
絹は生きている、と母は言った。
虫干しのたびに、簞笥の奥で、布がひとつ息をするのだと。
わたしはその言葉を、長いあいだ、ただの口癖だと思って聞き流していた。
城のある町の、小さな貸衣装店。
「絹川屋」と染め抜いた暖簾を母から継いで、もう七年になる。
昭和五十一年の、秋のことだ。
夫を早くに見送ってから、わたしはこの店を、ひとりで切り盛りしてきた。
子は、なかった。
朝に暖簾を出し、日が傾けばしまう。
その繰り返しのなかで、わたしの相手をしてくれるのは、棚に眠る何百という反物と、簞笥にしまわれた花嫁衣裳ばかりだった。
絹は、嘘をつかない。
誰かが袖を通した日の温もりを、何十年経っても、糸の奥に、しまっている。
母はきっと、そういう意味で「生きている」と言ったのだろう。
母は、この店で、何百という花嫁を、送り出してきた。
わたしは、その半分も、まだ送り出せていない。
その秋わたしは、一枚の古い紋付のなかに、二十年眠っていた声を聞くことになる。
※
とき江さんが店に来たのは、金木犀の匂いが町に満ちはじめた、よく晴れた午後だった。
六十を少し過ぎたくらいの、小柄な人だった。
色の褪せた風呂敷包みを、両手で胸に抱えるようにして、敷居をまたいだ。
「あの……仕立て直しを、お願いできましょうか」
声が、少しふるえていた。
板の間に座ってもらい、茶を出した。
風呂敷を解くと、樟脳の匂いが、ふわりと立った。
中から出てきたのは、黒い紋付の羽織と袴だった。
ずいぶん古いものだ。
ところどころ、絹が薄くなりかけている。
けれど、手入れだけは、丁寧にされていた。
「これは、主人のものでして」
とき江さんは、布の上にそっと手を置いた。
「来月、息子の祝言があるんです。誠一という、二十五になる子で」
主人の庄助さんは、もう二十年余り前に、この世を離れたのだという。
胸を患って、長いこと床に就いて、最後は、町の外れの病院だった。
「誠一が、五つのときでした」
だから息子は、父親の顔を、ほとんど覚えていないのだと、とき江さんは言った。
写真の数枚と、声の記憶のかけらと、それくらいしか残っていない。
「主人が遺したものといえば、この紋付くらいで」
庄助さんは、町で小さな桶屋をしていた。
腕は良かったが、口の重い人だったらしい。
祝言の話をするうち、とき江さんは、ぽつりぽつりと、庄助さんのことを話してくれた。
誠一さんが生まれた晩、庄助さんは、小さな手桶を、ひとつこしらえたのだという。
赤ん坊を、湯に入れるための桶だ。
「ほかの職人さんに頼めば、早いのに。あの人、自分で、何日もかけて」
口では何も言わない人が、鉋屑にまみれて、夜なべをしていた。
その手桶で、誠一さんは、毎晩、湯に浸かって育った。
「あの人の作るものは、無口なんです。何にも言わんのに、ぜんぶ、伝わってくる」
とき江さんは、そう言って、紋付の袖を、そっと撫でた。
とき江さんは、夫を見送ってから、織物工場の賃仕事をしながら、ひとりで誠一さんを育てあげた。
「不思議な子でしてね。父親を知らないのに、笑い方が、主人にそっくりなんです」
その誠一さんが、所帯を持つ。
祝言の日、父親の紋付を、着せてやりたい。
それが、とき江さんの願いだった。
「主人と同じ紋を背負って、嫁さんの前に立たせてやりたいんです」
わたしは、紋付を膝に広げた。
肩幅も丈も、若い誠一さんには、少し小さい。
けれど、縫い込まれた縫い代に、余りがあった。
「直せます。きれいに、お直しできますよ」
そう言うと、とき江さんは、深く頭を下げた。
その手の甲が、わたしの母とよく似て、節くれだっていた。
長い年月、誰かのために働いてきた手だった。
とき江さんを見送ってから、わたしは、しばらく紋付のそばに、座っていた。
