
機の音で目を覚ます朝が、私の子供時代のすべてだった。
トン、カラ、トン、カラ。
その音がやむ日が来るなんて、あの頃の私は考えもしなかった。
昭和四十一年の春、七つになった私は、母に手を引かれて見知らぬ町に降り立った。
川沿いに古い家がびっしりと肩を寄せ合い、どの軒先からも、低い機織りの音が漏れていた。
織物の町だった。
川面を渡る風には、糸を煮る匂いと、染め場の藍の匂いが混じっていた。
母は私を、機屋を営む伯母に預けると、二日もせずに町を出ていった。
父のいない家で、母は遠くの工場へ働きに出なければならなかった。
「すぐ迎えに来るからね」
そう言った母の声を、私は何年も信じていた。
駅まで送った帰り道、私はずっと自分の下駄の先を見ていた。
見上げれば、泣いてしまいそうだったから。
伯母は、痩せた背中の大きな人だった。
口数が少なく、笑った顔をめったに見せない。
はじめて会った日、伯母は私の頭に手を置いて、「よう来た」とだけ言った。
その手が、織り糸の油でかすかに匂ったのを、今でも覚えている。
ごつごつとした、けれど不思議と温かい手だった。
伯母の家には、奥の板の間に古い高機が一台あった。
黒く艶の出た木枠が、薄暗がりの中で鈍く光っていた。
朝も昼も、伯母はその前に座っていた。
背筋をまっすぐに伸ばし、杼を右へ左へと走らせる。
細い緯糸を抱いた杼が、縦糸の林をくぐって向こう岸へ渡っていく。
トン、と筬が鳴り、布が一目ぶん育つ。
その繰り返しを、伯母は何十年も続けてきたのだという。
私は最初、その音が怖かった。
無口な伯母の、背中だけが語っているようで。
知らない町、知らない家、知らない人。
夕飯の味噌汁の味さえ、母のものとは違っていた。
夜、布団の中で母を思い出して泣いていると、機の音が遠くから聞こえてきた。
伯母はよく、夜更けまで織っていた。
その音は、不思議と私の涙を止めた。
トン、カラ、トン、カラ。
誰かがまだ起きている。
暗い家のどこかで、誰かが私と同じ夜を起きている。
それだけで、冷たい布団は少しだけ温かかった。
私はいつのまにか、その音を数えながら眠るようになっていた。
はじめのうち、母からは月に一度、葉書が届いた。
「元気にしていますか」
「言うことをよく聞きなさい」
短い文面を、私は何度も読み返した。
葉書はやがて、二月に一度になり、三月に一度になった。
そして、いつのまにか届かなくなった。
郵便屋の自転車の音がするたび、私は表に飛び出した。
けれど、私あての葉書はもう、来なかった。
そのことを、私は伯母に言えなかった。
伯母もまた、母のことを、ひとことも口にしなかった。
ただ、私が表でしょんぼりして戻ると、決まって機の手を止めて、こう言った。
「腹減ったやろ。芋、ふかしたあるで」
その不器用な優しさが、当時の私には、よく分からなかった。
分かるには、私はまだ、幼なすぎたのだ。
私が機に触れるようになったのは、八つの冬だった。
ある朝、伯母が、自分の膝の前に私をぽんと座らせたのだ。
「手ぇ出してみ」
言われるまま差し出した私の手に、伯母はぼってりと使い込まれた杼を握らせた。
船の形をした、木の道具だった。
持ち手のところが、飴色に光っていた。
長い年月、誰かの手のひらに磨かれ続けた色だった。
「これはな、わてのおっかさんが使うとった杼や」
伯母はそう言って、はじめて少しだけ笑った。
目尻に、細かい皺がいくつも寄った。
「もっと前は、そのまたおっかさんが使うとった。順ぐりや」
順ぐり、という言葉の意味が、その時の私にはまだ分からなかった。
杼は思いのほか重たくて、私の小さな手には余った。
はじめて通した緯糸は、ぐずぐずに歪んでいた。
力を入れすぎて、縦糸を一本切ってしまったこともある。
そのたびに私は、叱られるかと首をすくめた。
けれど伯母は、決して怒らなかった。
「ええんや。糸は切れても、結べばまた繋がる」
そう言って、太い指で器用に糸を結び直した。
「人と人もな、同じや」
