
夜明けの湖に、ひとつだけ、灯りが点る。
舟提灯のあかりだ。
霧の濃い朝ほど、その灯りは、にじんで、大きく見える。
私はもう、八十に手が届く。
それでも、夜が白みかける刻になると、いまだに体が、ひとりでに目を覚ます。
半世紀ものあいだ、この湖の渡し守をしてきた体が、まだ、櫂の冷たさを覚えているのだ。
北の山に、深く抱かれた、小さな湖だった。
朝はいつも、乳のような霧が、水の上を、低く這っていた。
対岸の村へ渡るには、ぐるりと山ひとつを越えるか、この渡し舟に乗るより、ほかになかった。
だから、ひと昔まえまでは、この古い舟が、村と村とをつなぐ、たった一本の糸だったのだ。
私が、この湖畔に流れ着いたのは、まだ十九の、雪のとけきらぬ、春のことだった。
その頃の私には、この世のどこにも、行くあてがなかった。
頼る者を、ひとり、またひとりと失って、最後には、たった一人の自分が、残った。
親類の家を転々とし、肩身のせまい思いに、心の芯まで、すり減らされていた。
どこへ行っても、私は、誰かの暮らしの、邪魔者だった。
汽車に揺られて、終点の、そのまた先まで歩いて、気がつくと、この霧の湖の岸に、立っていた。
なぜ、ここへ来たのか、自分でも、分からなかった。
ただ、この白い霧の中へ、足音もなく溶けて、消えてしまえたら。
どんなにか、楽だろうと、そればかりを、思っていた。
自分のような者が、この先、生きていて、いったい、何になるのか。
その問いに、私は、どうしても、答えを、見つけられずにいた。
雪どけの水を集めた湖は、身を切るように、冷たそうだった。
その冷たさの中へ、入っていけば、何もかも、終わりにできる。
そう思うのに、足が、どうしても、前へ、出なかった。
こんな自分には、消えることさえ、うまくできないのかと、私は、ひとり、岸で、うなだれた。
水ぎわに立って、私は、ぼんやりと、霧の向こうを、見ていた。
その霧の奥から、ぎい、ぎい、と、櫂のきしむ音が、近づいてきた。
やがて、にじんだ灯りが、ひとつ、ゆっくりと、姿をあらわした。
舳先に、古い提灯を下げた、一艘の渡し舟だった。
櫂を漕いでいたのは、背の丸い、ひとりの老人だった。
日に焼けた顔は、湖の岸の岩のように、深く、皺が刻まれていた。
庄助、というのが、その人の名だと、あとになって、知った。
舟を岸につけると、庄助爺は、私の身なりを、上から下まで、ひとわたり、見た。
それから、ぶっきらぼうに、こう言った。
「乗るのか、乗らんのか」
私は、首を、横に振った。
渡る先など、私には、どこにも、なかったからだ。
庄助爺は、ふん、と鼻を鳴らして、それきり、何も訊かなかった。
けれど、舟をもやい綱でつなぐと、岸の小屋へ戻りしな、ぽつりと、言った。
「腹が減っとるなら、小屋に、芋がある」
それだけ、だった。
※
その晩、私は、結局、その渡し小屋の隅で、夜を明かした。
行くあてのない者には、軒先のひとつが、何よりも、ありがたかった。
囲炉裏で、庄助爺は、黙って、芋を焼いてくれた。
皮の焦げた、熱い芋だった。
ひとくち齧ると、ほっこりと甘くて、なぜだか、目の奥が、じんと熱くなった。
人の焼いてくれたものを口にするのが、いったい、いつぶりだったか。
「うまいか」
庄助爺が、火を見たまま、訊いた。
「……うまい、です」
私が、やっと、それだけ答えると、爺は、それは良かった、とも言わず、ただ、また一本、芋を火に埋めた。
次の朝も、その次の朝も、私は、なぜか、その湖を、離れられなかった。
庄助爺は、夜の明けきらぬうちに起き出して、まず、舳先の提灯に、火を入れた。
菜種油のにおいが、霧のなかに、ふわりと、立った。
「なして、誰も乗らんのに、毎朝、灯りを点けるんですか」
あるとき、私は、そう尋ねた。
客の一人も来ない、ただ白むだけの朝が、いくらでも、あったからだ。
庄助爺は、櫂を握ったまま、対岸のほうへ、顎をしゃくった。
「向こう岸の村のもんが、この灯りを見て、ああ、今日も渡し舟は出とる、と思う」