わたしの夫も、口の重い人だった。
何も言わずに先に逝って、わたしには、伝えそびれた言葉ばかりが、残った。
だからだろうか。
この紋付を、ただの仕立て直しとは、どうしても思えなかった。
※
三日ほどして、誠一さんが、寸法を合わせに店へ来た。
日に焼けた、背の高い青年だった。
役場に勤めているのだと、はにかみながら言った。
父親の紋付に袖を通すのは、生まれて初めてだという。
鏡の前に立った誠一さんは、しばらく、自分の姿を、じっと見ていた。
「親父の背中って、こんなだったんかな」
独り言のように、そう呟いた。
わたしは、肩の縫い目に待ち針を打ちながら、答えに迷った。
「お父さまのこと、覚えていらっしゃいますか」
誠一さんは、少し笑った。
「ほとんど。……ただ、ひとつだけ」
幼い頃、高い熱を出した晩に、父親が一晩中、団扇であおいでくれたのだという。
その団扇の風の、規則正しい音だけを、なぜか、今でも覚えている、と。
「顔は思い出せんのに、あの風の音だけ、忘れられんのです」
鏡のなかの誠一さんが、ふと、笑った。
その笑い方が、とき江さんの言った通りだとしたら——
庄助さんも、きっと、こんなふうに笑う人だったのだろう。
会ったこともない桶屋の横顔が、鏡の奥に、ちらりと見えた気がした。
採寸を終えても、誠一さんは、なかなか紋付を脱ごうとしなかった。
「もう少しだけ、着ていても、いいですか」
わたしは、黙って、うなずいた。
※
その晩から、わたしは紋付の仕立て直しに、本腰を入れた。
針を入れるたびに、樟脳の匂いの奥から、古い絹の匂いがした。
汗の匂いとも、線香の匂いともつかない、人の暮らしの匂いだった。
肩の縫い目をほどき、縫い代を、少しずつ出していく。
裾を直し、身幅を出し、肩の傷んだところに、新しい絹を、目立たぬように継いだ。
継ぐたびに、庄助さんの手が、どこを直し、どこを大切にしていたかが、わかってくる。
袖口の擦り切れたところには、丁寧な繕いの跡があった。
きっと、とき江さんが、二十年のあいだに、何度か直したのだろう。
夫の紋付を、簞笥から出しては虫干しをして、また、しまって。
会えなくなった人の着物を、繰り返し撫でる手のことを、わたしは知っている。
丁寧に仕立てられた、良い品だった。
袷の裏に手を入れたとき、わたしの指が、止まった。
裏地の縫い目だけが、ほかと違っていた。
表は、紛れもない職人の仕事だ。
けれど胴裏の一部だけ、素人の手で、不器用に縫い直されていた。
針目が、揃っていない。
太い指の人が、慣れない手つきで、一目一目、縫いつけたような跡だった。
わたしは、糸切り鋏を置いて、行灯を近くに引き寄せた。
裏地と胴裏のあいだに、何か、薄く硬いものが挟まっている。
紙ではない。
布だ。
薄い晒しの布が、四つに畳まれて、内側に縫いつけられていた。
わたしは、ひと針ひと針、ほどいていった。
絹を傷めないように、息を詰めて。
畳まれた晒しを開くと、墨の文字が、現れた。
かすれた、けれど芯の通った、男の手跡だった。
二十年、絹の闇のなかで眠っていた文字が、行灯の灯にさらされて、ゆっくりと、息を吹き返すようだった。
わたしは、最初の一行を読んで、すぐに、目を逸らした。
これは、わたしが読んでいいものではない。
庄助さんが、自分の手で、自分の紋付の裏に、縫い込んだ言葉。
きっと、いつか息子がこれに袖を通す日を、思い描きながら。
「大きゅうなった誠一が、この紋付を着る頃に」
そう、書き出されていた。
桶屋の庄助さんは、もう長くはないと医者に告げられた日に、この晒しを縫い込んだのだろう。
針など、握ったこともない手で。
わたしは、しばらく、針を持てなかった。