その言葉の意味も、やはり当時の私には分からなかった。
伯母は、毎日少しずつ織り方を教えてくれた。
縦糸の張り方、緯糸の打ち込み方、力の抜きどころ。
言葉では多くを語らない人が、機の前でだけは、別人のようによく喋った。
「焦るな。布は逃げへん」
「糸の声を聞け。きついか、ゆるいか、布が教えてくれる」
「指で見るんや。目やない、指で見るんやで」
そんな言葉を、私は伯母の背中越しに聞いた。
織っている時の伯母は、横顔がやわらかかった。
普段の怖さが、嘘のように溶けていた。
だから私は、機に座る時間だけは伯母が好きだった。
指の腹に、糸の張りが伝わってくる。
その感触を覚えていくのが、いつしか楽しくなっていた。
※
糸を染めるのも、伯母の仕事だった。
裏の染め場で、大きな甕に藍を立て、その匂いが家じゅうに満ちる日があった。
「藍はな、生きとるんや」
甕をのぞき込みながら、伯母は言った。
「機嫌のええ日もあれば、悪い日もある。人とおんなじや」
白い糸を甕に沈め、引き上げると、糸は最初、くすんだ緑色をしている。
それが、風に当たるそばから、みるみる深い青へと変わっていく。
はじめてそれを見た時、私は思わず声をあげた。
「おばちゃん、青なった、青なった」
伯母は、めずらしく声を立てて笑った。
「そやろ。空の色を、糸に閉じ込めるんや」
その夜、私の十本の指は、きれいな藍色に染まっていた。
いくら洗っても落ちないその色を、私は誇らしく眺めた。
※
伯母には、夫も子もいなかった。
若い頃に一度、嫁いだことがあったらしい。
けれど、戻ってきた。
理由を、伯母は語らなかった。
ただ一度だけ、酒に酔った近所のばあさんが、私にこっそり教えてくれた。
伯母は、自分の母から継いだこの機屋を、手放したくなかったのだと。
嫁ぎ先で機をやめろと言われ、それを拒んで戻ってきたのだと。
「あの人は、機と一緒に生きると決めた人や」
ばあさんは、そう言った。
「そこへ、あんたが来た。あの人にとっては、あんたが娘で、弟子で、ぜんぶや」
その意味を、私はやはり、その頃には分かっていなかった。
※
十二になった年、私はとうとう、自分ひとりで一反を織り上げた。
細い縞の、ささやかな木綿の反物だった。
目の詰みは粗く、ところどころ歪んでいた。
それでも、端から端まで、私の手で織り上げた、はじめての布だった。
伯母は、それを両手に広げ、長いこと黙って眺めていた。
「おばちゃん、下手やろ」
恥ずかしくて、私はうつむいた。
すると伯母は、首を横に振った。
「下手やない。お前の手の癖が、ちゃんと出とる」
「布はな、織った者の心が出るんや。これは、ええ布や」
そう言って、その粗末な反物を、伯母は簞笥の一番上に、大切そうにしまった。
私は、その時はじめて、人にほめられて泣きそうになった。
※
冬の機織りは、つらい仕事だった。
板の間は底冷えがして、指がかじかんで、思うように動かない。
それでも伯母は、火鉢ひとつで、朝から晩まで杼を走らせた。
「寒いやろ」
そう言って、伯母は自分の半纏を脱ぎ、私の背に着せかけた。
自分は薄い着物のまま、白い息を吐きながら織り続けた。
「おばちゃんは寒うないの」
「織っとると、あったかなるんや」
嘘だ、と子供心にも分かった。
伯母の手は、いつも赤く、あかぎれだらけだった。
その手に、私はそっと、自分のお手玉を握らせたことがある。
温かくなりますように、と願いながら。
伯母は何も言わず、ただ、ふっと笑った。
その笑顔を見るために、私はまた、機の前に座るのだった。
※
町には、秋の終わりに祭りがあった。
織子たちが一年でいちばん良い反物をお宮に納める日だ。
その日だけ、伯母は私に新しい手拭いを巻いてくれた。
「お前も織子の端くれや。胸張っとき」
並んで川沿いを歩くと、近所の人が「よう似た親子やなあ」と声をかけた。
伯母は否定も肯定もせず、ただ前を向いて歩いていた。
けれど、私と繋いだ手に、少しだけ力がこもったのを感じた。