「灯りが点いとれば、それで、安心するんだ」
「乗る乗らんは、その先の話さ」
その声は、ぶっきらぼうなのに、不思議と、湖の水のように、しずかだった。
いつのまにか、私は、その渡し小屋で、煮炊きや、繕いものを、するようになっていた。
庄助爺は、相変わらず、私の素性を、何ひとつ、訊かなかった。
訊かれないということが、そのときの私には、どんな優しい言葉よりも、ありがたかった。
舟には、艫のところに、古い茶筒が、ひとつ、置いてあった。
渡し賃の、わずかな銭を、入れておくための筒だった。
けれど、客は、銭のかわりに、畑の菜っ葉や、握り飯を、その筒のそばに、置いていくことも、多かった。
「銭なんぞ、なんぼ貯めても、湖は渡れん」
庄助爺は、よく、そう言って、笑った。
月に一度、向こう岸の寺へ渡る、年老いた女の人が、いた。
先に逝った連れ合いに、会いに行くのだ、と、爺が、小さな声で、教えてくれた。
その人は、いつも、舟を降りるとき、筒のそばに、一枚の手ぬぐいや、飴の包みを、そっと置いていった。
庄助爺は、その一つひとつを、捨てずに、小屋の棚に、ていねいに、しまっていた。
「もろうたもんは、銭より、ずっと、重いからな」
そう言って、爺は、棚の隅を、いとおしそうに、見た。
夏のはじめ、爺は、はじめて、私に、櫂を握らせた。
「漕いでみろ」
言われるまま、私は、櫂を、水に差した。
舟は、くるりと、間の抜けた方向へ、回ってしまった。
水の重さは、見た目より、ずっと、頑固だった。
「そうやって、力で押すな」
「水と喧嘩すな。なだめて、すべらせるんだ」
爺の手が、後ろから、私の手に、そっと、添えられた。
節くれだって、岩のように、硬い手だった。
その手に導かれると、櫂は、嘘のように、つるりと、水を切った。
舳先が、まっすぐ、霧の中へ、すべり出していった。
「……すすんだ」
思わず、私は、声をあげた。
自分の手で、何かを、前へ動かしたのは、ずいぶんと、久しぶりのことだった。
庄助爺は、はじめて、ほんの少しだけ、口の端を、ゆるめた。
その夏、私は、櫂の使い方を、少しずつ、覚えていった。
霧の濃い朝の、岸の見つけ方も、覚えた。
風の匂いで、午後の天気を、当てることも、覚えた。
夏の祭りの晩には、村の衆が、湖に、たくさんの灯籠を、流した。
水の上を、いくつもの、ちいさな灯りが、ゆらゆらと、流れていった。
その灯りに、舳先の提灯の灯りが、まじって、湖は、いちめんの、星空のように、なった。
「灯りってのは、ひとつより、ふたつ。ふたつより、みっつだ」
爺は、その光を、目を細めて、ながめながら、言った。
「みんなで、点しあえば、どんな暗い晩も、こわくない」
その晩のことを、私は、生涯、忘れない。
暗い水の上に、たくさんの人の祈りが、灯りになって、ゆれていた。
そのひとつひとつが、誰かの、まだ生きていたいという、ちいさな声のように、思えた。
秋の終わりの、ある夜のことだ。
向こう岸の村で、子どもが、ひどい熱を出した、と、知らせが、あった。
麓の医者へ、いそいで、渡さねば、ならなかった。
その晩は、霧が、墨のように濃く、湖は、一寸先も、見えなかった。
「こんな晩に、漕げるんですか」
私が、おそるおそる訊くと、爺は、提灯の火を、いつもより大きく、かきたてた。
「灯りが、ありゃあ、漕げる」
「人ひとりの灯りでも、霧は、ちゃんと、道をあける」
爺は、ふるえる子を抱いた母親を舟に乗せ、まっ暗な湖へ、櫂を、差した。
私は、舳先で、提灯を、両手で、高く、かかげた。
そのちいさな灯りだけを、たよりに、舟は、墨の中を、ゆっくりと、すすんでいった。
対岸に着いたとき、母親は、爺の手を、何度も、何度も、握って、頭を下げた。
その子は、医者の手で、無事に、熱が、ひいた。
帰りの舟の上で、爺は、ぽつりと、言った。
「のう。灯りってのは、自分のために点すんじゃ、ないんだ」
「誰かが、それを見て、まだ、だいじょうぶだ、と思う。そのために、点すんだよ」
