わたしに空をくれた人

星空を仰ぐ幻想的なひととき

その子は、いつも一番前の席に座った。

ドームの闇が落ちて、天井いっぱいに冬の星がにじみ出す。

客席のあちこちから、小さなため息が漏れる、あの瞬間。

けれどその子だけは、声も出さずに、じっと天井を見上げていた。

膝の上に一冊のノートを、抱えるようにして。

私は海辺の町の、小さな科学館で星を映す仕事をしていた。

昭和五十年代のことだ。

投影技師、と名刺には書いてあったが、平日の午後などは、客がひとりも来ない日もあった。

潮の匂いが染みついた古い建物で、ドームの外では、いつも波の音がしていた。

それでも私は毎日、機械の熱でほのかに温もったドームの下に立ち、誰もいない星空にひとり、話しかけていた。

妻を早くに見送ってから、家に帰っても話す相手はいなかった。

だから私にとって、この暗い部屋の星たちが、いちばん近しい隣人のようなものだった。

町は小さかった。

漁を終えた船が、夕方になると港に帰ってくる。

その汽笛が聞こえる頃、私は決まって最初の上映の支度を始めた。

やって来るのは、退屈した子どもや、雨宿りの老人ばかり。

それでも私は、たったひとりの客のためにも、いつもと同じ空を、丁寧に映した。

私には、ひとつだけ秘密の癖があった。

投影の終わりに、どの星図にも載っていない小さな星を、天頂にひとつだけ、そっと灯すのだ。

名前もない、等級もない、私が勝手にこしらえた星だった。

来館者に気づかれることは、まずなかった。

気づいたところで、係員の手遊びだと思われるだけだろう。

それは私が、この暗いドームの中で自分に許した、たったひとつの、嘘のようなものだった。

その冬、ひとりの父親が、幼い娘を連れて通い始めた。

父親はいつも、娘の歩幅に合わせて、ゆっくりと客席の段を下りてきた。

片方の手で娘の手を引き、もう片方で、いつも小さな水筒を提げていた。

娘は六つか、七つくらいだったと思う。

頬が白く、手首が折れてしまいそうに細かった。

初めて来た日、ドームの照明が落ちた瞬間、その子は父親の袖を、ぎゅっと握った。

暗いのが、こわかったのだろう。

けれど、天井に最初のひとつが灯り、やがて数えきれない星が一斉ににじみ出すと、握っていた手が、ゆっくりとほどけた。

「わあ」

暗闇のなかで、その小さな声だけが、はっきりと聞こえた。

それでも、星が映し出されるたびに、その子の目だけは、誰よりも明るく光った。

※

上映が終わって照明がつくと、その子は決まって、私のところへやって来た。

「あのね、きょうの星、ぜんぶ描いたよ」

そう言って、抱えていたノートを開いて見せてくれた。

暗い中で描いたのだろう、線はいびつに震えていた。

それでも、オリオンの三つ星も、冬の大三角も、確かにそこにあった。

娘の名は、ほのか、といった。

父親がそう呼ぶのを、何度か耳にした。

ほのかちゃんは、星座をひとつずつ集めているのだと教えてくれた。

上映のたびに新しい星座を覚えて、家に帰ってからノートに描き足すのだと。

「ぜんぶの星座があつまったら、空とおなじになるでしょ」

そう言って、少しだけ得意げに笑った。

私は、その子のために、いつもより少しだけ長く、ひとつの星座の話をするようになった。

おおいぬ座の話をした夜のことは、今でもよく覚えている。

「あの青白い星はね、シリウスといって、空でいちばん明るい星なんだ」

「どうしていちばん明るいの?」

「近くにいるからだよ。遠くの大きな星より、近くの星のほうが、よく見えることがあるんだ」

ほのかちゃんは、しばらく考えてから言った。

「じゃあ、パパは、わたしのいちばん近くの星だね」

隣で聞いていた父親が、そっと目を伏せたのを、私は見た。

別の日には、天井の北の端で、じっと動かない星を教えた。