私はその「親子」という言葉が、こそばゆくて、けれど嬉しかった。
母が迎えに来ないことを、その頃にはもう、口にしなくなっていた。
お宮の拝殿に並んだ反物の中で、伯母の納めた一反は、誰よりも目が詰んで美しかった。
「これ、おばちゃんが織ったん」
私が訊くと、伯母は珍しく胸を張った。
「そや。この町でいちばんやで」
その横顔を、私は今もはっきりと思い出せる。
夕日に染まった、誇らしげな、子供のような顔を。
※
ある雪の晩のことだ。
高熱を出した私の枕元に、伯母は一晩中座っていた。
濡らした手拭いを、何度も額に替えてくれた。
うとうとと目を開けるたび、伯母の手が私の手を握っていた。
織り糸の油の匂いが、ずっとそばにあった。
その匂いは、いつのまにか私にとって、安心の匂いになっていた。
「おばちゃん、寝んでええの」
かすれた声で訊くと、伯母は低く答えた。
「機よりお前のほうが大事や。布はいつでも織れる」
あの無口な伯母が、迷いなくそう言った。
その夜、私は生まれてはじめて、ここが自分の家だと思った。
母が迎えに来なくても、もういい。
そう思えるようになるまで、伯母はずっと、私のそばで機を織り続けてくれていたのだ。
翌朝、熱の引いた私の枕元には、小さな端切れで作ったお手玉が三つ、置かれていた。
夜なべして縫ったのだろう。
伯母は何も言わず、もう機の前に戻って、いつもの音を立てていた。
トン、カラ、トン、カラ。
けれど、子供はいつまでも子供ではいられない。
十五になった頃から、私は町の外を見るようになった。
同じ年頃の娘たちが、次々と町を出ていった。
街に出れば、もっと華やかな仕事があるという。
日曜になると、私は街へ出る娘たちの真新しい洋服を、まぶしく眺めた。
機の前で背中を丸めて一生を終えるなんて、まっぴらだと思った。
指にできた糸だこを、人に見られるのが恥ずかしかった。
織物の値は、その頃から年々下がっていた。
安い機械織りの布が町に流れ込み、手織りの注文は細っていった。
川沿いの機屋は、一軒、また一軒と、機の音を止めていった。
伯母の手は、夜なべしても追いつかぬほど痩せた賃金にしかならなかった。
それでも伯母は、私に機を継がせたがった。
「お前は筋がええ。指が糸の声を聞いとる」
そう言われるたび、私は息が詰まった。
この町に、この薄暗い板の間に縛りつけられる気がして、たまらなかったのだ。
伯母の誇りが、私には重たい鎖に思えた。
ある晩、私はとうとう言ってしまった。
夕餉の膳を前に、伯母が「来月から本仕事を覚えよか」と言った、その時だ。
「うちは機なんか継がへん」
箸を置いて、私は伯母をにらんだ。
「街に出るんや。こんな暗い家で、一生機織りなんて、ぞっとする」
伯母の箸が、止まった。
「せっかく覚えたんや。もったいない」
伯母は、静かにそう言った。
その静かさが、なおさら私をいらだたせた。
「おばちゃんが無理に座らせたから、うちは機が嫌いになったんや」
言ってはいけない言葉だと、どこかで分かっていた。
それでも私は、止まらなかった。
「おばちゃんのせいや。ぜんぶ、おばちゃんのせいやないか」
伯母は、何も言い返さなかった。
ただ、ひどく悲しそうな顔で、私をじっと見ていた。
叱ってくれたほうが、まだ楽だったかもしれない。
いっそ、ぶたれたほうが。
けれど伯母は、ゆっくりと膳を片づけ、奥の機の前に座った。
その夜、機の音は、いつもより遅くまで鳴っていた。
トン、カラ……トン、カラ……。
いつもより、ずっと間が空いていた。
私は布団をかぶって、その音を聞かないふりをした。
その日から、伯母と私の間に、川より深い沈黙が流れた。
私は機に座るのをやめた。
奥の板の間を通るたび、杼から目をそらした。
飴色のそれが、私を責めているように見えたのだ。
朝の挨拶も、いつしか交わさなくなった。
同じ家にいながら、私たちは、別々の時間を生きていた。
伯母は相変わらず、朝から晩まで機に向かっていた。
細る注文の中で、それでも背筋だけは、まっすぐに伸ばしたまま。