その言葉は、なぜか、私の胸の、ずっと奥のほうに、しずかに、降りて、積もった。
冬が来ると、湖は、岸のほうから、少しずつ、薄い氷を、張りはじめた。
朝の光が差すと、その氷が、いちめん、銀色に、かがやいた。
「きれいだなあ」
思わず、私が、そう、つぶやくと、爺は、櫂を止めて、こちらを、見た。
「お前さん。近ごろ、よう、きれいだと、言うように、なったな」
言われて、私は、はじめて、気がついた。
この湖へ来たばかりのころ、私の目には、何ひとつ、美しいものなど、映ってはいなかった。
ただ、消えてしまいたいと、それだけを、思っていた。
「爺さま」
私は、櫂を握ったまま、思いきって、言った。
「わたし、ここへ来た朝、ほんとうは、この湖に、溶けて、消えるつもりでした」
言ってしまってから、私は、うつむいた。
爺は、しばらく、何も、言わなかった。
湖の上を、ただ、風が、わたっていった。
「知っとったよ」
やがて、爺は、ぽつりと、そう言った。
「あの朝、お前さんの顔を見て、すぐに、分かった」
「だから、芋を、やったんだ」
「腹の温いもんが、ひとつ、あれば、人は、もう一日、生きてみようと、思うもんだからな」
私は、もう、うつむいて、いられなかった。
あの一本の焼き芋に、そんな祈りが、こめられていたとは、夢にも、思っていなかった。
その冬を越えて、雪が、とけるころ。
私は、もう、消えたいとは、思わなく、なっていた。
気がつけば、私は、毎朝、誰よりも早く、自分から、舟着場へ、来るように、なっていた。
櫂を握り、霧の匂いを、胸いっぱいに、吸いこむ。
それだけで、今日も、一日が、はじまるのだと、思えた。
※
幾年かが、過ぎた。
私は、すっかり、この湖の渡し守の、片腕に、なっていた。
対岸の村に、小さな部屋を借り、朝ごとに、舟で湖を渡って、爺の小屋へ、通うようになっていた。
庄助爺の背は、年々、丸く、小さく、なっていった。
あれほど頑固だった水を、なだめる櫂さばきも、少しずつ、おぼつかなく、なっていった。
ある冬の朝のことだった。
爺が、いつまでたっても、小屋から、出てこなかった。
案じて戸を開けると、爺は、囲炉裏のそばで、ひどく、咳き込んでいた。
胸の奥から、しぼり出すような、苦しい咳だった。
「医者に、診てもろうたほうが」
私が言いかけると、爺は、手を振って、それを、さえぎった。
「なに、年のせいだ。気にすな」
けれど、それからの爺は、目に見えて、痩せて、いった。
櫂を握る手に、力が入らず、舟が、霧のなかで、止まってしまうことも、あった。
そんな朝は、私が、かわりに櫂を握り、爺は、艫で、じっと、湖を、見ていた。
櫂を漕ぐ私の背中に、爺の視線が、じっと、注がれているのが、分かった。
それは、自分のあとを継ぐ者を見つけた、年老いた職人の、しずかな目だった。
「岸の、あの一本松を、目印に、しろ」
「霧で何も見えん朝でも、あの松の影だけは、うっすら、わかる」
爺は、舟を漕げなくなったぶん、湖のことを、ひとつ残らず、私に、教えこもうとした。
どこに、隠れた岩が、あるか。
どの季節に、どちらから、風が、吹くか。
半世紀ぶんの、湖の暮らしが、爺の口から、私の体へ、しずかに、移されていった。
「お前さんになら、この湖を、まかせられる」
ある夕暮れ、爺は、櫂を、私に手わたしながら、ぽつりと、そう言った。
それは、私が、生まれてはじめて、誰かに、必要とされた、瞬間だった。
邪魔者だと、ずっと、思ってきた私を、この人は、たしかに、当てに、してくれていた。
私が、ひとりで、向こう岸へ舟をつけると、村の者たちは、私にも、ていねいに、頭を下げるように、なっていた。
いつのまにか、私もまた、この湖の、たしかな一部に、なっていたのだ。
それでも、爺は、夜明けの提灯に火を入れることだけは、けっして、欠かさなかった。
凍えるような朝も、ふるえる手で、菜種油をつぎ、火打ち石を、打った。
「灯りだけは、絶やすな」