行灯の灯が、晒しの上で、かすかに揺れていた。
二十年ものあいだ、この言葉は、絹の闇のなかで、誰に読まれることもなく、息をひそめていた。
庄助さんは、いつか必ず、この紋付に袖が通る日が来ると信じて、針を進めたのだ。
自分が、その日に、もういないと知りながら。
わたしは晒しを元のように畳み、翌朝、とき江さんを店に呼んだ。
※
わたしは、晒しを、とき江さんの前に、そっと置いた。
「中は、読んでおりません。最初の一行だけ、目に入ってしまいましたが」
とき江さんは、震える指で、晒しを開いた。
そして、墨の跡を見て、しばらく、言葉を失っていた。
「主人の字です……間違いありません」
指先が、文字の上を、おそるおそるなぞって、ふるえていた。
「わたし、二十年、この紋付を簞笥にしまっていて……ちっとも、知りませんでした」
庄助さんは、最後の日々、布団のなかで、よく針箱を借りていたのだという。
とき江さんは、繕い物でもしているのだと、思っていた。
「あの人、わたしに見つからないように、こっそり……」
「てっきり、何か繕うとるんやと……まさか、こんな」
そこまで言って、とき江さんは、口を押さえた。
とき江さんの目から、ひとしずく、墨の上に落ちて、二十年前の文字が、わずかに滲んだ。
わたしは、慌てて、懐紙でそれを受けた。
「庄助さんの言葉が、滲んでしまいますから」
とき江さんは、子供のように、何度も、うなずいた。
わたしは、仕立て直しの代金のことは、口にしなかった。
見つけてしまった言葉に、値など、つけられるはずがない。
ただ、ひとつだけ、申し出た。
「もし、よろしければ……祝言の日に、皆さんの前で、読まれてはいかがでしょう」
「庄助さんはきっと、その日のために、これを遺されたのだと思いますよ」
とき江さんは、晒しを胸に抱いて、長いこと、うなずいていた。
わたしは、その晩のうちに、紋付を仕上げた。
鏝を当てると、絹は、しわを伸ばし、つやを取り戻した。
二十年の眠りから覚めた黒が、行灯の灯を弾いて、深く、光った。
※
後日、佳枝さんが、とき江さんに連れられて、花嫁衣裳を選びに来た。
色白の、芯の強そうな娘さんだった。
棚から打掛を何枚も出し、肩にかけては、鏡の前で見比べる。
佳枝さんは、緋色の派手なものより、地の落ち着いた、白地に松の打掛を選んだ。
「派手なのは、わたしには似合いませんから」
そう言って、笑った。
佳枝さんは、打掛の松の刺繡を、指でそっとなぞって、ぽつりと言った。
「お義父さんにも、見てほしかったです」
とき江さんが、傍で、目を細めていた。
わたしは、その打掛の貸し賃を、半分だけ頂くことにした。
とき江さんが、いけません、と何度も首を振ったけれど。
「庄助さんの言葉を、見つけさせてもらった、お礼です」
そう言うと、とき江さんは、ようやく、折れてくれた。
嫁ぐ娘と、送り出す母の、そのあいだに立てたことが、わたしには、ただ嬉しかった。
子を持たなかったわたしにも、その日だけは、何か、譲り渡すものがあるような気がした。
※
祝言は、川沿いの古い料亭で行われた。
わたしも、紋付の言葉を見つけた者として、末席に呼ばれた。
川面を渡る風に、料亭の軒の風鈴が、ちりんと鳴った。
広間には、白菊と、酒の匂いと、人いきれが、満ちていた。
誠一さんは、父親の黒紋付を着て、佳枝さんという、笑顔のやわらかな娘さんと、並んでいた。
肩幅の合った紋付は、まるで誠一さんのために仕立てられたかのようだった。
宴がなごやかに進み、酒が回り、座が温まった頃。
仲人さんが、一枚の晒しを取り出して、皆に、わけを話した。
新郎の父親が、二十年前に遺した言葉である、と。
座が、しんと、静まった。
誠一さんが、その晒しを受け取り、震える手で、開いた。