私は、その背中をまともに見ることができなかった。
ある晩、台所で水を飲んでいると、奥の間から、ぽつりと声が聞こえた。
伯母が、誰にともなく、つぶやいていた。
「……あの子は、ほんまに、機が嫌いになってもうたんやろか」
私は、コップを持ったまま、動けなくなった。
違う、と言いたかった。
嫌いになんか、なっていない。
ただ、怖かっただけなのだ。
このまま、ここで一生を終えるのが。
母に置いていかれたこの町に、根を張ってしまうのが。
けれど、その言葉は、どうしても口から出てこなかった。
私は、足音を忍ばせて、自分の布団へ戻った。
意地が、口をふさいでいた。
若さというものは、どうしてああも、頑なだったのだろう。
※
半年が過ぎた。
私が街の店に住み込みで働く話を決め、町を出る支度を始めた、初冬のことだった。
伯母が、機の前で倒れた。
医者は難しい顔で、長い病だと言った。
もう、あの背筋の伸びた背中は、二度と機の前に戻らないだろう、と。
床に伏せた伯母は、日に日に小さくなっていった。
あんなに大きく見えた背中が、布団の中で、子供のように縮んでいった。
私は、見舞うことができなかった。
あの晩の言葉が、喉の奥につかえて取れなかったのだ。
おばちゃんのせいや――そう言った自分の声が、耳の奥で何度も響いた。
近所の人が代わる代わる伯母の世話をするのを、私は遠くから見ていた。
自分のことしか考えていない、薄情な娘だと、誰よりも自分が知っていた。
だから余計に、あの部屋の襖を開けられなかった。
年の暮れ、町を出る前日のことだった。
荷物をまとめていた私を、隣の機屋のばあさんが呼び止めた。
「あんた、知っとるか」
しわだらけの手で、私の袖をつかんだ。
「あの人な、ずうっと心配しとったんやで。あんたが、機を嫌いになりゃせんかと」
私は、立ちすくんだ。
「あんたの指は町いちばんや、いつか街の華やかさに負けるんやないかて、夜なべしながら何べんも言うとった」
ばあさんは、目を細めた。
「お前を継がせたいんやない、好きでい続けてほしいだけや、てな」
「あの人は、あんたを縛りたかったんやない。あんたに、好きなもんを見つけてほしかっただけや」
その時、私は思い出した。
前の日、奉公先の店で、同い年の娘がこぼしていた言葉を。
「あの番頭はんが口うるさいさかい、うち、この仕事が嫌いになってもうたわ」
ふいに、胸を貫くものがあった。
そうだ。
私はあの晩、言ってしまったのだ。
あなたのせいで機が嫌いになった、と。
誰よりも布を愛し、誰と織るよりも、私と織ることを喜んでくれた、あの人に。
いちばん言ってはならない人に、いちばん残酷な言葉を。
気がつくと、私は走り出していた。
雪の積もった川沿いの道を、息を切らして駆けた。
もう何ヶ月も全力で走ったことなどなかったから、胸が破れそうに鳴った。
何度も滑って、膝をついて、それでも立ち上がって走った。
頬を刺す風の冷たさも、肺の焼けるような痛みも、どうでもよかった。
伯母の、あの悲しそうな顔ばかりが、頭の中で繰り返されていた。
間に合ってくれと、心の中で、何度も繰り返した。
雪を蹴って走りながら、私は気づいていた。
私は、この町から逃げ出したかったのではない。
ただ、母に置いていかれた自分を、誰にも見られたくなかっただけなのだと。
伯母は、その私を、一度も、置いていかなかったのに。
※
奥の間の襖を開けると、伯母は薄い布団に横たわっていた。
頬はこけ、手は枯れ枝のように細くなっていた。
あの、糸だらけだったごつごつの手が、こんなにも小さくなっていた。
それでも私の足音に気づくと、伯母はゆっくりと目を開けた。
「……走って来たんか」
消え入りそうな声だった。
私はうなずくのが精一杯で、声が出なかった。
涙が止まらず、ただ畳に膝をついた。
「おばちゃん、ごめん」
やっと、それだけを言った。
「あんなこと言うて、ほんまにごめん」
伯母は、薄く笑った。