それが、いつしか、爺の、口ぐせに、なっていた。
私には、爺が、何かを、私に、隠しているような気が、していた。
医者は、一度だけ、爺を、たずねてきた。
小屋から出てきた医者は、私に、ちいさく、首を、横に振った。
そして、もう、永くはないだろう、と、声をひそめて、告げた。
残された刻は、両の手で、数えられるほどだ、と。
私は、その場に、立ちつくした。
爺は、それを知っていて、それでも、何ひとつ、口にしなかったのだ。
湿っぽくなるのが、嫌いな人だった。
私に、よけいな気を、つかわせまいと、したのだろう。
その夜、私は、小屋の外で、霧に向かって、声を忍ばせて、泣いた。
あの春、この霧に溶けて消えたかった私を、岸へ、引き上げてくれた人。
その人が、いま、私の手の届かない岸へ、ひとりで、渡ろうと、していた。
※
医者の言葉から、幾日かが過ぎた、よく晴れた、朝のことだった。
その日の爺は、不思議と、顔色が、よかった。
床から身を起こすと、爺は、私に、こう言った。
「すまんが、今朝は、お前の漕ぐ舟で、向こう岸まで、渡してくれんか」
私は、爺の体を案じたが、その目の、おだやかな光を見て、何も、言えなくなった。
私は、爺を、そっと、舟に乗せた。
そして、舳先の提灯に、いつものように、火を入れた。
菜種油のにおいが、朝の霧に、ふわりと、立った。
私が、櫂を握り、爺は、艫に、ちんまりと、座っていた。
いつもと、役が、あべこべだった。
舟は、しずかに、白い霧の中へ、すべり出した。
水を切る、その音だけが、世界の、すべてだった。
湖の、まんなかあたりで、爺は、ぽつりと、口を開いた。
「お前が、はじめて、ここへ来た朝のこと、わしは、今でも、よう、覚えとる」
「岸に立って、霧の中へ、いまにも、消えてしまいそうな顔を、しとった」
私は、櫂を握る手に、ぐっと、力を、こめた。
「あの朝、わしは、芋を、やった。深い考えなんぞ、ありゃ、せん」
「ただ、こいつを、向こう岸へ、渡してやりたかった。それだけ、だ」
爺の声は、枯れていたが、霧の上を、まっすぐ、わたってきた。
「のう。わしも、若い時分は、自分なんぞ、生きとっても、しょうがない人間だと、思うとった」
「連れ合いも、子も、はやくに、向こうへ、やっての」
「この湖の底に、いっそ、ぜんぶ、沈めてしまおうかと、思うた晩も、あった」
私は、息を、のんだ。
あの、岩のように頑固な人もまた、かつて、私と、同じ岸に、立ったことが、あったのだ。
「けど、朝になると、向こう岸で、誰かが、舟を、待っとる」
「わしが行かにゃ、その誰かが、渡れん」
「それだけのことで、人は、案外、もう一日、漕いでいけるもんだ」
「爺さま」
私が、ふりむこうとすると、爺は、それを、おだやかに、おしとどめた。
「いいから、前を、見て、漕げ」
「向こう岸で、誰かが待っとる限り、人は、なんぼでも漕げる」
その一言は、私の胸の、いちばん深いところへ、櫂よりも、まっすぐに、差しこまれた。
気がつくと、私の手が、寒さと、こらえきれぬ思いとで、こまかく、ふるえていた。
櫂が、手のなかで、すべりそうに、なった。
すると、艫の爺が、痩せた体で、にじり寄ってきた。
そして、自分の着ていた、古い半纏を脱ぐと、私の、ふるえる両の手の上から、そっと、巻きつけてくれた。
半纏には、まだ、爺の、かすかな、ぬくもりが、残っていた。
「これで、すべらん」
「冷えると、櫂は、にげるからな」
その手には、もう、力など、ほとんど、残っていないはずだった。
それでも、私の手を包む、爺の手のひらは、湖の、どんな朝の水よりも、あたたかかった。
私の手を包む、その重みが、あの春の、焼き芋の温もりと、ふいに、かさなった。
あのとき、爺がくれた、一本の芋が、私を、今日まで、生かして、くれたのだ。
そして今、私が漕ぐ、この一漕ぎが、爺の最後の朝を、向こう岸へ、運んでいる。
ふりむかぬまま、私は、櫂を、漕ぎつづけた。
頬をつたうものが、霧なのか、そうでないのか、もう、分からなかった。