そして、読みはじめた。
「大きゅうなった誠一が、この紋付を着る頃に。
わしはもう、おらんじゃろう。
この紋付は、あちこち継いである。
桶屋のわしが、自分で継いだ。
不格好じゃが、恥ずかしがらんと、着てくれ。
お前もどうせ、わしに似て、頑固な男になっとるじゃろう」
座から、小さな笑いが、漏れた。
誠一さんの声が、少しだけ、ほどけた。
「わしは、お前に、何ひとつ、してやれんかった。
桶の作り方も、教えてやれんかった。
運動会も、相撲も、何ひとつ、見てやれんかった」
誠一さんの声が、わずかに、掠れた。
「じゃが、ひとつだけ、言わせてくれ。
お前が生まれた晩、わしは、小さな手桶を、こしらえた。
あの桶で、お前は、毎晩、湯に浸かった。
わしは、お前を抱いてやる代わりに、あの桶に、ありったけを込めたんじゃ」
末席で、とき江さんが、両手で、顔を覆った。
あの手桶を覚えているのは、もう、とき江さんだけだった。
誠一さんは、自分が浸かった湯の温もりを、その言葉で、はじめて知ったのだ。
けれど、次の一行で、誠一さんの声が、止まった。
「ここから先は、とき江へ」
誠一さんが、母を見た。
末席で、とき江さんが、両手を膝に置いて、背を丸めていた。
誠一さんは、母に向かって、続きを読んだ。
「とき江。
誠一を、ひとりで、ようここまで育ててくれた。
苦労を、かけたな。
お前の手は、もう、わしが知っとる頃より、ずっと荒れとるじゃろう」
とき江さんの肩が、ふるえはじめた。
「白髪頭になったお前も、いつか腰の曲がったお前も、わしはちゃんと、好いとるけぇの。
会えんようになっても、ずっと、好いとる」
「お前と一緒になれて、わしの一生は、上等じゃった。
短かったが、上等じゃった」
料亭の座敷が、水を打ったように静まり、それから、あちこちで、こらえきれない息が、漏れはじめた。
とき江さんが、口を手で押さえて、テーブルに突っ伏した。
誠一さんが晒しを置いて、母のそばへ行き、その小さな背中を、抱きしめた。
二十年、ひとりで背負ってきた荷を、ようやく半分だけ、誰かと分けられたかのようだった。
つられて、女の人たちがみな泣き、男の人たちは天井を見上げて、しきりに目をしばたいた。
どこかの子供が、わけもわからず、大きな声で泣き出した。
すると誠一さんが、洟をすすりながら、急に立ち上がって、佳枝さんに向き直った。
「お、おれも……佳枝のこと、ずっと、好いとるけぇのっ」
父親と、同じ言葉で。
座が、泣きながら、どっと笑った。
鳴り止まない拍手のなかで、いちばん幸せそうに泣いていたのは、新郎より、その母のほうだった。
※
祝言から幾日かして、とき江さんが、紋付を店に持ってきた。
「やっぱり、簞笥にしまっておきます。今度は、孫が着る日まで」
わたしは、その紋付を、もう一度、丁寧に、たとう紙にくるんだ。
樟脳を、新しいものに替えて。
裏地に縫い込まれていた晒しは、もう、ない。
とき江さんが、神棚の引き出しに、大切にしまったからだ。
けれど絹は、覚えているだろう。
二十年ものあいだ、暗がりのなかで、たったひとりの妻に宛てた言葉を、抱きしめていたことを。
絹は生きている、と母は言った。
いまなら、わかる。
布が、息をするのではない。
布のなかに、誰かが遺した想いが、息をしているのだ。
暖簾をしまう時刻、わたしはふと、簞笥の奥に、もう会えなくなった夫の、古い角帯がしまってあるのを、思い出した。
今年は、虫干しを、してやろうと思う。
簞笥を開けて、風を通して、陽に当てて。
そうして、耳を澄ませてみよう。
あの人が、わたしに遺しそびれた言葉が、もしかすると、糸の奥に、ひそんでいるかもしれない。
きっと、何か、ひとつ、息をしているだろうから。