「あれは北極星といって、どんなに時間が経っても、ずっと同じ場所にいる星だよ」

「どうして、動かないの?」

「みんなが迷わないように、そこにいてくれるんだ。昔から、旅する人の目印になってきた」

その子は、真剣な顔で頷いた。

「じゃあ、わたしも、動かない星になろうかな」

「だれかが、迷わないように」

上映のない時間、私がひとりで機械の手入れをしていると、その子がぽつりと言ったことがある。

「おじさんは、いつもひとりだね」

どきりとした。

「星があるからね」と、私は軽く答えたつもりだった。

けれどその子は、少し困った顔をして、こう言った。

「じゃあ、わたしの星、おじさんにもわけてあげる」

「ひとつじゃ、さみしいでしょ」

その言葉を、私はどう受け止めていいのか、分からなかった。

ただ、暗いドームの奥のほうが、少しだけ、あたたかくなった気がした。

※

ある日、その子が天頂を指さして訊いた。

「あの星、なんてなまえ?」

指の先には、私がいつも最後に灯す、あの名もない星があった。

私は言葉に詰まった。

あれは星図には載っていないのだ、と正直に言うべきか、迷った。

けれど、その子のまっすぐな目を見ていたら、嘘とも本当ともつかない答えが、口をついて出た。

「あれはね、まだ誰も名前をつけていない星なんだ」

「どうして、なまえがないの?」

「気づいた人が、いなかったからだよ」

「じゃあ、わたしがつけてもいい?」

「いいよ」と私は答えた。

その子はしばらく天井を見上げて、それから小さな声で言った。

「ほのか星」

「わたしの星。ずっと、あそこにいるの」

その日から、ほのかちゃんのノートの右上には、いつも小さな星がひとつ、描き添えられるようになった。

どの頁の星座の隅にも、名前のない星が、こっそりと寄り添っていた。

ある日、その子は一枚の紙切れを、そっと私に差し出した。

黄色いクレヨンで描いた、大きな星がひとつ。

「これ、おじさんに」

私が礼を言うと、その子は少し照れたように、こう続けた。

「今度はね、星を映してるおじさんを、描いてあげる」

「ちゃんと、後ろから」

私は笑って、「楽しみにしてるよ」と答えた。

その約束のことを、私はやがて、忘れてしまっていた。

※

父親が一度だけ、娘に内緒で小さな望遠鏡を買ってきたことがあった。

けれど、ほのかちゃんはそれよりも、この暗いドームを好んだ。

「おうちの窓からだと、星が少ししか見えないの」

「でも、ここの空は、いっぱいある」

本物の空より、私の映すまがいものの空のほうが、その子には広く見えていたらしい。

それが、なぜだかたまらなく、嬉しかった。

父親と二人きりで話したのは、寒さの厳しい二月の夕方だった。

ほのかちゃんが売店の絵はがきを眺めている間に、父親は声を落として、私に言った。

「あの子は、生まれつき、心臓が弱いんです」

「あまり長くは、一緒にいられないかもしれないと、医者に言われています」

私は、返す言葉を持たなかった。

ただ、投影機のスイッチを入れる時のように、胸の奥で何かが、そっと灯るのを感じた。

「あの子は、星を見ている間だけは、痛いのを忘れるみたいで」

父親はそう言って、深く頭を下げた。

「だから、無理を言って通わせてもらっています。本当に、ありがとうございます」

「顔を上げてください」と、私は言った。

それしか、言えなかった。

それからほのかちゃんは、少しずつ、来られない日が増えていった。

来られた日は、以前にも増して、熱心にドームを見上げた。

膝の上のノートを、まるで抱きしめるようにして。

上映が終わると、前より少しゆっくりと、父親の背に負ぶわれて帰っていった。

負ぶわれながらも、その子は最後まで、天井の星から目を離さなかった。

来ない日が続くと、私は上映のたびに、いちばん前の席を、つい目で追った。

