手紙の束は、澪の位牌の隣に、少しずつ積み上がっていった。

盆に帰ってきたあの子は、背が伸び、声が低くなっていた。

けれど棚の小舟の前に立つと、昔と同じ顔で、それを並べ替えた。

「帆、やっぱり曲がってるなあ」

「うるさい。世界に一つだと言っただろう」

そんなやり取りだけは、いくつになっても、変わらなかった。

それから何年かして、拓は一人前の航海士になって、この岩に帰ってきた。

背は俺を追い越し、肩の張り方は、あの婿にそっくりになっていた。

日に焼けた顔で、あの子は少し照れくさそうに笑った。

「初めて、外つ国まで行く船に乗ることになった」

長い航海だ、と、あの子は言った。

半年は帰らない、とも。

俺は「そうか」とだけ言って、茶をすすった。

本当は、その半年が、途方もなく長く思えた。

出立の前の晩、拓が久しぶりに、飯を炊いてくれた。

煮付けの味は、澪のそれに、驚くほど近かった。

「誰に習った」

そう聞くと、あの子は少し笑った。

「じいちゃんのを、しょっぱくないように直してったら、こうなった」

俺は何も言えずに、ただ黙って、二杯おかわりをした。

台所の湯気だけが、昔と同じように温かかった。

出立の朝、俺は桟橋まで送った。

見送りなんぞ、柄じゃない。

男なら、余裕を持って孫を送り出すものだ。

そう自分に言い聞かせて、俺は仏頂面で突っ立っていた。

拓は大きな背嚢を担ぐと、ふと灯台を振り返った。

それから台所へ駆け戻って、棚から一番新しい小舟を掴むと、黙って胸のポケットにねじ込んだ。

帆の曲がった、俺の下手くそな舟を。

「そんなもん、荷になるだけだ」

俺がそう言うと、あの子は笑った。

「これが無いと、帰る場所が分からなくなる」

そう言って、拓は俺の手を握った。

櫓を教えた、あの小さな手が、俺よりずっと大きく、硬くなっていた。

その手の力に、俺はもう、何も言えなくなった。

「達者でな」

やっとそれだけを、絞り出した。

船が桟橋を離れる時、あの子は甲板から大きく手を振った。

俺は振り返さなかった。

振り返せば、堪えているものが決壊するのが分かっていたからだ。

代わりに、右手を胸のあたりで、少しだけ握った。

その意味が伝わったかどうかは、分からない。

拓、お前がお袋を『母ちゃん』と呼べたのは、俺が彫った小舟の数より、ずっと少なかったな。

それでもお前は、あの舟を胸に入れて、海へ出ていく。

俺が下手に彫った、たった一艘の舟を、羅針盤の代わりにして。

船影が水平線に溶けて、点になって、やがて見えなくなった。

俺はそれでも、しばらく桟橋に立っていた。

潮が満ちて、足元の岩が少しずつ隠れていくまで、そこにいた。

日が傾いて、海が茜に染まる頃、ようやく俺は塔へ向かって歩き出した。

澪。

お前の子は、立派な船乗りになったぞ。

飯はあいかわらず、俺のはしょっぱいと笑うがな。

『お母さん』でいてやれた時間が、お前には短すぎた。

拓がお前を呼んだ回数より、俺がお前の名を呼んだ数の方が、ずっと多かった。

それでも俺は、お前と二人であの子を育てたつもりでいる。

灯を点けるたび、俺は隣にお前がいる気がしていた。

しょっぱい味噌汁を、お前ならどう直しただろうと、いつも考えていた。

その答えを、拓が代わりに見つけて帰ってきた。

あの子の炊いた飯の味は、確かに、お前の味だった。

潮の匂いは今夜も、螺旋階段を昇ってくる。

百八十段を昇りきると、いつものように、海がまるごと目の前に広がる。

俺は今夜も、日が暮れる前に灯を点ける。

岬の突端で、俺は今も、消えない灯をひとつ守っている。

あの子の船が、いつか帰る道を見失わないように。

棚の端には、拓が持っていかなかった舟が、まだ幾つも残っている。

俺はときどき、その一艘を手のひらに載せて、帆の曲がりを直してやろうとする。

けれど、もう直す気にはなれない。

そして、いつかお前の元へ渡る俺自身が、道に迷わないように。

もう何年かしたら、胸を張ってお前に会いに行く。

その時は、うんと誉めてくれ、澪。

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