そして、布団の下から、震える手をゆっくりと出した。
その手には、あのぼってりとした杼が握られていた。
飴色に光る、伯母の母の、そのまた母の杼。
伯母は、それを私の手のひらに、そっと載せた。
まだ、ほのかに温かかった。
ずっと、布団の中で握っていたのだろう。
「持っとき」
そう言って、伯母は私の手を、痩せた両手で包み込んだ。
「順ぐりや」
その手は、もう力が入らないはずなのに、不思議と温かかった。
そして伯母は、私の目をのぞき込んで、言った。
「織るのは、楽しいだろう」
それは、問いではなかった。
私が、自分でも忘れてしまっていた答えだった。
指の腹に伝わる糸の張り。
トンと鳴る筬の音。
布が一目ずつ育っていく、あの静かな喜び。
私は、声を上げて泣いた。
子供のように、しゃくりあげて泣いた。
伯母の手の中で、杼がかすかに震えていた。
いや、震えていたのは、私の手のほうだったのかもしれない。
伯母は最後に、もう一度だけ、私の頭に手を置いた。
はじめて会った日と、同じように。
「よう、戻ってきた」
そう聞こえた気がした。
あの日、私を迎え入れてくれた、あの低い声で。
私は、その手の上に自分の手を重ねた。
枯れ枝のような、けれど確かに温かいその手を、もう離したくなかった。
窓の障子の向こうで、雪がしんしんと降り積もっていた。
部屋の中だけが、行灯の光で、ほのかに明るかった。
時が、止まればいいと思った。
このまま、ずっと。
けれど、時は、誰にも止められない。
杼が向こう岸へ渡っていくように、人もまた、向こうへ渡っていく。
それが、順ぐりということなのだと、私はその時、ようやく分かった。
伯母は、年が明けてまもなく、眠るように、静かに旅立った。
葬りのあれこれに追われ、ようやく一人になった夜のことだった。
私は奥の板の間に座った。
埃をかぶった高機の前に、あの杼が置かれていた。
伯母は、町を出るはずだった私に、確かにそれを渡したのだ。
継いでほしい、とは、最後まで言わなかった。
ただ、「順ぐりや」と。
片づけのとき、簞笥の一番上の引き出しを開けて、私は息を呑んだ。
あの、子供の頃にはじめて織った、粗末な縞の反物が、丁寧にたたまれて入っていた。
何十年も前の、歪んだ目の、下手な布。
伯母は、それをずっと、一番大切な場所にしまっていたのだ。
反物のあいだには、色あせた葉書が一枚、挟まれていた。
母が、最後に送ってよこした葉書だった。
宛名は、幼い私の名前。
伯母は、それも捨てずに、私の布と一緒に、しまっておいてくれたのだ。
私は、その布を胸に抱いて、しばらく動けなかった。
私は杼を握り、縦糸の前に、もう一度座り直した。
手のひらが、その重さを覚えていた。
トン、カラ、トン、カラ。
久しぶりの音は、あの夜、私の涙を止めてくれた音と、同じだった。
暗い家のどこかで、まだ誰かが起きている。
そんな気が、確かにした。
※
春が来て、私は町に残った。
街へは、行かなかった。
伯母の機を、私の機にした。
細っていく注文の中で、それでも私は織り続けた。
あれから、長い年月が過ぎた。
今、私の膝の前には、小さな娘が座っている。
私の手は、いつか伯母がそうしたように、娘の小さな手に、その杼を握らせる。
持ち手の飴色が、また少し、深くなったような気がする。
「これはな」
私は娘の耳元で、そっとささやく。
「ずうっと昔から、順ぐりに渡されてきた杼やよ」
娘は不思議そうに、その船の形をした道具を見つめている。
小さな手のひらに余る杼を、落とさぬようにと、両手で大事に握っている。
その様子が、遠い日の自分と、ぴたりと重なった。
あの日、伯母の膝の前で、私もこうして、はじめてこの杼を握ったのだ。
いつか、この子にも分かる日が来るだろう。
切れた糸も、結べばまた繋がるのだということが。
人と人とのあいだに流れた沈黙さえ、いつか、結び直せるのだということが。
窓の外で、川が光っている。
織るのは、楽しいだろう。
伯母のあの声が、今も私の手の中で、温かい。