艫のほうから、爺の、おさえた嗚咽が、かすかに、聞こえてきた。
あの、岩のように頑固な人が、泣いていた。
二人して、言葉もなく、白い湖を、ただ、わたっていった。
舳先の提灯の灯りが、霧の中で、ぽう、と、やさしく、にじんでいた。
その朝の対岸は、いつもより、ずっと、遠かった。
そして、いつもより、ずっと、忘れがたい、岸だった。
※
庄助爺は、その朝の渡しを、最後にした。
幾日かのち、夜明けまえの、いちばん霧の濃い刻に、爺の灯は、ろうそくの燃えつきるように、しずかに、消えた。
安らかな、まるで、ひと漕ぎを終えて、櫂を、そっと置いたような、おだやかな顔だった。
向こう岸へ、渡っていったのだ、と、私は、思った。
形見にと、村の者が、あの古い茶筒を、私に、手わたしてくれた。
ふたを開けると、中に入っていたのは、銭では、なかった。
あの寺通いの女の人がくれた手ぬぐい、子どもらが置いていった、ちいさな貝がら。
そして、いちばん上に、すり切れた、一枚の小さな紙が、あった。
それは、あの春、私が、はじめて爺に出会った日のことを、爺が、鉛筆で、書き留めたものだった。
「春。岸に、行くあてのない娘が、ひとり。乗せた」
たどたどしい字で、そう、記してあった。
その下に、いつ書いたものか、もう一行、書き足されていた。
「この娘が、おるけん、わしは、まだ、漕げる」
私は、その紙を、胸に、強く、抱きしめた。
私は、ずっと、爺に、生かしてもらったのだと、思っていた。
けれど、爺もまた、私という、ひとりの客を、向こう岸へ渡すために、最後まで、漕ぎつづけて、くれたのだ。
私たちは、たがいに、相手の、向こう岸だったのだ。
私が、ここに居たから、爺は、漕げた。
そして、爺が、待っていてくれたから、私は、ここまで、生きてこられた。
灯りは、自分のために、点すんじゃ、ない。
誰かが、それを見て、まだ、だいじょうぶだと、思う。そのために、点す。
爺が、あの霧の夜に、私に、教えてくれたことの、ほんとうの意味が、いま、ようやく、分かった。
爺のいなくなった、はじめての夜明けは、湖が、ただ、まっ暗だった。
灯りのない湖は、こんなにも、寒々しいものなのかと、私は、岸に、立ちつくした。
そのとき、ふと、対岸の村の、小さなあかりが、ぽつぽつと、目に、入った。
村の者たちは、毎朝、この湖の、舟提灯のあかりを見て、一日を、始めていたのだ。
灯りが点いていれば、それで、安心する。
乗る乗らんは、その先の話だ。
爺の、あのぶっきらぼうな声が、耳の奥に、よみがえった。
私は、小屋へ走り、舳先の提灯に、ふるえる手で、菜種油を、ついだ。
火打ち石を打つと、灯りは、ぽう、と、霧のなかに、ともった。
私は、爺の半纏を肩にかけ、その朝、ひとりで、櫂を、握った。
舟は、しずかに、白い霧の中へ、すべり出していった。
対岸では、きっと、誰かが、この灯りを見て、ああ、今日も渡し舟は出とる、と、思ってくれる。
その誰かが待っている限り、私は、まだ、いくらでも、漕いでいける。
あれから、長い、長い、年月が、流れた。
湖には、いつしか橋が架かり、渡し舟に乗る人は、もう、いなくなった。
橋を渡る車の音が、遠く、聞こえる朝も、ある。
それでも私は、いまだに、夜明けになると、あの提灯に、火を入れる。
誰が見るわけでもない、霧の湖に、ひとつだけ、あかりを、点す。
霧の濃い朝には、対岸の、どこかの窓から、私のこの灯りを、ふと、見つける人が、いるかもしれない。
その人が、ああ、まだ、あの灯りは、消えていない、と、思ってくれたなら。
それだけで、私が、この長い年月を、漕いできた意味は、たしかに、あったのだと、思う。
灯りが、消えていないあいだは、爺は、まだ、私のなかで、櫂を、漕いでいる。
そして、その灯りを、こうして点しつづけている私もまた、まだ、たしかに、ここで、生きている。
夜明けの湖に、ひとつだけ、灯りが、点る。
霧の濃い朝ほど、その灯りは、にじんで、あたたかい。