そこが空いているだけで、ドーム全体が、やけに広く感じられた。

海が荒れて、窓が一日じゅう鳴っていた冬の日には、あの細い手が、ちゃんと温かくしていられているだろうかと、そればかりを考えた。

それでも私は、上映のたびに、あの名もない星だけは、欠かさず灯した。

いつその子が来てもいいように。

来なかった日も、その星は、誰もいない客席の上で、ひとりきりで光っていた。

※

三月の初め、二人が久しぶりに来た日のことだった。

その日のほのかちゃんは、いつもより口数が少なかった。

それでも帰りぎわに、「春の星座も、はやく見たいな」と、小さく言った。

「春になったら、いちばんに映してあげるよ」と私は約束した。

その子は、こくりと頷いた。

上映が終わり、二人が帰ったあと。

私は客席の段の隅に、あのノートが落ちているのを見つけた。

表紙の角が、汗ばんだ手の跡で、やわらかくなっていた。

私は慌てて外へ出たが、二人の姿は、もうどこにも見えなかった。

連絡先も、住まいも、私は知らなかった。

次に来館する日も、決まってはいなかった。

手の中のノートが、急にひどく、重たく感じられた。

※

それから幾晩、私はそのノートを開いては閉じた。

ほのかちゃんが集めた星座が、たどたどしい線で、並んでいた。

そして、どの頁の隅にも、あの名もない星が、ちゃんと描き添えられていた。

最後の頁は、まだ白いままだった。

きっと、次に覚える星座のために、空けてあったのだろう。

春の星座を、いちばんに映してあげる。

あの約束を、私はまだ、果たしていなかった。

私は、思いついてしまった。

もしこの子が、二度とここへ来られなかったら。

このノートは、永遠に最後の一頁を空けたまま、終わってしまう。

私は、町の文具屋で、同じ表紙のノートを一冊、買ってきた。

そして、閉館後の暗いドームの下で、投影機を一晩じゅう、回した。

ほのかちゃんがまだ覚えていない星座を、ひとつずつ天井に映しては、そのかたちを紙に写し取っていった。

かに座、しし座、おとめ座。

春の星座を映し、夏の星座を映し、そして秋の星座を映した。

この子が、いつか覚えるはずだったすべての星を、私は代わりに描いた。

線が震えないように、けれど、上手すぎないように。

あの子の描き方を、そっと、まねながら。

星座のひとつひとつに、私は小さな話を書き添えた。

かに座には、水辺で暮らす、やさしい生きものの話を。

しし座には、けっして諦めなかった、勇敢な獣の話を。

はくちょう座には、大空を渡って、遠い場所へ会いに行く鳥の話を。

いつか目を覚ましたその子が、ひとりでも読めるように、ふりがなを、ひとつずつ振った。

途中で、何度も手が止まった。

この星座を、あの子はもう、自分の目で見ることはないのかもしれない。

そう思うたびに、鉛筆の先が、紙の上で止まった。

それでも私は、描き続けた。

見られなかった空を、せめて、この紙の上にだけでも残しておきたかった。

そして、いちばん最後の頁に、私は名もない星をひとつだけ描いた。

その下に、小さく、こう書き添えた。

「ほのか星 ―― この空のまんなかで、ずっと光っています」

ノートを仕上げるのに、三晩かかった。

三晩目の朝、ドームの隙間から差し込む光で、私は自分がずっと泣いていたことに、ようやく気づいた。

※

父親が科学館を訪ねてきたのは、それから十日ほど経った日だった。

ひとりだった。

私は、渡せずにいたノートのことを、どう切り出そうか、まだ迷っていた。

「先日、娘がノートを、忘れてしまって」

父親はそう言いかけて、言葉を止めた。

その顔を見て、私は、多くを訊いてはいけないのだと悟った。

私は奥から、二冊のノートを持ってきた。

落とし物の一冊と、私が三晩かけて作った、もう一冊を。

「これを、ほのかちゃんに」

新しいノートを開いて見せると、父親は最後の頁の星と、その下の文字を、長いあいだ、見つめていた。

それから、顔をくしゃくしゃにして、何度も、何度も、頭を下げた。

「あの子、きっと、喜びます」

「もう、目を覚ましている時間は、そんなに長くないんですが」

「それでも、きっと」

父親はそう言って、二冊のノートを、壊れ物でも扱うように、そっと鞄にしまった。

「春の星座、約束でしたね」と私が言うと、父親は、静かに笑った。

「ええ。ぜんぶ、この中に」

※

一通の手紙が届いたのは、桜のつぼみが、ふくらみ始めた頃だった。

『先日は、娘のためにノートを作ってくださって、本当に、ありがとうございました。』

『あの子は、あなたが作ってくださったノートを、片時も、離しませんでした。』

『春の星座も、夏の星座も、まだ自分の目では見ていないのに、ぜんぶ知っているんだと、嬉しそうに、私に見せてくれました。』

『書いてくださった星座のお話を、私が読んでやると、目をつぶって、聞いていました。』

『そして、いちばん最後の頁を開いては、「これ、わたしのお星さま」と、何度も指で、なぞっていました。』

『先日の夜、あの子は、静かに旅立ちました。』

『眠るように、ノートを胸に抱いたまま。』

『とても、安らかな顔でした。』

『あなたには、どうしても、お伝えしなければならないことがあります。』

『あの子が最後に、ノートの白いところに、自分で絵を、描いていたのです。』

『それは、星では、ありませんでした。』

『暗いドームの下で、天井を指さしている、白い服を着た人の、後ろ姿でした。』

『その絵の下に、たどたどしい字で、こう書いてありました。』

『「わたしに そらを くれた ひと」』

手紙のいちばん最後には、その絵の写しが、そっと同封されていた。

クレヨンの、たどたどしい線。

暗い半円の下に、背を向けて立つ、白い人。

その片手が、まっすぐ上を、指していた。

手紙を読み終えて、私は、ドームの真ん中に、立ちつくした。

あの日の約束を、私はすっかり忘れていた。

けれど、あの子は、忘れていなかった。

「星を映してるおじさんを、描いてあげる」。

「ちゃんと、後ろから」。

痛みと眠りのあいだで、その子は最後の力で、鉛筆を握ったのだ。

その子が描いたのは、星ではなく、星を映していた私の背中だった。

私はこの暗い部屋で、ずっと自分に、ひとつだけ嘘をついてきたつもりでいた。

名もない星を、誰にも気づかれないように、灯し続けて。

けれど、ちゃんと気づいてくれた子が、ひとりだけ、いた。

そして、その星に、名前までつけてくれた。

私は白衣の背中を、誰かに見られているなどと、思ったこともなかった。

けれどあの子は、星よりも先に、星を映す人の背中を、見ていたのだ。

※

あれから、ずいぶんと長い年月が経った。

科学館はとうに建て替えられ、私も、白い服を脱いだ。

投影機のあの熱も、潮の匂いも、今はもう遠い。

それでも、冬の空に、あの三角形が昇る夜には、私は今でも縁側に出て、天頂を見上げる。

星図のどこにも載っていない、ひとつの星を、探すために。

あの子が名前をつけてくれたあの星は、どの本にも、どの地図にも、載っていない。

けれど私には、はっきりと見える。

シリウスよりも近く、どんな一等星よりも、明るく。

近くにいるものほど、よく見えることがある。

いつか、その子に教えたとおりに。

あの子は、あの名もない星に、なったのだと思う。

だから私は、もう、ひとりではない。

今夜も、この空のまんなかで、あの子は、ずっと、光っている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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